『彼』の入団から52日目。
日が沈んで一時間が経ったあたりの休日。旧本部ですずろなるままに歩いてい『彼』は、適当な一室を開けて、驚きの声を上げた。
「ハンジ分隊長」
「ああ、君か。お邪魔してるよ」
うず高く積まれた白い山嶺からハンジは顔を出した。その血色からして、以前よりは無理をしなくなったようだ。
「書類の山だ……」
「うん。エレンの実験の報告は私の管轄だからねえ。こうして執筆して提出するのも、私ならではの仕事だよ」
「いつもは副長と共著であると称してるのに、ですか?」
「今日くらいはモブリットを休ませてあげようと思ったんだよ。例の拠点設営も大詰めでアーベル達も忙しくなってきたし、私達はカラネス区に滞在することも増えたし、任務続きで執筆も滞り始めてるし、その代わり書くべきことは増えてるしで、もういっそ1日休みをあげよう、ってね」
「忙しいのに、ですか」
「忙しいからこそ、だよ。君だって翌日提出期限の課題をやるのに、徹夜せず絶対睡眠を挟む経験はしたはずだよ」
「……まあ、なくはないです」
したことは無いと『彼』は答えようとしたが、分隊長が得意気に「そうだろうそうだろう」としつこく頷く様に水を差す気は起こらなかった。『彼』は扉に手を掛ける。
「では私はこれで───」
「ああ待ってくれ。いい加減書類と向き合い続けて退屈になってきたから、少し話をしないか」
「……どのみち今日でその量は終わりそうにありませんね。いいですよ」
『彼』は長机の角を挟んで、分隊長の利き手側の椅子に座る。
分隊長は照れ笑い、バツが悪そうに頭を掻く。風呂に入らず、頭が痒いときのそれとは明らかに違う。
「まずは、異形の鎧の巨人の討伐、おめでとう」
「もう二週間ですよ、アイツを倒してから」
「公的な祝いは王から賜ったけど、君の仇に似た存在を倒せたという私的なお祝いはまだだったからね。まあ、品物も無い労いをさせてくれ」
「それは……まあ、ありがとうございます?」
「巨人に執心な者同士、そんなことがあったって良いじゃないか」
「執心、といえば」
『彼』はある一点を追及することにした。二人しかいない今ならば可能だと判断して。
「ハンジさんが異形の巨人を倒したときに、しきりに何か書き記していましたよね。あれがなんなのか、教えていただけますか」
「ああ、あのことか。うーん、ぜひ教えたいところなんだけど、実のところ、サプライズ的なことにしたくてさ、悪いが、もう少しだけ待っててくれないかい?」
「サプライズ的な何か……しかし、プレゼントの類いとかではないのでしょう?」
ハンジは目を丸くして、首を横に振る。
「少なくとも兵団の役には立つものなんですよね?」
「うん。それは勿論そうだ」
「ならばなぜ渋るんですか?」
「君の方こそ、随分食い下がる。あと数週間もすれば完成する。これなら、どうだい?」
「それなら、楽しみにしておきますよ」
『彼』は内心穏やかでは無かった。しかし、まだなにがしかの『余地』が残されているだろうと踏んで、今度は『彼』の方から申し出ることにした。
「あー、ハンジさん。もし、もしもですよ……兵団の戦力を大きく引き上げられる何かを今持っていると私が言ったなら、貴方はどうします?」
「それが何なのかは分からないが、まあ、今はやめておいた方がいいだろう」
ハンジは即答した。そして続ける。
「私が開発してるのは、今ある技術でのみ完成させられるものだ。工場からの届けは王に承認されたし、予算もほぼ使い果たしたが破綻するほどじゃない。もし君の言うように画期的なモノとやらがあるのだとしたら、今それを求めることはしない」
「……」
捲し立てられた『彼』には、分隊長がまるで何かを恐れているかのような、そのような気配を察知した。『彼』は直ぐに詫びたが、ハンジは取りなした。しかし真剣に、この件はあくまで両人の間留めることを、『彼』はハンジに強く制止された。
「なぜです。貴方ほどに人類の発展を望んでいる人は見たことがない」
「またまたおべっかかい。エルヴィンやリヴァイの方がずっとその気概が上かもしれないよ?」
「それもそうですが、特に、技術的な面は、あなたが牛耳っているのは揺るぎ無い事実でしょう?もしそれに貢献できる何かがあるとしたら、欲しがるのは当然じゃありませんか」
ハンジは木を伝う樹液のような遅筆を完全に止めて、『彼』の方を向いた。
「過去に行われた巨人の実験は何回だったかな?」
「5回、ですよね。ソニー、ビーンの時を含めれば、6回」
「そう。そのうち、私が参加したのは第5回からだ」
「つまり、それ以外の4回は……」
「私のように、巨人の実験に対し積極的だった、先代の方達による功績だね。君、私についてリヴァイに言われたこと、覚えてる?」
「『あまり接近を続けてるようじゃ、早死にするぞ』、と」
「そんなこと言ってたんだ」
ハンジはつい漏らした軽口を首を振って整えようとした。下がった髪が馬の尾のように無造作に揺れると、次の分隊長の言葉は、爛漫な当人の性格とは全く異なるほど重苦しかった。
「実際、実験に関わった者達は、悉くが死んでいる」
「12代団長が生きたまま引退したことが稀有な例として持て囃されるのはまだ理解できますが、兵士が死ぬこと自体は、っ誤解の無いように言いますが、珍しいことじゃないではありませんか?」
「そうだね。本来ならその通りなんだ。でも」
頷きながらも、ハンジは瞬きすらしない。
「先代の死には、疑念があった。当時、第5回の実験で、私は彼の助手として、実験に参加していた。巨人の頭を蹴っ飛ばした時もその回だったんだけどさ」
「いやあ懐かしいなあ」とハンジは続ける。
「第5回の実験を終えて、数週間が経過したある朝、久方ぶりに実験をしようと、先代の自室の扉をノックしたんだ。でも返事が無くてね、鍵も開いていたんだ。普段寝坊するような人じゃなかったし、私も珍しく早起きだった。いや、実験のことを思うと興奮してたまらなかったのかもしれない。辛抱たまらず扉を開けたんだ」
ハンジは手を格子のように組み、口元を隠した。
「そこに、先代の姿は無かった。兵団内で探し回っても、彼がいそうな場所には全くいなかった。完全な行方不明。タイミングも、動機も、全く思い当たらなかった。何か心変わりがあったのか、それとも思い残すことがあっての脱走か、様々な議論が交わされたが、彼は実直だったし、当時の団長からも太鼓判を押されていた。だがそれでも、我々は、彼の捜索を諦めなければならなかった。何日も一人の兵士のために、兵団全体の時間を割くわけにはいかなかったんだよ」
訥々と語るハンジの声に、『彼』は生唾を飲んで傾聴を続ける。
「ひとまず、私を繰り上がりで次の実験担当に据えて、また実験を行うことにしたんだ。それが本来の第6回目になるはずだった。でも、巨人の拘束具が緩んでいたか、振りほどかれて、仕方なく討伐せざるを得なくなった。あの子を討伐して、やっと先代の姿が発見された」
脈絡なく姿を現した先代について『彼』が尋ねる前に、ハンジは答えを出していた。『彼』の口に手を翳しながら。
「先代は死んでいた。実験体の巨人の腹の中で。ああ、ここまで聞いて、もう答えを出したくなるだろうが、もう少し待ってね。ここまでだと、向こう見ずな実験担当が、興奮に乗じて喰われちゃった、というオチになってしまうから」
ハンジは書きかけの報告書を我が子のように撫でる。
「私達は彼を発見する前に、彼の痕跡を証拠品として管理していたが、一つ気がかりな点があった。第5回の実験の報告書が、彼同様忽然と消えていたことだ。提出にあたっては、団長に確認を取ることが必須なのに。実直な彼が、団長の確認も無しに提出するはずが無いし、まして全く手付かずだったとも思えない。遺体からも見つからなかったし、そうなれば、残る選択肢は紛失か、抹消されたかのどちらかだ。先代はきっと、何かを見つけたんだよ。私達の既存の知識を塗り替えてしまえるほどの何かを。単なるうなじが弱点であることについては、何十年も前にソルム・ヒューメが功績として判明させている。それをも超越する何かを、彼は見つけていたに違いないんだ。先代が死んだ当時は、まだ関連性は見つけ出せていなかった。だが、今回異形の巨人討伐後の王の対応で、もう、疑いようが無くなった」
一呼吸置いて、ハンジは目元を揉みながら言葉を吐き出した。
「王は、敢えて人類の進歩を妨げていることを。そして、先代の死因は他殺であることも。誰がどうやってかは分からないが、王が関係していることは間違いない。大昔なら保守派がどうたらと考えるだろうが、今ではより単純な仕組みな分、大元の特定が困難だ」
ハンジは眼鏡を掛けなおす。
「先代の担当は、固有の班を持っていなかった。しかし、私は違う。私の班員がいて、優秀な助手もいる。私の行動ひとつで、間引かれるのは私だけに留まらないだろう。すまない。分かってくれ」
長く続いた分隊長の答えから、『彼』はシンプルな一つの答えを得ていた。
(この人には話せない……。他をあたるか?いいや、この人が無理なら、他もきっと……)
『彼』は胸元に仕舞った丸薬の袋の感触を、手を添えずに感じとる。勝負を仕掛けたものの、人類の進歩を何より望む者の一人であるハンジでさえ抑制されている現状では、人脈も、手数も足りていない『彼』が切り開くことは現実的でなかった。
『彼』はふうと一息ついて、口を開く。
「分かりました。『もしも』の話は、もうしないことにします」
「ああ。頼む。ごめんね、怖がらせちゃって」
「その、知りませんでした」
「何が?」
「ハンジ分隊長が、それほどの覚悟の下、実験を先導していたなんて。てっきり巨人のことが好きだからとばかり……まさか、亡き先代の悲願を叶えるためだったなんて」
「え?それは違うよ?」
ハンジは即座に否定した。ピシャリと。
「私が実験をしているのは、あくまでもっと巨人のことを詳しく知りたいから。別に仇をとりたいだとかそんなものじゃない。巨人のことが好きだからだよ。もしそれで先代の発見した情報が手に入ったら、今度は失敗しないよう世に出す好機を窺いつつ、老いて死ぬまで実験を続けるつもりだよ」
分隊長は不敵に笑った。やや前のめりになっていた姿勢をほぐすべく、思い切り両腕を天高く伸ばす。
「いやー話した話した。悪いね、付き合ってもらって。休み、潰しちゃったかな?」
「それが明日、リヴァイ班も休みがありまして。そこで買い物に行くんです」
「ここで買い物という言葉を使うあたり、単なる物資の買い出しじゃなさそうだね」
「ええ。あなたと同じで、隊長抜きだからこそ果たせる休暇、というヤツです」
「そう。楽しんでね」
「ええ。あの、蒸し返すようで悪いんですが」
「何かな?」
「なぜ、私にここまで詳しく話したんですか?」
「なぜって、仮に私がこの件で捕まったらら、思い当たる犯人は君を含む数人しかいないから、そこから逆算させて、人に任せることにしてるから。あー、別に君を疑ってる訳じゃ無いんだ。ただ、もしそうだとしたら残念だ、というだけで」
ハンジはいつもの調子を崩さない。しかしその言葉の端々から、兵団で最も怒らせてはならないのはこの人であることを、『彼』に自覚させるには十分だった。普通なら、『彼』は脂汗を一筋垂らして笑むのだろうが、幸いそのようなあからさまな反応を示すことが無い。
なぜなら、『彼』には似た『前例』を知っていたからだ。
そばかすの彼女が唱えたある言葉が頭に響く。
「私はこの兵団の味方です。鎧の巨人を倒すためなら、この心臓を捧げると誓ったんですから」
ひとまずは分隊長がこの言葉で納得すると信じて、『彼』はハンジの報告書の進捗を、寝室に向かう残りの時間監視することにした。「仕返しかなにかかな?」と分隊長は半泣きになりながら筆を走らせ続けた。