─1─
空に月は見えず、地には暗闇が立ち込めていた。今見えるのは、右手にぼうと浮かぶ橙色の光と、それが照らす周囲1メートルだけ。夜が訪れて数時間。軋む身体もよそに『私』は耳をそば立て続けている。
巨人はなんとなく人がいる位置を把握してやってくる。現れるなら足音なりで必ず合図を送るし、『私』ならそれに即座に対応できる。それは分かっているはずなのに、冷や汗が伝う度に身震いがしたくなる。
深い闇はあらぬ妄想を掻き立てる。深夜熱に浮かされたようにあれこれ考えてしまうように。
(もしかすると音も立てず忍び寄る奇行種がいるんじゃないのか。空飛ぶ奇行種がいるんじゃないのか。毛むくじゃらの猿がいたんだからおかしくはない)
だが今はこの耳を信じてやるしかないと、『私』は乾いた唇をこれまた乾いた舌で舐めて、やっと水分補給も忘れていたことを思い出す。
手探りで馬の脇に提がる水筒を取り出し蓋を開けたところで、『私』の耳は足音を拾った。その足音は硬くかつ軽く、きっと巨人では無いと確信した『私』は、急がず焦らずその正体を探るべく歩む。
やがて光が先に見え、そこに並ぶ黄色い房を見つけた。それに、ユミルとクリスタも。『私』は声を発する前に程よく口内をほぐしてからかかる。
「ナナバさん」
「うぅッ」
「『私』です。どうか落ち着いて下さい」
引き付けでも起こしたかのような声を出して振り向いたのは、やはりナナバだった。
「『新兵』、どうしてここに?」
「やはり壁の状態が気になって、西側から順繰りにこの辺りまで来ました。多分今は、真南の辺りかと」
「そうか。……ミケはどうなった?」
『私』が答える前に、ナナバの先にさらに蹄の音がした。遅れてポンパドゥールの先端が現れる。少しほつれていた。
「お前ら……壁に沿って来たのか?」
「ああ。だが穴は見ていない」
「は?」
「こっちはかなり西から壁沿いを迂回してきたんだけど、異常は無かった。こっちじゃないとすればゲルガー、そっちが見つけたんじゃないのか?」
「いいや……こっちも何も見ていない」
2人の顔色は悪く、瞬きの間隔も長い。10余人もこの場にいるのに、聞こえるのはチリチリと燃える松明の音だけだ。
リーネが口を開いた。
「見落とした可能性は?」
「ありえない。巨人が通れるほどの破壊跡だぞ?」
「もう一度調べるか?」
「いいや、情けないことに我々も相当疲弊している。これ以上の集中力は望めない。多分『彼』は私達よりさらに北寄りの西から来たと思うが……」
『私』は首を横に振った。振り終えた末に視界の端に何かを捉えた。その方を見れば、城跡が見え、そこから初めて、月明かりが戻ってきたことを知った。
ーーーー
「ほうほう、ミケ分隊長はブラウスと近隣の村民とともに、北のエルミハ区を目指して行った、と」
「以降の足取りについては、明日を待つしか無いでしょう。きっと、あの時のような無茶はしないと思います」
「ああ。そうだといいな」
塔の中程で起こされた火を囲い、兵士達は腰を下ろす。ヘニングは手を揉んで広げ、温もりに近付ける。
「一応外で薪を拾ってきたんだが、中にもしこたま置いてあったな」
「ご丁寧にも着火に必要な木屑まであるとはね」
「ここまで丁寧に物資を揃えてて……いやむしろ丁寧すぎるくらいだよ」
「ああ。とても堅気じゃなさそうだね」
「泊まることを前提にした物資の列挙に、しかもこの辺鄙な城を拠点に、か。どう考えても盗賊がここを根城にしてる」
「参ったね。この篝火も消化した跡があったから便乗させてもらっただけなんだけど、巨人以外にも警戒の対象が増えてしまった」
ゲルガーの声が聞こえないと思ったら、彼は無言で一つの瓶を、赤子を抱えるかのように丁寧に手にとって眺めている。そして一度ごくりと喉を鳴らす。
「ゲルガー、そりゃ酒かい?まさか今飲むつもり?」
「ばっ馬鹿言えこんな時に。せっかく『新兵』が持ってきた水もあるんだ。ここでへべれけになるわけにゃいかねえ」
「おや、代わりが無ければ呑んでたかのような言いぐさじゃないか」
「っるせぇ!」
ついさっきまでいつ巨人が闇から飛び出すかの極限状態に晒されていたからか、反動でゲルガーの語気はいつもよりなだらかになっていた。
「しかしまぁ、盗品によって夜を越せるたぁな」
「ああ。これじゃどっちが盗賊か分からないよ。……『新兵』、血色もいつもと違うし多分相当参ってると思うが、『君』が分隊長に伝えた情報について、私達も聞きたいんだけど、いいかい?」
「……昨日接触した女型の巨人について、ですが」
「なんだって!?」
ベルトルトが大きく足音を立てて立ち上がり、長身が生み出した影に誰もが驚いた。ライナーは座ったままベルトルトのズボンを鷲掴み引きずり下ろし、『彼』に早口で述べ立てる。
「いやな、コイツはいきなり女型の話をされて思わずビビっちまったんだ。まぁ俺達も兵団が女型に接触したことは、ここで初めて知ったんだ。むしろコイツが驚いたおかげで逆に落ち着いたというか、だから続けてくれ」
「そ、そうか。そうだった。巨人が現れたばっかりなのに、さらに刺激することを言ってごめん」
「何言ってるの。寧ろ君らは、『彼』を見習うべきじゃない?新兵で一日中駆けずり回って弱音一つ吐いてないんだから──」
「貌に出にくいだけで、『私』も怖がってますから止してください、リーネさん。……女型の巨人については、捕獲に成功はしました。これ以上憔悴を避けるためにも、今はこの情報だけで、明日団長に詳細を訊きましょう。……それよりも、近隣の村の避難状況を、いま一度整理しましょう。ダウパー村は無事として、残りの村は?」
『私』が火から顔を上げたところで、コニーはぽつりと呟いた。その言葉に、『私』は歯を食い縛り目を瞑る。
「俺の村は、壊滅した……巨人に踏み潰された後だった」
心なしか、火の勢いが弱まったかに感じられた。「そうか……そりゃあ……」とユミルが悼みの言葉を掛けようとしたら「でも誰も食われてねえ」とコニーは言うのだ。
「村は壊滅した、って言わなかったか?」
「家とかは壊されただけど村の人に被害は無かったんだ。もし食われてたら、血とか、痕跡があるだろ?そこには何もなかったんだ。ただ、それよりも気になることがあって、俺の家にいた巨人のことでよ。どうみても自力で動けない体なのに、俺の家で寝てやがった……そんで……そいつがなんだか、母ちゃんに似てたんだ」
コニーの目はいつの間にか見つめていた火から離れて泳ぎ始めている。
どう見たって普通じゃない。皆がそう思った。村人達が追われる過程で家を踏み潰したならまだ説明がつく。しかし動けない巨人がそのまま家にいるとは、一体どういうことなのか。立て続けに起こる異常に流石の『私』も滅入り始めていたが、コニーに付き添っていたライナーはわりかし落ち着いているようで、コニーを諌めようとする。
「コニー、お前はまだ───」
「ダッハハハハ!コニー!お前の母ちゃん巨人だったのかよ!そんでお前はチビなのかよオイ!辻褄合わねえじゃねぇか!!」
躊躇無く爆笑したのはユミルだった。こんな状況で良く笑える、と怒る者はいなかった。ただひたすら驚いていた。人を嘲笑うことはあっても、クリスタと笑い合うことはあっても、ただ単に笑う彼女を見た者は、この場に1人もいなかったからだった。
「お前バカだって知ってたけどこりゃあ逆に天才なんじゃねぇか!?なあ?アハハハ!!」
(アルミン発の仮説である女型の巨人の能力。巨人を集める能力。今回の壁の破壊にもそういう能力を持つ者の関与があったとは考えにくい。集めたにしては、あまりにまばらだ)
「じゃねぇとホラ、デきねぇだろ──」
「うっせークソ女!もう寝ろ!!」
─2─
緊張の糸が切れて少しが経過した。寝床として敷かれた一枚の薄い布。風で飛んでいってしまいそうで崩れた石壁から一つ拝借して重しにする。訓練兵時代、夜営で石が敷き詰められた場所を寝床にしたこともあるが、やはり寝床はそれなりに柔らかい場所じゃないと、『私』は満足に休めない。でもむしろ、今は眠りが浅くても良いのかもしれない。
『私』の同期達が眠るなか、交代の見張りの一番手を勝って出たのは『私』なのだから。人よりも長く戦える自信があるんだ。ぴったりじゃないか。
『彼』は切れ間から差す月光の下、無風の塔の頂で地平を眺めている。
「コニー……彼も故郷を奪われたのか」
屋上、単眼鏡を覗き込む『彼』の背後から足音がする。野盗のような忍び足。衣擦れも少ない軽装の者が1人。常人であれば簡単に寝首を掻かかれるだろう。
しかしそれも所詮相手が『彼』でなければ、の話だ。忍び寄る影に『彼』は前を向いたまま呼び掛ける。
「ユミル」
「ま、『アンタ』の耳を誤魔化せるわけないわな」
『彼』が振り向くと、四つん這いからすくっと立ち上がる痩躯の女性が1人いた。『彼』から口を開く。
「寝ていればいいだろ」
「アタシの体内時計じゃ、まだそんな時間じゃねえな」
「サボり魔が随分献身的だ。寝溜めでもすればいい」
「いいんだ。今は夜風に当たりたい気分だし、それに今上官達が下にいるからここはせいせいする」
「良い人たちだよ、先輩らは」
「あちこち引っ張りだこのアンタが馴れ馴れしすぎなんだよ。ぺーぺーのアタシ達の気持ちも少しは汲め」
「水汲みのパシりの要領でか?」
「うるせぇ」
ユミルに頭を小突かれる。握り拳から中指だけを少し盛り上げた鋭い一撃だ。
「それにアンタ、碌に食ってねえだろ。せっかく先輩達が温めた野戦糧食も受け取らずに、そそくさと上に上がりやがってさ」
そういうと彼女は野戦糧食を『彼』の単眼鏡の前に差し出す。『彼』はそれに噛みつき、単眼鏡から目を逸らさないまま、モゴモゴと咀嚼して飲み込む。
いつもと変わらない味だ。不味くは無いが、取り上げて旨くもない。旨ければすぐ底を尽くのだから当然だし、不味ければ有事に食うのを躊躇する。ドライだ。唇の水分まで吸い取られて、水が欲しくなる。
察してかユミルは革の水筒も『彼』の口に押し当てようとしたが、彼女の手元も見ずに『彼』は侮りを感じ取って笑いながらそれを引ったくった。水筒の下部を押して水をぶっかようとした意図を読まれたユミルは鼻を鳴らして、『彼』に訊いた。
「それで、アタシ達の疑いは晴れたのか?」
「そうなる。あの時、ユミルの言っていたことは正しかった」
「へえ、そんな簡単に信じてしまうのか?なんだか癪だな。あの時は相当な疑いの目を向けて来たのに」
「確証は無かった。第三者による証明がされた今、信じることが許されたんだ」
『彼』は頷いた。
「……そう考えるようになったのは、女型の中身が理由か」
「この世界の謎が少しだけ解けた、ということなんだろうな。団長やアルミンなら、この少ない情報ですぐ答えにたどり着くんだろう」
「今夜明けたら伝えに行けばいいだろ」
「そういやクリスタは見ておかなくていいのか?私は静観していただけだけど、君は今晩まで彼女を守ったんだから、今離れる理由がない」
「ライナーが見てるのさ。気持ち悪ぃが腕は確かだからな。弱音じゃねぇがアタシは少し疲れたんだ。装備ナシで巨人がいるともつかない南を走らされたんだ。だからこうして『アンタ』と喋ってる」
「『私』の話はさぞつまらないんだろう」
単眼鏡から目を離し、石壁に腕枕を作り顎を乗せる彼女を見る。ユミルの瞼は普段の半目からさらに垂れて、弛んでいる。
「ああ。まるで子守歌みてぇだ」
「なら、子守歌ついでに私の話を聞いてくれ」
『彼』はユミルに緑の外套を被せる。彼女は拒絶しなかった。
「『私』は、外の世界のことなんて、どうでも良かった。『なんて』なんて言葉は使ったが、嫌いって訳じゃない。本当に、純粋に興味が無かった。壁の中で産まれて、壁の中で生きて、壁の中で働いて、壁の中で死ぬ。ずっとそう思っていた。町を往く人達も、彼らの人生に宿る葛藤や遍歴の数々にも、興味は無かった。彼らにそんなものがあるだなんて思ってもみなかったんだよ。これからの自分の道筋も、未来のことも、まだ考える必要が無い歳だと、思っていたんだ。……5年前、アイツが全てを壊すまでは」
ユミルの視線を感じる。眠たげながらも、しっかりとこちらを見ているのがわかる。
「異形の巨人を倒したときも、勝ったその瞬間は喜んだよ。『鎧の巨人にも勝てるかもしれない』、って。……冷静に考えれば分かる。アイツはあんなものじゃない。断言できる。勝てる可能性を持ったモノも王に没収された。……女型の巨人を下した今でも、また未知のものを敵が寄越せば、『私』達の勝機なんて容易く揺らぐんだろう。女型にその意趣返しをしただけで、未知をぶつけることの強さを痛感させられた。そして、またこうして『知らない』という状況だけが、折り重なっていく」
石壁に両腕を並べ、頬を寝かせるユミルは、最後まで黙って見つめ、『彼』の言葉を聞いていた。
「それで、何が言いたい?」
「君と交わした約束がすぐに果たされてほしい、と思っただけだ。全く、卒業試験の直前にあんな謎を持たされた『私』の身にもなってほしいものだよ」
「残念ながらそりゃまだ無理そうだ。アンタはまだクリスタを守んなきゃならねえ」
「……鎧の巨人を倒すのが先になりそうだ」
「ま、夜が明ければトーマさんが増援を連れて山狩りでもやるだろうさ。アンタも早く先輩に交代してもらえ。顔色悪ぃぞ」
ユミルは『私』の肩に乗っている見えない埃を叩いて払い、外套を返して螺旋階段を降りようと『私』に背を向けた。『私』は森が立てた音に単眼鏡を向け、今この時間ではあり得ない存在を言葉にした。
「……巨人だ」
「あんだって?」
ユミルが振り向くよりも先に『私』は階段を駆け降りていた。そして微睡む兵たちに向かって容赦なく叫んだ。
「総員屋上へ!!!」
─3─
「なんでだよ!なんでまだ動いてんだ!?日が落ちて相当経ってるのに!?」
「どうなっているの……」
「オイなんだよアレ!?でけぇ……」
「アイツは!」
屋上で口々に異状に吠える中で、『私』は奇行種を気取るソイツへの怒りで壁を握り締める。
「ミケ分隊長に傷を負わせた、【獣の巨人】だ!」
「なに!?」
「すっとぼけているけど、中に人がいるタイプです」
「じゃあ女型と同じか!ヤツも仕留めねぇと───」
塔が大きく揺れた。15メートル級が体当たりを仕掛け、塔が僅かに湾曲する。湾曲した拍子に、地上の扉を屋上から覗き込めた。すでに小型が数体扉にいたずらをしている。
「オイオイ何入ってきてんだよ!ふざけんじゃねぇぞ!」
「ゲルガー───」
「酒も飲めねぇじゃねぇか俺はてめぇらのためによお!!」
「新兵達は下がっているんだよ!」
怖気は無かった。ゲルガーの怒声一つで全員が我に返る。
「でも、『君』には戦ってもらう。ここからは、立体機動装置の出番だ」
ナナバは徐に抜刀し、刀身を月明かりに照らす。『私』は頷いて塔の端に手を掛けて、全員が一斉に飛び出した。
「捕まるかよ!このウスノロがぁ!」
先陣を切ったゲルガーは伸びる手を怒りに任せ叩き切る。未だ目を反らさないその巨人の隙をついてナナバが討ち取った。豊満な腹を持った巨人は横に倒れ込み、地上の小型巨人を押し潰す。
中には大型巨人から這い出ようと踠く者もいたが、リーネと『私』で討ち取っていく。
地上に降りたついでに『私』は塔の周りの小型巨人をくまなく散らしていく。ひとしきり切り終えたところで、壊されかけていた扉の前へと戻ろうとした。しかし、屋上から不吉な報告が上がる。
「地上の扉を破られた!バリケードを作って防いで!」
(もう既に入られているかもしれない。行かないと!)
『私』は塔の中へ入り、地上から階段を駆け上がる。2階に差しかかったところで木材が壊れる音がして、目を凝らせば闇の中1体の巨人が歩いていた。牛歩だがその頭は明確により多く人のいる場所を目指していた。その狙いに便乗し即座に討ち取った。
(1体とは限らないだろう。早く行きたいけど、また入られるかもしれない)
壊れた扉を戻し、簡素な石で敷き詰め突っ張り棒も仕掛けてから進むと、1人の男を呼ぶ悲痛な声がした。
「ライナー!!」
『私』は懸念もかなぐり捨てて走り出す。3階に脅威は無く4階へ。明かりが漏れているのが見えた。巨人を倒して壊れた扉を跨いだら、右腕から血を流すライナーがいた。
「ライナー!」
「『お前』!」
「入り口から巨人を追ってきたんだ!もう襲われてたなんて!」
仲間に取り囲まれていたライナーを尻目に、『私』は大砲の下敷きになった巨人のうなじを切り取って、上階から石なり集めさせて山を作った。
5階まで『私』達は後退し、扉を塞いでありったけの突っ張り棒を水平に並べる。塞ぐまでの間『私』は構えを解かなかったが、巨人は登って来なかった。『私』は窓から身を乗り出して、外を覗いていた。
「ごめん。『私』がもう少し早く着いていれば」
「いや、兵士として当然のことをしたんだ。こうなることも覚悟してる」
「『腕を食われてくれ』なんて頼んでない。君はもっと、無謀な行動はやめた方がいい。せっかく『私』達がいるんだから」
「『お前』、あんまりライナーのことは悪く言わないでやってくれ。こうなったのら俺のせいだし」
コニーが『私』の背中に呼び掛けた。天才はいつもの快活さを失っていた。
「俺……お前に助けられてばっかりだよな。そういやアニの時も。いつか借りを返さねぇと……」
「だから、普通のことだろ。兵士なんだからよ……」
「……初めて立体機動をやった時も、『私』を助けた時も同じ心構えだったよね?」
「ああ。……思い出すな」
「なにを?」
「トロスト区防衛戦の時だ。エレンが死んだってアルミンから聞かされた後、『お前』はかなり危なっかしかったもんな。確かあの時、俺は『自分の命を大事にしろ』とか言ってたか」
「……ベルトルト。ライナーは昔からこうなのか?」
無尽蔵に博愛を持つこの気性。『私』が目標にしているこの男には、到底並び立てそうにない。ベルトルトは冷静に答える。
「いいや。昔のライナーは、戦士だったよ」
「何だよそりゃ?戦士って何のことだよ?お前も哲学に目覚めたのか、ベルトルト?」
「ここは僕達に任せて、『君』は上官達の援護に行ってくれ」
とぼけるライナーに目もくれず、ベルトルトは『私』に促した。『私』は二つ返事で窓から飛び降りる。
巨人の数はおよそ半分まで数を減らし、残り10体。特に大型の個体を集中して片付けていたのか、残すは中型から小型のものばかりだ。
「おう『新兵』、戻ってきたか。塔の内部はどうなった?」
「バリケードの構築は完了しました。負傷1名いますが軽傷です」
「そうか。こっちはなんとか片付きそうだ。だが、今手に入れた情報は必ず伝えに行かねえといけなくなった」
「獣の巨人……」
「それだけじゃない。月の下で蠢く巨人なんて……トーマの早馬だけじゃどう考えても情報が足りなくなった。今すぐ応援を呼ぶ必要がある。2人ほど、馬で北に向かってほしい」
「俺達が行こう。夜にも動く奴らがいるなら、非武装の新兵達ではなす術が無い。その代わり、『新兵』が持ってきた物資は、お前達2人が全部使ってくれ!」
「わかった。残り数体まで片付いたら、頼むぞ。リーネ、ヘニング」
「『私』は獣を追います。奴を断てば、これ以上巨人は出現しない筈です」
「ああ。頼む。私達も安全を確保し次第、『君』の援護に向かおう。……女型と同等かそれ以上かもしれないが、君にならきっと……」
後の方針を決めた後は早かった。リヴァイ班に次ぐ精鋭の一角だからこそか、20分もしないうちに巨人の数は残り3体まで減少した。
(数が減ってきた。今なら追える)
「情報伝達に向かう!」
「頼むぜ!」
「『私』も行きます!」
「ああ!気をつけて!」
─4─
獣の巨人が向かった南の壁面を目指して、『私』は馬を駆る。戦いが始まってから月は出っぱなしで、『私』はそれにかこつけて松明も点けず懸命に走る。衝突する森をまっすぐ突っ切ろうとしたとき、先に何かが見えた。これまた信じがたい何かが。
「あれは……」
人間だ。人間がこんなところに仰向けに横たわっていたのだ。日の落ちた森の真ん中で。しかも『彼』にはその顔に覚えがあった。同期の一人が、よく見せてくれていたあの肖像画にそっくりだった。『彼』は馬から下りその者の顔を数度叩いた。
「スプリンガーさん!しっかり!!」
ぽっかりと空いた樹冠の下、そこに仰向けで横たわるスプリンガー氏は、『彼』の言葉に一切反応を見せず、弛緩させた口元からよだれを垂らし、笑顔ともとれない皺を浮かべた目を、真っ直ぐ空へと向けていた。
『彼』は持ち上げようとするも、仰向けの状態からスプリンガー氏は微動だにしない。
さらに力を加えるべく背中にまで及んだ『彼』の手は、硬い何かを感知した。身体をひっくり返そうとするも、その何かが引っ掛かり出来ない。下を覗き込んだ『彼』は思わず呼吸を忘れた。
スプリンガーさんの背中から、白い骨のようなものが地面に垂直に延びている。背骨の辺りに渡って数本、それが地面に楔のように突き刺さっていたのだ。
「なんだ……なんなんだこれは……」
どれほど地中に延びているのかも分からないそれは、完全にスプリンガー氏をその場に固定させていた。巨人達がなぜスプリンガー氏を狙わなかったのか、『彼』にはうすうす合点がいっていた。こんな状態であれば、すでに死んでいるに違いない、と。
それでもなお人並みの体温を残しているその遺体に『彼』は思わず身震いしたが、顔を上げて目標を本来のモノへと正した。『彼』は南へ再び馬を走らせる。獣の巨人に向けて。
(コニーに伝えるべきか?いや、どうやって伝える?あんなおぞましい姿を、本当に教えてしまっていいのか?拍動は辛うじて聞こえたけど、『私』の耳でもやっとだ。生きているのか……それとも……)
マルコを喪ったとき、『彼』はジャンが自暴自棄になったと判断して、新兵勧誘式で進路に間違いが起こらないために言葉を尽くした。しかし今度はどうだろう。真実を伝えることが、果たして真に正しいと言えるのだろうか。
(ユミルが折角誤魔化したのに、『私』がまた地獄に突き落としてどうする?)
首を左右に振り、『彼』は抜け出した森からすぐ壁を視認できた。さらに、壁の頂上に立つ猩々を。
ヤツによって音を立てて壁の一部がもぎ取られた。追う者などいないと確信してか、その獣の巨人はおもむろに巨岩を肩に乗せ、弓をつがえるように力を溜めていく。
ウトガルド城に向かって岩を投げつけようとしている。
「頼む、届いてくれ……!」
視界は最悪だ。それでも月光下で視認がわりかし可能な黄色い煙弾を『彼』は打ち上げて、双刃を抜き去る。既にアンカーは壁に突き立っている。
標的のうなじまで約50メートル。妨害一つ無ければ6秒で昇れるが、それよりも早く岩の装填は終わろうとしている。『彼』は柄の撃鉄に親指を掛け、両手を振りかぶる。そして、振り下ろすと同時に刃を柄から放した。遠心力で激しく縦に回転する2つの刃は、毛深い獣の脇を通過し、血を滴らせた。
投擲を止めるほどの力は無かったものの、そのほんの僅かの傷ががズレを呼び、獣の放った投擲は城に届かず、城の手前の城壁に着弾した。
獣は白目の無い瞳をじろりとこちらに向ける。既に壁上の上空まで飛び出し構える『彼』に向かって徐に口を開いて、獣は吠えた。
女型の数倍の威力を持つ、防御不能な音の衝撃波。巨人の比率でも遥かに大きな咆哮は、刃を交差して守る『彼』の鼓膜を容易に突き破り、『彼』を壁上に叩き落とす。皮膚を引き剥がさんばかりの振動を巻き起こす。
その咆哮を皮切りに、森林が『彼』の距離からでも視認できるくらい激しく揺れる。
そして、一つの雷鳴が轟いたらしい。『彼』は眩く光る視界から判断する。
森の空いた樹冠の下から、何かが起き上がる。その巨人は体表を月光に反射させながら、非常に重厚で、人間の歩みよりも遥かに遅い足取りで、ウトガルド城に向かい始めた。
その巨人の姿に、立ち上がった『彼』は頭を掻きむしり、口元を覆わずにはいられなかった。
「そんな……あれは……あり得ない……なんで奴がこんなところに……しかもなんであの場所から……」
姿は【あのとき】と少し異なっていた。しかし通ずるのは顔だけではなく背中の辺りにまで及んだ、鏡面のように滑らかで白い表皮。その巨人の姿は紛れもない。1ヶ月前に調査兵団が確かに討伐したはずの。
「スプリンガーさんが寝ていた位置から現れたんだ……?」
【異形の鎧の巨人】だった。
獣の巨人は悠々と壁を下りていく。壁面の突き出た柱に爪を食い込ませて。『彼』はそれを見逃すしか無かった。獣の巨人が下りたのは南側。それより先は巨人の領域だったからだ。
「ダメだ。これ以上は追えない。追ってる場合じゃなくなった」
その独り言も、どれくらいの音量かも『彼』にはもう分からなかった。顎の動きからそう発言したと判断するしかなかった。『彼』の両耳の鼓膜は完全に破られ、血がドクドクと流れ出ていた。腕を少し動かすだけでカチカチと鳴る刃の付け根も、僅かな衣擦れも全くの無音だ。平衡も失い、『彼』は接地から辛うじて壁の上でおぼつく足で踏ん張って見せる。『彼』に限らず人は無意識に音を頼りに日々生きている。その一つが、完全に不能になったのだ。
しかし不能とあれど、立ち止まる暇は無い。無音の世界の中で、『彼』は壁を飛び下りた。城の人々を救うために。