─1─
「コニー!もっと速く!」
「これ以上速く走れるかよ!」
アルミンに急かされても、コニーは手綱を振るえない。
水晶とエレンを乗せた荷馬車は、積載量の限界ギリギリだった。護衛のため乗っている『私』には、同乗するミカサが口惜しそうに折れた刃を握っているのが見える。
元々荷馬車は巨人を引き離せる速度を出せるものじゃない。だがそれを加味しても、『私』達を追ってくる巨人達は、明らかに常軌を逸した速度を出していた。それに、群れの中には、鎧を持たない【異形の巨人】の姿も幾つか紛れている。
周囲の兵士達は見る影もない。今も『私』達の目の届かない場所で戦っているはず。
耳が拾う砲撃の音はまばらで小さい。恐らく砲手も白兵戦に駆り出されるほどに壁の近辺はまだ過酷なのだろう。ライナーを追うべく壁を乗り越えた時には、波状の地雷原は第4波まで突破されていたのが見えた。
人による増援も無い。こちらに向かってくる馬の蹄鉄の音も、駆動音も、『私』の耳を以てしても一つも拾えていない。
まるで『私』達だけが、この広大な草原に取り残されてしまったみたいだった。
【助けは来ない。このままでは追い付かれる】
足止めを誰かがやらなくちゃいけない。でも、助けも望めない今そうすれば、どうなるかは目に見えている。
(また、繰り返すのか?
リヴァイ班の時も、ゲルガーさん達の時も……。……選ばなくてはならない)
浮かんできた選択肢に、『私』の心臓は早鐘を打ちながら詰問する。
(その選択をすれば、鎧の巨人を殺す好機は、もう二度と来ないんだぞ?)
侵入する思考を振り払って、『私』は懐から日誌と空っぽになった巾着袋を取り出し、エレンを起こさないよう、静かに彼の手元に置いた。【異形の刃】は、取り外す暇が無さそうだ。自問は警鐘を鳴らす。幾重も潜った死線が悟らせる。
(いいのか?本当にそれを選ぶつもりか?)
「待って、何するつもり?」
ミカサが『私』の手を掴んだ。やはり、予感するものは通じているみたいだ。思考だけなら、幾らでも並び立てるというのに、なんと煩わしい身体なのだろう。
(誰にも引き受けさせはしない)
「来たんだよ。『私』の番が」
車輪はけたたましく音を立てている。遠くで沢の涼やかな音が聞こえる。今どこかで、鳥が鳴いた。吹き付ける風は跳んでいる時より穏やかで、射す落日はいつもと何一つ変わらない。こんな時になってまで、『私』は一流の同期達のことを追想せずにはいられない。かつて、その中にいた三人の裏切り者のことも。
頭の中では分かっていた。道を切り開けるのはきっと彼らだけ。ただヒトと巨人と、その二つだけが、この世界の命運を決めようとしている。自分は、その中にはいない、と。自分の手が届かない対岸に、彼らは立っている。
(彼らのようになど、なれはしなかった)
『私』が黙っていた時間は、それほど長くなかった。答えはとうに得ている。ミカサの手を振り払い、右腕に巻かれた包帯を解く。袖を失いまだ血も乾いていないが、鎧の巨人を倒す一助となった名誉の負傷を抱える右腕に、そよ風の激痛を浴びせながら力を込める。戦え、戦え、と。
(構わないさ。させるものか。
この仲間達だけは、皆だけは守らなくては。なぜなら彼らは……)
彼らのためと思えば、この身体からは何度も力と勇気が湧いてくる。
「君達には、言いたいことが沢山ある。今だってそうだ。幾つも幾つも、言葉が湯水のように湧いてくる。……でも……」
(誰も信じられなかった『私』を、信じてくれたんだから)
「もう、時間がないんだ。ここまで、『私』を連れてきてくれてありがとう。君達はきっと、外の世界を見に行ける。いいや、見に行って来てくれ。そうしないといけない。『私』は……。ユミルには悪いが…だけど……だから……」
彼らに笑顔を向ける。いつものようにうまく笑えたか、確証は無い。顔の筋肉は引きつっていたし、目尻の辺りが少し熱い。もう一度彼らに、穏やかに語り掛けたかった。これまで、走らせる万年筆がつかえることは無かった。でも声は、どうしても拙くて怯える弱い『私』を浮かび上がらせてしまう。
(もう、間違えない。この力は、誰かを殺すためじゃない。誰かを守るために使うんだ。もう誰にも奪わせはしない。だって彼らは……『私』の…………)
ガスも刃も残っているのは、この中で『私』だけだった。『私』の背中を押し続けた数多の仲間達の顔が浮かび上がってくる。立ち上がり、巨人の方へ向き直り、剣を引き抜く。刃の音に気付いてか、皆の視線を背中に感じる。
(『私』にとっての英雄であり、)
幾度も抱えてきた殺意を、迫り来る巨人達を阻む壁を築くかのように、ここで今新たに全開にして敵に向ける。もう我を忘れたりなんかしない。この力をどこへ、どう向けるかはエレンとミカサが教えてくれた。
もう分かっているはずだ。自分の番が回ってきた今、何をするべきか。
(『私』の最後の、希望なのだから)
「ありがとう!みんな!」
振り向かず叫んで、『私』は空へ翔び出した。近くの木にアンカーを刺し、勢いをつけて即座に巨人の一体の背後に回る。
そして、一体、殺した。
唖然とするみんなと視線が合った。『私』の名を叫ぶ誰かの声が聞こえた。誰の声か分かったけど、『私』は聞こえないふりをして、次の標的を斬り倒す。
きっと気のせいなんだ。これまでの激しい戦いで、誰かの表情を眺めるような悠長さなんて無かったんだ。だから……。
彼らが絶望の色を浮かべたように見えたのもきっと、嘘のはずなんだ。その叫びが痛みを抱えていたことも、きっと『私』の気のせいなんだ。
─2─
何十もの巨人の死体から立ち上る狼煙は一つとなり、小規模な濃霧を発生させていた。今は晴れた夕方のはずなのに雨中のように視界が悪く、寒く、差す朱色の光も消え去っていて薄暗い。その戦禍の只中に、『私』はいる。
一体、どれほどの数の巨人を倒しただろうか。もう、とっくにオルオさんの討伐数くらいは超えているだろうか。いや、もはやそんなことは考えなくていい。ただうなじを削ぎ、次もまたうなじを削ぐだけだ。彼らが生きて帰れるように、『 私 』がこの身命を賭して、彼らを守るんだ。
馬もアニを運ぶために繋いだ。逃げられない。
補給も無い。物資も無い。仲間もいない。最強の兵士や知性を持つ巨人という後ろ盾も、何も。私を見届ける人も、誰もいない。
ふと思った。
……この戦いに、意味なんて無いのかもしれない、と。
そんな筈はない。追い詰められた『 私 に出来たことは、誰かがやらなくちゃいけなかったこと。誰かが残るしか。
だがそれは、結局誰にもわからなかった。兵長だって言っていた。自分の選択が正しかったのかなんて、答えはきっと永遠に分からないのだろう。
それなのに、なぜか 私 は今この状況を「良かった」とさえ思っている。
……誰かも、そう思っていたのだろうか。
大昔に数多く死んでいった、私の知らない先輩達。そして、私の知らない、これから未来で兵士になり、やがて戦地に立つ者達も、そう、思っていくのだろうか。
「くっ!」
やけに巨人どもの動きが器用だ。この感覚は知っている。まるで、知性を持つ巨人を相手にしているかのようなやりにくさ。先に切り倒した群れは、ワイヤーを狙ったり、飛んだ先の私を狙ったり、こんな動きはしなかった。
やりにくさは、長らく戦い続けた私の動きを綻ばせる。
「くそ!」
巨人にワイヤーを掴まれそうになり、急いで自分の手でワイヤーを引っ張り、アンカーを抜いたのがいけなかった。バランスを崩し、手を擦りむいて、地面に落ちた。
気が付いたら、ブレードもすっかり破損していた。残されたのは【異形の刃】だけ。ガスももう底を尽きてしまった。ただ視界の端を囲う深い青色は、ここぞとこびりついて離れない。
もう、戦えない。
だが、不思議と咎めはしなかった。散々、仲間達を見殺しにしてきた。罪だらけの体だが、ようやくこの体は動いてくれた。
これまでの足掻きに、意味を持たせてくれた。同期のみんなを、守れたという意味を。
巨人の手が、ゆっくりと迫ってくる。
ハンネスさん、ゲルガーさん、ナナバさん、リヴァイ班の皆、そして、数多くの顔ぶれが、そして、名前も知らない無数の兵士たちの最期の姿が、脳裏を駆け巡る。怨念が私の脳の皮質を掴んで引き剥がそうとする。
命で以て贖え、と。
「残酷な世界のくせに、随分と優しいじゃないか。私の命ひとつで済ませてくれるんだろう?これまで何人も見殺しにしてきた罪を……なあ、そうだろ。マルコ」
私が最初に見殺しにした、大切な仲間。呪いのように何度も夢に現れた彼を見るたびに、私の脳裏に、幾つも選択肢が浮かんできていた。もう叶わないと分かっていても、ああすれば良かった、こうすれば救えた、そう思わずにはいられなかった。
何度も、目を反らした。戦い続けるために。
自分が知らないところで死んでいった無数の仲間たち。その最期の幻覚を、私は見据える。今度は、目を離さない。視界は晴れ、端に映る青は消えていた。
私は喉が引き裂けんばかりに叫び、最も馴染み深い超硬質ブレードの柄を握る。半分に折れた右手のブレードを両手で掴んで、右の腰のあたりまで引き、腰を落とす。そして、飛び込んだ。巨人の手の中へ。
私は、最期まで戦い続けた。あの日誌も、彼なら役立ててくれる。そう信じよう。
あとは、彼らがこの先も、きっと生き延びられるように祈るだけだ。何も残せはしなかった。きっとすべてを投げ出したかったんだ。私のために死んでいった人たちの思いを、もうこれ以上背負いきれなかったんだ。父さんも、母さんのことでも。
もう耐えきれない。でも、きっと彼らなら繋いでくれる。
私がここにいたという証を。
私の身体に、冷たいも熱いも分からない、不思議な温度が巡るのを感じる。
何度も己の弱さを呪い、無能を呪い、不肖を呪った。苦味にも似た怒りと失望。抱き続けた宿痾の一切はこの刹那に全て消え去っていた。
そうか。これが。この湧いてくる安堵こそが。「悔いが無い」ってことだったんだ。