進撃の巨人2 名もなき英雄の軌跡   作:なげすて

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第48話 解かれた謎

─1─

 

ピクシス司令との対局を終えた同日。日が落ちてから約3時間後の夜。

 

『彼』は盤面に置かれた仮説を立証すべく、街灯の群れを潜ってゆく。

 

地下への出入り口が見える距離まで歩を進めたが、憲兵が二人、そこに立っていた。

 

このままの格好ではダメだ、と『彼』は踵を返して、見張りの憲兵が提げるランタンの灯りが辛うじて見える距離まで後退した。『紙』を広げて考えあぐねていた所で、路地の隙間から声がした。

 

「おい、そこの調査兵」

「誰だ」

 

暗がりに潜むその声は、聞き覚えのある名を出した。

 

「お前、シャレーとその旦那を捕えた兵士だろ?」

 

シャレー。その名は今から二年前。内地で勤務していた折にマルコと共に『彼』が捕らえた引ったくり犯の夫婦、その片割れの名前だった。忘れたことなんて無い。

 

「なんだ、敵討ちか?応じる気は無い。この場で叩き斬ることも出来るが、粗食で痩けた貧民風情が、よもや巨人と日夜殺しあってる調査兵を試すつもりか?」

 

内地で勤務した時のように、気丈に脅しをかける。ライフルも装置も持ち合わせていないため、拳を握り、殺意を手指の末端に染み込ませ送ってみる。しかし、そのぼろ布を被った貧民の語気はむしろ柔らかかった。

 

「いいや、礼を述べに来たんだ」

「礼を。どういう意味だ?」

「あの二人のガキ、覚えてるか?確か、ウォール・ローゼにいたあのガキのことだよ」

「私が見殺しにした、あの子どものことか。まさか生きているのか?」

「ああ。今は孤児院にいる。それも、割りと良心的な所にな。他所の孤児院と違って躾も過度な仕置きも、人身売買もない所だ」

「なぜその事情を知っている?」

「以前おさげにそばかすの兵士が、その区のガキを連れだって書類に記したのだとさ。保護者代理として」

 

(ユミル……そんなこともしていたのか)

 

「お前個人に借りは無いが、その兵士に免じて、その業務によるやむを得ない暴挙は許してやる」

 

『彼』は白んだ指を弛緩させ、拳をゆっくりと開いた。

 

「それは有り難いが、貴方が恩に着る必要は無いんじゃないか?」

「俺達地下の貧民は追いやられ、隅で怯える者達だ。だから身を寄せ合い、結束を強めて生きる。まあ小手先で犯罪やってもいずれ足が着いてかっさらわれるのがオチだからな。どこぞの三人組のように」

「三人組?」

「昔、立体機動装置を盗んだという噂の三人組さ。ま、俺達の世界じゃ半信半疑の伝説になってる。話が逸れたな。まあさっきも言った通り、あの夫妻は小手先の盗みの技でお前らに捕まったわけだが、無策でスリに入るような真似はしない。もとはといえばフツーの市民だ。盗みに入るなら、まず道に詳しい俺達を頼る。その間ちょいと世話しただけの仲さ。あいつらは言ってたぜ。『子どもの手前ああは言ったが、子どものためなら、なんだってやらねばならない』とな」

 

夫婦の盗人二人。痩せこけ、嘗て町で暮らしていたとは思えない風貌で、鍛練で積まれた『彼』らの手でその痩躯をねじ伏せられたあの二人。

元は善良でありながらも、悪にならざるを得なかったその二人を思い出し、『彼』は

地に視線を落とす。二年前に紛らわせたその情を聞かされるたびに、心臓が爪立つ指に引き摺り下ろされそうになるかのように痛む。そこに、ボロきれの男が胸元に指を指した。

 

「あとお前、例の『紙』、持ってるだろ。報告に挙がってるぜ。」

「報告……極北の名水を売ってる店でもらった、あの紙のことか?」

「左様。店から始まり、俺らの人脈づたいに、もうあんたの顔は割れている。通っていいぞ。地図の場所に向かえ。俺達が待っていた者よ」

 

その前に、と男は手元からボロい服と人ひとりすっぽり覆えるぼろ布を取り出し、着替えろと要求する。その装置も外せ、と。

 

「憲兵に身元が割れないようにか。分かった。いやむしろ、私が間抜けすぎたか……。その後はどうする?」

「安心しろ。お前の乗ってきた馬の位置も調べが付いてる。近くの藁山の下に装備は隠しておく」

「ああ。頼む」

 

『彼』は着替える最中、有るものを取り出す。浮浪者はたじろぐが『彼』は、「念のため仕込むだけだ。安心しろ」と言ってのけ、袖の下にそれを仕舞った。

 

『彼』は男が頼んだ訳でもないが、手付金として少なくない額を渡した。「なるほどな、そういうところが……」と男はひとり合点し、闇の中へ掛けていった。足音の消失を確認し、『彼』はしゃがみ、穴を見つめる。その穴は淵に傷や手垢による汚れはあるものの別段臭気や瘴気を放つことはなく、ただ静かにその口を横たえ続けていた。

 

この穴をくぐれば、そこは地下街だと、その重苦しい波動がひしひしと感じさせた。『彼』は勇気を出して踏み込んだ。それが一方通行のすべり台だと気付いたのはその直後のことで、体勢を変えねば顎を地面で磨り下ろす所だった。

 

 

─2─

 

ひとしきりの滑落を味わったあと、暗闇から一変した、地上とは反対に明るい街並みに『彼』は躍り出る。

 

夜更けの地上と異なり、街路に点々と灯された明かりと天井から垂れる黄土色のつららが、地下街を白夜の如く照らしている。

 

地下街の家屋は地上と違って屋根が尖っておらず、時代が進んでいないかのように感じられた。壁面にはなにやら白い塗料が塗られており、一部混ぜられたであろう繊維が枝毛のように飛び出している。湿度の対策の為にその塗料を塗ることは地上と同じだが、さらに湿気る地下ではひときわ厚く塗られていた。

 

地図を眺め歩く『彼』を呼び止める声は無かった。夜中にもごろつきは目を光らせているものだが、みすぼらしい貧民同然の『彼』を呼び止めようとする者はいなかった。金品を奪うにはあまりに期待できず、喧嘩の相手としても張り合いの無いように見えたその貧民に、気に掛けるものは一人もいなかった。地図を眺めながら、ぼんやりと『彼』は考える。

 

(それにしても、なぜ私にこれを任せているんだろう。もっと適任がいたと思うんだけど。私よりも頭の良い人をあてがえば、あのような賭けじみた仕掛けで誘導しなくても、自然と答えを出してこっそり向かえたと思う)

 

(いや、私くらいが人材として丁度いい、ということなのかな)

 

少し不満を起こしながら、思考を続ける。

 

(そもそも、この謎を用意した大元の人間は誰なんだ。もっとも具体的な指示を出したのは、ピクシス司令だけど、彼一人じゃ、こんな謎は完結させられない。トロスト区奪還作戦と審議所での出席以降、ずっとユトピア区で防衛を務めていたというし、間違いなく複数人が、この謎に関わっている)

 

(青の顔料の生産地に立ち寄る必要も、多分本来は無かった。他に立ち寄れる村はあった。ユトピア区まで南北を直線で結んでいるとはいえ、鉱夫達の住まいを借りてまで寄ることは無い)

 

(行路を定めたのは、エルヴィン団長。……彼も一枚噛んでいるとしたら、大人達は一体、私に何をさせようとしているんだ?)

 

座標の家に着いた。その家は、ひときわ厚く繊維が塗られたどの家屋よりも、ぶ厚く、白く塗られていた。

 

湿気そのものに私怨でもあるかのように。

 

(全部これで、明らかになるんだろうか)

 

青の顔料の生産地の家と同様の手順で、『彼』は扉を叩いた。中から、くぐもった声が聞こえてくる。地下街の家にしては防音性能が高く造られているのか、その声は聴覚が優れている『彼』でも、耳をそば立てなければ聞こえなかった。その声から、『彼』は予想だにしない言葉を聞き取った。

 

「───」

「え?」

「───か?」

 

そのくぐもった声は、『彼』の姓を出したのだ。聞き間違いかとも思いたかったが、ここまでくれば、もはや疑いようがなかった。

 

声で周囲に正体を明かすのは危ういと考え、『彼』はもう一度同様の手順で扉を叩いた。コツコツと床を鳴る音が聞こえ、今度は扉が開かれた。『彼』より頭一つ分ほど小さい背丈の男が、『彼』の顔をまじまじと見つめる。

 

「…想定していた人物と違ったが、まあ、よく来ました」

「え?」

「詳しい話は中でします。早く入りなさい」

 

返事をする間もなく、『彼』は閉じられる扉の間に滑り込む。居間の辺りまで歩きながら、老人は尋ねる。

 

「材料は持ってきましたね?」

 

『彼』が懐から青の顔料と巨大樹の樹液を詰めた瓶が入った袋から取り出すと、小柄な老人はそれをひったくり、いそいそと居間を突っ切って、奥の部屋へ入る。そして、中身を確認し、数度コクコクとうなずく。

 

「よし、合格です」

「あの、これから何をするんですか?」

「仕上げです。君が持ってきたこれらがなければ、完成しませんから。特に」

 

老人は樹液の瓶をつまみ上げ、「この酵母がなければ」と付け加え、瓶の蓋を外す。

 

「酵母?酵母って。それならパンにも含まれてますよね?なぜ樹液である必要が?」

 

『彼』は頭を亀の首のように前に伸ばし、老人の真っ直ぐな背中を見て尋ねる。老人は振り向かず答える。

 

「パンじゃ混ざりものが多すぎて駄目です。それに今作ってるのは薬。旨いと困ります。地下のぼそぼそのパンじゃあ抽出も無理ですし。あ、あと酵母という言葉は建前みたいなもんです。あまり気にすることはありません。大事なのは中身」

 

老人はぼさついた髪の先端を揺らしながら、これまで『彼』が見たことのないほどのすばやい手付きで調合を済ませていく。兵士の医術の課程で行う調合よりも材料は多いが、それより早く済んだ。老人は『彼』の方へ向き直り、掌に一粒の深青の球体を差し出した。

 

「これは?」

「丸薬です。材料はこれに載せてあります。帰ったらよく目を通しておきなさい。以前の紙のように、誰にも見られないようにしておくこと」

 

男は『彼』に、一つの封筒を手渡す。

 

「何に─」

「何に使うのかも記してあります。とにかく、試供品のコレになるべく品質を近づけなさい、いいですね」

「…今使ってみてもいいですか?」

「駄目です。帰れなくなりますよ。それに、あまり時間が残されてません」

「あの、せめて、なぜこんな謎解きを仕込んだのか、教えてもらえますか?」

「仕組んだのは君の父です。北にいた頃から私に師事していましたが、あの者の故郷にあった、この青の顔料に、何か仕掛けがあるのではないかと彼が言い出しまして。科学が専門の私に持ち掛けた時に見せたあの目は、かつての私の異名に惹かれて弟子入りした者達となんら変わりませんでした。暇だったから、付き合ってやっただけです」

「父がそんなことを……」

 

息着く暇の無い回答の末尾に、『彼』は父の存在を知らされて心臓が握りしめられたかのような錯覚に陥った。

 

(父がどんな仕事をしているのか、私は何も知らされていなかった。それが、これ程に露骨な秘密を抱えていたとは。)

 

「兵器だったら王政に睨まれてる今じゃ無理だと思い、かといって専門家に頼めば怪しまれる。だから、門外漢の私に頼んだと。ま、私も技術の畑から外された隠居の身としては、楽しませてもらいましたよ」

 

南の、この家唯一の出入口。

その扉をドンドンと激しく叩く音がする。老人が感想を言い終わるが早いか。

 

「もう来ましたか」

「誰がです?」

「憲兵です」

「憲兵ですか?彼らの管轄は地下と地上を繋ぐ門までの筈ですよ?地下まで来るんですか、彼らが」

「時代の生き証人である私を、王政が野放しにするとお思いで?定期的な訪問くらいなら、彼らはやります。来客があれば、その身元を明かす」

「それでも、私がいること以外に、なんら異状は無いわけですから、隠れてればいいんじゃ…」

「逃げねばならない。奴らはもうここ五年は来客を遠ざけていました。どれ程ひた隠しても、私が何か行動を起こす度に何か足跡を残してしまっていたんでしょう。君が来たことで、いよいよ奴らの腹の中で点と線が繋がった」

「逃げるなら貴方もです」

「この老体には無理ですよ。しゃんとしてますが、齢はとうに100歳を越えてます。多少身体にモノを埋め込んでるから、常人よりも動けるだけでそれも、走れるようには作ってない。もうお分かりでしょう。包囲が終わる前に、早く行きなさい」

 

老人は言い終わるより早く、何もないはずの床を指差す。『彼』はしゃがみこみ、渾身の力で床板を剥がすと、そこには地下に通ずる穴があった。おそらく、ひそかに造られた逃走経路だろう。『彼』は今一度、老人の方を向く。

 

「父について、まだ聞けてない話が多くあります」と、『彼』はそう言おうとしたが飲み込んだ。『彼』は渡された物の重みをまだ知らなかった。その謎をこの老人から聞き出せるかもしれない。まだ知らない父の秘密を知れるかもしれない。

 

しかし、『彼』にしか読めない文字を駆使して、父が遺したこの丸薬を、知れない誰かに奪われることだけは許せなかった。途絶えたと思っていた父に関する情報。遺された、ただ一つの秘密を知れただけ幸福なのだと、『彼』は自分を納得させて、一度開いた口になにも音を乗せることなく閉じた。

 

『彼』は頭を下げ、老人が指し示す地下通路に潜り込み、猛然と走った。北へ。ひたすら走った。10歳の頃より大きく、逞しくなった肺と足で。下水に通ずる地下道を全速力で走った。

 

 

─3─

 

(やれやれ、あの弟子め、とんでもない宿題を押し付けになったものです。ま、いつだって新しい風を呼び込むのは、若い者達でした。……どうやらそれは、現代も変わらないらしいですね、ねえ、アンヘル。それにキュクロ)

 

老人は地下に続く穴を床板で塞ぎ、その上に絨毯を敷いて、おまけにロッキングチェアまで置く。

 

(ま、もう床が抜けようと構いません)

 

老人はなにやら長い紐を持ってひきずり、フローリングの隙間に挟ませながら、その先端を袖の中へ潜り込ませる。そして、扉に向かってわざとらしくヨタヨタと歩き、開いた。

そこには黒のソフト帽を被り、黒のロングコートのポケットに両手を突っ込んでいる壮年の男と、二人の憲兵が立っていた。

 

「よお、老いぼれ。ここに人が来なかったか?」

「久しぶりじゃないですか、ええ?折角です。何か茶でも出そうじゃありませんか」

「あいにく喉は乾いてねえ。地下の薄汚れた空気を吸うのはごめんだ。まして、憲兵が配給してる食料品をアテに、これまた配給の茶に混ぜて飲むなんてのは」

「辛辣ですね」

 

喉笛をひっ掴まんばかりに、ソフトの男は老人の雑談をはね除ける。

 

「お前は五年、いやそれよりもっと何年も前から、幽閉同然でここで暮らしてたんだ。それがどういう風の吹きまわしか、地下街入り口の検問の目を盗んで入っていった奴がいるって通報があって、目撃情報通りの奴がお前の扉を叩いた。おい、お前ら、行け」

「はい?」

「チッ。行って中を徹底的に調べろっつってんだ。行け、オラ」

 

憲兵二人は上司を自称するポッと出の筈の黒服の男に尻を蹴られ、仕方なくそのだらけた身体をあくせく動かして、屋内のテーブルの下を覗いたり、天井をライフルの銃底でつついたりしている。一歩も引かない男に、老人は嗤ってみせる。

 

「ふっ。唯一の出入り口は君が塞ぐというわけですか」

「ったりめえだ。万が一のことはある。…しかし残念だぜ。立体機動装置を完成させた、かつての『発明王』とも呼ばれた男が、王政から危険視されて末路が地下暮らしたあな。俺の兵装も、あんたの設計図を参考にして改良したってのによ」

「今日はその装備とやらは着けてないようですが」

「非番で夜半に居眠りこいてるところを無理やり指揮執れと叩き起こされたとくりゃあムカつきもするさ。なあおい、どうせ今日も何もねぇんだろ?泥棒に入られたとか、大方そんなところなんだろ?」

 

低身長の老人を拝むように、ソフト帽の男は身を屈めて凄む。老人は目を逸らさず、壮年の男の鼻筋の辺りを見つめる。

 

「まあ、そうですね。何年も前から仕込んでたことです。君が着任するより前に。そして───」

「ケニーさん!あの老いぼれ、なにやら奥の部屋で調合を……おい、なんだ、あの老人から延びる紐は?」

「!?」

 

ソフト帽の男が飛び退く頃には、老人は紐の先端、もとい、信管のスイッチを、親指の先が真っ白になるまで押し込んでいた。

 

(元祖『発明王』、最後の意地です)

 

「…今日、仕込みは全て暴かれる」

 

瞬間、床板が、壁が、家にある全てが赤熱する。老人の住んでいた家屋は、周囲の無人の家屋も巻き込み、跡形もなく弾け飛び、黒煙がもうもうと上がる。かつて発明王と呼ばれた男のかき集めた叡知も、その弟子が集めた記録も、全てがこの一手であっけなく消え去った。

 

 

─4─

 

『彼』は死にものぐるいで走る。

真っ暗で汚物でまみれた下水道を走る。緩やかな坂道になった原始的な構造の下水道は配管も大雑把で、蓄積された雨水を一定量放水することでその流動性を確保している。文字通り低きに流れる作りだ。そして、北から南へとその汚水は流れている。上り坂がすなわち出口を意味するのだ。

 

走り始めてから15分。終わりの見えない道にようやく光が見えたその時、人影がその光を塞いだ。

 

「おい、そこのぼろ雑巾、止まれ」

 

逆光からでも分かる。黒のコートの男がそこに立っていた。

 

「てめえが隠し持ってる何か、まあ知らねえが」

 

ナイフを取り出し、男は半歩脚を開く。

 

「ここに置いてきな」

 

『彼』はボロ布の身なりでダメ元で一つ芝居をうってみる。

 

「身に覚えがない。私は普段からここの奥で暮らしてる者で、なにやら大きな音がしたから逃げてきただけだ」

 

痩せ細り苦しみあえぐ貧民を『彼』は演じた。開拓地でも、避難区でもその惨状を見てきた『彼』の演技は思わず目を背けたくなるほど痛々しかったが、男によってそれはあっさりと看破された。

 

「へえ、随分と哀れな境遇だな。だが変な箇所が二つあるな」

「なにを、言っているので?」

「お前からは臭いがしねえ。この臭ぇドブの底でその齢まで生き延びてるにしては、あまりに染まった臭いがしねぇんだよ」

「憲兵様がなにもそんな……」

「調べてんだよ。この下水は本線で、絶えず排水が流れるから人が住むには不向き。大しけの時は鉄砲水も出る」

「随分、ここに詳しいんだな」

「ま、一件あって特に汚え箇所は調べるよう徹底してんだ。んなことよりも」

 

男は唾を吐き捨てる。

 

「貧民は流暢に喋れねぇんだよ。てめえのそれは、地下を出たヤツにしか出来ねえ。残念だがな。憲兵様の前で嘘付いた罰として、量刑は死刑にプラスだ」

「死刑が前提か」

「たりめえよ」

 

男はそう言い終えると同時に、ナイフを逆手に突っ込んできた。

 

男の跳躍とともに跳ねた泥の飛沫が着地する前に、男は『彼』の懐に踏み込んでいた。突き出された刃はしかと『彼』の喉笛を捉えたかに見えた。しかし、『彼』は二寸身を引いて振り抜かれた男の腕を左手で掴み、万力同然の力で握り込む。

 

(ギリギリまで引き付けておいて良かった。このままへし折って───)

 

そう思考する『彼』の脳味噌を叩き出さんばかりの衝撃が、『彼』の右側頭部に走る。『彼』はとっさに右腕で防御していたが衝撃を殺しきれず、左手の壁に叩きつけられる。

 

「ダメだなあ。凶器に目線を囚われすぎだぜ」

 

男はフウと一息吐いて、開放された手を数度振り、やけどのようにズキズキ痛む手を労ってやる。振り終えた頃には既に『彼』は立ち上がっており、構えを取り直している。

 

「効くだろ、老いぼれの蹴りは」

 

先手は再び男が仕掛けた。男は『彼』の眼前でナイフを素早く乱雑に突き立てる。『彼』はそのうちの急所を狙う半分を完璧に捌いて見せるが、残りの半数は次々に上半身を掠める。

 

(くっ!右腕が……折れてはいないが、でも……ッ!)

 

左腕で負傷した右腕を庇いながら戦う経験などしたはずもなく、当然『彼』は防戦一方となった。防ぐなかで『彼』は急に熱に浮かされたかのように痛みで熱がる頭で理解した。この男がどれ程の死線を潜り抜けてきたのかを。手練れの殺し屋なら攻撃一つ一つが死に至るだろうと思い至るかもしれないが、実情は異なると。

 

(この男には、矜持がある。これまでの戦いで身に付いた流儀が、一手で殺すに至らなくともよいと、そうさせているんだ。)

 

ナイフの連撃が終われば、次は蹴りが。蹴りが終われば次は拳が。矢継ぎ早の攻撃は、幾重にも枝分かれしそうな反撃の選択肢をゆっくりとだが確実に潰し、『彼』は身を守らずにはいられなくなっていく。その守りの肢もまた、削り取られていく。一つの結末に至らしめんために、その男は動いている。最初のナイフの突き上げから、既に殺しは始まっていた。

 

(もう、わかっている)

 

このままではやがて、『詰み』になると。

 

(ヤツは途轍も無く、同時に途方も無く、強い!)

 

次に男の蹴りが飛んできた時に『彼』は、その攻撃の反動を活かして後退り、懐に隠した丸薬の包みに触れた。

 

(『帰れなくなる』と言っていたか)

 

『彼』は低い回し蹴りで扇状に下水を撥ね飛ばし、男の目に毒物が付着しないかを期待する。空しくも。

 

(ここで倒れれば、どのみちどこにも帰れやしない。使うしかない。いま、ここで!)

 

『彼』は少量の喀血で汚れた口元を拭うと同時に、一度大きく歯軋りをした。

 

─5─

 

男は冷静に『彼』を観察していた。次の一撃がどこから来るのか。

 

これまでの男の戦歴でも、軽口を叩くことはままあったがそれは決して油断の表出では無い。男には生者全てが下らなく見えた。だがそのくだらなさも、自身の強さに裏打ちされてようやく成就した境地の一つであると、男は理解していた。それゆえに、それを隠さず披露し、今を冷静に見極める助けとしていた。

 

(右腕は相変わらず上手く動かせねぇようだな。大きくひくついてやがる。嘘の可能性は拭いきれねぇが、しつこく攻めた分はしっかり効いてるな)

 

次の一撃で瀕死に持っていけると確信した男は、その確信にすぐさま裏切られた。『彼』から繰り出される次の一手の候補は、男の予想を超える方位から襲ってきた。四方から一斉に。全てが負傷の一撃となる攻撃が。常人なら実現不可能な異次元の攻撃が、今にやってくる。

 

(何ぃ!)

 

男は悪態を吐いてナイフの一閃で二つを潰し、右足を蹴り上げて候補を一つに絞る。

そして左手の掌底で『彼』の殴打を叩き落とした。

 

(さっきとは明らかに動きが違うな。一切無駄が無い。常人ならどれ程訓練された動きでも、必ず綻びが生まれるものだ。だが……)

 

再び男の攻撃の予測は、三方向に危険信号を打ち鳴らす。男の振るうナイフの軌道は寸分の狂いは無いが、変わらず払えた危険信号は二つだけだった。振りかかる飛沫を払い落とせば、男の接地を払う回し蹴りが飛んできた。

 

(今のコイツにはそれが無い。自分の身体の全てを、完全に掌握出来てるみてぇな動きだ。まるで……)

 

男はこの感触を知っている。かつて己の獣性、暴力性を呼び覚ました、とある昔の記憶。その再現を見ているようだった。

 

(まるで、《俺達》みてぇじゃねぇか!俺が引き金でつい『目覚めさせ』ちまったとでもいうのか!?)

 

突然、『彼』の上体が完全に消えたかと思えば、次の瞬間、男の視界左端に靴底が映り込んだ。『彼』が繰り出した、渾身の回転撃。丸薬の効果も上乗せされて、男の予測さえ起こさせない。『彼』からすればアニにも劣らない一発の筈だった。しかし摩擦で煙でも起こりそうなほどの神速のそれは、いとも容易く男に阻まれた。

 

『彼』の左足の靴底はギリギリと握り込まれる。

 

「残念だがその技は前に食らって──」

 

しかし『彼』は男の看破に動じなかった。

 

天地逆さとなった『彼』は回転を止めず、死力を尽くして右腕を振り抜く。その拍子にある一刀が突き出された。真っ直ぐに。

『彼』がこっそり拾い上げた異形の鎧の破片が。木の槍投器に尾を括られたそれは、銛のように射出された。一瞬だが兵士の全体重を握らされた男は激しく前屈し、刃の切っ先は急速に眉間へと接近する。

 

「ぬおっ!?」

 

男が刃を防御すべく両腕を交差した瞬間に、『彼』はある一発を打ち上げる。それは、信煙弾。空高く打ち上げられる予定の緑色の円筒は下水道の狭い天井にぶつかり、洞穴の中にその煙を充満させる。空の色に紛れないよう詰め込まれたその粉末は、その密度からか下水道に長距離の濃霧を生み出した。来るかとナイフを眼前に構える男の耳に、もう一種類の円筒が突きだされ、放たれる。

 

老人の耳にも凛と響く甲高い金属音。それを至近距離で鳴らされた男は頭を押さえ、一つ呻いてしゃがみこんだ。その数秒で、『彼』は逃げおおせてしまった。投げ飛ばした破片を拾い、下水道を走り抜けて、土くれの斜面を駆け上がり、爆発のもとをたどるべく持ち場を離れた無能な憲兵達に感謝して、地下の出入り口から飛び出した。本来の自分の帰るべき場所へ、死にものぐるいで走った。

 

 

 

 

「あの刃の抜き方、兵士のものだな。そんで、あの蹴りはいつぞやの女の……」

 

緑の煙と内耳を引っ掻きまわす高音ががようやく収まった頃、

ざぶざぶ音を立てて、男は泥立ち上がる。

 

「あのガキの技はともかく、ゼノフォンの野郎の爆発はさすがに危なかったぜ。ま、中にいる憲兵は、証拠ごと爆炎で消し炭だな。祈りの言葉でも唱えてやるか?…へっ、やなこった、サネスのバカでもあるめぇし」

 

「おいおい折角の一張羅が…」と、男は泥水で茶色くなった黒いコートを両手で叩いて直す。ゆったりとくたびれた足で下水道を抜けて、男はへたり込む。

 

「ったく。この『切り裂きケニー』がそうそうくたばるものかよ。ぜってえ見つけ出してやる。キュクロの伝説は伝説のまま眠らせてやるべきなんだ。……『外の世界に』なんぞ思い上がったヤツは、俺の手でなんとしても捕らえなきゃなんねぇ、なあ、そうだろ……ウーリ」

 

廃材の山を年齢不相応の体運びで飛び越えながら、「始末書はどうしたもんだかな……」とケニーは愚痴りながら、検死担当の憲兵を呼びに南西の地下入り口を目指して歩いていった。

 

すでに空に還った相棒が唱えた、楽園を築きたいという言葉。ケニーはその蒙昧な絵空事を叶えるべく、今日も暗躍する。その姿が調査兵団の前に現れるのは、ここから一ヶ月半も後の話である。

 

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