─1─
「そのためにここにいる」と、叫んだ名もなき一人の駐屯兵。
もはや顔も覚えていないけど、【彼】がいなければ、私は今日まで生きていない。
一人の名もなき英雄が、私を今日まで生かしてくれた。
「私は、立ち止まろうとした」
英雄の手へ、自らの手を翳す。そこに温もりは無い。だが思いが、無念でもない、怒りでもない、ただ静かに私の意思を問う思いが伝わってくる。
「私の命ひとつで皆を助けられるならって、そう思ったんだ。でも、それは違う」
青い球体は少しずつ駐屯兵の手の中に押し込められていく。
「私の命は、何度も誰かに繋ぎ止められて来たんだ。調査兵団の皆にも。家族にも。仲間にも。名前も知らない人たちにも。貴方にも。そして、敵にも。彼らへの怒りを忘れた訳じゃない。でも、確かに私は彼らに助けられた」
指で摘まめる大きさにまで縮んだ球体を名残惜しそうに見つめながら、その消失を私は見守る。
「この命は紡いでみせる。捨てるつもりはもうない。今度は間違えない」
私が、皆の生きた証だ。皆が、私の生きた足掻きなら。
「ありがとう、みんな。行ってくるよ」
手を離した。立ち並ぶ無数の兵士達と二人の親を視界に収めて、もう一度目を閉じて、目を開いたときには、全てが元通りになっていた。激しく雨が降りしきり、鼓膜を打ちすえる。
あの青に染まった景色が消えゆくなかで、父母の顔が、ほんの一瞬だけ微笑んだ気がした。
額から目蓋へ、頬を伝って落ちてゆく雨垂れに、涙は混じっていなかった。
私が見たあの景色は、ただの幻だったのか。全て自分の頭の中で起きていた、夢のようなものだったのか。それは分からないが、
今も確かに胸に秘めるこの気持ちに、嘘は一つとして無い。
私は約束した。生きると。仇を討ちたい、という思いは、父さんと母さんが生きた証である、自分が生きるための発露だった。
(何も捨てることができない人には、何も変えることはできないだろう)
仲間たちの言葉が、雨で冷えた私の背中を包み込む。
目の前に掲げた両手を、力いっぱい握りしめる。痛い。血がにじむ。だが、生きている。この体は痛がっている。生きたいって叫んでいる。
そうだ。あの時黙って食われるのを待たず、手綱を掴んだ時に、もう分かっていたことじゃないか。諦めたくない。たった一つのこの命を投げ出すだけでは、この残酷な世界は覆らないと。戦い続けないと。
力を捨てることを選んだから、今の命がある。
空いた胸のポケットに手を当てる。
(もう、失くすんじゃねえぞ)
ハンネスさん。
(私達には、貴方が必要)
(ああ!一緒に巨人をぶっ殺してやろうぜ)
(手紙、書くことにしたよ。ありがとな)
(俺、憲兵にはなれなかったけど、やっぱ母ちゃんには言っておきたいんだ。8番には入れたからな)
(終わったら、また狩りに行きましょう)
(そんな中でも、『あなた』は戦うことを選んだ。そうでしょ?)
また、空を見上げた。両手も空に掲げてみる。激しく垂れる雨は、少しずつ掌の泥を洗い流していく。
(戦わなければ、勝てない)
みんなに、もう一度会うんだ。私の大切な仲間たちに。
(駆逐してやる!この世から、一匹残らず!)
それまでは死ねない。こんなところで死ねない。死んでたまるか。
私は駆け出した。南へ。ウォール・ローゼを目指して走る。どこへ向かうべきかなんて分かりやしない。それでも走る。訓練の中で刷り込まれた最も適切な呼吸とストライドを繰り返して、走る。ずぶぬれで、装備に水が沁み込んでずっしりと重い。
ブーツも中が蒸れてめちゃくちゃだ。多分どこかすりむいている。
けれど、あの大切な日々が、私の背中を押す。私が見て、聞いて、記した大切な日々が。バチャバチャとぬかるんだ草原を走らせる。
死んでいった仲間達が、私の背中を押す。この背中にある白と黒の翼が羽ばたき続ける意味を、私は生きることで示すんだ。
私を必要としてくれた、受け入れてくれた人達のために走る。たとえ、自分を象るものがすべて借り物に過ぎないとしても、今まで作り上げ、繋ぎ続けてきた足掻きは、どれ程無様で醜くても、今ここで確かに大地を踏みしめ続けている限りは、本物なんだ。これから先だって進み続けるそれは、誓って誰かの道となるのだから。
─2─
まず感じたのは、温もりだ。
そして、瞼に光を感じる。
今は、昼に差し掛かろうとしてるくらいか。
「目ぇ覚めたか!」
声が聞こえる。瞼の動きで私の覚醒を気取ったらしい。目を開けなくても気配を感じる。いる。みんな、ここにいるのか。
「……とうとう、死んだんだな」
「てめぇはこの…!」
両肩を揺さぶられ、二度寝を邪魔される。
薄目でもわかる頭の横の剃り込みは、ジャンだ。
「また寝るんじゃねぇよバカが!2日は寝込んでんだから寝だめは終わっただろ!!」
「それはエレンのあだ名じゃ──」
「おいジャンもう揺するのはやめろ!『ソイツ』の首の角度やべぇから!!」
「うるせぇ!てめえがライナー倒して満足して寝てなけりゃあ『コイツ』はいなくなったりしなかったんだ!!」
「はあ!?それを言うならお前だって───」
ジャンをエレンが引きはがし、私は無造作にベッドに寝転がる。さっきまで寝ていたからか、残ったぬくもりが心地よい。殴り合いの音が聞こえるがまた眠りに戻ろうと思う。
「エレン。『彼』の調子は…」
「何やってるんだよ二人とも!」
今度はミカサとアルミンの声が聞こえた。
もういい加減目を覚ます時か。
これが夢じゃないと信じる時か。
おもむろに目を開くと、そこは深青の夜空でもなく、降りしきる雨の中でも無い。周囲に感じる気配も生きている人達のそれだ。間違いない。
「は…はは…。生きてる。『私』は生きてるんだ。」
「ああ。俺も同じ意見だぜ。石積みに突き刺さったブレードにマント、加えて草原でぶっ倒れてるお前を見た時にゃさすがに俺は──」
「おいジャン!まだ済んでねぇぞ」
直立するジャンがエレンに押されて大きく平衡を崩した時、よく聞き慣れた声で、耳慣れない音が奏でられた。
音のする方を見ると、サシャは方言を込めて喋っている。周囲の人は戸惑うが、サシャは方言をやめない。眉は寄っていき顔から耳まで赤くなっていくが、それでもやめない。始めの方では『私』は聞き取れていたが、いよいよ聞き及ばない方言まで飛びだしていき、
言葉で分かってあげられないもどかしさを、サシャと同じく恥を抱えて答える。
「ああ。分かるよ。本当に、ごめん」
サシャは皆の分も含めて、思う存分怒ってくれている。怒声に涙が混じり嗚咽とともに掻き消されだしたときには、ミカサがサシャの背中をさすっていた。サシャの怒りが収まるまで、随分と長い間、『私』は頭を下げ続けた。
両手をもたげる。包帯で鍋つかみかのようにぐるぐる巻きにされていた。右腕の方は千切れた袖の部分まで覆っている。この大雑把な処置は、コニーかサシャか。
そこそこひどい傷の筈だが、赤い染みは包帯の外にまで滲んできてはいない。
寝起きでまだ慣れない視界のピントを調節していると、口元に何かが差し出されているのが分かる。くし形に切られた皮付きの赤い果実、その一片がフォークに刺さって『私』へ向けられている。
「ほら」
フォークを持ったヒストリアが、一欠片『私』の口に押し込もうとする。くし形にしては欠片が大きすぎるとジャンに窘められて、コニーが渋々ナイフで両断する。
その様子を見て、『私』は一人の女性を思い出していた。
「なんか、前に見たかもしれない、この感じ」
「え?ああ、診療所の駐屯兵のことね」
(ピーク・フィンガー。彼女が脊椎を損傷した振りをして食べていたあのときそっくりだ。私は単に両手が塞がってるからだが)
「また、『クリスタ』をやらせてごめん」
「ううん。これは私の意思。分かってるでしょ」
「……すまない。私は、何もできなかった」
「あの地獄を生きて帰って来たんだ。寧ろ、三人だけでよくライナーとベルトルトを倒せたな」
「三人じゃない」
『私』はアルミンの方を向いた。彼がいなければ決して勝つことは出来なかった。
アルミンだけは視線を理解したらしい。他の人達は次の話題へ移っている。
「それよりヤバかったのはあっちの方だろ。なんせあの教官が恨み言を吐くくらいの強さなんだぜ?」
「この場にいる全員が掛かっても無理ですよ。アレは」
「あれが獣の巨人。……まるで歯が立たなかったな」
仇と切り結んだハズのコニーは恨みを浮かべることもなく頭を掻いている。
「ちっくしょー。せめて兵長が万全だったらなー」
「俺がなんだって?」
この鋭い声は。
リヴァイ兵士長が扉の角に背中を預け新兵達を睨んでいる。
「おいガキども。いつまでも辛気臭ぇ浮かべてねぇで少し席を外せ」
兵士長が半身で塞ぐ扉の向こうに、まだ数人の人影が見える。
エルヴィン団長にハンジ分隊長、そしてミケ分隊長だった。
ミケさんは車椅子に乗っていた。当然、まだ骨折の回復には時間が掛かる。兵士長があの場で動けてるのがおかしいわけで。
面々がぞろぞろと席を外す。扉から出ていく際にこちらをチラチラ見ては出ていく。
(心配しなくても、もうフッと消えられる状況じゃないよ)
目で訴えかけ、見送った。
『私』は精一杯背すじを伸ばす。
「寝たままでいい。まだ痛むだろう」
「平気ですよ団長。多分筋肉痛ですから」
「聞けば一部の駐屯兵や憲兵も見舞いに来たいらしい。……随分慕われてるな、『お前』」
「一人の兵士である私に出来ることは、愛想を振り撒いて媚びることくらいなものですよ」
「さて、『お前』には一つ、重大な告知をしなくちゃならねえ。こればかりは、俺が直接言わねぇと効力を持たねぇからな」
兵士長は口元をハンカチで包んだ手でひとたび拭い、私に告知する。
(咳払いのつもりなのだろうか)
叱責か体罰か独房の中か。命令違反をした自覚はある。どの罰が飛んでくるかと身構えるが、リヴァイ兵士長の口から出た命令は、また突拍子も無いものだった。
「『お前』には、リヴァイ班に正式に加入してもらう」
「……え?」
「ずっと仮の所属のままだったからな。俺達が特別作戦班の新たな編成を行うにあたり、殆どが成績上位者10名の新兵になった。その中で、班の事情に詳しい者を、同104期の中から選出することにした」
信じられない、と『私』は言おうとして飲み込んだ。上官の命令に嘘などあるものか。まして兵士長からの言葉など。それでも、『私』は疑わずにはいられない。何か裏があるんじゃないか。班員達が認めた時と同じように。
答えあぐねる『私』に、助け船は意外な人物から出された。
「新兵、聞け」
「ミケ分隊長」
「お前は俺の命を救ってくれた。あんな威勢を放ちながらも、先の戦いでは俺は偵察しかできなかった。だが、仲間と力を合わせ、乗り越えた。『お前』には敬意を表する」
無口なミケ分隊長にしては長めの一声に、兵士長は目を丸くしていた。便乗するようにハンジ分隊長が追撃する。
「そうだよ。私達上官は歳を重ねてるだけで重圧を放っているんだから、そんな物言いじゃあまた前のように加入の理由を『彼』は勘ぐっちゃうよ、リヴァイ?『また何かほかに意味があるんじゃないか?』ってさ」
「ハンジ……お前についちゃ、少し重圧が無さすぎると思うがな」
「ひどいね、リヴァイ。怒れば一番怖いのは私だよ?」
「とにかく、だ」
ハンジの態度の変化を取り押さえてリヴァイ兵士長は意を汲む。続くリヴァイ兵士長の言葉はこれまでに無い程素直だった。
「『お前』の実力は、リヴァイ班にふさわしい程に高まった。少なくとも俺はそう考えている。特に先のエルミハ区防衛戦で、『お前』は無二の活躍をした」
『私』の包帯に兵士長の手が伸びたが、状態を見てかその手は戻され、手持無沙汰に形を変えてから静止する。
「『お前』はよく頑張った。俺の班に入れ」
ふと、嘗てのリヴァイ班の皆が、私を見ているような気がした。
見えないけど、そこにいる。
グンタさん。エルドさん。ペトラさん。
ようやく『私』は認められました。
「…………はい」
グルグル巻きの手で、敬礼する。無様にも涙がこぼれてくる。お誂え向きの布地が巻かれた手で拭ってやる。
「しかし、まだ回復には当分掛かりそうだね。まあ、腹の怪我も大事には至らないみたいだけど、あと一週間はその状態だと思った方がいいかな」
「何か急ぎの御用でもあるのでしょうか?」
「新兵は急がなくていい。治りが早いこいつがおかしいだけだからな。骨にヒビが入ってるのに立体機動とはな」
「フン。そういうてめぇは鼻さえ利かせれば幾らでも座ってられるんだからな。ここも人使いが荒いもんだ」
「聞こえているぞ、リヴァイ」
「バラす奴なんかいないよ、エルヴィン。あっ、それとも『君』はこれも書き記すつもりなのかな?」
「……」
「肯定、らしいな」
「万年筆は握れませんから、治るまでに忘れていることをご期待なされば、と」
「とはいえ、このままこの診療所に居座るわけにはいかない。我々は狙われている訳だからな」
「誰に、ですか」
「王政にだ」
エルヴィン団長は椅子を一つ借りて、『私』に目線を合わせるべく座る。
「君は知っているだろう。王が我々民に、外の世界について探ることをよしとしないことを」
「『私』にも心当たりはあります。黒い帽子の男。以前『私』は狙われたことがあります。きっと王の手先です」
「秘密を握る者は二人。エレン、そしてクリスタだ」
団長は中断することなく、必要な情報だけを簡潔に伝える。
「そして、我々は追及されるに値する失態を冒している。【異形の刃】の存在と【紅蓮の弓矢】の使用。それと安全なはずの内地を、二度も戦場にしたのだからな。レオンハートを取り戻したことも、あくまで振り出しに戻しただけに過ぎず、依然として壁を破壊できる巨人は生存したままだ。おそらく、憲兵団は黙っていない」
「死んでないのですか?鎧の巨人は」
「……ああ。残念だが、ライナーとベルトルト、および獣の巨人の持ち主の死体は発見できなかった」
「……そう、ですか」
視線が落ちるが左肩をハンジ分隊長が掴む。
「誤解してはいけないよ」
「ハンジさん?」
「我々は公式にようやく勝利を修めることが出来たんだ。異形の鎧の巨人は記録に残ってないけど、今回は王が怒り心頭で新聞に情報を流してる。ケチはついたがこれは調査兵団の勝利で、『君』が勝ち取ったものだ。だからそんな暗い顔をするな。我々にはまだチャンスがある」
「いずれにせよ、君を急かすようで悪いが、我々には時間があまり残されていない。幸い、君が一か月の間率先してエレンの実験を行うよう働きかけたからか、エレンも自分の能力の把握も順調に進んでいるそうだ」
団長はようやく一息ついて、再開する。
「『君』の予想通り、『君』を襲った兵士とやらは、エルミハ区にも現れたあの兵士と同一人物だろう。つまり『君』達を狙うのは巨人だけではない。これからは、人間同士の戦いになる」
「……今更でしょう。これまでだって、巨人が人間だと分かって、それで裏切られて、その繰り返しで……」
嘗て誰よりも頼れる仲間たちだった、三人の顔を思い出す。
「てっきり巨人を束ねる親玉がいて、それがあの獣の巨人だと思っていましたが……」
「そこで、だ。見舞いに行きたがっていた人達には悪いが、『君』達には身を隠してもらう」
「ここに、ですか?」
「いや、もっと別の場所だ。手配も済んでいる。私とは別行動になる。リヴァイとハンジ、ミケを頼ると良い」
部屋を出ようとした団長は立ち止まった。なにか言いたいことでもあるんだろうかと『彼』は待ってみたが、団長はこちらを向かないまま、話は以上だと言わんばかりに部屋を出ていった。
無人となった部屋の中、ようやく『彼』は体重を枕に預ける。思えば負傷兵として病室に運ばれる体験はこれが初めてで、なんと心地よい感触だろうか。その心地よさも束の間、直ぐに担架が持ち込まれ、『私』は不安定な揺り動かしに顔をしかめた。
─3─
外に出ると日陰付きの荷馬車が待っていて、乗せられたところで同期達が『私』に声を掛けてくる。
「長旅お疲れさん」
「診療所を出るだけで大層な長旅だよ。と言っても、まだまだ旅は続きそうだな」
「ああ。オルオさんが工面してくれた僻地の隠れ家に行く。調査兵団全員が、いっときは散り散りに逃げ隠れすることになったらしい。まあ……オルオさんはあの身体だ。健闘は祈ってくれてるらしいが、囚われの身だ」
荷馬車にところ狭しと詰められた食糧に装備の予備。兵士達は別途馬に乗ってはいるが、これでは『私』一人が寝そべるので精一杯か。エレンとアルミンに両肩を支えて貰って、板一枚を衝立に御者と背中を合わせて座る。
エレンは車軸のあたりの積載物をまさぐり、あるものを取り出して『私』に差し出す。
「まだ、戦うつもりなんだろ?」
それは、いつか『私』が捨てた緑の外套だった。こうも手が塞がっていたら羽織れないから、膝元に掛けてもらう。
「それにしたって、まだ実感が湧かないな。『私』が君達と同じリヴァイ班になるなんて」
「まだ言ってんのか、『お前』は」
ジャンが馬車の外からなじる。
「『お前』は討伐数も、潜った死線の数も、とっくにミカサどころかそこらの先輩方も追い越してんだよ」
「これからはずっと一緒ですよ。今度こそどこかに行かないよう、エレン共々見張らないと」
「オレもってなんだよ」
「エレンは攫われてばっかりだもんな。天才の俺でも少しうんざりするぜ」
「うん。サシャの言う通りだ」
アルミンは『私』の手を握り、まだ赤の残る目尻に皺を寄せる。
「僕達はずっと一緒だ」
膝元に別の小さな物の感触を覚えてなぞると、そこからは『私』の日誌が現れた。
「長旅のついでにオレ達に聞かせてくれ。『お前』の話を」
「エレン。あなたを呼びに行ったとき、『彼』の日誌を捲ってたでしょ?」
「ミカサ。あれは……てっきりオレ達でも読める字で書いてる箇所がまだあるかもしれねえと思ってさ」
「解読のための紙を別に書いておいたハズだけど?」
「『君』がいなくなってまだ三日程だよ?僕にだってまだ読み解けないよ」
「書いてあること自体、『私』が君達とともに見てきたものとあまり違いは無いよ。別に知らなくたって───」
「お願い。聞かせて」
手綱を握るヒストリアは背中越しに『私』に強く命じる。
「本当にどうでもいいものなら、誰かに預けたりなんかしない。もう逃げないで」
「……応えない訳にはいかないな。共犯者の片割れとして」
「兵団は罰を与えないつもりらしいけど、私はまだ許してないから」
「ああ。分かってる。聞かせるよ。『私』が見てきた物語。その全てを話そう」
アルミンに日誌を開いて貰いながら、『私』は思い出す。
あの道の世界には、ユミルはいなかった。
ユミルは『私』に託した。ヒストリアを。『私』が日誌をエレンに託したように。
それこそが彼女の本心なのだろう。最も信用できる人へ、最も大切な物を託した。『私』の寝坊から始まった貸し借りの関係は、『私』の知らぬ間に信頼にまで実を結んでいた。
記憶が正しければ、なおかつ、あの場所があの世と断定するならばの話だが。それなら、ユミルはまだ死んでいない。人のために。皆のためにその生を捧げた同胞へ、『私』は心臓を捧げる。
「……必ず、君を取り戻す」
胸の前に翳した手に『彼』は誓いを掴んだ。もう二度と、その手を離すことは無い。
─エピローグ─
かくして名もなき英雄は、力を手放した。仲間の喪失を悔い、己の無力を悔い、道を選んだことを悔いたことで、分かたれ得た物語は収束してゆく。
入団式で心臓を捧げた21人の新兵達は今や18人。これから集う者達を含めれば、調査兵の数はやがて208人となる。
それでも、そこからのある戦いで生き残る者の数は9人。その運命は、たった今決められた。
全ては一つの結末へと向かう。845年のその日に一人の少年が望んだ、『全ての巨人をこの世から駆逐する』という、結末に。
英雄となる道を棄て、生きることを選んだ『彼』の果てはいずれかになろう。
追い縋る王の尖兵達に撃ち抜かれるか。
赤熱する巨人に瞬きすら許されず灰塵と化すか。
あるいは、人類最強の兵士の導き手として、団長とともに新兵らを率いて礫に砕かれるか。
いずれにせよ、シガンシナの戦いを生き残りし9人の英雄の中に、『彼』の名が連なることは無い。名を呼ばれることの無いまま消えていった新兵達の中に、やがて『彼』もまた加わる。
自ら命を捧げることを選べる機会をむざむざと捨てた者に、英雄となるにふさわしき死の場面など、2度と訪れることはない。
この70余年で命を散らしていった数多くの名もなき兵士たち。彼らは選ぶことさえ出来ずにその命を終えて、なおも等しく全てが英雄足りえた。足りえてもなお届かなかった名もなき英雄のなりそこない達。丸薬の力を捨てども、自らの命を捨てられず、愛する仲間の元へ帰ることを選んだ『彼』は、大事な物を完全に捨てきれていない。
ゆえに残酷な世界は『彼』を英雄にせず、無名の兵たちの末席へ『彼』を並ばせる。
道から見通していた我々には、もはやその物語を追うことは出来なくなる。名もなき一人の英雄の成すはずだった物語は、エレン・イェーガーの物語へ。やがて悪魔の子と語り継がれるその少年の運命を描く物語へ、その担い手は譲り渡されたのだ。
しかし、先にどれ程残酷な死が待っていようと、『彼』のこれまでの生は肯定される。再会を果たした友たちからの栄誉こそ、『彼』の望んだ至上の幸福であり、それさえあればどんな末路をも受け入れられる。覚悟する猶予無く死んでいった者達と異なり、『彼』は、その一切を死した先でも称え続けられるだろう。