進撃の巨人2 名もなき英雄の軌跡   作:なげすて

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アニ視点でのお話。
第57回壁外調査から命からがら逃げ帰ったアニは、ある夢の中に微睡んでいた。時系列の混濁した夢の中に。


第61話 サイド:アニ ─軟らかで暖かな傷─

─1─

 

これは、848年の秋。

 

この壁内に季節の変化を示すものはそう密集して生えてはいない。

あと残りわずかに迫る命を示すかのようにその色を死体へと近づけることがそれならば別だけど。

街路樹なんて馬車の邪魔になるものはここには無い。街の外れにあるハズの黄金色の樹木の落ち葉がここまで舞ってくるくらいだ。

 

「今度の非番の日に出かけるって言ったけど、そこそこあいだが空くなんてな」

「私もコニーも暇になることはあったんですけど、貴方達二人がそんなに忙しかったなんて思いませんでしたよ。てっきり言い出したその週末くらいになると思ったのに」

「ごめん。本当に悪いと思ってた。まず早朝のアルミンのランニングの併走と座学、診療所でのクリスタの手伝いだろう。それとユミルの使い走りにベルトルトと射撃の訓練、溜まった手紙の返事にアニの格闘訓練とそれをエレンとミカサとライナーで復習してジャンの立体機動のご指導と──」

 

『あんた』は丸められた左手の握り拳を右の手で一本ずつ、指をつまんで引っ張って開いてゆく。だがその言い訳の羅列は直ぐに差し止められた。

 

「あの、そんなに詰め込んだら、身体が爆発しませんか?」

「いや、むしろまだ物足りないかな」

「死ぬぞお前。てかもう2年目も折り返したのにまだやってたんだな、そのパシリ。……んで、アニの方はなんで、ってまあ、人避けたがってるもんな、暇だろ、どう見ても」

「ふん」

 

バカ二人には真っ向から関わらない。兵士ごっこしてる別のバカのせいで、体力を使ってたから。少しは休ませてほしいものだけど。

 

「コニー、そんな言い方は無いでしょう。アニだって目のくまがひどい時期があったでしょ?」

「そんなこと言うなら俺だって、髪のハリが悪い日はあったし」

「ほぼ無いのに?」

「こんの芋女!」

 

コニーはすぐサシャと掴み合いになる。本気の喧嘩じゃない。『あんた』はいつもの調子でわたし達に尋ねる。

 

「三人とも、手持ちに余裕はある?」

「もちろん。へそくりがありますから!」

「今日のために親への仕送り、しばらくケチってたんだ。ごめん!サニー、マーティン」

 

コニーは遠くの家族に手を合わせる。わたしは目配せする『あんた』に素っ気なく答えた。

 

「まあ、少しは」

「よし、それなら」

 

『あんた』はいつものように日誌を開く。本当に何でも記してるんだね。町の情報まで。

 

「まずは……」

 

『あんた』はわたし達を日の当たる服屋に連れてきた。内装を見たところ、婦人服に紳士服、配置でおおよその住み分けをしてるみたいだけど、所詮兵士が買えるくらいの相場だと、わたしは生地を触らず目だけで判断する。べつに一家言あるわけじゃない。違いが分かるだけだ。

 

「気になるか、そのフード」

「別に。ただ『あんた』の金銭感覚がわりかし無難なのが分かった」

「それはそうだ。出世払い用と上官への贈答品用とか、目的に応じた店は複数記してある。ここもそのうちの一つだ」

「で、わたし達はこの辺りでいい、と?」

「……怒ってる?」

「いいや、方向性は正しいよ、概ね」

 

わたしは顎で方向を差す。『あんた』はコニーが子ども用の服を、サシャは流行を象った安物のコーナーを調べているのを目撃し、納得したようだ。

 

「そういや、『あんた』はいつから何かを被るようになったの?」

「壁が壊された日に、誰のものとも知らないボロ布を被って船に乗っていた。それからかな。いつもとは言わないし、それで気の持ちようが変わるとは思わないけど」

「へえ」

「それか、雨の日の森で立体機動の訓練をしている時に、フードを目深に被って枝の1本の上で雨宿りをしてる誰かを見てたからかな」

「『あんた』、覗きの趣味なんてあったんだ」

「一人になりたい時は私にもある」

「その秘匿性を本人にバラすことに、心は痛まないの?」

「恥だとは思わないからね」

 

『あんた』はそう言いながら、婦人服の最前列から、特に婦人らしさこそなけれど、注視すれば分かる麗しさを湛えた一枚を、わたしに渡す。

 

「こんなの貰ったところで、着る機会なんて無いと思うけど」

「憲兵になるなら割とあるだろう?」

「……『あんた』も皮肉が言えるみたいね」

「お陰さまで」

 

あっちでは着られる服も大して多くなかった。まあ、家庭の事情が強かったけど。そこにいた頃でも別にそれらしい格好を求め

たこともなかった。わたしは多分その服を、見つめすぎていたんだと思う。

 

「えーっと、お二人はそういう感じなんですか?」

「違う。ね」

「ええ。全然違いますよ」

 

わたし達は二人して話しかけてきた店員に冷や水を浴びせた。こういう店員は間合いも読まずに踏み込んでくるものだ。仕事柄仕方ないんだろう。互いに服を選ぶことに、そういう意味を込める文化があったとは、潜入前の文化の教本の項には書いてなかったと思うけど。

 

わたしは『あんた』が手渡した翠色のゆったりとしたカーディガンを買った。コニーは弟妹のために桃色ブラウスと水色のロングスリーブを、サシャは栗のような茶色の上着に溶かれた黄身のような柔らかい黄色のロングスカートの入った袋を提げて、店を出た。

 

「あの、そろそろお昼にしませんか」

「服を見ながら腹を空かせられるのかよ。すごいなあお前は」

「えへへ」

「褒めてねーぞ、言っとくが」

「もしかしてサシャが選んだ服の色合いは……」

 

この季節で採れるものを連想させる二つだった。

 

「この季節なら、まさしく芋が合う時期なんじゃない?」

「私達が常食してる芋に、そんな旬ありましたっけ?」

「……何でもない」

 

ためしにカマを掛けたけど、品種の改良も満足に進んでないみたいだ。本来慌てるであろう状況でも、大方この三人ならわたしがまたとぼけていると判断するだろう。

 

『あんた』はまた日誌を開いて、わたし達を喫茶に連れていった。

 

ーーーーーー

 

「ああ、やっぱり肉はありませんかぁ……今からでも───」

「今からどこ行くつもりなんだよ」

 

すでに禁猟の時期に入っている。サシャが知らないはずがない。『あんた』は席を立とうとしたサシャの首ねっこを捕まえている。すでに注文を終えて届くのを待っているのにどこへ行こうというのか。明らかにもよおした時の動作じゃ無かったし。

 

訓練兵団での日々も2年目を迎えて約7か月。兵士達はそわそわし始めている。卒業試験まで、あと5か月の所まで迫ってきているからだ。約2年も経過すれば、兵士もそれなりに実力が付くからなのか、訓練中の事故死も極端に減る。けどその年数は、自分の能力が頭打ちになる瞬間を実感する時期でもある。最終試験での結果が憲兵いきになるかどうかを左右するからか、いまの段階で自分の非力を嘆く人も出てきている。中位くらいの兵士達に特に多い。脱落も出来ず、かといって上位陣に打ち克つことも出来ない。・・・わたしも”あっち”で散々見てきた光景だ。サシャはかなり動ける部類だけど、もしかするとこの芋女の奇行も、そのストレスから触発されたものなのかも。

 

(……?今、何か……)

 

わたしは今、何か違和感を覚えた。今年は848年の筈。試験が激化するのはもう少し後のような……。

 

「隔週ごとに試験があるからか、かなり参ってるな、サシャも」

「あんたもそう思う?」

「めんどくさがり屋の君からすれば、かなり堪えるだろ。立体機動での監督役も人数を増やされたし、筆記の時は密室でサボりようが無いからな。もう手を抜けるのは格闘訓練の時だけだろう、もはや」

「その時間も『あんた』とどこぞの死に急ぎ野郎のせいでサボれないけどね」

「とはいえ、勉強の内容が劇的に増えた訳じゃない。試験の内容には1,2年目の時の範囲も混ぜこまれてる。終わり際に最重要な情報を大量に出しても、卒業後に戸惑うだけだからかな。この二人もガス欠を起こすことが減ったし」

「頭の方ね」

 

ミカサや他二人に、わたしにはさすがに及ばないにしても、最終試験で『あんた』はそれなりの脅威になるかもね。実力が近い人なら、エレンやジャン、マルコあたりか。

 

「お前が試験の話するから、ますます疲れてきちゃったぜ。まだ午後2時なのによー」

「ああ、ごめん」

「疲れた頭に効く甘いものを頼んだのはこのためなんだぜ?お、来た来た」

 

運ばれてきたのは、栗と、柘榴の入ったパイだ。それと人数分の葡萄のジュース。ここでは満腹を目指すならこの品が最適らしい。それに安いし。切り分けられた一切れを口に運ぶ。まだ熱い。

なんというか、原始的だ。訓練地でも他の場所でもそうだけど、ここでの食事はそれこそ、丸一世紀は後退したかのような味だ。果物、野菜、その素材そのものから甘味を受け入れる。じっさい、採れる甘味はせいぜいそのくらいだ。砂糖は塩以上の高級食材で、貴族が贅沢に紅茶に投げ入れるくらいしか使い道も、入手手段も無い。その点はわたしが居た場所よりも過酷か。でも、彼らはその味に慣れているところが、わたしと違うところ。

 

「うまいな」

「ああ。美味しい」

「やっぱり肉……」

 

食べるためにと頭が働くからか、言葉数がわたしくらいに減る。サシャは果肉の食感で肉を思い出しているみたいだね。いつも通りの重症だ。

 

「さて」

 

『あんた』はおもむろにポケットから封筒と、便箋を取り出した。コニーはパイを口に含んだまま、『あんた』に訊く。

 

「手紙書くのか?」

「ああ。地元の生き残りの駐屯兵宛てに。今日のことを」

「ふーん……。なあ、便箋余ってるなら、俺にもくれねえか?」

「書くのか?」

「おう。母ちゃん宛てに」

「どこぞの坊ちゃんもそれくらい素直に書ければいいのにな」

「ジャン坊……プププ」

 

サシャも『あんた』から一枚貰って、意外にも小気味よく筆を走らせた。ただ、その内容がどうしても目に付いて、わたしは思わず口を開いていた。

 

「あんた、結構古い文体を使うんだね」

「へ?」

 

サシャは間抜けな声で返事する。

 

「これ、そんなに古いんですか?」

「えっと、今時そんな文体を使う人は、そんなにいないというか」

「少し、見せてくれるか?」

『あんた』も加わり、手紙の中身を覗いてみる。コニーも無断で覗いてる。

 

「これは……確かにかなり古いというより、階級が違う書き方だな。それも、主に貴族の間でしか使われないような、すごく……回りくどい言い回しだ」

「あんた、こんなのどこで知ったの?」

 

わたしはサシャに尋ねると、彼女は萎んだ花のようにうなだれる。コニーが背中をさすっている。

 

「うう……せっかく一生懸命勉強したのに……」

「お前なりに頑張ったんだなーヨシヨシ。んで、どんな勉強したんだ?」

「手紙の書き方ですよー。折角だから本屋にまで行って立ち読みして帰ったんですから」

「立ち読み……よほど変な箇所を覚えて帰ったみたいだね」

「凄い記憶力だ」

「前書きとか難しくて分かんねーから適当でいいんだよ適当で。俺は天才なりにいろいろ書いてんだぜ、ホラ」

「コニー。あなたのしっちゃかめっちゃかで日記みたいな文に言われたくありませんよ」

「んなっ折角援護したのに!?」

「……多分、いいとこ見せたかったんじゃないかな、お父さんに」

「どういうこと?」

「サシャは田舎からここまで来たんだ。こっちの言葉も覚えて。彼女の前書きは確かに古かった。でも、今日いきなり手紙を書こうとしたんだ。私は責めないよ」

「親を感心させたいのは分かったけどよぉ、こっちの言葉って──」

「とにかく、だ。初めてなんだから格好が付かないのは当たり前だ。だからアニ、君も書くんだ」

「……って、なんでわたしが」

「一番しっかり者の君こそが、適任だと思うんだけどね」

 

出たよ。もったい付けて喋るその態度。初めてわたしに格闘術の手ほどきを請うた時と同じ。……そういうところは鼻に付く。でも、今日はあの二人から逃れられてる。そういういけ好かない態度にノる猶予くらいは、ある。『あんた』と初めて出会った時も、そんな猶予が不思議とあった。それに免じて、ここは逃げないでおいてやる。

 

「いいよ。乗った」

「よし、それじゃあ宛名の書き方から」

「そのあたりは知ってるから。……バカにしてる?」

「コニーには私から教えたからね」

「一緒にされたら困る」

「なんか……今日厄日ってやつか、俺?」

「それで、書く相手は決まってるのか?」

「父さんに」

 

わたしは、なんてバカな答えをしたんだろう。そこは適当に文字数が稼げそうな人を選んで、適当に書いて、適当に笑われて、適当に流せば良かったのに。逃げない、なんてかっこ付けたらすぐこれだ。あの父親に、書くことなんて無いのに。『あんた』から借り受けた万年筆を手に、ひとまず宛名を書いてみる。

 

「よぅし、俺はもう出来たぜ!」

 

一行でも書こうとすると、目元のくまが疼く。流石にいつもの表情を崩していないことは分かってる。でも、これまでで多分、一番怖がってたと思う。こいつ等にバレようはずがないのに。自分の正体が、見透かされるかもしれないと。

 

こうしている間にも、コニーの手紙を読んだサシャの顔からは火が出ていた。店の中だから多少遠慮はしてるけど、今にも掴み掛かりそうだ。コニー、さてはあだ名のことを書いたね。

 

 

「不慣れな人に好きでもないことやらせて、『あんた』も随分趣味が良いね。あのそばかすに似てきたんじゃない?」

「悪意に基づくか、善意に基づくか、その違いだね。勿論私は後者だ」

「結果は同じでしょ」

「ぜんぜん。それに……私はこういうことを、悪いとは思っていない」

「……はあ?」

「私が手紙を書く理由だが、自分が元気であると伝えるためだ。もしかするとわたしは、手紙の送り先からすれば、気の利く普通の兵士に見えるかもしれないし、もしかするとおべっか使って取り入ろうとしてる訓練兵に見えるのかもしれない」

「……」

「でもそれはすべて、私のためだ」

「あんたの目的は確か……」

「鎧の巨人を殺すこと、だ」

「そう。壁の外に行くことじゃないの?」

「確かに、エレンのように巨人を根絶することも、アルミンのように外の世界を冒険することも、考えなくも無いんだけど……どうもそれは、副次的なことにしか感じられなくてね」

「その先のことを考えられないことは、なんとなくわたしにも分かる。だけど、少しは考えてみてもいいんじゃないの?」

「君の教えを乞うのも、学ぶことも全て、私から全てを奪ったアイツに、叩き付けるためだからな。それが終わってから考えるさ」

「……まあ、憲兵になったら、協力してあげないこともない……かな」

「本当か?『ごめんだね』、って君なら言うと思ってたけど」

「……わたしもそれなりに、アイツに借りがあるからね」

「ふうん。頼もしいことこの上ないな。師匠は」

「その呼び方止めて、って言ったよね?」

「2人だけなんだからバレやしないさ。そろそろ戻ってきそうだけど」

 

同じ装飾の4つの封筒を手に、わたし達は店を出て、ぞろぞろ郵便局まで歩いていった。

 

マメに書いてる『あんた』はもしかすると、感づいたかもしれない。その宛先が、この壁の中の住所のどこにも行き着かないことに。投函された後にサシャは書き直したいところがあると言い出して、事務員を困らせていた。

 

まだ午後3時くらいだ。帰るにしては少し早いとも言えるが、バカ二人はどこへともなく去っていった。わたしは訊いた。

 

「これでもう、用事は終わり?」

「いや、もう一件ある。この近くにクリスタが手伝ってる診療所がある。多分今日も彼女はいると思うから、少しその手伝いをしてから帰ろうと思う」

「そう。……ねえ、私も付いて行っていい?」

「え?ああ、いいよ。いや、良くないな。何か雑用をやらされるかもしれない。それに、あまり気の良い場所ではないし」

「入口で待ってればいいでしょ」

「私が言うのも何だが、ここからは私個人の用だし、フツーに帰ってもいいんだぞ?今日も少しくまが目立つし」

「……あの二人の前で手紙を書かされて、ただで帰れると思ってる?」

 

『あいつ』は心配そうな顔を崩さない。

 

「思っていない」

「明日からみっちりしごくから、お望み通り」

「望むところだ」

 

即答した癖にやっと顔が曇った。いい気味。

 

─2─

 

駐屯兵団の診療所。訓練地とトロスト区を挟んだ内地にあるそこを取り囲う町は、突出区より内側に位置する町にも関わらず、突出区に変わりないほど豊かだった。その理由は潤沢な水源。複数の河川とは別に清水の湧く泉があり、治療のための清潔な水を入手する手段の多さから診療所が建てられたという。やがてそこから草花でも生えるかのように、家々が建っていったって。ちなみに、その泉はわたし達の訓練地からでも見えるくらい大きい。山の上から見下ろせばだけど。その眺望の良さからいっとき、その泉を見下ろすためだけに山を登ってる兵士もいたけど、やがて飽きられたみたい。

 

ともかくその診療所は、訓練地にとても近い位置にあったんだ。お人好しのクリスタがそこで働くのは道理だったのかもね。あのそばかすは嫌がってたけど。

 

『あんた』が一足先に診療所に入っていって、『お人好し』の眩しい歓迎の言葉を聞いて、わたしも診療所の戸口に立ったとき、わたしはクリスタが最奥で介助する痩せ細った兵士を見た。その緩くたわんだ髪に、わたしによく似た形の鼻、気だるそうな垂れ目。なによりその女から発せられた声色は、わたしをすぐに凍りつかせた。

 

「ア……ニ……」

「そう、あの人がこの間話していたアニですよ!アニ!この人は──」

「知らない」

 

わたしはつい口走っていた。クリスタはわたしの語気に、あの距離から怯んだ。しまった。いつもの調子に戻さないと。

 

「ごめん、わたし帰るから」

 

わたしは歩き出す。

 

故郷の人々はわたしたちが失敗したと判断したのか、死んだと判断したのか、それとも見放したのかそのいずれであるかは不明だが、そんなことはどうでもいい。

 

【あの女】がいるということは、故郷の人々はわたし達に見限りかけている、催促している、ということだ。

 

早く、早く帰らないと。わたしの故郷に。

 

「帰る?どうやって?」

 

声が聞こえた。振り向くとあの女の顔が風船のようにぐにゃりと歪みながら膨らみ、『あんた』達を押し退け、圧し潰しながら診療所を埋め尽くす。人中を不細工に伸ばしながら、臭い口臭を漂わせてソレはまた尋ねた。舌すら満足に動かせずに。

 

「どうやって?」

 

わたしは走り出した。ストライドも呼吸もめちゃくちゃだ。視点が定まらない。わたしらしくない。何度も激しく足を地面に叩きつけているのに、一向に前に進まない。胸元を見下ろしたら着ていた服も履いていた靴も、『故郷』から旅立つ前の大きさにまで縮んでいた。前を向きたいのに、首があの汚ならしい顔に釘付けになって離れてくれない。

 

診療所を突き破ってなお膨らみ続けるその顔面が空気の行き場を失って、深海から無理やり引き上げられた生き物のように眼球や舌にまで空気が満ちて窩から飛び出し、いよいよ破裂しそうになったとき、

 

弾む肺の痛みを、わたしは強く感じ取った。故郷で走り込んでいた時と同じくらいの痛みを。さっきまで痛みなんて感じなかったのに。さっき?さっきっていつなんだ?今ここはいつから始まっていたんだ??

 

浮かび上がる疑問の数々は、一度強く目を閉じて開いたら、全て霧散した。

 

窓の木の格子が陽光を照り返していた。カレンダーを手に取れば、日付は壁外調査から数日後のそれだった。日の傾きからして遅刻ギリギリだとアニは悟ったが、アニにとって問題はそこではなかった。

 

「夢……だった」

 

いいや、正しくは夢じゃない。

 

クリスタと『あいつ』が通っている診療所の前を通りがかったんだ。それこそ、本当に偶然だった。普段なら気にも留めない、負傷した兵達の最後の砦。クリスタを手伝うから少し待ってほしいと、『彼』に頼まれた。仕方なく、わたしは静かに待とうとした。いつものように物憂げに。だが、『彼』が扉を開けたほんの一瞬の間に、ある患者の姿が目に入った。

 

その患者は酷くやせ衰え、頬はこけて、眠たげな瞼を静かに開閉させて、クリスタの読み聞かせる本を静聴している。問題はその様相の痛々しさではない。わたしは、彼女の顔に、見覚えがあった。それも決して深くもないが、気づかないほど無縁でもない、ある意味血を分かった人の顔だった。その段階ではまだ他人のそら似か見間違いの可能性を考慮していたが、クリスタが呼んだ彼女の名前で、わたしは心底うんざりした。その記憶は確かにある。

 

848年の非番の日に、4人で出掛けたことは事実だ。夢と寸分たがわない記憶だ。診療所で知った顔の女がいたことも合ってる。

 

でもその顔を知ったのは、3年目のときだ。

1年も期間が違う。確か4人で出掛けた時、『あいつ』が手紙を出した後にやったことは、冬の雪中行軍に備えるべく長期保存の効く食材を先に買うべく、わたしを連れていったことのはずだ。

 

思えば喫茶での話の内容も変だった。話の内容自体は3年目のモノなのに、わたしは疑問に思わなかった。あのとき、なにを喋ってたんだろう。そう。

 

夢の中では不思議にも、矛盾を感じること無く飲み込めてしまえるんだ、わたしは。

 

「……なんだってこんなときに、『あんた』が出てくるんだ」

 

我ながらめでたい頭だとアニは自嘲する。

声にならない呻きを上げて、アニは胃の辺りをさする。巨人の身体のお陰でとっくに痛みは引いて、数日後の今でも引きずってはいない。だが、夢の中ではためいたあのフードの持ち主が、まだ微睡む彼女の脳裏にぼんやりと浮かび上がる。その度に、『彼』に蹴られた箇所が痛んだような気がしてならない。ベッドの縁に足を跨がせると、越してきてから一度も引き出しから出してないはずの、翠色のカーディガンの袖の端が覗いていた。

 

(良い蹴りだったよ、まったく。訓練じゃ、一度も当てられたこと無かったくせに)

 

疲れが取れないのはそれだけが原因じゃないけど。足音をなるべく立てずに部屋の扉を閉じて、階段を下りると、ルームメイトと厄介者がこちらを覗いていた。

 

「アンタ、随分怖い表情だったから、起こさないであげたよ」

 

助かる。多少ずぼらな方がわたしの性に合ってる。まあ、そこの堅物にはあまり顔を合わせたくないけど。どこぞの死に急ぎ野郎と兵士気取りに似ていて、この生活の中で唯一の汚点だ。

 

(普通の人、か)

 

わたしを叱る刈り込みの男を尻目に、わたしは『あんた』の顔を思い浮かべる。

 

(死に急ぎ野郎と比べても、そこのマルロという男と比べても、『あんた』はわたしに近い人間だと思ってたけどね)

 

わたしはわたしの仕事をこなすだけだと、通達する上官のろくに剃っていない髭を眺める。今日も何事もなく終われば良いと、願いながら。

 

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