異形の鎧の巨人を討伐してから、3日目。
報告のため全速力で王都へ向かった調査兵団と駐屯兵団は、王から僅かばかりの褒賞を得て、数時間も経たずに戦果の報告を終えた。いいや、王によって終わらせられた、というのが正しいだろうか。理由は不明だが、昼を向かえる前には報告を終了させられ、調査兵団はある命令を下された。
調査兵団に得られた褒賞とは、兵団管轄の工場の技術開発の権限と、そのための少しばかりの予算、そして数日の間の休息だった。
調査兵団は今からおよそ一ヶ月後の壁外調査までの予定も全て予め定めており、休暇も当然、自ずと設定されている。壁外調査までの期日内に休暇を増やしたところで、壁外調査の期日がずれることは無い。休暇など与えられたところで使える箇所など無かった。技術開発についても、既存の素材でやりくりする事実上、生み出せるものもたかが知れていた。
冷遇も甚だしい。『彼』はそう思った。
エルヴィン団長は報告した同日を休暇とし、翌日には長距離索敵陣形の演習を再開し、王都を発つと表明した。
王都にて『彼』とアルミンは、整備されたレンガ路をすずろなるままに歩く。
『彼』は口を開いた。
「今日は店に二件も付き合わせて悪いね、アルミン」
「全然いいよ。用事があるのは一緒なんだし、道すがら買い物するくらい、いいと思う」
アルミンは腕をはためかせて、『彼』の謝意を真面目に受け容れる。アルミンは片手の塞がった『彼』の、空いた方の手を見て言う。
「珍しいね。君が陶磁器の店を見てみたいだなんて」
「大体の品が手の出せないほど高価なものだから、まあ、その通りだね」
旧調査兵団本部で兵士長に茶を淹れたときも、それらが相応の値段を持つことを『彼』は精通していなくとも察しは着いていた。今日実際に来店して、さらに飛び抜けた値段を見て思わず目を回しそうになった。
「だけど、兵士風情の持ち合わせでも見繕える品があって良かった」
「うん。僕達、兵士になったけど、そんなにお金持ちってわけでも無いからね」
「教官も口うるさく言っていたっけ。『放蕩など兵士にあるべからず』だって。無い袖は振れないってのに」
「そうだね。僕達の上官も、無駄遣いするような人たちじゃないし。......いや、興味が無いのかもしれない。君はどうなの?あの店で買ったものは、結構な買い物に見えたけど」
「店の外で待ってたんじゃないのか。目ざといね」
「いやあ、結構時間掛かってたから」とアルミンは気恥ずかしそうに目を泳がせる。気になるのも当然か、と『彼』は考え、彼のために答えることにした。
「日数のかかる受注品だ。旧本部宛に届くものだから、多分見れないかもしれない。君づたいに漏れたら困るから、詳しくも言えないし」
「そうか。うーん。もう少し、詳しく知りたいなあ。その、釣具屋で買った棒も含めて」
「前者はこれ以上は譲歩できない。ああ、これか」
アルミンの指差すその棒とやらを、『彼』は指で摘まんでぶら下げてみせる。その棒の長さは前腕程度のもので、一方の先端が鎌首のように曲がっている。棒には縄が付いている。
「この投槍器のことか」
「なんでそれを買ったの?」
「アルミンなら、ここ王都がどんな場所か知ってると思うけど、王都は壁全体に広がる河川の元締めの中の元締めだ。一見獲物が少ないように見えるけど、その実逆だ。天敵が少ないから、魚は大きく肥えて生息してる。中には釣竿をもへし折る力を持つ大物もいるから、そこで───」
『彼』は大きくのけ反って棒を振りかぶり、見えない重さに耐える振りをして、ボールを投げるような動作で振り抜いた。振り抜きはしたが、何も手離してはおらず、『彼』は手首に縄を巻き付けて、投槍器が手元にあることを示す。
「これを使うというわけだ」
「なるほど。銛かあ」
「そうだ。力勝負が駄目なら、持久戦に持ち込むしかない。先細りした河川では味わえない体験だよ。滞在期間がもう少し長ければ、この近くの湖なりで銛猟も試せたんだけど、残念なことだ」
「でも、銛はどうするの?」
「それは手作りで済む。辺りの木とかで調達してさ。この投槍器だけが素人じゃどうしても作れない意匠だったんだ。内地の釣具屋ならもしや、と思ってね」
「サシャ達と釣りにでも行くの?」
「そうだなあ。たまには森だけじゃなくて川にも行ってみるか。釣りは待つことが肝要だからコニーやサシャは退屈してたけど、これなら楽しめそうだ。予算の関係で一本しか買えなかったけど、交代して使えばいいし」
『彼』は立ち止まり、眉間に皺を寄せる。
「なんなら今から憲兵相手に試してみるか」
「やめなよ。物騒な」
冗談だ、と『彼』は言う。アルミンもまた愛想笑いを浮かべるも、『彼』同様、王の下した命令に覚えた衝撃を引き摺っていた。
今から数時間前、報告を終えたエルヴィン団長が城から出てきた時に、同時に憲兵団がぞろぞろと出てきて、『彼』らを取り囲んだのだ。王の出した命令とは、採集した異形の巨人の破片を献上することだった。技術開発の権限と予算との引き換えで、とのことだった。
調査兵団はなす術なく、憲兵の執行に従う外に無かった。身体検査までさせられ、破片という破片が没収されたのだ。一切文句が湧かなかった訳ではないが、これまで王に背いてただで帰れた者はいなかったゆえに、誰一人抵抗しなかった。ハンジ分体長は意気消沈し、面を上げられていなかった。
ここで憲兵に対する不満を述べれば、どこから通報が飛んでくるか分からない。背中をはいずる癇癪を抑え込んで、『彼』はアルミンに提案する。
「さて、そろそろ指定の時刻に近い。司令の所に行こう」
「そうだね。もうすぐ昼を過ぎて三時間か。あ、そういえば」
アルミンは『彼』の目の前に回り込み、可愛げのない笑みを浮かべて顔を覗き込む。
「上官相手に過度に緊張する癖、もう治った?」
「今さらトップの一人や二人を相手に、物怖じするわけない」
『彼』はアルミンの顔を片手で掴み、ギュッと握り混んだ。
─2─
聖堂のような重厚な造りの扉を二度叩く。
「入ってよいぞ」
「失礼します」と断りを入れて扉を開けると、『彼』は眩しさから少し目を細めた。正面に大きく色鮮やかなステンドグラスが広がり、建物の奥から色彩豊かな光を差している。
「報告の後にご苦労じゃったの」
ピクシス司令は扉の手前まで歩いてきていた。彼の声量からして、この建物の端から端まで声が届きそうなものだが、司令は穏やかな声音で二人を出迎えた。
「本当に、前線を後にして大丈夫なんですか?」
アルミンはピクシス司令に尋ねる。司令は笑って答えた。
「心配いらんな。小鹿のように繊細な男じゃが、仮にもワシの代理でトロスト区を任せた者じゃ。そう容易く落とされはせん」
調査兵団に同行した駐屯兵らは司令と側近の兵士だけであり、残りは変わらずユトピア区の防衛に当たっている。キッツが司令の立場を引き継いで、やや過剰なまでの守りを築いている。
だだっ広い屋内ゆえ案内も必要なく、三人は部屋の真ん中に着いた。
真ん中にぽつねんとチェス盤が置かれていた。
「こんな広い空間の真ん中にチェス盤なんて……」
「贅沢なものじゃろう。まあ、あの【芸術家】とは違って、専用の一件を建ててもらったとか、そういう訳では無いのじゃがのう。普段は講演等に使われる、ごく普通の講堂じゃ。申請を出して、一時的に借りておるだけじゃ。ああ、教会に見えるからといって、別段ウォール教の所有物でもないぞ」
建造物の紹介を終えて、司令は『彼』に尋ねる。
「あ、そういえば作戦の際名前を控えたはずじゃが、もう一度あえて名乗ってはくれんか。年寄りは物忘れがひどいからのう」
「はっ!」
『彼』は敬礼し、名乗る。「今度こそ覚えたぞ」とでも言うように、司令は笑窪をにじませて二度頷く。
「さて、突然じゃが、コイツで勝負してもらうぞ。やり方は分かるな?」
司令は盤を掌で差す。
(アルミンは少し、司令のことを知っているようだけど……)
「アルミン。君は司令と勝負したことはある?」
「うん。審議所で君と別れた後、何回戦か」
「司令、そんな時間があれば、前線に戻った方が良かったのでは?」
「ふふふ。先日のあれを見れば分かるじゃろう。油断してるつもりはまったく無いが、気を張り詰めたところで、あの状況は遅々として進まなかったじゃろうな。それよりも───」
どっこいしょ、と掛け声とともに司令は腰を下ろし、予めテーブルに置かれたワイングラスに半分ほど赤い美酒を注ぐ。
「結果論じゃろうとそう歯に衣着せぬ物言いをするとは、さぞ良い勝負ができそうじゃ。ほれ、速く座らんか」
司令は肩を数度上下させ、フフンと鼻息を鳴らす。
「こういう時、馴染みの無い場所で勝負をすると、人は本来の力を発揮出来なくなる、という言説がありますが」
『彼』は椅子を引いて、腰を下ろす。
「なんじゃ。始まる前から泣き言など。そこは抜かり無い。ワシもこの講堂で勝負をしたことは無い」
(威張ることじゃ無いと思いますが)
誇らしげな司令と向き合い、アルミンが硬貨を放り投げて、先手、後手が決まる。
司令は歩兵に手を掛けた。
─3─
勝負を開始してから、一時間ほど経過した。
戦況は『彼』が大幅に不利であり、あと数手もあれば詰みとなるところにまで追い詰められていた。
「ふむ。君の盤面は面白いな。各地に拠点を設けて、そこを雑兵に守らせる。拠点は罠を兼ねていて、掛かった駒を捕らえて離さない」
「司令の自陣は全く違いますね。兵を総動員して、犠牲を出しながらも前線を着実に押し上げています。私は陣形は耐えられず、押し切られてしまいました」
(似ている。アルミンの盤の運び方に。)
司令は丁寧に揃えられたヒゲをつまみ、撫でる。
「ふっふっふ。ワシは負けず嫌いでな。若者相手に大人げないが、勝ちたい気持ちはあるのじゃよ」
「今回は、私の敗けです」
「ふむ、良い勝負じゃった。君の戦術は確かに防衛には優れている。だが決定打が無い。時間こそかかるが、いずれはワシの軍に押し負けてしまうように、散ってしまうじゃろうな。ふむ、お主は、自分の盤面をどう見る?」
「ええっと…。私の戦術は、誰も犠牲を出したくない、そんな我儘が感じられるような局、のように考えられます」
「ふむ。悲観すればそうじゃな。だが」
「?」
「ワシはこう考えとる。ずるいかもしれんが、これはあくまで盤上での話にすぎんとな。現実はこうはいかん。どちらが正しいかなぞ、戦場では如何様にでも変わりうる。」
「しかし負けは負けです。別に不服とかではありません。負けていちいち機嫌を損ねるような子どもじゃありませんから、後学のためにも、ぜひ批評を続けてください」
「多種多様な人、策略があるからこそ、人類は未来を切り開くことが出来ると、ワシは考えておる。争いは絶えないが、だからといって減らせば解決というわけでもあるまい。ここでお主に必要だったのは、強力な駒一つ。それさえいれば、お主の持ちこたえる力は、大いに役立つじゃろうな。現実と照らし合わせてみれば、その強力な駒とはなんじゃろうか?」
強力な駒。トロスト区でも、実験の時でも、そして、今回でも。その全ての作戦で決定打となった存在とは。
「現実なら…リヴァイ兵士長や、巨人化できる、エレン・イェーガーでしょう」
「その通りじゃな。お主の駒の動かしかたは、その異例とも呼べる力が本領を引き出せるように根を回しているように見える」
『彼』はこれまでの作戦を思い出してみる。トロスト区の時よりももっと昔。夜の訓練を。
「アルミン。覚えてるかい?訓練兵時代のとき、夜に立体機動の訓練をしたときのことを。私の班が2番になったときの」
「え?ああ。確か……ユミルにのろまだと怒られたっけ。あはは……」
試合の時間を測っていたアルミンは、『彼』と同一の記憶を思い出していた。
「あのとき、私は切り札として、コニーを選んだんだ。他の仲間達が慎重に動く分、型破りな人が必要だと思ったから」
「そうなんだ。それが、今のチェスともしかして関係あるの?」
「そう。私の作戦は、司令との試合でも一貫してた。強力な駒をどう活かして戦うか。それが、私の立案の仕方なんだ。アルミンや司令とは、大きく違う」
「そう。僕はとっくに気づいてたけどね」
アルミンとは何十回も試合をした仲だが、今になってそう答えるということは、勝つために教えたくなかったということなのだろうか。
「君に教えてないことがもう一つ。今日の君はちょっと表情が固い気がする。試合の時は特に」
そうかな、と『彼』は言って、自分の頬を片手で揉んでみる。指摘されるまで分からないものだ。「まあ、ワシが放つ覇気が凄まじいのは分かるがのう」と司令はおどける。
「お主は子どもでもあり、大人でもある。時に素直に感情を出すのも、若いのの特権じゃろうて」
「そんな、私は今こうして勝負の場では、なるべく感情を読み取られないよう、仏頂面を装ってるだけですよ。友からは分かりやすすぎると指摘されてますから」
「なあに、ワシも同じようなものじゃ。こうしてひた隠した後に心置きなく話すのはすこぶる心地よい」
(司令は素直すぎるような気がしなくもない。だが、その自身の感情への正直さが、思考の若さの秘訣なのかもしれない。)
「では、正直さを出す素直な若者として、聞いてもよろしいですか?」
「ふむ、なんじゃ?」
「トロスト区奪還作戦の時、赤色の煙弾が上がったにも関わらず、なぜ何もしなかったのですか」
ワインボトルを持ち上げた司令の手が止まった。
「あなたが増援を向かわせるなりすれば、戦況は変わったとは思わないのですか?
アルミンははっとして、『彼』の顔を見つめる。『彼』の顔に怒りの表情は浮かんでいない。ただ純粋にその疑問を解きたくて、そう問いかけていると、彼は信じた。
(分かってる。これはいわば結果論だ。私は気持ちが大きくなっているのだろう。対局を通して、戦況を見渡した気になって、それで盤面をひっくりかえせると思っている。)
司令はボトルを傾け、徐にグラスに酒を注ぎ、ボトルを静かに置いた。
(その増長からこんな唐突に、下らない質問をしたのだろう。けれど気になったんだ。ピクシス司令はどうなのだろう。私の耳障りな糾問を、子どものいうことだからと、老獪な頭でなだめることしかしないのだろうか。)
(死んでいった仲間のことを、駒だとしか思っていないのか、それとも…その真意を聞きたかった。
大人を卑怯だとか、そうは思わない。けれど、成熟したその頭脳と達観が、我々の死に諦念を抱かせていないのかを知りたかった)
こういう時にも、マルコの顔が脳裏にチラついた。
(これまでの戦場で経た経験を盤面にぶつけるために、あれこれ振り返り過ぎたのからだろうか。それとも、ジャンが私の言葉を、信じてくれたからだろうか)
「正しくもあり、正しくもない」
司令は杯をあおる。
「たとえその戦いに赴いた兵士が、信念が壁の中にいる市民を守ると名誉を抱こうとも、成果を急いで軽率に命を散らそうとも、ワシの命令により死なせた事実は、揺るがん」
司令はとうに決着の着いた盤面に横たわる『彼』の王を拾い、点々と、その戦いの道程を確認するかのように盤に押し当てて回る。
「調査兵団なら目撃したことがあるじゃろう。その兵士が人類の役に立てたのか、と問う市民の姿を。言葉は悪いが、常に血みどろになり、悲壮な顔をして帰ってくる兵士らだからこそ、その責任の重大さを市民から問われ続けるのじゃろう」
一年前に駐屯兵団の精鋭達と任務に当たったとき、同様の言葉を掛けられたことを、『彼』は思い出していた。司令は王で遊ぶのを終えたのか、他の駒達にに手を伸ばし、盤から取り除いたり、いじったり続けている。今度は、自分の戦いの軌跡を振り返っているかのように。
「我々駐屯兵団とて、一切犠牲が出てない訳ではない。壁が壊される以前から、緩やかに、だが確実に巨人の手により数は減っている。たとえ劇的な死に様でなくとも、目立たなくとも。その兵士達は上官の命令により死んでおる。ワシは……」
『彼』はある一つの駒を摘み、じっと見つめる。司令が見やれば、その駒は何の変哲もない、普通の歩兵の駒だと視認した。
「ワシは、彼らを英雄などと祀るつもりなどない。まして、市民に目を掛けてもらおうなどとはつゆほども思っておらん。だがそれでも、確かに生きたがったであろう彼らの見えざる、聞こえざる叫びを背負い、立つのじゃ。それが死地に送り込む、ワシの務めじゃ」
司令は手遊びを終えて、駒を置いた。老人は酒と熱弁でゆで上がった額をハンカチで拭う。長く一息を吐いて、司令は言い出した。
「ふう。若僧相手に熱く語りすぎたのう。酒が切れたようじゃ。どれ、ここらで一つ酒をじゃな──」
「今酒と言いましたか、司令!」
大声に思わず『彼』が振り向くと、馴染みのある赤ら顔が姿を現していた。
「お主は耳ざといのう、ハンネス。なにも扉の向こうから覗かずとも、誘うつもりじゃったわい」
「だはは、すいません、つい」と、ハンネスは頭を掻きながら、よろめいた足を踵で揃え、背筋を伸ばす。この場にいる全員が、彼との三者三様の親交の長さからそれを千鳥足と見抜いていた。どうやら耳ざといのは一人だけでは無かったようだ。扉の向こうから焦げ茶のポンパドゥールがニョキっと生えてきた。
「お、酒ですかい、いいですねえ。俺もあやかりたいもんだ」
「ゲルガーさん!なぜここに」
「異形の鎧討伐で調査兵団はブラブラすんのが許可されてるんだ。お前らと同じでな」
「ふふ、では我々大人組はこれにて退散するとしようかのう。久しぶりの呑み仲間の終結じゃ。モブリットがいないのが口惜しいがのう」
司令が椅子から立ち上がったところで、慌てて駆け込んでくる、軽快な足音が一つ。
「アルミン、ここにいた」
「ミカサ!」
「団長が探してた」
「団長が?なんで僕を」
「異形の巨人との戦いで、アルミンが放った言葉が勝利に繋がったと言って、私に探してくるよう言ってきたの」
「それはいいんだけど、エレンの看病は?」
「少し前に目を覚ましてから、私があのチビに命令されたから」
「リヴァイ班に混じって経過を見てたよね。えっと、チビって誰のこと?」
そんなことはいいから、とミカサはアルミンの腕を引っ張り始める。アルミンは『彼』もついてくるか、目で確認する。
「アルレルトも用があるらしい。すまないが、片付けを頼まれてくれるか?」
司令は『彼』を見やる。『彼』は司令の頼みを優先することにした。
「私は司令の言うとおり、盤を片付けておく。後から追い付くよ。司令、先程は礼節を欠いた質問をして、大変申し訳ありませ───」
司令は片手を掲げ、『彼』の言葉を制した。
「よい。あの程度の諫言には慣れておる。若く、しかもシガンシナからの生き残りであるならば、ワシがした決断にも多少疑いもするじゃろう。むしろ、アルレルトの好敵手であるお主の技と、信念を知れただけでも大いに有意義であったものだ。あれぐらい、対価としても足りんくらいじゃ。また勝負しよう」
司令は頷いて、扉に向かって歩き出した。
ミカサとアルミンはゲルガーの寄りかかって押さえていた扉に走っていく。
『彼』は閉じられる扉を眺めながら、活気づいていた大人達の姿を思い出す。
大人達がああして振る舞うことには、意味があるんだろうと、『彼』は曖昧ながら推測する。
(勿論、常に澄ました顔をして生きてる訳じゃない。巨人と戦う現場を見ていればそれは分かる。調査兵団の人たちも、王にあんな命令をされて、怒らない訳がないのに。大人達はきっと、そうして手本を示すために、生きてるのだろう。)
「まあ、もう子ども扱いされるつもりも、そういう齢では無いんだけど」
両親も、昔はそう振る舞っていたのだろうか、と思いながら、『彼』は配置された盤面に向いた。
チェス盤を見つめたとき、駒の数はほんの数個だけだった。それも、配置も不可解だった。まとめて片付けるにしては、点在して過ぎているような。
ただの勘違いだろうと王を摘まもうとしたの時、『彼』は再び顔をしかめた。その眩しさの正体は、司令が放置したワイングラスから差した光だった。
窓から西日が差し込み、空になったワイングラスに光が当たる。透過していく光をなんとなく目で追った『彼』は、床板が少したわんでいることに気づいた。そのたわみを『彼』がつまむと、いとも簡単に床板は剥がれた。少しの接着剤もなく。
床と全く同じ色の紙が一枚、置かれていた。奇しくもそれは、『彼』が青の顔料の生産地で受け取った紙と、同じ材質のものだったため、『彼』は一目で気づいた。いつからあったのかは分からないが、靴の跡などは見つからない。つい最近、数日後に置かれたものだろう。
(この紙……。青の顔料の生産地で紙を入手したとき、誰かがここに置くよう、連絡でもしたのだろうか)
なんとなくで剥がした床板の模様を確認して、もとの位置に戻せるよう向きを覚えておく。
(私が紙を事前に入手していなければ気付かないな、これは)
紙をめくると、『チェス盤を返せ』と書いてあった。
「今度はチェス盤に何かがあるのか」
『彼』は数歩歩いて、チェス盤に両手を掛ける。チェス盤と駒には緩めの磁力が働いているため、ひっくり返したところで盤面がめちゃくちゃになることは無い。しかし、『彼』はそんな杞憂とは別に、不思議な現象に見舞われていた。
(む、固いな。返せない)
チェス盤は接着されたかのように動かない。『彼』が力任せに返そうとすると机ごと大きく浮き、向きをそのままにガタン、と音を立てて床に四足をつける。ワイングラスが床に落ち、慌てて片付けようと箒を持って身を屈めると、机の裏面から、一筋の長い紐が地面に向かって垂れ下がっていた。
(紐だって?なんで机の裏に紐が…。それに、黒い……紐だ)
『黒く染められた地点を訪ねよ』。『彼』は懐にしまっていた紙片を取り出して、思い出したその言葉が確かに書かれていることを再確認した。
(なぜ下に隠したのか。単に隠すだけならそれこそ、チェス盤を裏に返せるようにすればいいだけだ。それにこの紐の地点は何を意味する?ここに何かあるのか?いや、講堂内に隠すには無理がある。誰でも借りることが出来るのなら、人の出入りも多い。見つかる危険性が増す。まさか、裏に返さないことに意味があるのか?)
紐の先端は下を指していた。
(下に裏……どちらもあえて覗かなければ分からなかった。あえて覗き込まなければ知り得ない場所…誰もあえて覗こうとしない場所…)
壁の中で誰もが疎み、目もくれない場所。それは
(……まさか、地下にあるのか?地下街にその何かが…)
「方角までは分からないが、この部屋は司令が北に座って、私が南に…。それなら、この人物の住み家は、きっと南東にある…かもしれない」
(ともすればこれは…これは、座標だ。地下街のどの地点に行けばいいのかが、これで分かった。あとは…)
複数ある地下街の内のどれなのか。黒の紐が下がるその座標の盤を見つめれば、そこに答えが置かれていた。
(表に置かれたのはキング。王都の地下街か!)
今日この日に『彼』が司令の下を訪ねなければ、決して入手することができなかった情報だった。『彼』は謎を解明したことへの歓喜よりも、疑いをいっそう深めた。
彼は万年筆を日誌に走らせながら、長考する。
(ここまで来れば、疑わない訳が無い。私は演習が始まってからこれまでの、自分の行動を全て監視されている。けど、誰に見られていたのかは分からない。思い当たる人が多すぎる。それに、どちらなのかも分からない。あの言葉がわかる人間を誘き出すための悪意なのか。それとも、何か秘密を明かしてくれる善意なのか。果たしてこれ以上、踏み込むべきなのか?ここらで分からなくなったとシラを切って逃げ出すべきじゃないのか?)
ある人が『彼』に明かした秘密が、その予想をほぼ確信へと助長させる。未だ兵団にも開示していないその秘密が、『彼』の踏み出す背中を押す。疑いを持ったままの背中を。
『彼』は手掛かりを全て書き終え、日誌を閉じた。
(元より読めない文字でこの謎解きを渡してきてるんだ。向かわなければならない。もはや途絶えたも同然なこれを、ここまで繋いで渡してきている意味を知らなければ。)
「その前に、今日は早めに床に着くとか適当に繕って、アルミン達に事前に報告しておこう。いきなりハンジさんに引き抜かれたときのように、事後報告じゃ余計な心配をされるかもしれない。それはそれとして、あとは……」
テーブルを片付けるという本来の目的も、『彼』は忘れていない。
『彼』は証拠が残り続けるのはマズいと判断し、再度注意深くテーブルを観察したところ、この講堂の床板全体に、点々と窪みがあった。その窪みはとても浅く、配置する備品を固定するための、汎用的な用途で作られたものらしかった。そしてテーブルもまた、その仕組みに則って固定されていたもので、動かせなかったのは単に『彼』の観察不足が原因だった。
無自覚に慌てていた自分の心を落ち着け、『彼』はテキパキとチェスのセットを片付け、テーブル裏の紐も引きちぎり、講堂を去った。
明日には王都を出る以上、謎の答えを知りに行くなら今晩しか無いと確信しながら。