入団から43日目。長距離索敵陣形の演習の全行程を終えて、調査兵団が設けた休日の夕方。
ウォール・ローゼ内側の鬱蒼と繁るどこかに、『彼』は一人で佇んでいる。『彼』がいる場所は誰にも明かしておらず、誰かとともに訪れたこともない、まったく無作為な場所である。加えて、リヴァイ班の面々にも単独行動の承諾は得ている。
「こうして無事に帰ってこれたのは、幸運に幸運が重なったとしか思えないな」と『彼』は独りごちる。
王都地下の刺客から逃げ延びた後の『彼』は、王都の外で野営を行っていた調査兵団の天幕の一つに紛れ込み、そのまま夜を明かした。追手が来ていないか常に気を張っていたため一睡もしておらず、再開された長距離索敵陣形の演習でカラネス区まで帰還する道中でも集中こそ欠かなかったものの、全身に多大な疲労感を覚えていた。そんな杞憂も今ではすっかり回復し、現在『彼』はこうして木々に囲まれた広場で一人、そよ風を浴びている。
(多分、捜査網からは逃れられてるし、あの家で起きた爆発事故も、事件性がそもそもないと判断されたのかもしれない)
『彼』は懐から丸薬の詰まった袋を取り出し、一粒ころりと掌に出してつまみ上げる。
『帰れなくなる』と老人は言っていた。その言葉の意味を『彼』は一度服用したその時点でそれとなく察せられてはいたが、『彼』が調査兵団での活動中で経てきた日々に、「なんとなく」で済ませてはならない、という自負はしっかり育まれていた。
「実験を通して、その仔細をなるべく明らかにする。エレンにしてきたことだ。私も当然、それに追従するべきだ」
(こうして誰も来なさそうな場所を選んだのは、そのためだし)
丸薬の実験のために『彼』が予め用意したものは五つ。
鏡と、飲み水と、立体機動装置と、とても暗い、鬱蒼とした林。それに、異形の鎧の巨人の遺骸からこっそり拾った破片ひとつ。物品を確認して、『彼』は実験を始めた。
『彼』は丸薬を口へ運んで奥歯に挟み、噛み砕く。よく味わってみれば、殻からこぼれでる粉末の味は良くない。別段そこに期待はしていなかった。
まず変化を感じ取ったのは、体温だ。
呼気が冷たい。いや、正しくは身体の方が熱いのだ。周囲にただよう微弱な風を感じ取れるほどに、火照る身体が冷気を欲している。スキットルを口にあてがえば、中身の水も溶け出した氷のように冷たい。顔が真っ赤になってないか確かめるべく、鏡の反射を見てみるも、ごく普通の素面だ。長距離走を終えた後のように頭から蒸気が出ている訳でもない。ごく平然と珍妙に歪んで像が反射する。
体内の感覚の次は、体表の感覚の確認だ。『彼』は兵服の袖を捲ってみる。捲る前に露出していた箇所にも既に感じられていたが、周囲を漂う空気に、流れを感じるのだ。わずかに流れるそよ風も、氷嚢で皮膚を擦っているかのように。
(風の流れを感じ取れる。触覚が敏感になっている、ということなのかな)
次には視覚。視界の色はやや褪せて眩くなり、縁が少し青みがかっている。前者は鬱蒼と繁る林の暗がりを覗いて、瞳孔が開いて取り入れる光が増えたからだと説明できた。きっと地下での刺客との戦いでも、正確に男の場所を捉えて音響弾を放てたことも、泥の中から投げ飛ばした破片を拾い上げることが出来たのも、この効果のお陰だろう。しかし後者は全く未知の現象だった。『彼』は鏡を掲げたが、目の色が変わったりはしていない。しかし目が痛む訳でもないため、特殊な副作用の一つだと結論付けた。
聴覚については、体内の拍動が少しうるさくなる程度で、さして変化は無かった。もとより少し聞こえすぎるくらいによく聴こえる耳だったため、この作用に深刻さは無かった。
以上の結果を日誌に書き留めた。
(さて、実験の最後の項だ)
『彼』はブレードを引き抜き、刀身をじっくりと眺める。いつもと変わらない武装だ。いつもと異なるのは、その刃が羽のように軽かったことだ。
(ここまでの実験の経過からして、この丸薬の効果は、一時的な身体能力の増強なのかな?)
取り出した矢先だが、『彼』はブレードを鞘に収め、近場にあった、薪になる予定の大木に近づいた。そして満身の力を込めて、正面蹴りを幹に放った。木の揺れは訓練の時に放つ普段の蹴りと同じくらいの揺らぎを起こし、自身の身体に跳ね返ってくる衝撃も、普段と同程度の振動を伴っていた。
(筋力は上がっていない。これと同じ木なら、ミカサや兵士長は表皮に亀裂を入れられるだろう。だが明確に違うことが一つあった)
今行った動作が、全て自分の思いどおりになるし、実際になったかのような感覚だ。
改めて『彼』はブレードを一本引き抜き、片手上段から袈裟に振り下ろした。
さっき蹴りを入れた大木に、浅く切り傷が付いた。『彼』はその付けた傷に向けて、再び刃を振るう。斬撃は傷痕を正確になぞり、一段と深く木に刻み付ける。『彼』はそれを繰り返す。何度も。何度も。丸薬の効果が切れるまで。
振るっている間、『彼』の内に奇妙な感覚が住まっていた。刃を滑らせて刻んだ軌跡が、自分の見立てどおりに一ミリのずれもなく付けられると確信しているかのような、そんな感覚だ。
その感覚に違わず、効果が切れるまでの1分の間に、木に刻まれた傷は、洞のように深くなっていた。刃の細さ数ミリの形状を保持して、限りなく深い傷を刻み込んでいた。
(単に集中力を上げるだけの効能では、こんな傷は付けられない。普通、剣の素振りをすれば、たとえ同じ軌道を描いているという自負があっても、実際は振るう度に数ミリのズレを起こしている。人なら、そういうものなんだ。百回、千回と振り続ければ、ズレは数センチにもなるだろう。でも、この丸薬が効いている間はそういう綻びが、一切無かった)
身震いした。『彼』は自分自身がそのような正確無比な技を、何度も繰り返せる者など見たことは無い。思い当たる二人を除いて。丸薬の入った袋をつまみ上げてしげしげと眺める。
(この丸薬は、彼らのような、強い兵士になれる、ということなのか。いいや、そんな都合の良いものではない。ほら、また……)
効果が切れるが速いか、『彼』は膝を着いて、ぜえぜえと息を盛らし、どっと発汗した。血の気は引いて、手足の末端は痺れている。深い呼吸を何度も繰り返して、煩わしい副作用の数々を鎮める。
(妙だと思っていたんだ。王都から逃げ延びてきたとき、とてつもなく疲れていたんだ。普段ならそんなことはあり得ない。調査兵団に入ってから、連絡係として夜通し駆けることがあったりしても、そのまま訓練に臨めるくらい、けろりとしてたんだ。それが丸薬一つでこんなことになるなんて)
1分に渡る驚異的な集中力と引き換えに、多大な疲労を蓄積する。それが、この丸薬の正体である。
(『人類の勝利に限りなく近づくだろう』だって?こんなもの、兵団全体に広める訳にはいかない。壁の外で全員がこれを服用すれば、戦い疲れて倒れたところでまとめて喰われるのがオチだ)
『彼』はこの丸薬を、実験好きな分隊長に打ち明けるべきか葛藤していた。しかし代償の大きさを秤に掛けて、まだ秘匿するべきだと判断した。
(この技術を伝えるのは、まず私が十全に使いこなせるようになってからだ。兵団でも体力に一番自信がある私が。幸い製法は持ってるから量産は出来る。日誌に書き写したから、原本は燃やすなりして隠滅しておこう。まだ時間はある。この力をモノにしてみせる。あいつが巨人の力を御せるよう、頑張っているんだから。とりあえず、しばらくは一粒だけでの経過を観察しよう)
焼け石に水だが肩を回して、重く沈む身体に鞭打つ。ひとまず今日の分の実験を終えたと結論付けて片付けを始めた『彼』は、異形の鎧の巨人から落ちた破片を拾う。抜き身では危ないため、布でしっかりくるんでから。
王が破片の回収を通達する前夜、王都内にある総統が持つアトリエの中に、『彼』はそれを隠していた。特記すべきなのは、『彼』のその機転は生来のものではないことだ。一人の少女が打ち明けたある秘密のお陰で、普段から壁の民の持つ王への不信を、人一倍強く持つことが出来たのだ。その不信が、今の機転に繋がり、こうして今でも破片を隠し持てていることに繋がっている。
この破片はそれなりの切れ味を持つが、刀身が緩やかにたわんでいるため、超硬質ブレードよりも取り回しは効かなかった。そのため『彼』は、もしものときのための暗器として用いることを選んだ。結果的に地下での戦いに役立ったが、このままでは巨人相手の戦闘には用いられないだろう。
用いた策を振り返って、『彼』はその危うさを自覚する。
「これにはふさわしい柄と、鞘を付けてあげよう。私の命を救ってくれた功労者だからな。人相手には通用したが、これからのために、これを活かす手立てを考えないと」
『彼』には確信が無かったが、他でもない、鎧の巨人から入手出来たものだからこそ、かの怨敵に抗しうる可能性をこの刃に見いださずにはいられなかった。しかしこの刃を所持していることも、兵団の誰かに打ち明けるにはまだ早いと『彼』は判断した。
『彼』は地面に並べた物品を拾い上げて、一際大きな袋にしまい、馬に跨がって、林を後にした。『彼』も知らない、来るべき決戦の時を待つ。