─1─
「ジャンと私の馬は逃げたな。ずーっと指笛を鳴らしているが、一向に戻ってくる気配もない」
5分強も指を咥え続けてすっかり涎まみれのジャンにスキットルを手渡しながら、『彼』はライナーに報告する。ライナーは武骨な手で赤子をくるむように、アルミンの頭に優しく包帯を巻き付ける。アルミンは少し血を失ったからか、ぼんやりと平原の向こうを眺めたままだ。
『彼』は患部に障らないようライナーと同じように慎重に肩に手を置いて、数度彼の名前を呼んだ。呼ぶ度に声量を少しずつ上げて、5回目程でアルミンは我に返った。背後のライナーに問いかける。
「どのくらい経ったの?」
「女型が去ってから5分くらいだ。そして、俺の馬しか戻ってきてない」
『彼』は女型の戦闘で吹き飛んだアルミンの立体機動装置の点検を終えて、黙って彼に手渡す。
「正気に戻って早々悪いが、馬の耐荷重からして、1頭に乗れるのは2人が限界だ。2人、ここに残すことになる」
「予備の馬は……?」
「西側の班長を援護する際に預けてきた」
長距離索敵陣形で伝達の役割を与えられた者は、予備の馬を1頭与えられる。事態によっては手放すことも厭わないことも通達されてはいたが、この場の4人全員が、その事態に遭遇してしまった。
「いや、確か煙弾がまだ残ってたハズ。僕達一人に一つずつ持たされた、緊急用の煙弾が」
紫の煙が空へ打ち上がる。
「さっきの話の続きだけど、まず残るのは僕だ。その代わり、団長に伝えてほしいことがある」
「いや、それは自分で伝えろ、アルミン。女神様が馬を2頭連れてきた!」
目元に手を翳すジャンが軽口をたたく。わざわざ女神などと銘打った、銘打たれる者は、この兵団には1人しかいない。クリスタ・レンズだ。彼女は馬を2頭も連れてきていたことは驚愕だった。伝達であっても御せる馬は2頭までが既定なのだ。
「あ、これ俺の馬じゃねぇか!」
「その子はひどく怯えてこっちに逃げてきたの……巨人と戦ったの?あっ!アルミン!その怪我は大丈夫なの?」
クリスタはいつものように他者を気にかけているが、『彼』にはすぐに別の懸念が浮かんだ。クリスタの配置は六列の左寄り、つまり陣形の最後尾の配置だった。『彼』程では無いが危険な配置であることは間違いなく、団長の指示に対し最も誤差なく正確に反応する必要がある場所だ。
そして、ここまでで援護にあたった左翼の班長は来ていない。『彼』はクリスタの後方を覗き込むが、無念にも。
「私の馬は返って……来てないな」
「そんな。あなたも馬に逃げられたの?」
「残念なことに、奇行種に驚いてね。クリスタ、左翼から何か煙弾は上がったか?」
「いいえ。赤の煙弾が何度か上がって、回避するように動いていたら緊急事態を知らせる煙弾が見えて、ここまで来たの」
左翼側に被害はあまり出ていない、すなわち既に陣形は右翼と左翼で進軍に大きな差が出ていると『彼』は結論付けた。『彼』はすぐに口を切った
「その3頭の中で1番速い馬をくれ」
「お前、何するつもりだ?」
「リヴァイ班に直に伝達しに行く。私1人で。これだけ黄色の煙弾が上がってなお何も起きないのなら、残る手段はもうこれだけだ」
「1頭は2人乗りになるか。ペースが落ちるな……」
「クリスタは俺の後ろに──」
「クリスタはアルミンとで2人乗りになってくれ。小柄な者同士なら、多少遅れを防げるかも」
『彼』はライナーを一瞥するが、ライナーは仏頂面を崩さずそっぽを向いた。まるで始めから何も言っていないかのように。
「ライナー達はクリスタも班に加えて進行を続けてほしい。なるべく左翼に近づきながら」
「ああ、わかった」
「私は、中央後方に」
「うん」
「気をつけてね」
「そっちも」
アルミンに目配せし、『彼』は駆け出した。
(道中で遭遇した先輩達に伝達するか?いや、すでに女型には大差を付けられてる。もし中身の人間が長距離索敵陣形の編成まで熟知していたら……どう考えても時間は無い)
『彼』は諦めた。先輩達に伝達する選択を捨て、最速で駆ける。
─2─
「あれは、巨大樹の森だ。地図ではもう少し東の辺りに見えて、迂回するハズだった」
『彼』は煙弾の軌道から陣形の位置を予測し、伝達や他班の間を縫うように馬を走らせていた。伝達に割く時間が無いと判断すれば、あとは速やかにことが運んだ。
左右へと踏み固められた跡があるが、同時にそれよりも少ない蹄鉄の跡が、森の真ん中を突っ切る街路に残されていた。『彼』は目蓋を閉じて、耳を澄ませる。微かな蹄鉄の音が、森の方から聞こえた。
「女型はまだ来ていないみたいだ。森……正面から入るしかなさそうだッ」
後方で何かが破裂するような音がして思わず振り向いた。リヴァイ班が結成されて2ヶ月を記念して鳴らされたあの紙細工のような、空気を込めたパンッという音が。平原の彼方一キロメートルに満たない距離に、ヤツがいた。前腕を数度軽く振る動作をするヤツの姿が。さっきの異音は、女型が兵士を撃ち落とした時に立てた音だった。
そして、『彼』から二馬身離れた位置に、ドサリと何かが落ちてきた。
見慣れたワイヤーは、緊張が溶けて何十メートルも草原に横たわっている。空中ではたかれた人とは別なのだろう。なぜならそれは身体が背中側から手拭いのように2つに畳まれていたからだ。内蔵を一切失ったからか腹は肋骨に張り付くようにへこみ、口の端から本来口内を覗くだけでは見えないハズのなにかの、その切れ端がこぼれ出ていた。
こちらに気付いたかは分からないが、明らかに女型の進む歩は速まった。振り向いてはいけない。『彼』の耳がそう告げている。巨人の目線の高さから、『彼』を見つけないわけが無かった。
『彼』は手綱を何度も叩きつけて、跳ねる石が顔を切ることも構わず森の中へ突っ込んでいった。
(ヤツが追い付くまで1分も掛からない!早く!早く追い付かなければ!!)
日中にも限らず薄暗いその森は、異形の四肢を持つ巨人と交戦したときのことを思い出させる。当時に対してその森は深く、どこまでも終わりが無いようにも思えて、巨人の往来があったのか草木が少ない道だったが、脚をからめ捕られそうだった。
(1人で走っている間にも、黒の煙弾が上がる機会は確かに何度かあった。途中からパタリと上がらなくなったのは、打つ暇もなく殺されたからか)
駆け始めて20秒、『彼』は木々の合間から、揺らめく赤橙色の髪を見つけた。その後ろ姿を、『彼』は新兵の中で最も詳しく知っていた。そのさらに先にいるであろう者の名前を、『彼』は叫んだ。
「リヴァイ兵長!」
「その声……!!お前!なんでここに!?」
声に最初に気付いて振り向いたのは、エレンだった。
「知性を持つ巨人が急接近しています!右翼側はソイツに壊滅させられました!!団長に撤退の指示を促して下さい!早く!」
「いいや、もはや伝達してる場合じゃないんだろう」
グンタは追い付いて早々に『彼』を宥め、先を行く兵士長の方を目線で示す。人類最強の兵士は、逆手に刃を閃かせ、班全員に指図する。
「お前ら剣を抜け。それが姿を現すとしたら、一瞬だ」
(もう来る。5…4…3……)
『彼』が脳内で数えるよりも早く、また1人兵士を叩き殺して現れた。森のうっそうとした暗黒から、赤々とした剥き出しの筋繊維を四肢から伸ばす怪物が。一際細い木をなぎ倒してエレンに向かい手を伸ばしたが掴みそこねたそれは、踵で踏ん張り再び照準をこちらに合わせ、通常の巨人には出せない規則正しい足音を不気味に鳴らしながら追ってくる。
「クッ!この森の中じゃ回避しようがない!」
「追い付かれるぞ!」
「兵長!!立体機動に移りましょう!!」
ペトラの声に応じようと、兵士長は刃をもたげたように見えたが、木々の間から兵士が2人飛び出す。『彼』もよく知る先輩の顔ぶれだった。
2人の飛ばしたアンカーは巨躯に掠りもせず空を突いた。そして、死んだ。ほんの一瞬だった。再び女型はこちらに向き直り走り出す。
「兵長!!指示を!」
「ヤツは俺達がやるべきです!」
「ヤツを仕留めるために森に入った!そうなんでしょう!?」
「全員耳を塞げ」
口々に上がった提案も動揺も、兵士長は命令の一声で均した。
その内容を理解するよりも速く、兵士長の手から持ち上がるソレを目視した『彼』は、撃鉄が起こされるよりも速く、真っ先に耳を塞いだ。
『彼』は異形の鎧討伐の後に工学班が着想を得、開発されたその音を、兵団の中でも人一倍嫌っていたからだ。不愉快な高音が轟き、残響を木々の新芽の先まで浸透させる。たとえ掌越しでも『彼』は眉をひそめる。
「音響弾……ッ」
「お前らはその時々の感情に身を任せるのが仕事か?そうじゃねぇだろ。この班の使命は、そこにいるクソガキに傷一つ付かねえよう尽くすことだ。命の限り」
(そんなことは分かってる。問題はアレによってそれが叶わなくなることだ)
「俺達はこのまま馬で駆ける。いいな?」
「駆けるってどこまで……」
「ヤツがもうすぐそこまで!それに、また増援です!」
「エレンも新兵も兵長に従え!」
「グンタさん!」
「最高速度を保て!」
「なんで……リヴァイ班がやらなくて誰があいつを止められるんですか!っまた死んだ!助けられたかもしれないのに!?」
エレンは必死に班員に戦うよう呼び掛けるが、『彼』以外の先輩達は、進むよう呼び掛け続けた。『彼』は、エレンの手が、口元へ運ばれていくのを目撃する。
エレンは徐に歯を手に沈めてゆく。いつ見ても痛々しいそれを、ペトラは咎める。
「エレン!何をしてるの!?それが許されるのはあなたの命が危うくなった時だけ!私達と約束したでしょ!?」
彼は止まらない。ブツリと肉片が千切れる音が出るかと思われたが、
「エレン。お前は間違ってない。やりたきゃやれ」
(なぜ、なぜ急に真逆のことを……)
「俺には分からない。ずっとそうだ。自分の力を信じても、信頼に足る仲間の選択を信じても、結果は誰にも分からなかった。だからまあせいぜい……悔いが残らない方を自分で選べ」
(私は……)
『彼』は外套の密かに胸元に手を当てて、丸薬の入った袋の感触を確かめる。
ジャンが女型の足止めを行うと言ったときは、『彼』はこれの使用を選択肢に入れていなかった。しかし今はどうだ。精鋭のなかの精鋭達が揃い、人類の希望もまたそこにいる。
(それでも、本当に勝てるのか?これを使って、勝てるという見込みはあるのか?その後はどうするつもりだ?疲れた身体で調査を続けられるのか?女型はどうだ?あれで全ての手札を出したと言えるのか?まだ何か隠している可能性は?)
『彼』らはまったくの未知のまま、巨人に勝利したことは無い。異形の巨人との戦いにてその硬度を打ち破るほどの火力で押しきることが出来たのは、何ヵ月も粘り続けて弱点を暴き、そしてその作戦を通せる物量と陽動があったからだ。超大型巨人や鎧の巨人にはどう打ち克つのか、その活路は未だ霧の中だ。今『彼』らに追いすがるあの女型もまた、得体も知れぬ脅威なのだ。
「エレン……。信じて」
(私は本当に、彼らを信じられるのだろうか)
『彼』は思い出す。ハンジが話した前任者の末路を。異形の巨人の残骸から静かに拾い上げたあの刃を。入団1ヶ月で実施された長距離索敵陣形の演習で手にしたあの紙片を。そして、謎の老人から手渡された青の丸薬を。父の遺した手紙を。
そして。849年のある日に交わした、一人の少女との約束を。
(……いいや。それを決めるのはきっと、私じゃない。もっと別のなにかだ。私が知らない、及ばないなにかがそうさせているのかもしれない。それは組織全体の方針だったり、誰かとの約束だったり、私の個人的な確執だったりする。)
「エレン!遅い!さっさと決めろ!!」
「進みます!!」
『彼』が悩ませている間に、最も勇気ある者は、答えを出していた。背後でまた一人、兵士の断末魔の叫びが聞こえた。
「目標加速します!!」
女型はさらに姿勢を深く落とし、激しく地を鳴らす。砂塵が巻き起こり、後ろへ遺された者達は礫を撒かれてゆくのだろう。トロスト区のときと違って、誰にも見守られることなく。
「走れ!このまま逃げきる!」
(悔いが残らない方を……か。あの約束の謎が解けるまでは、私は、今私の周りにいる人たちを、信じる外にないんだ)
女型から伸びる巨大な手が、エレンに被さろうとしたその時、無数の発砲音が多数同時に鳴り響く。その全てが鳴り終えた時に、ようやく『彼』は振り向いた。
そこには、無数に鋼線の刺さった女型が、踠くことすらできず、ブルブルと振動を繰り返していた。
「少し進んだところで馬を繋いだら立体機動に移れ。新兵は俺と来い。班の指揮はエルドに任せる」
女型の巨人を捕らえた。その事実に『彼』は、歓喜ではなく疑いを抱いた。疑いに反して指示に身体は忠実かつ迅速に動いた。彼のガスの軌跡を追う。
「知っていたんですか?あの巨人が現れることを」
巨大樹の枝の1本、ヒト数十人が乗ってもびくともしないその1本に着地した『彼』は、その首謀者の名を呼ぶ。
「エルヴィン団長」