─1─
駐屯兵の手に乗せられた青い球体。それを『彼』は握り込み、手指を沈ませていく。
何度も窮地を拓くために使った力。その度に訪れる結果は、誰にも分からなかった。
エレンは何度もこの孤独を味わい続けてきた。人ならざる力を手にしてなお、その行く末がいつまでも分からないまま進み続けてきた。
「変えられるものはまだある筈だ。手放す訳にはいかない。彼を一人にはしない」
球体が縮んでいくに従い、清涼な感触が血管を、神経を通っていくのを感じる。その冷感に身体が凍りつきそうになったが離さないよう踏みとどまる。ついに、球体は完全に『彼』の中へと消え去った。
『彼』は頭を激しく振り、早くこの夢が覚めるよう望む。
「戻らないと。仲間達のところに」
『彼』は出ようと歩き出す。久遠に歩いても踏破出来なさそうな砂漠を。数歩を踏みしめてくるぶしまで沈む悪路に多難な前途を予感していると、
『─────』
と、音のような、無音の信号のような何かを『彼』は感知した。
声のする方を振り向いたら、まず『彼』は真後ろにいた一人の人物にギョッとした。一切の存在感を匂わせなかった者が一人、『彼』を見上げていた。
少女だ。目元に影が差してはっきりしない金髪の少女が、着古したかほつれの目立つ服を纏って、木と鉄輪で結ばれた桶を片手に、『彼』を見上げていた。
「君は、誰?」
彼女が舌を抜かれていて、喋れないことはなぜか『彼』に分かった。先んじて誰かがその情報を流しているかのように。『彼』は少女に視線を返すも、両者ともに身動ぎひとつしない。どちらがどくのか、待っているのだ。
『彼』から退いた。途方も無さそうな道を、彼女は体を横へ傾け、木の桶の重みに耐えながら歩いている。歩く先には駐屯兵が立っていた。翳していた手はいつの間にか戻っていて、駐屯兵は前傾して、その小さな童に顔を近づける。
少女は砂を拾い、桶に手を入れた。水を含ませて、駐屯兵の顔になすり付けた。水音は何度か際立つが次第に静まり、駐屯兵の顔に確かな輪郭をもたらした。馴染んだ、とでも言おうか。モヤのように不定形だった駐屯兵の顔の端に、顎とも頬ともとれる形が付いていた。
少女はまた無感動に砂を一握掴んで、桶の中へまた手を入れるて駐屯兵の顔に塗りたくる。何度も。何度も。
子どものいたずらにも見える珍妙な光景だが、『彼』にはこう見えた。
少女は捏ねている。駐屯兵の顔を。
『彼』が長らく見失って久しい駐屯兵の顔を、彼女は知っているというのだ。
本来なら目もくれず出口を探しても良さそうだが、なぜか『彼』はその場に留まって、その過程が済むまで眺めることにした。
(どんな顔だったか、思い出してから離れても良いだろう。なにぶん恩人の顔だ。記憶に残しておきたい)
少女の捏ねる顔は徐々に一つの顔立ちへと向かって象られていく。そしてそれは、ある人にそっくりな顔となった。
懐かしみや、温情を胸に抱いても良いだろうに、『彼』はその光景に背筋が凍りついた。
よりにもよって、最も似るにはおかしい顔立ちに、駐屯兵の顔は象られていたのだから。
『彼』の顔に。
「いいや。気のせいだ。そうに違いない」
屈んでいた駐屯兵は姿勢を正す。こちらに近づいてきそうもなさそうだが、『彼』は大きく後ずさった。
「そんな訳ない。なんでそんな……『私』に瓜二つな人間なんてそういない。兵団の皆だって同じ顔は二つとしてなかった。何も『私』がそうある訳が……」
強がる『彼』の声は震えていた。
壁が破られたあの日、自分を助けてくれた駐屯兵から抱き下ろされた時のことを思い出していた。間近で見たその顔は確かに一人前の兵士の顔で、当時子どもだった『彼』に似ても似つかない筈だった。
それがどうだろう。ペタペタと自分の顔を触ってみれば、どうだいあの時の顔と目鼻立ちどころかすべての特徴が合致していた。
少女がこちらを向いた。生気の無い、虚ろな瞳をこちらに向けている。無表情にこちらへ歩いてくる。
『彼』は冒涜にも似たその異状に、明確に恐れを抱いて走り出す。砂は『彼』の靴を捉え、踏み込む度にくるぶしまで沈む。どれ程走る訓練を重ねても、これほどに不安になる足場を『彼』は踏んだことは無かった。まるでいつまでも硬い地面をもたない砂袋の上をひた走っているようだった。
一方で少女は随分と歩くのに慣れていたのだろう。瞬く間に『彼』は追い付かれ、背中を両手で掴まれる。そして仰向けに地の下へ『彼』は落下する。砂に包まれる感触も無いまま、自由落下の浮遊感を『彼』は味わう。足をばたつかせもしない。
見えるもの全てがすり抜けていく。
もはや形而下の事象では抗える気はしなかった。
最後に見た星空の景色が、絵の具をかき混ぜられたかのように歪曲し変化する様を、『彼』はただ見ていた。
ーーーーー
景色が一変した。瞬きすらしていなかったのに、『彼』はその高速の変化を網膜に焼き付けられていた。その火傷もすぐに新たな景色に塗りつぶされる。辺りから焦げつく匂いを嗅いで。
朱い空。50メートルもある白く巨大な壁。そして、小粒の瓦礫が乗った屋根の上。僅かに弧を描いた不安定な煉瓦を踏んで、『彼』は今ある現実が正しいものであると信じようとしている。見下ろすものはその信憑性を何度も揺るがす。
そこには『彼』がいた。『彼』はもう1人の『彼』と向き合っている。涙を浮かべて怯える幼い『彼』に、『彼』は下手に刃を構え突き立てようとしていた。
「お願いです。助けてください……」
「そのためにここにいる!」
涙声で懇願する小さな『彼』に向かって、
自分の混乱とは真逆の明瞭な声が『彼』の身体から突き出た。
(なんだ?一体、何が起きている?)
『彼』は幼子を屋根の上から抱き下ろし、その子どもにかけるべき言葉を、有無を言わさず投げ続ける。
「いいか!振り向かず走れ!時間はないぞ!」
「とうさんとかあさんが───」
「今は自分のことだけを考えろ!親も逃げ切ってると信じてやれ!!」
北へと危うげに走る小さき『彼』。その背を見送る『彼』は、気付きつつあった。己が何者かを。
(ああ。そうか。私は……私には……守りたいものがあったんだ。誰も助けてくれないという恐怖を、救いだしてくれる誰かが現れると、そう思っていたんだ)
「……私は初めから、あの場所から動いていなかった。誰も助けてくれてなんかいなかったんだ。勇敢な駐屯兵なんて初めから居なかったんだ。すべて……すべて私の……」
捏造された記憶だった。
あの日『彼』を助けだし、地獄から連れ出したのは、他ならない『彼』自身だったのだ。過去も未来も無い、同時に存在する二人の『彼』という矛盾。それは、とうに『彼』の理解を超えたものだった。あの場所で駐屯兵から逃げ出そうとした『彼』は、無意識にその事実を拒絶しようとしていたのだ。
「───でも」
『彼』は刃を構え、巨人を睨む。
ガスも、刃も、これ以上無いくらい潤沢だ。使いようによってはこの区内の巨人を全員倒しても余りそうだった。しかし、
もっと便利な身体があったような気がするし、もっと確実に動けるような仕組みがあった気がする。そう思えるほどにこの身体は巨人を前にした恐怖で著しく萎縮して、重ねられた訓練の軽薄ささえも思わせるくらいに危うかった。
一体殺すために何度も刃を叩きつけ、ガスを徒に磨り減らす。不肖で惰弱にして、そして無能。まるで誰かが操っているみたいに、この身体は『彼』のいうことを全く聞かなかった。
「そうだとしても───」
一人の駐屯兵の『彼』は数体討伐したところで胴を掴まれ、死臭と腐臭の漂う大穴へ近づけられていく。挟まれ胴を上下から圧迫されていく。暗く、苦しく、痛く、とてつもない絶望だ。しかし、『彼』の心は未だ折れていない。
「全てが嘘の記憶だとしても。この導だけは消えることは無い」
かくして、一人の贋作の勇気を持った駐屯兵は、世界の真相も知らないまま、臼のような巨大な歯に身体を捻じ切られた。
ーーーーーー
オレは『あいつ』を駆逐しなくてはならなかった。
ーーーーーー
─2─
「リヴァイ兵士長!」
「モブリットか。どうだ?『アイツ』の手がかりは何か見つかったか?」
「それが……」
モブリットに連れられたリヴァイは、石と土が被せられた塚を眺めている。そこには一振りの剣と、調査兵団の外套が被せられていた。先んじて塚を眺めていた団長とキース、ハンジは黙っている。リヴァイの到着を振り向いて視認したキースはようやく口を開いた。
「私は訓練兵一人一人に掛けた言葉をすべて覚えている。意味などなくてもな。確か、私はこう言った。『死体の位置が分かるよう目印を付けておけ』と」
「なら……この下に、誰かいるのか?」
「あり得ん。ならばこの剣を突き立てた者は、一体誰だと言うんだ?」
そこを暴いて確かめようとする者は一人も居なかった。エルヴィン団長でさえも。考えあぐねる暇もなく、モブリットが口を開いた。
「分隊長、そもそも、我々は誰を探していたんですか?」
「モブリット?誰っていやあそれは…………あれ?」
ハンジはゴーグルを外して目をこする。今見えている剣の突き立つ石塚を誰が作ったのか。思い当たる人はついさっきまで記憶の中に確かにいた。そのはずなのに。
「……そもそも、探していたのか?誰かを?」
「何を言ってやがるクソメガネ。俺達がこうまでして探しに来た兵士といえばはたった一人しか居ねえだろうが」
「リヴァイ……じゃあ誰なのか分かるのかい?」
「それは……、…………!」
リヴァイは沈黙した。靄が被さったかのようにはっきりとしない。そもそも誰を救いに来たのか。
「名前さえ浮かばないのか?」
「……『アイ……つ……。…………なぜだ。なぜ名前が浮かんでこねえ……」
当惑するリヴァイを尻目に、エルヴィン団長はキース・シャーディスに尋ねる。
「その言葉を掛けた訓練兵の名前は、覚えていますか?」
「……いいや。そういえば、誰だったか……すまない。私にも思い出せん」
何人も死地に送り続けた男からはあり得ない言葉が返ってきた。
─エピローグ─
「本作戦で巨人の遺骸から新たに回収された遺体はありません。今回の防衛戦の名簿にある参加者の名前と総数は、今いる生存者の数と一致します。これ以上の探索は不毛かと」
「そうか。犠牲者はベルトルトに斬られた数名だけか。無念……。ご苦労だった、ヘニング。……通達だ!これより壁内に帰還する!」
ミケ分隊長の命により、各自準備に取りかかる。そんな中、
「おいミカサ、大丈夫か」
尋ねるジャンに対し、ミカサは自分の頭を手で押さえていた。
(痛みは無い。でも、気になる。頭の辺りが。痛みは無いのに……まるで、誰かを喪ったときと同じ……)
「なんで?どうしても一人だけ、足りないような気がする」
「そうか?俺にはそう思えねえがな」
ジャンはコニーとサシャと見合わせるが、残り二人も同じ感想を抱いてるようだった。
「分からない。でも、でも凄く、皆にとって大切な人だったような気がしてならないの」
「『そいつ』がきっと」
エレンは懐から一冊の本を取り出す。
「この日誌を書いた人のことなんだろうな」
「あ?エレン、お前そんなマメに物事を記録するようなヤツだったか?」
「コニー。それが誰かの書いたものなら、名前があるはずでしょう?エレン、誰なのか分かります?」
「私……としか書いてねえ。名前は無い」
「新兵ども。帰還の準備をしろと言ったはずだが」
ミケ分隊長はそう言いながらも、言葉に怒気は無く、迷いも少なく働き続けてきた新兵達のまごつきに訝んでいた。
「ミケ分隊長。探したい兵士の匂いがあるのですが」
「アッカーマンか。誰なのか分かるか?そいつの名前は?」
「……」
「名がわからんようなら辿りようも無いな。それに、俺の鼻の効く限りは、今日嗅いだ匂いで全員だろう」
エレンはミケに日誌を差し出す。表面に薄く傷が何ヵ所か付いたそれをミケは慎重に受け取り、おずおずと嗅ぐ。しかし、その嗅覚を以てしても、即答は無かった。
「……初めて嗅いだ匂いだな。どこか不思議な匂いだが……」
その言葉に、彼らは覚えの無い焦燥を次々に抱えた。誰のために。何のために。全く身に覚えの無いまま、神経だけがおかしくなったかのように。
「そんな……」
「じゃあやっぱり誰かいるじゃないですか!」
「じゃあ誰なんだよそいつは!?俺達が知らねえ誰かがいなくなったなんて……バカの俺には分からねえよ。なんでこんなに焦ってんだよ!」
「分からない…………いったい私たちは、誰を忘れてしまったというの……」
【私達には、『貴方』が必要】
覚えていない『誰か』に、確かに掛けた言葉。
兵士達が交々言葉をぶつける中、ミカサは一人空を見上げる。雨は上がり雲もどこかへ失せてしまいつつある青空の向こうに、とうに消えた『誰か』との思い出の足掛かりは無いかとまさぐるばかりだった。