ジャン・キルシュタインは頭の後ろで腕を組み、石造りの天井を眺めている。いつぞやの『彼』が言っていた、旧本部での寝心地とやらの感覚を追体験するかのように。
彼らが壁にたどり着くまでにも障壁はあったものの、無事に外門を通り抜けられた。区内にも巨人は残存していたが、新兵達は装備を換装した後、日暮れが過ぎて少しに至る頃には全ての巨人を撃滅していた。
埃の払われたベッドに横たえた身体は沈み込んだ痕跡も無く、服にも折り目は付いていない。いつものように任務後の憔悴の果てに味わう、やるせない一方で甘美な夢路はジャンに訪れなかった。
あともう少し時間があれば、『彼』も共に壁までたどり着けていたかもしれない。その余念がジャンを眠りから遠ざけていた。きっと今眠れば、『彼』が骨の燃えカスの時と同じように自分を苛むだろう、と。
「休めたか?ジャン」
「……訊かなくても分かるだろ」
隣のベッドで尋ねるコニーに、ジャンは仏頂面で答える。寝起きと偽るために。そんなことをしなくてもジャンの視界の端には見えている。寝不足になるとすぐくまが現れるコニーの、目下に濃く浮かび上がる1本の縞を湛えた横顔が。
背を受け止めるマットレスもシーツも十分に管理が行き届いている。兵舎の設備を管轄する人達の、戦えない者達なりのひたむきさには頭が上がらない。だがしかし今日ばかりはその親切が煩わしてくて仕方ない。訓練兵の時に斜に構え嗤っていた、知り合う前の『彼』の献身を思い出してしまうから。まだ兵士のへの字も知らない無力だった頃の二人。もう無力は超克したはずだった。だが現実は何度も彼らに思い知らせる。
背中を受け止めるものが、柔らかさの余り追い出そうと反発しているように感じられて、ジャンはベッドから離れた。部屋の外へ向かおうとすると、続くコニーの足音が聞こえた。制止する気もせず、ジャンは追従を許した。
二人はどこへ向かう気も起こらなかったが、ひとまず少しでも息苦しさを取り払うために、外を目指す。
角を曲がったところで、ジャンは一人の少女を目撃する。
「サシャ……」
鉢合わせたジャンは、いつからかは知らないが廊下に立っていた彼女にぶっきらぼうに声をかけた。うつむいていたサシャは顔を上げず、一足先に歩きだす。足取りは重く遅かった。どこへ行く気にもならなかったが、ここにはいたくない。その意図は三者とも同じゆえに、三様に三人は一緒に歩く。
歩くなか三人に言葉は無かった。灯りも無しにさ迷うにはまだ暗いのもそうだが、何より足に意識を向けていたかった。何か喋ろうとしてしまえば、真っ先に口を突いて出るのは『彼』の話になってしまうから。
その堪えも一つ大きく音が鳴って容易く破られる。
音の方を二人が向けば、気恥ずかしさを顔に浮かべることもなくサシャは黙って腹をさすっている。
巨人を掃討し終え、兵団から待機を命じられた折にジャンとコニーは同席していたから知っている。彼女は配られた野戦糧食を一口も口に出来ていなかった。きっと今でも空腹を訴える体に対して解決する手段が無いのだろう。
ひとたび破れてしまえば、低きに流れてしまうあの頃の自分を律し続けたジャンは、律してなお一言こぼさずにはいられなかった。
「『あいつ』……結局帰って来なかったな」
【…後悔するときにはもう、そこには誰にもいなかったんだな】
(……何が兵士だ。『お前』を置き去りにして。ああ、そうだ。『お前』がいなくなるなんて、これっぽっちも予想してなかったさ。だって約束したじゃねえか。あの時のことを言わねえ、って。生きて証明すんじゃなかったのかよ……)
触発されたかのように、コニーはその末路を言葉にしようとする。
「『あいつ』……もしかするともう───」
「帰ってきますよ!きっと……必ず……!」
無理矢理に掻き消したサシャは上を向いている。ジャンとコニーには下げている髪しか見えなかったが、きっと彼女も同じはずだ、と、閉じられた空を共に眺める。
見てもいないのに分かるハズ無い、と。
ーーーーー
最後の戦いに向けて3つの兵団がエルミハ区へと集って行った中、ある一人の調査兵だけは参戦を認められず、王都にまでその身を遠ざけられていた。
自身の生まれを想起する場所に留まることもいたたまれず、ヒストリアは装置で家屋の屋根に上り、膝を抱えて空を見上げる。王都もそれなりに高い壁に囲まれた場所ではあったが、最も広く空を見上げられた。
月を見るたびに、ヒストリアはウトガルド城でのユミルの言葉を思い出す。
(向こうの状況は分からないけど、こうして結果を待つ場所くらいは、自分で選ぶことが出来る)
ヒストリアが涙を流すことはない。彼女は既に、『クリスタ』でいることをやめたのだから。それを証明するかのように、ヒストリアはこうして胸を張って兵の待機所から逃げ出している。
(『彼』は最後まで『良い人』で居続けられるのかしら。『彼』の歩みはやがて私が辿る道だったのかもしれない。もう私は逃げない。私に出来ることをやる。『良い子』でいるだけじゃ出来ないことを。『彼』が帰ってきたら伝えないと。気付かせてあげないと)
ユミルと『彼』。目的こそ違えどヒストリアを生かすために動いた共犯者の二人。ヒストリアが知る限り利他のために最善を生きた二人の兵士に、彼女は共通点を見出だしていた。
(『あなた』はユミルに特別な感情を抱いていた。『あなた』は自覚していなかったみたいだけど、一番近くで見ていた私には分かった。何より、私を10位以内に入れるためだけに、『あなた』がユミルのあんな絵空事を信用する訳が無い。何かしらのエゴでも作用しない限り、聡い『あなた』がそんな選択をする筈ないもの)
街路で名前を呼ぶ声が聞こえてくる。巨人と縁遠いこの街ではすっかり人々は寝静まり、兵士の声は目立って仕方がない。間違った名前で呼ぶ兵士達にヒストリアが応じる筈もなく、彼女は王都から逃げ出す次の一計を案じていた。
(……そういう感情は不要だ、と言わんばかりに『あなた』は振る舞っていたけど、気付かせるくらいには刺激してもいいかもしれない。『特別な感情』と言ったって、ユミルが私に持っていたものとは違う……うまく言い表せないもので……。もう私は『良い子』じゃないんだから)
南東の辺りに厩舎があった筈、とヒストリアは思い出す。既に月から目を離し、進むべく立ち上がっている。
(……『あなた』は押し殺していた。膨れ上がり続ける鎧の巨人への怒りに圧されて、本来の自分さえも見失ってまで、『良い子』……言葉を借りるなら兵士としての責任を果たそうとした。鎧の巨人を殺すために、私達を見殺しにしようとした、って『あなた』は言っていたわね。それが『良い子』をやめることなんだとしたら、私は……私が我を通すために、『悪い子』として生きるべき時が来た……きっとそうなの)
「……行かなくちゃ」
言葉は無くとも、その目には決意の光を漲らせていた。
ーーーーー
「分隊長!落ち着いてください!」
「エルヴィン!探しに行かせてくれ!」
エルミハ区内の町外れでハンジは静止するモブリットも押し退け、血相を変えてエルヴィンに食い下がる。エルヴィンは頑として認めず、黙してハンジの主張を聞き続ける。
「もう区内の安全を確保して長い。兵士達も十分に休息を取れた。人的被害もベルトルトに斬られた数人を除いてほぼいない……口惜しいが、それでも既存の犠牲者数と比べれば圧倒的に少なかった」
「分隊長……貴方は休み足りないはず───」
「『彼』に代わって南側の巨人の討伐に参加しただけだ。この程度で根を上げる私ではないのは分かるだろ、モブリット。……新兵達を乗せた荷馬車が命からがら外門を潜り抜けたときには、『彼』の姿だけがどこにもなかった」
血行を乱したハンジは隣立する副長に言い聞かせる。モブリットもまた、自分の諫言は気休めにしかならないことは理解していた。悔しいのはハンジだけでは無いことも、モブリットは伝えたかった。しかし副長の立場を崩す訳にもいかず、せめてと食い下がるハンジを見守る。
ハンジは今一度、不動にこちらを見る紺碧の両眼を食い入るように見返す。
「ようやく巨人に興味がありそうな人材を見つけたんだ。聞かせ足りない巨人についての話がまだ沢山ある。現に重鉄の腕甲の力は証明されたワケだ。その成果を真っ先に話すべき人は『彼』に決まっている。無二の鎧への執着を持つ『彼』に。これからの方針も聞いてもらわなくちゃならない!必ず!」
「分隊長……」
「『彼』が直接影響をもたらしたとまでは言わないが、これまでの戦いで、『彼』が参加した現場での犠牲は明確に減り続けている。獣の巨人が初めて出現した時、西部での防衛線を張った駐屯兵団から犠牲は出ず、ウトガルドでもゲルガーとナナバは喪ったが、あの少人数で70体以上もの巨人を討伐した。……なす術が無かった女型の巨人の不確定要素をリヴァイ班に伝えたのも『彼』だと、私達はオルオから聞かされている。『彼』は一個旅団に匹敵する兵士でも、100人分の働きをする新兵でもないのかもしれない。それでも。ここで『彼』を喪えば間違いなく人類の損失になる」
どれ程熱弁しようと、3人とも理解していた。仮に刃とガスを無限に替え続けられる状況だとしても、日没から8時間も経過した今、『彼』が生きている可能性は皆無だ。それでも、彼らは調査兵団だ。諦めが悪くて、夢見がちな人達。
ハンジは食い下がるのをやめない。張り付いたゴーグルを引き下ろし、髪を数束ブチブチと道連れにする。今や利するための装備さえも抑圧かのように。目頭の圧迫を取り払ったハンジは、息を大きく吐いて吸って、今一度エルヴィンに説いた。
「『彼』には、道を捜す猶予を与えたかった。勿論憎悪も大いに前進する力になる。嘗ての私もそうだったし、今でもそれを糧に進み続けている兵士達がいる。それを否定はしない。でも……その道を選び続けるのは、それも全て生き残るためからだ。生き残ることで道の正しさを逆説的に示し続ける、茨の道。私は新たな道を探して選べた。生きて、時間さえかければ…………『彼』だって……まだまだ、これからだったじゃないか……」
「…………」
「……エルヴィン。ここまでの功績を出してなお、まだ『彼』を切るべき相手と見なすのか?」
エルヴィンは質問に答えない。ハンジの誤解を団長として取りなすよりも、自身の立場を降りて話すことを選んだ。
「ハンジ、分かっているだろう。俺達が私情で動けない立場となって、随分経つ。俺達はこれまで何人もの新兵たちを引き入れては、壁の外を見せ、地獄を見せ、時には目の前で、あるいは俺達の手の届かない場所で死なせた。『彼』だけを特別とする訳にはいかない。『彼』を捜しに行かせるためだけに、大勢の兵を率いることなど到底許されない」
『俺』という人称を用いた団長に、モブリットは怪訝な顔をするも、ハンジは何か確信を得たかのように忽ち曇る顔を晴らした。ハンジは知っている。巨人化実験を担当した先代の捜索を打ち切ったあの時のことを。どれ程優れた人材だろうとやはり、大人数を一人のために割くことは合理に反する。今回の件は、明確に異なる点が一つあった。より多くの目的のために、一人を探すに値する理由が。
エルヴィンは待っている。ハンジの答えを。「敵とは何か」という質問に答えられたハンジなら、エルヴィンの意図を汲むことが出来るはずだと。
「分かっているさ。だがまだ私達には捜しに行ける名目がある。そうだろう?駐屯兵団の用意した、波状に爆薬を埋め立てた地点。アニを奪還した後現れた巨人を含めて100を超える敵の増援を、第5波までの全てを駆使して撃滅した。それでも、まだエルミハ区に接近せず彷徨っている巨人がいるかもしれない」
団長はハンジに見出だしていた。彼の後継になりうる光を。
「その通りだ。エルミハ区をまた人が住める環境にするためには、奇行種の可能性もまた考慮しなくてはならない。区の近辺を一掃したところで、区に近付かない巨人がいないとは限らない。全ての巨人を討伐するまで、ウォール・ローゼ、シーナ間の安全はまだ保証されない。区の外へ向かう必要は必ずある」
「……そうだろうと思っていたよ。私の班員を呼んでくる。今すぐにでも───」
「待てハンジ。我々だけでは不十分だ。他の兵団も合わせて動かなくては。既に召集は始めている。夜にも動ける巨人の存在を知った今、松明を片手にウトガルドの惨状を繰り返すわけにはいかない。視野を確保できる朝が来るまで、とにかく待つんだ」
楽観などしない。彼らはそれ程までに絶望を何度も見せられ続けてきた。それでも彼らは、その有りよう故に夢見ることをやめない。
ーーーーー
リヴァイ兵士長は静かに、本部近隣の食堂で、机に置かれた一つの届け物を見つめている。
(……随分律儀な配達人だったな。本来の宛先は旧調査兵団本部だったらしいが、俺の居所がこことくりゃあ、とさっき渡してきやがった。必ず届けなければならない代物だと必死な形相で述べてたが……それほどの代物なのか、これは?)
相応に狙われる根拠もある、とリヴァイは罠の可能性を警戒していたが、遂に観念して包みに手を伸ばした。
差出人の名前の書かれていないその包装紙を解いていくと少し硬い感触が指を伝わる。押す指の腹を鋭角にだが優しく反発するそれからして、陶器の類いだろうと、リヴァイは勘ぐる。
予想通り一揃えのティーカップとソーサーが姿を見せた。しかしそれよりもリヴァイの目を引いたのは、掌サイズの小さな一枚のカード。そこには発注した日付と差出人の名前が書かれていた。
リヴァイの目を惹いたのは名前よりも日付だった。その日付は、異形の鎧の巨人を討伐してから3日後のものだ。逸りだす動悸も早々に押さえ、リヴァイは厨房のケトルをひっ掴んだ。
いつものようなティーセットが無いながらも、リヴァイは既定の習慣をそつなく終え、わざと一度大きく深呼吸し、湯気の上がるカップを口へと運ぶ。
(……普段の作法を略してるだけあって違いはあるな。だが間違いなく俺が淹れた味だ。ごく普通の)
ソーサーにカップを戻すと、最初に紅茶を淹れたときの『彼』の姿が目蓋に映る。素人にしては手慣れていて、リヴァイからみれば拙い、どっちつかずな所作を『彼』は実践していた。その折に触れた会話を思い出す。
「……掃除のコツも、親から学んだのか?」
「ええ。仕事については父から、家のことについては母から、両方ともしっかり学ばせていただきました」
「ました、って、まだ学ぶことはあるだろうが」
「……はい。それもそうですね」
(『アイツ』……兵士を目指す動機を知らなかったとはいえ、俺も訊く質問は選ぶべきだった。……仇を討つために入団するヤツも珍しくはねえのに、なんだって俺は妙なことを……)
喉を通り抜けた茶の温もりも早々に消える。
(俺は選び続けてきた。その度に言い聞かせた。どんな結末になろうと後悔はしねえ、と)
静かに湯気が立ち上る。昇る煙の先には天井があり、その頂の先には空がある。嘗て二人の仲間とともに見ることを憧れた広大な空が。見に行こうと思えばいつでも見に行ける。
兵士として身を窶してからも、あらゆる物を手にし、目にしてきた。だがそれを教えてくれた人達は、彼の隣から去っていく。巡る思考の中チラつく人々の影は、リヴァイに一つの衝動をもたらす。
リヴァイは座っていた椅子を蹴りとばし、カップを高く掲げ床を睨みつける。どんな時よりも痛む心臓から血は迸り、カップを握る手はみるみる熱が籠っていき、震えてやまない。残る中身が溢れだし、湯立つ液は手指を伝い袖を湿らす。それでもカップにはヒビ一つ入らなかった。
兵士を喪い出来ることは悼むことだけ。 他に何をしようが消えた事実に変わりはない。そんなことをするより前に進むことが、兵士として最も求められる真理だ。人類最強の兵士はそれを誰よりも痛ましく身を以て覚えている。
それでもリヴァイは、罰したくて仕方無かった。
(『アイツ』はもうどこにも居ねえんだぞ。母さんが死んだ時と同じだ。やれ。やるんだ。こんなものを持ち続ける意味も、資格も無い)
己を。そして、『彼』を。
己の怪我のために『彼』の独断を見逃し、『彼』は一人で去ることを選んだ。挙げ句残ったのは淹れなければ冷たいままの器一揃えだけ。蹴り一つでは到底済まない、独断専行。この茶器を静かに持つ権利も俺には無い、とリヴァイは吐き捨てる。
リヴァイは地下街で過ごしていた時代に、ある物を一つ失くした。地上に出ればその面影を探すことも容易かったかもしれないが、エルヴィンの背を追うと決めた六年前にそれもやめていた。その面影は今、彼の手の中にある。
リヴァイは後悔しないと決めていた。
合理と理性を以て動き続けてきた身体は、今この瞬間の激情をいつものように抑え込んだ。脱力し、なぎ倒された椅子にへたり込みながらも、カップは静かにソーサーの中へ置かれた。
差出人の署名には『彼』の筆跡で、【リヴァイ班一同より】と書かれていて、『彼』らが発注した茶器は、あの日失った母のものと、全くの偶然にも瓜二つだった。
茶器から目を離せないまま、現実という悩乱にリヴァイは顔を歪ませる。
「……バカ野郎」
その様は、後悔と形容する外無かった。
ーーーーー
僕達がエルミハ区での決戦を決めたのは、戦士達が当分手出しが出来ないよう、戦意を挫くためだった。その代償が『彼』だとでも言うのか。
……『彼』を、止められたかもしれない。
一番近くにいたのは僕達だ。手を伸ばせば、届くところにいた。
「止めたところで、僕達がどうなるかは分かっていた。……誰かがやらなくちゃいけなかった」
僕の言葉が誰かに拾われる心配はしなくていい。そういう場所に僕はいるから。
【何かを変えることが出来るのは、きっと、大事なものを捨てることが出来る人だ】
自ら出した解を、アルミンは反芻する。
「でも、あの時ばかりはどうなったところで構わないと、僕は思ったんだ。たとえ大事なものを捨てられなくたって構わない。それでも、『彼』には行かないでほしかった」
アルミンの眼は空を見上げていた。霞も削れ、もうすぐ夜明けが訪れそうな空を。それでも、座る彼の両手は壁上の縁を握って離そうとしない。昔なら怒りも体現できないまますぐに力尽きたのだろう。非力を呪い今日まで研鑽を重ねてきた身体は、壁の縁を握る力をさらに助長する。自らを縛り付けて、飛び立ってしまわないように。いっそ折れてしまえ、と彼は望む。
喉は凍てついたときのように痛んで震え、何度も流れて出来た痕に、目尻はまた一つ轍を作ろうと海嘯を一筋生み出そうとする。
「……僕は、何も分かっていなかった。こんなもののために、外の世界を望んだ訳じゃない」
複数人の足音が左から聞こえる。革靴が石を打つ、兵士にしか出せない音。長い付き合いの僕には、足音の個性から誰なのかすぐに分かった。
僕はずっと、彼らと並び立つために戦い続けてきた。壁が破られるずっと前から、僕にとって二人は友であり、同時に敬うべき人達だった。
そんな僕でも、全てを投げ出したくなった時がある。祖父が去った時だ。
今から五年前。シガンシナ奪還作戦が失敗したと伝えられた時、どうしようもなくて、僕は二人から逃げて泣いていた。
立ち上がる強さを持った二人に、とても顔向け出来なかった。今思えばそれは侮辱に他ならない。エレンもミカサも、親を喪った時に、悲しくなかった筈がない。辛くなかった訳が無い。僕にだって彼らの側にいて、一緒に傷を背負うくらいの力は、あの時点でもうあったのに。
でも、あのときの僕には、そんな力があるとは思っていなかった。強い二人はきっと僕を捨てるだろうと、恐れさえした。捨てられるくらいならいっそこのまま逃げてしまおうと、そう思っていたとき。声を掛けてくれたのが『君』だった。
『君』が、僕を引き留めてくれた。だから僕は、兵士になることを選べた。エレンとミカサに追い付こうと、もう一度走り出すことが出来たんだよ。
目尻に吊る涙を、袖で強引に擦る。荒い布地が顔を削るがそれでも構わない。立ち上がり、2人と顔を合わせる。僕がずっと信頼を寄せていた2人。彼らの目尻を見てみるも、そこには何も滲んでいない。
……まだまだだ。僕は。
外の世界を見に行く。その願いが血の道で出来ていても、もう怖じ気づくわけにはいかない。その道の先に、『君』はきっといる。
僕は、今度は逃げない。引き返すものか。僕は必ず、海を見に行く。その大義のために『君』の命を名分にするなんておかしいのは分かってる。悔しいよ。痛いよ。でも、もう立ち止まらない。
あの日、僕の夢を救ったのは『君』だ。それに応える使命が、僕にはある。僕達のために戦った『君』のために、今度は僕達が『君』のために戦う番だ。
僕は進み続ける。『君』が正しかったと、証明するために。
南を望む二人とともに、僕は並び立つ。
「必ず取り戻すよ。オレ達の故郷を」
エレンの言葉に、僕は静かに頷いた。
ーーーーー
エピローグ
その叫びは、誰にも届かず。その足掻きは誰にも見えず。しかし『彼』の遺志は、その日誌とともに受け継がれる。巨人を駆逐することを願った少年の、背中を今一度力強く押す翼として。
かくして一人の名も無き兵士は、世界を救った。『彼』のいる世界はとても小さかった。壁に阻まれ、敵によってその未来を閉ざされ、仇敵によって幾つにもありえた可能性を閉ざされ、ある一人の男によって、その運命は断たれた。
その男の望む、一つの結末のために。それでも、『彼』の望んだ小さな世界は、やがて全てを焼き尽くし、踏み鳴らす地獄を呼び寄せ、至る大いなる結末のためにくべられた。自分の大切な仲間達を守るために賭した命は、その小さな世界を守るには十分だった。
人類はやがて世界の小ささを知り、『彼』のこともいずれ記憶から失うのだろう。一人の気鋭な訓練兵は調査兵となり、75日の抗いを経てその命を散らした、と。もはや名前すらも覚えていないその者を市井は『彼』と呼ぶも、噂話の一つとして日常の中へすぐに『彼』という呼称さえも忘れてゆく。
しかし、『彼』が愛してやまなかった仲間たちは、どれ程の年月が経とうと忘れず、口を揃えて『彼』を『英雄』と呼ぶ。
『彼』がこの世界の真実を知ることは無かった。さりとて、『彼』の生きた世界がどれほど小さくとも、愛する人達の生きるその世界こそが、『彼』にとっての真実だった。その真実たちが『彼』を英雄と呼ぶのなら、名は無くともきっと英雄なのだ。
『彼』の世界そのものと同然な仲間達。やがてすべての境界が壊れるとしても、灼けた空の下で刃を振りかざすことで、『彼』はその脆くも優しい世界を守り抜いたのだった。