名もなき英雄の軌跡(進撃の巨人2二次創作)   作:なげすて

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845年。850年。そして、854年。道の世界ですべての時が交差し、『彼』は友と再会する。天と地の果てに【敵】として。

幻惑の世界に精神を隔離されながらも、身体は地鳴らしを阻む奴隷として動かされ続けている『彼』へ、嘗ての仲間達は痛みを胸に刃を向ける。

『彼』は目を覚ますことが出来るのか。


エンディングD:遊戯の世界の奴隷と、天と地の救世主

 

─1─

 

『彼』は丸薬の力を手放さないことに決めた。

 

「……この力で、今日まで進み続けてきた。どんな窮地も、この力を以てして『私』だけを生かしてきたと、そう思っていた。だから手放しても、なにも変わりはしない。ただ自分の命がどこかで潰えるだけ。そう、思っていた」

 

己への憐憫を『彼』は振り払い、駐屯兵と向き合う。

 

「無力でも、戦うことだけは諦められない。貴方がそうしたように、『私』も、どれだけ犠牲を払っても進まないといけない。皆がそうして、『私』を生かしてきたんだ。なぜ『私』が立ち止まっていられる。死に際すら知らないまま、兵たちが戦い続けたというのに」

 

無風の空間で駐屯兵の手中に浮かぶ青い球体は、既に干満をやめて凝固していた。『彼』はそれを握り潰して、『彼』の胸へと押し込む。冷涼とも灼熱とも感じられる温度を分かち合った『彼』は、確かにその力が戻っていくことを確信する。

 

手からこぼれ落ちた青い破片は、地に触れる拍子に砂塵へと還ってゆく。

 

「まだ変えられるものはある筈だ」

 

無感情に並ぶ無数の両眼。世を去った兵士達の群れを掻き分けて外へと向かうべく

 

最初の一歩を踏み出したその時、

 

「オイ」

 

『彼』の脳内に呼び止める声が響いた。あれ程静かだったこの砂の雪原に、聞き覚えがありそうでなさそうな声が響く。

 

 

後ろを振り向くと、光る大樹を背に男が立っていた。長髪を真ん中に分けた男が立っていたと、『彼』は考えた。何せ、『彼』にはそれが誰だか分からないから。顔がはっきりと見えない。影に隠れてるのか、光に紛れてるのか、絵の具で掻き回されてるのか、そのいずれとも思えるような乱れ方をしていた。

 

その男は『彼』に向かって手を差し出す。駐屯兵と同じように。

 

「その力を手放せ」

「駄目だ。出来ない」

「なぜだ」

「約束したからだ」

 

背中に多くの兵士達の視線を感じる。生者と死者の双方から。『進め』、と。

 

「『私』は進み続ける。彼らの元に帰れるまで」

「『お前』がどうしても止まらないと言うのなら、止まるというまで阻むだけだ」

 

言葉の端に躊躇を感じた『彼』の不意を突くかのように、男は差し出した手を横に大きく薙ぎ払う。

 

星空は去り、黒々とした煙とそれを塞ぐ天蓋のような赤黒い空が『彼』の目に映った。そして、突如『彼』は下から沸き上がってくる熱の波を逃げ場無く味わわされる。下を向けば『彼』は、炎の水の流れる赤土の上に立っていた。

 

さっきの男は何者なのか。一体何をしたのか。そんなことを考える猶予もなく、靴底に痛みと同然な熱が登ってくる。火の粉が靴に付いて燃え始めようとしているが、『彼』は脱ぐ方がより悲惨なことになる、と、痛みに耐えて歩き出した。遠方に見えた火炎を噴き出す山から離れるべく。

 

眼球を圧す熱を押し退けようと瞼を閉じて、肺が燃えぬよう口を閉めて、耐えに耐え歩き続けた。炎熱はくるぶしを越えすねにまで至りつつあり、熱さは痛みに、痛みは重みに変わる。遂には重みが崩れて地へ残され、足取りは軽くなろうとも一歩は小さくなる。不自由だ。

 

しかし熱は確かに『彼』の背後へ追いやられ始めている。牛歩もかくやというほど歩みは遅くとも、熱のヴェールは身体から少しずつ取り払われていった。

 

そんな緩慢な歩みでは足はおろか身体そのものを原型すら留めぬ程に焼き溶かしてしまった頃だろう。だが、なぜだか『彼』は足を残したまま、灼熱から逃げおおせていたようだ。

 

いつ、どこから抜け出したのかも分からない曖昧な境界を潜り抜けた先、空は曇天に濁りながらも白を示し、そこからは一滴の氷の粒が降ってくる。

 

直ぐに一滴は十に。百に千にと増えてゆき、風に乗り万を越える吹雪となり『彼』を打ちすえる。あれほどに長く厭った熱は望み通り急速に奪われてゆく。

 

次はどこへ。次こそは別の場所へ。『彼』は末端の感覚の喪失を早々に知りながら、それ以上熱を失わぬよう、止まらず歩き続けた。

 

焼け溶けて杖のように尖った足は、平面すら残っていないため容易に平衡を崩し、『彼』を地に這わせた。四つ足で『彼』は地を手繰る。前へ。前へ。動き続けて熱を保つ。いつか空が晴れると信じて。

 

しかし『彼』が望む場所は、どれ程歩き続けてもたどり着かなかった。代わりに道は姿と空と地とを変えながら、重苦を『彼』に担わせ続けた。

 

足を失い次は手へ。手を失えば次は体幹へ。進む道具を変え続けども、『彼』が道を出ることは叶わない。全身を伝わる多大な疲労感に、『彼』はうつ伏せのままゆっくりと停止した。

 

しかしその停止も直ぐに中断され、『彼』は再び目を覚ました。炎の水の地に、四肢を揃え『彼』は立っていた。

 

また『進め』と、道は言う。言われなくとも、と『彼』は行く。次こそは足を残せるよう進もう、と。

 

 

 

途方もない歩みの間に、何度も同じ景色を通り過ぎてはたどり着いた。

 

炎の水。氷の大地。砂の雪原。水晶の洞。日の沈まぬ白土。水浸しの森。死の溜め息の流れる黄土。底の見えない奈落。標高も測れない山脈。天を穿つ鋼鉄の柱の群れ。そして、海。

 

そのいずれにも人はおらず、まるで世界から『彼』以外の全ての人を除けたかのように自然で、それでいて過酷だった。

 

それらに出会うたび、何度も行き倒れ、その都度干からびて、猛毒で内から腐り落ちて、凍え焼き付くされ、何時間も落ち続け、吸気を重ねても酸素は届かず、塩水に浸されて溺れ膨れ、何百度も死を繰り返した。

 

意識を失う度に、炎の水が溢れる地平で『彼』は息を吹き返し、また歩いた。ひと通りの死を幾千も繰り返すうち、やがて身体は慣れるも、心は無人の世界への絶望で、死ぬ度に錆び付いた。

 

そしてその錆び付きが心臓の全てを覆い尽くした時、ついに『彼』は歩き出すことすらせず、両膝を付いて項垂れていた。

 

現実の時間にして何年、あるいは何十年、何百年が経っただろうか。

 

有無を言わず歩き続けた『彼』は、たった一言、

 

「疲れた」

 

と溢した。

 

眼前の景色が光る大樹の下へと戻ったことに、『彼』は数秒遅れて気付いた。

 

『彼』は待ち構えていた声の主に頭を掴まれ、右目に手を突き込まれる。

 

本来入りえない場所に腕が入る。その痛みは想像できるはずも無かったが、この場所はその痛みがなんたるも丁寧に教えてくれるらしい。必死に抵抗する『彼』の腕は形は変わらずとも度重なる死の記憶ですっかり弱り、空しく叫ばずにはいられなかった。

 

「がっああっああああ!!!」

 

眼窩を通り越して臓腑にまで腕は達するが、いっこうに蹂躙は収まらず、頭蓋骨の繋ぎ目も引き裂きながら声の主による解体作業は止まらない。『彼』の叫びも喉奥を塞がれか細くなっていき、最早息を吐き出す隙間も無い。

 

体内をかき混ぜる手は何かを掴もうとするが、何を掴むでもなく全て引きずり出した。

 

意識の残ったままの『彼』の遺骸を見つめる男は、諦念の混じった声を発す。

 

「やっぱり駄目か。こんなに手を尽くしても」

 

声の主はそれにどこか懐かしみを覚えるかのように、悲嘆を滲ませる。『彼』も声の主の手が、『彼』の眼窩に向いていないことに気づいた。眼窩の向こうのさらに奥、その男にしか見えない何かを見つめている。

 

その何かを掌握出来ないらしい男は、掲げる手に無念を込めて『彼』を諭した。

 

「もう進まなくていい。もう『お前』は、休んでいいんだ」

 

『彼』の足場がせり上がってくる。砂は『彼』の膝を、腹を、肩を上り、あっという間に『彼』を飲み込んだ。素早く固く閉じていた口も重さに耐えかねてこじ開けられ、次々と砂が身体中になだれ込んでいく。吐き出そうとも上から更に押し潰すかのように砂は流れ込み続ける。

 

肺の中にまで砂を詰められて嘔吐反射を際限なく繰り返す『彼』が砂の中で眼を見開いたときには、さっきまでの不快感が全て消え、『彼』は一変した景色の中に放り出されていた。

 

萌葱色の空と並び立つ何本もの巨大な骨の弦。そして、赤茶色の大地を踏みしめ、一つの方向へ進み続ける赤黒い巨体の群れ。

 

『彼』の網膜はその景色を見ることもなく、一つの大きな蚊帳に覆い隠されるかのように、全く別の景色を映し続けている。たった一つの命令を、もはや自分の指示も聞かない、砂で濾過された身体に下されながら。

 

【灰となるまで戦い続けろ】

 

ーーーーー

 

「消え失せろ!悪夢!」

 

頭骨を目指す車力と104期達と、尾骨へ拉致されたアルミン。二分された目標のうち後方を支援すべく、背後を警戒したリヴァイ兵士長は目撃した。歴代の九つの巨人の群れの中から、

 

外套を纏い、フードを目深に被った一人の人間の兵士の姿を。

 

外套も、兵服も手足も握る双刃も骨のように真っ白で、人相は読み取れなかった。

 

だが、リヴァイは隻眼になろうともその出で立ちを見紛うことは無い。

 

いる筈の無い者がそこにいる。その一点だけが、アルミンが拐かされた直後に、真っ先に追うべきと激を飛ばしたリヴァイを、合理の一身である彼を立ち止まらせた。

 

「……『お前』……なぜ……」

 

兵士長の異変に気付いて全員が振り向く。片隅に追いやられていた筈のその記憶は、全員へと伝播し、蓋を開く。

 

「『彼』は!?」

「なんでここに……『アイツ』が!?」

「フロックと同じで何処かに張り付いてたとか?」

「ありえねえよ。船とは速度も風圧も違うんだぞ」

「違えだろ。お前ら」

 

ジャンは震えながらも訥々と現状を話す。次点の指揮官として。開かれた記憶の瘡蓋をいっそう早く引き剥がす。

 

「そうじゃねえ……分かってんだろ。……『アイツ』がこんな時に、こんなところにいるわけがねえ。『アイツ』は確かに4年前に行方不明になって……もう俺達は捜すことすら諦めたんだぞ?こんな……今更こんな姿で現れやがって───」

「ジャン!!」

 

ミカサの言葉に気付く前に、『彼』がもたげた真銀の刃は、既にジャンの心臓の手前にまで迫っていた。

 

しかし『彼』の白色の右腕は切断され宙を舞い、次の瞬間にはフードごと『彼』の首は飛んでいく。

 

満身創痍でもリヴァイは、『彼』の機動に追い付いていた。『彼』の首を撥ねて直ぐにリヴァイは周囲に警告する。

 

「お前ら、判断を間違えるな!『ヤツ』の身体は歴代の九つの巨人と同じだ!人間じゃねえ!見た目に惑わされるな!!」

 

【人間じゃない】。【惑わされるな】。その言葉に、発したリヴァイ本人でさえ心臓が酷く痛んだ。その言葉をも信じたくなかった104期は、伏して動かなくなった『彼』を見下ろす。地に伏せ骨に取り込まれていく『彼』の背に刻まれた自由の翼は、両翼共に白かった。コニーはその翼に嘗て犯した悔恨を投げ掛ける。

 

「なんで『コイツ』だけ……ダズにサミュエル……死んだ兵士なら他にだっているだろ?」

「……私がベルトルトと戦ってた時に、『彼』がなにかを頻りに噛み潰すのが見えた。『彼』が残した日誌には、『青の丸薬』と書かれてた。……まさか、エレンと同じことをやってたんじゃ……」

「じゃあ何か?人間の姿のまま、巨人化の振りでもやってたってのかよ。『アイツ』の自覚もねえうちに……。はっ。だから、エレンに傀儡として取り込まれたのか!?『アイツ』だけが……」

 

『彼』が残した日誌の内容が、皆の頭の中を駆け巡る。鎧の巨人に勝利したあの記憶を。怒りに溺れた『彼』の危うげな姿を。

女型の巨人の正体に気付いた時の『彼』の動揺を。彼らの調査兵団入団を止めようとしばたたかせる『彼』の眼を。いつだって彼らに追い付こうと足掻く『彼』の抗いを。

 

訓練地でアニの真似をして被った私物のフード。その下に微かに浮かぶ、『彼』の砕けた笑みを。

 

「もしも本当に『彼』なんだとしたら、鎧の巨人を狙う筈だ。だのに真っ先に俺を……」

 

エレンの力で長らく封じられていた記憶を抉じ開けられた彼らの頭は激しく痛み、辛うじて耐えているリヴァイだけが、「……クソ」と、ごく短い悪態を吐けた。

 

シガンシナの奪還に、いつか見た海の向こう。地の開闢に、外交に政争に内紛に。

 

あの時の地獄を超えて4年。古びてやがて開く暇さえ無くなってしまった日誌に、『彼』の名前は無かった。兵士となり2ヶ月後に姿を消した、名も無き歴戦の兵士。もはや名も顔も忘れてしまった『彼』の存在は、忙殺を詰る呪いとなって、854年のこの日に跳ね返ってきた。

 

地鳴らしを阻まんとする者達を殲滅する、奴隷として。

 

尾骨の辺りの望遠から、また人間大の存在が一つ形作られていくのが兵士達に見えた。口を固く結んだ無表情の兵士が起き上がる。『彼』は無感情に右手の刃だけを動かし、ゆっくりともたげ彼らへ突きつける。その合図とともに、白き九つの巨人達は動き出した。

 

怖じ気とも寒気とも呼べる震えが全員を激しく打つ。

 

悪夢が一度で終わる筈もない。地鳴らしを止めない限り、この悪夢は終わらない。

 

リヴァイが間近で見ていた『彼』の剣捌きは、ふた月の間に生半可な兵士を優に凌ぐ程に卓越していた。全盛の彼には、その急成長が危うくも見えた。同期間で同等の境地に達する者も少なくはない。故に足元を掬われ死んだ者も多い。

 

ただ、側で静観していれば、離れず側に付いてさえいれば、やがて並び立つ程の腕にもなろう、と、見守っていた。それがふた月後に消え去ることも、脅威になることも、つゆほども懸念していなかった。

 

五指も満足に残っていない今の彼に、もはや微塵も油断は許されていない。

 

リヴァイは低く唸る。

 

「ふざけんじゃねえ……」

「来るぞ!!」

 

ーーーーー

 

─2─

 

雲がまばらに混じる晴天。眼を閉じて開いて、また閉じては開いた。しばたたかせたその景色に間違いは無い、と『彼』には思えた。

 

「あれ?『お前』、生きてたのか」

 

行き交う兵士の一人にその言葉を告げられたが、『彼』はその言葉を至極当然のものと受け取っていた。

 

その確信をおかしい、と『彼』は思うが、同時になんでもない、と思い直す。いつそのような窮地にいて、そして脱してきたのか。その過程を思い出す必要など無いのだろう。現に今、生きているのだから。

 

「いや、なんだか凄く長い夢を見ていたような気がする。でも…………なんでだろう……思い出せない」

 

記憶が朧気なら、それを思い出す手段は『彼』に幾つかあった。『彼』はそのうちの一つを実践する。

 

「あれ?日誌が……」

 

『彼』は胸元をまさぐるも、内ポケットからは何も出てこない。空っぽの鉄瓶が一つ入っているだけだ。

 

「おかしいな。いつも肌身離さず持っていた筈なのに」

 

最後に持っていた場所を思い浮かべてみようと必死に頭を回しても、ついさっきまで記憶が無い『彼』に思い付ける筈も無かった。

 

「うーん……まあ、いいか。日誌なら新しく買えば。直近に起きたことは、そこらの兵士にでも訊けば良いし」

 

『彼』は素っ気なくポケットを閉じて、衣服をはためかせて代わりに風を詰め込んだ。

 

辺りを見回すと、広場の真ん中に人が入れそうな程の大きな鐘が提げられた鐘楼がそびえ立っていて、側には一人の女性兵士が姿勢を正して立っている。一声掛けると彼女は朗らかに『彼』に問うた。

 

「今日はどうするの?」

「ああ。ここ最近の兵団の進捗を聞かせてほしい」

「進捗って……あなたねえ、兵士なら今までにない快挙を、つい先日成し遂げたというのに。まさか覚えてないの?」

 

冗談でも言っているのかとでも言うように兵士はわざとらしく噴き出す。

 

「……すみません。それが……何も覚えてなくて、だから間抜けにもこうして訊きに来てる訳でして。何があったんですか?」

「俺達は、シガンシナを奪還したんだよ」

 

女性兵士は笑いっぱなしだった。『彼』の疑問に答えたのは、『彼』の背後からする声だった。つられて苦笑していた『彼』はその一声に驚いて振り向いた。そこには所属が互いに異なる、それでいてよく知る兵士が2人いた。

 

 

「ライナー。それに……アニ」

「どうも」

「よう」

「シガンシナ……って、いつの間にそんな……いや、そうじゃなくて、なんで2人が一緒にいるんだよ?調査兵と憲兵だろ?」

「近々また遠征に出るから肩慣らしにな。コイツも呼び出した、ってだけだ。『お前』も付き合え」

 

仲間の頼みとあらば断れない。

 

「分かった。巨人の立体模型の準備をしておく。訓練地は確かあっちだったよな。鐘楼にいる兵士が言ってた通りなら」

「いや、肩慣らしってのは巨人相手のことじゃねえ」

 

あからさまに肩をぐるぐると回すライナーを見て、『彼』は嫌ながらに合点がいく。

 

「……まさか」

「そう、そのまさかだ。まさかアニ、お前が兵士としてより積極的に動こうとするなんてな」

「動かざるを得ない、が正しいね。憲兵団も壁外調査に肯定的だなんて、聞いてない。格闘術も小型の巨人相手には一応有効だ、って、どっかの誰かさんが証明した訳だし」

 

アニは『彼』を睨んでいるが、『彼』の目線はライナーに向いていた。

 

「バラしたのか、ライナー?」

「ああ。『お前』が一年前に抜け駆けしてトロスト区で任務に当たっていたこと。そして、そこで『お前』の披露した格闘術が見事に人を救った、ってこともな」

 

バラされたことへの恥よりも、今にもアニの蹴りが飛んできそうで身構えていたが、いくら待っても襲ってこない。代わりにアニの大きなため息が聞こえてきた。

 

「とっくに観念してるよ、まったく。それに、ここ最近は『あんた』もわたしと一緒に兵士達に格闘術を広めていたでしょ。本当に何も覚えてないらしいね、その態度だと。今じゃ色んな兵団から引っ張りだこでいい加減休ませてほしいんだけど、そこの馬鹿が休暇を返上したがる兵士ごっこ野郎でさ」

「そう……だったんだ。ごめん。全く記憶に無くて」

「……『お前』、本当に大丈夫か?」

 

「うーん……それが、どこまでを覚えていて、どこからを忘れてるのかもハッキリしなくてさ。出来ればもっと多くの人達から話を聞きたい。格闘の件はナシで」

「そう。珍しいね。『あんた』が断るなんて」

 

ひとまず『彼』は人を探すべく、鐘楼の側にいた兵士から聞き及んでいる地図から、訓練地を選択して歩きだした。

 

 

巨大樹の森の樹冠の隙間から穏やかな日差しが差し込んでいる。人為的にしか作れない樹木の規則正しい隙間からはまばらなガスの噴射音と、ワイヤーを巻き取る音が複数聞こえる。

 

穏やかな日差しだろうと思考には涼やかな場所が必要だ。訓練地の木陰、その深緑に包まれて、『彼』は手触りのよい苔蒸した岩に腰を下ろし、今一度思考を巡らせる。

 

「なんだろう……おかしいのは自分だけじゃない。この場所も何か変だ。幾ら兵士のための訓練地とはいえ、宿舎に食堂に上官達の会議所に……こんな一纏まりに色んな施設が都合よく配備出来るものなのか?」

 

鐘楼の兵士が紹介した宿舎や食堂も決して大きくはなく、どちらも入れて五、六十人程度の大きさしかなかった。アニの話が正しければ、憲兵団、駐屯兵団、調査兵団全てが足並みを揃えて進軍を続けているのだとしたら、ここは全員が停泊するには物足りない場所である。

 

「シガンシナを取り戻した、と言っていたか。訊きそびれてしまった。……そうだとするとこの場所は……」

 

「おーい」

「なんだ?また考え事してんのか?」

 

樹冠の下から声がする。見上げる高さから2人の兵士が降りてきた。

 

「コニー。それにジャンも。立体機動の訓練か」

「ああ。大分上達してきたぜ。その証拠に、この間の遠征でも巨人をそれなりに楽に倒せてるしな」

「おう。天才の俺が分隊長になる日も近いのかもな」

 

コニーは得意気に鼻を擦る。擦った跡に土くれが数欠片付いていたあたり、それなりに長い時間訓練していたようだ。

 

「ところで2人とも。あれから家族とは連絡が取れてるのか?ジャンは母さんと?」

「アイツは相変わらず内地で留守番してるよ。まあ子の心親知らずというか、あのまま呑気に待っててもらった方がちょうどいいんだがな」

「そうか。手紙は出したのか?」

「ああ。返事は案外素っ気なかったぜ。こちらに送ってくる手紙にはやれ相手は見つけたかだの、ちゃんとメシ食ってるのか、だの訊いてくるくせに、いざ俺から訊いたら文字が少ねえのなんの…………」

 

胸の奥がなぜかズキン、と痛んだ。

成長痛のような鈍い痛み。『彼』が気にすることもなく、ジャンの話を聞いていた。

 

いつもなら陽気な返事を遠慮なく返してくるコニーが異様に静かだった。同時に喋り倒すことまであるコニーに、何を遠慮することがあるのだろう。『彼』は聞きながらも怪訝な顔をした。

 

「コニー?」

 

コニーは『彼』の視界に入った途端に直ぐ動き出した。『彼』はジャンと話している最中に、視界の端に映るコニーがさっきまで止まっていたかのように思えてならなかった。詰まりを起こした絡繰が人の手で直り機敏に動き出すかのように、『彼』の眼が捉えてからコニーはようやく動き出したように見えたのだ。

 

それでもコニーの顔も言葉も、瓜二つと呼ぶには失礼なほど本物だった。抱いた違和感を『彼』は諌めて聞くに徹した。

 

「サニーとマーティンか?概ねジャンと同じだな。五年も経って落ち着いたみてぇだけど、まだまだ元気だからいっそ手をこまねいてるらしいぜ」

「暇が出来た、ってことか。良いことなんじゃない?」

「良いもんかよ。両親が暇でも俺は全然だぜ?なんせ町にいるこんくらいの子どもに約束しちまったからな。人類最強の兵士になるだなんて大口をよ」

「なんだよそれ。コニー、いくら兄弟がいるからってちびっ子相手に虚勢の張りすぎなんじゃないか?」

「もしコニーのそれが虚勢だ、ってんなら、団長にまで上り詰めたヤツはどんな虚勢を張るんだろな」

 

ジャンはニヤついた顔を浮かべて『彼』をなじる。

 

「団長?団長ってなんだよ?団長といえばエルヴィン団長のことだろ?なんで急にそんな言葉が……ああ、それも分からないんだった」

「上官達の部屋に行けば分かると思うぜ」

「じゃあ、また後で」

 

ーーーーー

 

天と地の狭間に装置の糸1本で吊り下がるジャンは、ライナーの腕を地鳴らしの群れへ落ちぬよう必死で掴んでいる。

 

「すまん。立体機動装置が……破損しちまったようだ」

「ちくしょう……俺は本体がイカれちまった。引き上げられねえ」

「ジャン!手を離せ!もう一度巨人化くらいは出来る!」

「それで……下の超大型の群れに踏み潰されてしまいか?」

「違う!アレを見ろ!」

 

空いた手でライナーはジャンの背後を指差す。逆さまのままにジャンは振り向いて、『彼』の接近を目視で認める。ガスも無しにワイヤーを刺しては跳躍を繰り返しているが、『彼』の背中からその他の巨人のように無色の支柱が一本伸びていて本来兵士のように跳ぶ必要も無い。虫や動物のような本能的に刻まれた習慣を繰り返して、こちらをまんじりと歯牙に捉えようとしている。

 

「クソ……『アイツ』またかよ!これで何回目だ!?」

「ヤツの狙いは今度こそ俺だ!巨人化して食い止めねえと!」

「この宙吊りの状態からどうやって逃げんだよ!やるならここしか無ぇ!人間のままでな!」

「まだ……勝てると思うか?」

「知らねえな!……『アイツ』は諦めなかった。最後まで、お前を殺そうと踠いてたぜ。……けど最後は、アニの水晶を運ぶために……俺達は『アイツ』を見殺しにした。マルコの時とは違う!俺達は『アイツ』を救えたかもしれなかったんだ!!」

 

もしもハンジ団長の作ったシチューを囲んだあの終末の夜のような話し合いが、もっと早くに訪れていたら。

 

この天と地の戦いに至るまでの数日間にジャンが繰り返した後悔に、今や『彼』との記憶まで加わっている。

 

もし、まだガスと刃が残っていれば。もしあの時『彼』を止められていたら。

 

その最たる後悔の末路が今にも迫ってきている。

 

「もううんざりだぜ……俺達にはその責任があるんだよ。ここでケジメ付けなきゃなんねえ!ライナー!お前も手を貸せ!死ぬところまで足掻かなくちゃなんねえんだよ!調査兵団として最後まで抗い続けた『アイツ』のようにな!」

「……ジャン」

 

万事休すと思われたその時、『彼』の右腕は突如音とともに吹き飛んだ。雷槍の爆発でもなく、刃による一撃でもない。何者かの狙撃により、『彼』の行動は明らかに鈍化する。

 

「掴まって!」

 

この場にいない筈の声が聞こえるが、ジャンとライナーは動揺するよりも先に凛と響く少女の命令に従い、飛来する大きな何かにしがみついた。

 

息を吐くのにも詰まる風圧を暫く浴びて、風も緩やかな空域にまで高まった座標で、ライナーはようやく救援の者の名前を呼んだ。

 

「アニ……なんでお前がここに……」

「コイツは……」

 

ジャンがしがみつく物の手触りを確かめると、それは大きな鳥のようだった。

 

「まさかファルコか!?」

「そう。他の皆もいるよ」

「オイ……それ……」

 

ジャン達のいる反対側の翼から、コニーがジャンの背後を指差した。ジャンが振り向くとそこには『彼』がいた。しかし、しがみついた段階で事切れたらしく、下肢は砂状に崩れ始めている。

 

ジャンはファルコの巨人に縋り付く灰色の『彼』の背中に、何かがくくりつけられているのを見つける。『彼』が失った手で取ろうとしていたのはそれだった。

 

「撃ち抜かれてなおしがみついてきたか。……あれは……!」

 

ジャンが溶けゆく『彼』の亡骸から取り上げたそれは、形容するに言葉は最早要らなかった。それは、マルコの立体機動装置。硬質化で作られたものではない、本物の。

 

「なんで『アイツ』が持ってるんだ。4年前のときの『アイツ』ならまだわかる。だがなんで道の世界から呼び出された『アイツ』が……」

「待って。今なんでジャンの口から『アイツ』の名前が出てくるの?」

「アニ……お前も思い出したんだな。俺を殺すために生きてた『アイツ』を」

「あんたらの元に飛んでいる最中にね。……水晶から出たここ数日の中で最悪の目覚めだったよ。……で、まさかその首の無い身体が『あいつ』なの?」

 

ガビは狼狽えてライフルを下げる。カヤを助けたときと同じように。

 

「また私が……皆の仲間を……」

「ガビ。いいんだ。お前は悪くない。『コイツ』は俺達が勝手に諦めて、勝手に見殺しにした。悪いのは俺達だ」

「いいか。『コイツ』はあそこの骨の山にいる他の歴代と巨人と同じだ。何度でも蘇る」

「止めないといけないね。『あいつ』を。……わたしの格闘術のことも覚えてたら、相当厄介なんだけど───」

「違う」

 

リヴァイは班員達を制止する。

 

「そうじゃねえだろ。居所が分からない獣のクソ野郎を探して『アイツ』に手こずらされ続けるよりも……狙うべきは───」

 

その言葉に、ミカサだけは反対した。激しく狼狽えるでもなく、押し黙って怒りのまま目線を向けるでもない。彼女は茫然と、ただ涙を流すだけだった。

 

ーーーーー

 

─3─

 

「失礼します」の一声とともに、『彼』は上官達のいる会議室の扉を開いた。予想に反し、『彼』の視界には眼鏡を掛けた銀髪の兵士が一人、窓の光を正面から浴び佇んでいるだけだった。

 

「リコ班長?他の皆さんは?」

「ああ。どうやら外せない用事があるそうで、今は不在だ。言伝てなら私が請け負うが」

「ええと……今の兵団って、どうなってるんですか?」

「組織体系のことか?まあ……平たく言うなら、三つの団が一つになった、といったところだな」

「三つの兵団……壁内のことは大丈夫なんですか?そんなに多くが調査に出払うなんて」

「王の気が変わったらしい。あの戦いの後、調査兵団の壁外調査を全面的に肯定し、必要とあらば他兵団からの転科も認めることにした。それで、憲兵団、駐屯兵団、調査兵団の3つの兵団を混ぜた部隊が生まれた、という訳さ」

「それで……シガンシナ……ウォール・マリアはどうなったんですか?」

「ああ。取り戻したよ。いや、それどころか……」

 

リコは誇らしげに笑む。そして、数歩歩いて壁面の黒板に張られた地図に指を差す。

 

「あと少しで、海までたどり着きそうなんだ」

「海……知っているんですか、リコさん」

「知るもなにも、ここには○○○○○の仮説を信じた者達ばかりで編成されている。決して多くは無いがそれでも前例の調査兵団より遥かに数が多い。それもこれも、『お前』の導きと奮戦のお陰だ」

「『私』?なぜ『私』の名が出てくるんですか?」

「確かに各班や団員を纏め上げる者は別にいるが、この三つの団の団長は、他ならない『お前』だ」

「『私』が……団長?」

「しっかりしてくれないか?……とはいっても、それほどの抜けぶりは初めて見るな。疲れているのか?」

 

まただ。成長痛のような鈍い痛み。不規則に湧いてくるこの痛みが何を示しているのか、『彼』には分からなかった。単なる疲労からくるものか。それともまだ寝ぼけているのか。リコが挙げた名前の正体が、『彼』には分からなかった。

 

それでもさっきと違い『彼』はその痛みに、関心を寄せずにはいられなかった。

 

「……向いているとは思えません。せいぜいひと班で足掻くくらいの器だと思っていましたから」

「本人の向き不向きの自認は知らないが、選ばれたのは『お前』であることに変わりは無い。この地図を見れば分かるだろう。これまでの軌跡に嘘偽りが無いことくらいは」

「一体どうやってこれ程の進捗を……845年から5年で殆ど何の成果も得られなかった。それがたった2ヶ月で、人員を大きく減らすことも無く、ウォール・マリアまで奪還を果たすなんて……『私』は一体、どんな手段を……」

「夜に出征して、朝には戻る。そういう作戦を実施したんだ。巨人の生態を利用してな」

「可能なのですか、そんなことが。月の無い夜だと松明で照らせる範囲は小さい。ろくに進むことも出来ないんじゃ……」

「ハンジ分隊長が夜でも明るい光源を見つけたんだ。なんでも、燃料の成り立ちまで、我々の想像を大きく上回る代物だと」

「そんなものが……」

 

夕日を頼りに地図を指でなぞる。各地に点在する数十の点に、一人一人兵士の名前が書いてある。

 

現在の拠点にいる人物の名前も、現在地から大きく離れた地点に名前がある。恐らくは制圧した兵士の名を記しているのだろう。その点の群れは、ウォール・マリアよりも更に南に勢力を拡げている。

 

ウォール・マリア以南の地図に描かれた海はあくまで想像上のものなのだろうが、そこに至るまでの道のりは、兵団の描く記号達が正確に描かれている。

 

立木は密度が減り、草原を表す三本線も間隔が開き、稜線は更になだらかになり丘同然の標高になりつつあった。

 

植生とは明確に異なる外的な要因で、地形に影響が出ている。兵団は順当にそれを、海に近付いていると判断しているのだろう。

 

地図に赤く記された一つの箇所、それはきっと現在地を指しているのだろう。その地点は割拠する点達の中で、最も遠い南に在る。

 

「本当に、あと少しで海まで……」

「もうそろそろ休まないといけない時間だ。夕方に入眠するのは、さすがに慣れているんじゃないのか?」

「十分暗さを確保できれば、まあ……」

「では四時間後に、正門に集合だ。各員、待っているからな」

 

地図を見たときに記された名前に、見覚えの無いものが幾つかあった。見覚えが無い、という感覚もまたおかしなもので、既に見たことがありそうで無さそうな、矛盾した記憶が脳を揺らしていた。

 

忘れている人など『彼』の人となりからしてあり得ないというのに。

 

いいや、そもそも『彼』はどんな人だったのか。それさえも『彼』にはまるで理解できていなかった。そう思い至る根拠とはなんなのかも忘れてしまっている。

 

宿舎に入り自室で堂々考えあぐねる頃には、月明かりが窓から差していた。

 

「なんだ?なんで『私』は知ってるんだ?およそ2ヶ月が経ったことをなぜ『私』自身の言葉で説明できた?リコ班長が言及した訳でもないのに。日誌に書いてることすら、一つも覚えていないのにか?毎日、何度も開くものだ。覚えていない筈が無い」

 

新しく買えばいい、と片した日誌の記憶に頼らずにはいられないこともまた益々『彼』を混乱させる。まるでさっきまで忘れていたかのように日誌への愛着が沸々と湧いてくる。新しく買えばいいと思う程度に、取るに足らないはずの日誌に。その理由すら分からないままに。

 

「探しにいかないと。でも、どこへ?失くした場所に心当たりは無い。訪れた場所は無数にある。もう見つけようが……」

「どうした?早く行くぞ」

 

宿舎の暗がりを纏う窓に更に暗い影が射して思わず見やると、鎧の巨人の顔が窓に張り付いていた。その口から、

 

「早く来いよ」

 

とライナーの声がする。

 

恐怖は無かった。探しに行こうという意思に反して、明確に身体はベットに身体を横たえ眠ろうとしている。沈み込む背中は刻一刻と『彼』の意識を遠ざけていく。微睡む『彼』には予感があった。このまま2度と目覚めることは無い、と。

 

もう間もなくその意識も寸断されそうになったその時、『彼』は腹部にのしかかる人並みの重みを覚えて、瞼を開いた。

 

『彼』の仰向けの身体の上に、そばかすを頬に振りかけた長身の少女が民俗を思わせる旧い時代の薄手の衣を纏って跨がっている。目元は見えないが、『彼』は見下ろされているような感覚に陥る。少女の腕は緩慢に『彼』に向かって伸びてくる。

 

「…………」

 

誰だ?という問いすら浮かばないほど朦朧とした『彼』の腕を、少女は力強く掴んで床から引きずり出す。

 

少女は足元もおぼつかない『彼』の手を緩めた力で引いて歩き出した。鎧の巨人の顔を避けるために宿舎の裏口を出て、

正門に向かって彼女は歩いていく。

 

「そこには皆がいる筈」

 

手を引かれたままの『彼』は、予想通り正門に多くの兵士達が並んでいるのを見かける。彼らの背には、自由の翼とも薔薇とも一角獣とも違う、独特の紋章が刺繍され、誇り高くその外套を纏って開門を待っていた。

 

鈍痛がする。兵士達の顔ぶれの中に、なぜか記憶に無い者達の顔ぶれまで並んでいる。名前も浮かんでこない。

 

『彼』は少女とともにその正門に並ぶ兵士達の間をすり抜けていく。掻き分けてではなく、文字通り身体がすり抜けていくのだ。ついには木製の重厚な門も開くこともせず、外にまですり抜けてしまった。

 

「待ってくれ!君が誰なのか分からないけど、外には巨人が───」

 

浮かぶ星空の下に、闊歩する巨人の姿はどこにも見当たらなかった。日が落ちて活動を停止したからではない。『彼』には一目で分かった。『彼』の前には広大な草原が広がっていたからだ。そこには一体も巨人の姿は無かった。

 

草原の先で少女は微笑んでいる。薄手の衣を軽やかに舞わせ両腕を空へ伸ばす。この景色こそが彼女の全てだと言わんばかりに。

 

『彼』はその舞いに見惚れることも無く、別のものに眼を奪われていた。草原の果てにある切り立った崖。そのさらに先に映る、一つの大きなうねり。脅威も無い今、その蒼さはあっさりと『彼』を支配する。

 

地図が記すよりも遥かに近い場所に、それはあった。

 

「これが……海……」

 

もっと近くで見たい、と、『彼』は浜辺を探す。緩やかな傾斜を兵靴で滑り降りると、固い靴底で踏み鳴らすのも楽ではない不安定な足場が出迎える。

 

えっちらおっちら体勢を揺らしながら、手頃な場所に腰を下ろす。少女も当然のように隣に腰を下ろして、月下の水面を見つめている。気だるげに丸めた膝にそばかすの浮いた頬をうずめながら。

 

さざ波は孤独な二人を慰めて、虫の声すら聞こえない静謐で往来を奏でる。

 

「これが、兵士達が望んでいた……『私』が望んでいたもの…………」

 

『彼』の鼓動は静まり返っていた。高揚は無い。厭世の情などあるはずも無い。あれば進み続けてなどいない。それなのに、多くの兵達が望んで止まなかった理想の世界。それを見てもなお、『彼』の心は少しも揺るがない。

 

『彼』は思い出していた。誰かを。

 

「違う。『私』よりも、もっと……誰かがこの景色を、より強く望んでいた気がする。リコさんが言っていた誰かもそうだけど……より強く望んでいた……思い出せ……誰が……外の世界を……」

 

『彼』は記憶を辿る。紙片に記された文字と絵のように、拙くも本人が覚えてさえいれば鮮明な記憶の頁を、一つ捲っては、また一つ捲る。

 

ここに来るまでにも何度となく繰り返してきた想起。その頁は繰返し捲られ続け、微かな折り目も付いている。『彼』が記し、読み返した日誌と同じように、記憶はその色素と疲労を定着させている。

 

記憶に偽りは無い。今日までの『彼』が進み続けてきた道のりは確かに記されていた。

 

円滑に壁外調査を繰返し、人類の領土を取り戻していったという、これ以上無い程幸福な筋書きが。

 

気がかりが一つ。

 

頁には幾つも穴が開いていた。大部分の頁には支障が無い。落丁も乱丁と呼べる程じゃない。そのまま記憶を辿り続ければ良い、と、『彼』でなければそう思うのだろう。

 

頁にはなんら違和は無いように見えた。

 

「そう。見えているだけだ」

 

何度も真実に向け進み続けてきた『彼』に見落としは無かった。

 

糊で無理やり貼り付けられたかのように、穴の開いた頁を重ねられている。穴の下にまだ文字が並んでいるのに、穴にしか見えない。真実と嘯く偽りに『彼』はその下に眠る頁、即ち本来の記憶を呼び出すべく、糊付けされた最初の頁から手を掛けた。

 

『彼』は浜辺の砂を掴んでいた。砂を掴んでいるのに、握力は『彼』の脳裏に感じられた。皮質に刻まれた頁をたなごころにする『彼』自身の手に、更に力を込める。

 

真実のためなら、痛みなど恐ろしくはない。言い聞かせる。激励も虚勢も独りの『彼』には要らない。掛かりもしない暗示を自分に叩きつけ、渾身の力で頁を引き裂いた。

 

種籾を穂から引き剥がすような音とともに、激痛が全身を駆け巡る。声にならない叫びを上げて、『彼』は一握に更に砂を詰める。脳裏を捲り引き裂いて、また一枚。

 

剥がす度に海の端が朱く滲む。染みは勢力を広げ、月下の浜辺を赤く照り返す。

 

苦悶に顔は歪み、口角はねじれ、眉は折れ筋は千切れる。それでも捲るのをやめない。そこに真実があると信じて。

 

捲る度に真実は明らかになる。たった一つの現実を突きつけてくる。

 

体温と同等の熱を帯びた血液を上肢に滴らせ続けていた『彼』は、その腕に破裂音とともに液垂れの弾ける感触を覚えた。

 

無我に己を引き裂いていた『彼』は、そばかすの少女の手が腕を握っていることに気がついた。『彼』を連れ出したときと同じくらい強く。声を挙げないその少女の名も、捲り続けた甲斐あって思い出していた。

 

「ユミル……『私』を、連れてきてくれていたんだな。思い出すために」

 

ユミルの目に宿る光を、『彼』は見つめ返す。幾日ぶりか幾星霜ぶりか、入り交じる時の中再会した彼女の顔に笑みも、まして詰りを訴える相も無い。有るのは

 

【信じていた】希望が目覚めた確信だった。

 

『彼』は再度周囲を眺めてみる。

 

見ていた景色はさっきとは変わらない。森も、海も、草花も風も、兵士達の待つ四方を城壁に囲まれた拠点も、これ以上無い程に精緻な世界。眼を凝らさずとも細部まではっきりと視認できる、美しい世界だった。

 

まるで、誰かが見てきた場所を、そのまま顕したかのように。

 

ここは現実ではない。

 

「思い出したよ。海を見たい。そう言っていた人の名前を」

「起きてくれ」

 

湖面に微生物が生み出した虹を掬い捨てるかのように、『彼』の記憶に染み付いた汚濁は、その一手で綺麗に浄化された。

 

海は、砂の雪原に変わっていた。その遥か先に、光る大樹が月の無い空へと伸びている。

 

『彼』に「起きろ」呼び掛けたその声に眼を向ければ、そこには友が立っていた。

 

アルミン・アルレルトが。

 

自分の体をまさぐってみると、どうだいこの身体はしっかりと形を保っている。さっきまで感じていた頭の痛みも熱も血の海も、すっかり消え去っていた。

 

感覚を今一度正すために眼を凝らせば、アルミンの本来の頭の位置に、彼の胸元があった。

 

「なんだか……姿が変わったような……歳を取ったのか?」

「うん。『君』は、変わらないね」

「アルミン。『私』は、あれからどうなったんだ?」

「分からない。僕にも、なんで『君』が今ここにいるのか。歴代の継承者でもない『君』がなんで昔の姿のまま……」

 

アルミンの目線は『彼』を向いていない。『彼』の背後の誰かを見ている。視線を合わせればそこには、『彼』のよく知る者達が新たに並んでいた。『彼』の知る時点で喪った兵士達の群れの中に。

 

「ミケ分隊長……ハンジさん……エルヴィン団長……」

 

ハンジ分隊長の顔は変わらずとも、羽織る外套は黒く焦げ、翼の紋章は焼け落ちていた。

 

同期の姿も、『彼』には見えていた。

 

「サシャ……ユミル……フロック……ダズ……サミュエル……」

 

【人は、戦うことをやめたとき、初めて敗北する】

 

『彼』は、戦うことを放棄した。エルミハ区でも、逃げ延びた先でも、『彼』は戦うことを諦めた。おめおめと夢幻の世界へ逃避し、それこそ真実と僅かにでも受けれいれた者が、今さら抗い目覚めたところで、真実は手遅れな現実を叩きつけるだけだ。

 

【世界は残酷だ】、と。

 

『彼』が幻惑の世界で忘れていた兵士達の名前と顔ぶれは、『彼』が行方を眩ました先で死んでいった兵士達のものだったのだ。

 

アルミンの瞳に照り返される『彼』の目に、命の光は無かった。『彼』が訓練地で見た落命した兵士の眼。いま背後に立ち並ぶ死者達の瞳を、『彼』は抱えている。

 

「地獄は終わらなかったんだな。『私』は……あんな世界を作り出してまで、『私』が去った後に起こる悲劇から目を逸らし続けたんだ。『私』は、何も成していなかった。ただ、君達を見捨てて、夢の中に溺れていただけだったんだ」

 

故に世界は敗北を、『彼』の届かぬ未来で喪失させることで示した。

 

「そうか。あれは『君』の意思じゃなかったんだ。まして、エレンでも無い、あれは始祖の意思……その依り代として、『君』が選ばれた……」

 

アルミンの合点に対し、泣くことも、怒ることも、謝ることもせず、脱力し諦念だけを込めて『彼』はぼやく。

 

「『私』は必要無かったんだ。あの時、鎧の巨人を殺すために立ち上がる必要も、君達と闘う必要も、一切無かったんだ。『私』は……要らなかったんだ」

「違うよ」

 

アルミンの反駁には、怒りも悲しみも混じっていなかった。

 

真実を伝えるべく真心だけを込めて。

 

「『君』だけじゃない。僕達も、多くの人達を犠牲にしながら進み続けてきた。僕達が手を差し伸べられない場所で、機会で、消えていった人達の数なんて計り知れない。『君』一人が全てを解き明かすことなんて出来やしない。いいや、僕達一人一人に、なんでそんなことが出来るだろう。たった一人の人間に、全てを変えられる力なんてあるわけが無い」

 

「エレンだってそうだ」と、アルミンは胸に手を当てる。

 

「この世界に、必要ない人なんていない。僕達は、誰と共にいるかを決めてここにいる。必要と求め合うことでも、求められなくても、ただ居るだけで、僕達はその命を尊ぶことが出来る」

 

力無く直る『彼』の手を、アルミンは握った。

 

「僕はあの時、逃げ出そうとした」

 

景色が変わる。

また地獄を見せに来るか、と『彼』は身構える。その予想とは裏腹に、『彼』の立つ場所は穏やかで暖かい。

 

それは無人の区内。シガンシナにしては崩落は少ない閑としたその場所は、845年に『彼』が押し込められた、あの避難区画だった。

 

「ずっと『君』に言いたかった」

 

金髪を湛えた小さな子どもがうずくまって泣いている。そこへ同じくらいの年頃の子どもが、街角から顔を覗かせている。その顔立ちは紛れもない、『彼』のものだった。小さな『彼』は泣き腫らしたアルミンに声をかける。あの時と同じように。

 

「僕はあのとき、エレン達の下から去ろうとした。どうしようもない現実に、僕は耐えられなかったんだ。そんな時に、『君』が現れた」

 

二人の童は膝を並べて座る。交わした言葉に重みは無い。それでも、少年が立ち去る頃には、少年の眼に涙の代わりに勇気が宿っていた。

 

「僕には、その瞬間がとても大切だった。日向ぼっこをしたあの時も、栗鼠が僕の手から木の実を食べた時も、エレンとミカサの3人で、丘の上の木に向かって駆けっこをしたときも。僕には、あの瞬間のどれもが、生きるために必ず必要だったとは思わない。でも大切な記憶だ。その瞬間をまた味わえるなら、僕は何度でも立ち上がれる」

 

巡りゆく景色の中に映る小さな3人組。彼らが駆け登ってゆく丘は、今の歳で見れば遥かに小さくて、走る距離なんて取るに足らない。生える木もどこにでもありそうな、凡庸な木だ。それでも、彼らの故郷のあの木だと、あの時3人と言葉すら交わしたことの無い『彼』にさえ理解できた。

 

【この世界は美しい】、と。

 

「その最初の切っ掛けをくれたのが、『君』なんだ。『君』がいなければ、僕は兵士にならなかった。『君』がいたから、僕は進み続けることが出来たんだよ」

 

慈しみを湛えた笑みが、敬意を込めた眼が、『彼』を照らした。

 

「僕を引き留めた『君』が、必要ない人な訳が無い」

「……必要。『私』は……自分の望むままに生きた。君達と共にいることを放棄してまで……。それを……頷いてくれるのか?」

「うん。さっき、似たことを別の人に話したんだ。その人も、誰かとの繋がりを欲して進んでいた。僕達と同じように」

「別の……」

「僕達は今、壁の向こう……外の世界にいる、沢山の人達を救おうと戦っている」

 

『彼』はもう一度、兵士達に眼を向ける。彼らは『彼』を真っ直ぐ見つめ返している。『彼』は眼を逸らさない。逸らさない程に兵士達の瞳に吸い寄せられている。

 

彼らが湛えていたのは死者の無情の瞳ではない。命を宿し、意思を宿し、『彼』に伝えようとしている。

 

【戦い続ける限りは、まだ負けてない】

 

もう恐れはしない。

 

「そうだ……『私』はこれを、ずっと背負っていたんだ」

 

845年に置いていったあの時の背負い袋。とっくに背負うに向いた背丈になった『彼』は、その中から時代に似つかわしくない円筒の立体機動装置を取り出す。過去も未来も同時に混ぜ込んだかのような、物質の混濁。『彼』は今いる場所が、現実でありながらもそれを超越したものであることを、改めて自覚した。

 

巨人の力を持たない兵士達は『彼』の背に手を添える。兵装の背に手は集まり一つの形へと融けゆく。黒き片翼となって。

 

「皆が言ってる。『私』に。【進め】って」

「僕達に、力を貸してくれ」

 

言葉は無い。『彼』はアルミンの願いに、再び命の宿った両目で答えた。

 

ーーーーー

 

尾骨で窮地に陥る兵士達は、九つの巨人どもの包囲網が、切り裂く音と血飛沫とともに綻びていくのを目撃した。

 

「リヴァイ兵長か!?」

「違う」

「じゃあ誰が───」

「誰であろうと、この好機は逃さない!」

 

アニとミカサは看破していた。彼女らに比するその斬撃の持ち主を。背中を預けるに値する兵士の似姿を。

 

ミカサは一太刀でアルミンを囚われから解放した。

 

アルミンを閉じ込めていた巨人の舌を切断したコニーは、アニに落下するアルミンを受け止めるよう呼び掛けるが、そのままの落下速度ではアルミンは激突に耐えられない。

 

落下するアルミンを『彼』が抱き止め、減速しながら静かに女型の手に乗せた。女型の両肩に、兵士達は合流する。

 

「アルミンはわたし達で守る。『あんた』は頭骨にいるジャン達をお願い」

 

アニの言葉を、『彼』は見上げて静聴する。兵士達には見えた。『彼』の眼に宿る命を。今この場にいる『彼』は、隷属から解き放たれた『彼』そのものだ。

 

掛けたい言葉は幾つもあった。『彼』が去る間際に語り掛けた時と同じ悲哀が兵士達を駆け巡る。ここを逃せば、きっと今度こそもう会えない。4年もの年月の隔たりは、『彼』の寂寞をも塗り替えるほどに重く、昏かった。

 

しかしあのときと同じく、時間も無かった。許されたごく僅かな猶予に、掛けられた言葉はコニーからの一言だけだった。

 

「行くんだな?」

 

『彼』は頷く。『彼』から言葉は無かった。動くことこそ、譲歩された最善の権利なのだろう。心臓の敬礼も無しに『彼』らは精一杯見つめ合う。最後の再会と別れを、次こそは二度と忘れないように。

 

『彼』は残り僅かな猶予の間に、遥か上空から聞こえる羽ばたきの先、リヴァイ兵士長を一瞥してから翔び出した。

 

リヴァイはその勇姿を見ながら、一つ思う。バリスに対して案じた時のように。

 

(……そこにいるんだな……なら、俺から言うことは何もねえ。もうロクに動けもしねえ俺が、『お前』を手放してから何年も待った。向こうにいる奴らに伝えてくれ。俺達は今でも……諦めちゃいねえってな)

 

惜別の祈りを込め、彼の名を呼ぶ者へ、リヴァイは刃を握り飛び出した。

 

─4─

 

 

「行け!!ジャン!!」

 

ライナーの声と共にジャンは空へ飛び出す。

 

(尾骨の方で何か動きがあったらしいが……戻る訳にもいかねえ。好機はここしかッ!)

 

起爆装置を掴むために刃を仕舞った今、ジャンは巨人の猛攻を全て掻い潜らなくてはならない。動きの全てを回避だけに絞り、それでもなお巨人達の強襲は絶えずジャンを引き裂こうとする。

 

迫る巨人達の凶手をもんどりうちながら掻い潜る中、ジャンの全速力の機動に追い付かんとする音が聞こえた。

 

アンカーを繰り返し刺しては引き抜いて、それでいてガスの噴射音の無い歪な音の重なり。そんなことが出来る者は一人しかいない。

 

「まさかまた───」

 

警戒を抱くよりも先に、斬撃はジャンを追い越した。ジャンの障害になる巨人どもを、白き兵士が無二の体運びで次々と斬り倒していく。

 

「『お前』……」

 

『彼』なら今この場にいる誰よりも動ける、そう決め打ちしたジャンの勘繰りに裏切りは無い。立ち止まらず二人の兵士は疾駆し、飛翔する。

 

(アイツを殺そうと決めたとき、『お前』のことを思い出していた。あの骨の燃えカスのこともそうだが、『お前』ならどうするか、って。始祖の力で忘れさせられていた間にも、きっと俺は、俺達は、無意識に『お前』の姿を追い続けていたのかもな)

 

昔に繰り出した完璧な連携を、ジャンは『彼』とともに再現する。ジャンに攻撃の手は無くとも、『彼』一人が二人分の刃を担う。ジャンの進む先に立ち塞がる巨人どもは、嘗ての人類最強を彷彿とさせる『彼』の多重の一閃に瞬く間に倒れ伏していく。

 

最後の1体を蹴散らした時には、ジャンは『彼』を追い越して、装置を抱き抱えていた。

 

装置に手を掛けた時、ジャンの脳裏を記憶が駆け巡る。嘗ての喪失と、未来への喪失。友と友。二人の兵士を喪う未来を予感しながら、ジャンは目蓋を震わせる。

 

「この……死に急ぎ……くそ馬鹿野郎共が……」

 

ジャンは密やかに噛み潰して、起爆装置を壊れんばかりに押し込んだ。

 

終尾の巨人の首は爆発した。

 

爆風はジャンを地へと落とそうとし、アンカーが骨から外れる。

 

「落ちっ───」

 

ジャンの背中に何かが広く衝突する。ジャンは傷を負うでもなく、焦りもしない。誰かが言っていたことを思い出す。いつだったか立体機動をし損じて落ちそうになった時、ライナーとベルトルトが助けてくれた、と。

 

「『お前』って奴は……」

 

背中を支える無機質な感触に、ジャンは確かに『彼』の存在を感じ取る。その身体に体重を預けそうになったところで、ジャンはすぐに放り出された。ファルコの巨人の背中の上へ。ジャンには、『彼』の背中が見えた。

 

奴隷となっていた『彼』の背は、ついさっきまで白い両翼を懸けていた。しかし今だけは、右の片翼は漆黒に染まっている。

 

もはやこの場にいる生者達の誰一人として背負っていない、自由の翼の外套。『彼』だけがその過去を、背中に括り付けられた支柱を引きちぎり、現在を背負って跳躍している。

 

終尾の巨人の首から青白い光が迸り、ムカデと形容するしかない超生物がその長蛇を引き出し暴れさせる。

 

背中を押す人達の声が聞こえる。『彼』の自由の翼になって。

 

【進め】

 

鎧の巨人が押さえつける光るムカデに『彼』は刃を叩きつけた。手応えがあった気はしない。鎧をも貫ける硬質の刃でも血は一滴も流れ出ず、ヒリリリと鈴のような音が鳴りながら、『彼』の刃はムカデの身体と共鳴する。

 

ライナーは目撃する。光るムカデへ刃は沈み込んだ。刃どころか延伸した柄や『彼』の手や腕まで、光るムカデの中へ沈み始めている。

 

しかし斬られたような悲痛な反応はムカデから見て取れない。否、切っ先は文字通りに沈んでいっているのだ。奇妙な青白い光を沈む切っ先から発しながら、引きずり出そうと足を踏ん張るも、『彼』の足もまたムカデの中へ沈んでいく。

 

《『お前』……まさかコイツに食われてるのか?》

 

兵士、戦士、どちらでもなく、ライナー・ブラウンの脳裏をトロスト区で喪ったあの日がリフレインする。そんな中で、彼は手を伸ばした。マルコと姿を重ねる『彼』へ。

 

ライナーには見えた。彼を見つめる『彼』の眼を。そこには怒りも、憎悪も無い。

 

『彼』はただ食われていくだけの兵士では無かった。ライナーにはどちらにも見えた。抜け出すべく踠いてるようにも、取り込まれていく先からムカデの身体をこじ開けようとも。いずれにせよ『彼』は、この期に及んでまだ不乱に抗い続けている。『兵士』として。

 

《そうだ。……そうだよ。『お前』はずっと、そういう奴だった》

 

ライナーを苛み続けた4年もの歳月。そこに『彼』の記憶は無かった。『彼』を不在としてなお、その記憶は幸福で、恐怖だった。

 

終末の夜を越えた馬車の中で「お前には謝らない」とジャンは述べた。ライナーは望んでいた。許されぬまま生きることを。

 

そこに上乗せされた、『彼』との戦いの記憶。共にあり、互いに争い、この戦いで復古した二つの揺れ動く記憶。ライナーがこれまでに圧殺してきた許しの機会。たとえ全ての罪が許されなくても、ライナーが許しを拒絶しても、『彼』だけはその罪咎を、その目線一つで許していた。

 

《……ああ、『お前』は本当に、俺の望まない物を一番にくれる。応えるさ。今度こそ。兵士として、最後まで責任を……果たす!!》

 

ライナーは手を差し伸べるのを止めて、代わりにムカデに食い込ませた。残りの兵士達が逃げおおせるように。アルミンの爆破に繋げるために。その遠くの尾骨にいるアルミンの声を、頭骨にいる『彼』の耳は拾う。

 

「皆の力が無ければ、地鳴らしは止まらなかった」

 

身動ぎ出来ないほどに完全に取り込まれつつあった『彼』の身体は、背後で赤熱するアルミンの熱波が到達するよりも早く、一縷の稲妻となって空へと駆け上り、ムカデから逃れた。

 

固唾を飲んで『彼』を見守っていた兵士達の眼は、爆心の中飛んでいく寸前の『彼』の最後の姿を捉えていた。

 

『後悔は無い』

 

天と地の戦いにおいて終始無言の『彼』だったが、フードの下の貌はそう言っていたような気がした。

 

そして『彼』は、天を目指して、境界を超えた。時も、場所をも超えた未知の世界へ。始祖もエレンの感知をも及ばない、途方もない彼方にある、ここではないどこかへ。

 

 

─エピローグ─

 

 

 

「巨人を駆逐するオレの望みには『お前』が邪魔で、オレがアルミンを人類を救った英雄として立ち上がらせるためには、『お前』は必要だった。……『お前』はやっぱり、必要なヤツだった」

 

849年。パラディ島。地鳴らしが始まる少し前。

 

独房の中、エレン・イェーガーは一冊の古ぼけた冊子を手に、静かにそれを眺めていた。陽の届かない地下であっても、間近のランプの光を使って、食い入るように眺め続けている。いつ頃からかは他の誰にも分からないが、何度も繰り返した習慣だった。

 

エルミハ区で託されたあの日から、内紛でも、シガンシナを奪還した時も、海を見た時も、マーレに渡った時も。ずっと、ずっと。

 

【その日誌、いつも眺めてるけど、一体いつからそんなマメに記録するようになったのさ?】

 

と、頓狂な声を出したハンジを追い払って暫くが経った今、彼は思う存分独りごちる。

 

「やっぱり、誰も覚えてねえんだな。オレ以外には」

 

唯一残った『彼』の手がかり、『彼』の日誌を閉じて一度撫でる。『彼』が残した未知の言語を紐解くメモを読んでから、解読にはそう長くかからなかった。とうの昔に止まってしまった、『彼』の最後の痕跡を、エレンは何度も繰り返し読んでいた。エレンが見た過去と未来に、『彼』の姿を懸命に探していた。

 

「『お前』があの先で何をするのかは分からねえ。オレ達の知らない先の時代なのかもしれねえし、もしかすると、そもそもオレ達の記憶が存在しない、全く別の世界に行ったのかもしれねえ。だが、『お前』がそこに行ったことには、多分、意味がある」

 

エレンは振り返っていた。勲章授与式の時に見た、未来と過去の記憶を。

 

「考えたことがある。始祖の巨人の力が、どこから来たのか。いつからそこにあったのかを。最初にその力の存在を知り、触れたのが、本当に始祖ユミルだったのか。……多分、オレも始祖も知りえない遥か昔にも、この力に触れた者がいるんじゃないのか?この力で、何かを成そうとした誰かがいたんじゃないのか。だとすると、オレが巨人の力をこの世から駆逐したとして、その後はどうなる?また形を変えてあの力がどこかに眠って、また誰かがその眠りを覚ますんじゃないのか?……そんなことで、オレで終わりにしたと言えるのか?もしまた力を手にした者が人間だったら……歴史が繰り返されるんじゃないのか?」

 

エレンが試みては分かれてきた世界線と、始祖ユミルが手にする前に力を得てきた、無数の担い手達。エレンがその担い手の一人として力を放棄する役割を持つと仮定するのであれば、世界線を一つに纏め、力そのものを誰にも手に出来ないよう駆逐する役割は、エレンではなく『彼』が持っているのかもしれない、と彼は導きだす。

 

「オレがやってきたことのほぼ全てに意味があるのだとしても……オレが進み終えた先の未来までは分からない。でも、『お前』なら、その答えを出せるのかもしれない。オレはここまでかもしれねえが、ここから先は、『お前』に任せる」

 

エレンが未来へと送った『彼』が何をするのか、エレンには分からない。今分かるのは、『彼』を駆逐した存在が、他ならないエレン自身であることだけ。

 

「オレが見た未来に、『お前』の姿は無かった。けど、過去にも『お前』は居なかったんだ。なんでだ、ってオレは思った。今なら分かる。そう決まっている理由が、あんな結末になるからだなんて、あの時『お前』を失ったばかりのオレは知りもしなかった。オレが皆の記憶を消去して、【過去から今に至るまで、『お前』が初めから存在しなかった】ことにするなんてな。……アッカーマンは改竄の影響を受けないらしいが、消去の影響は受ける。少なくともそれで、ミカサや兵長にも暴かれることなくここまで進んでこれた」

 

捲るページは一つの項に止まる。

丸薬の実験結果に。

 

「丸薬を繰り返し使い続けた『お前』は、巨人に身体が少しずつ近付いていた。だが『お前』の身体は拒絶を続けた。拒絶したところで免れる訳じゃなかったが、拒絶を続ける中至ったのが、精神だけを道の世界に接続させることだった。夢に光る大樹が出てくる、ってこの日誌には書いてるから、そう読み取れる」

 

足掻き続けたエレンには、地鳴らしを起こさず、世界を平定し、仲間の犠牲を出さずに始祖と己の望みを叶える道は、見いだせなかったらしい。未来の自分がそう宣告するのなら、『彼』の末路もまた、エレン自身で決めたものなのだろう。

 

「精神だけを世界に踏み込ませることが出来るようになった『お前』は、未来のオレにとって消すのにこの上なく都合が良かったらしい。始祖の巨人がユミルの民の身体を作り替えた事例を応用して、『お前』の肉体を消して、精神だけの『お前』を道の世界に閉じこめた。宿舎も人物も忠実に再現した、いわば遊戯のような世界に、な。ついでにその世界で、『お前』の身体の向こうから覗いてる連中も探したが……どうやらオレには届きえない場所にいるらしい」

 

『彼』を小さな世界に捕らえること。それは、エレンが味わう世界の複雑さという真相に対し絶望したその前例を、『彼』に味わわせないがためだと、エレンは己に言い聞かせる。

 

「だが『お前』は、これから数日後に起きる『天と地の戦い』に現れて、皆の失われた記憶を呼び起こす。結末を変える程のものじゃなくても、未来のオレは、相当『お前』を恐れていたんだな。『お前』のせいで未来が変わるかもしれない、って。……そうまでして遠ざけたのに、オレ達は……本当に『お前』のことを…………っ。……忘れたくないんだな」

 

頬を伝う一筋の軌跡を、エレンは上裸の腕で拭う。血も涙も流せなくなった『彼』の代わりを引き受けるかのように。

 

誰にも聞かれない自問自答を終えて、エレンは日誌を木製の机に置いた。

 

「コイツは置いていく。もう連れていける気もしねえし、全てが終わった後で誰かに見つかる訳にもいかねえからな。ここで永遠に埋めておくのが丁度良い」

 

戦鎚の力が湧き上がるのを覚えて、エレンはもう一度だけ、『彼』の遺した日誌を見つめる。戦鎚の力で埋め尽くされるこの独房をわざわざ掘り返す者もいないだろうと踏んで、これから瓦礫の中へ永久に散らされる『彼』の生きた証を脳裏に刻み付ける。時に迷いながら、悔いながらも信じて進み続けてきた少年は、長い、長い葛藤の果てに、

 

「…………じゃあな」

 

もはやエレンの記憶にしかいない『彼』に別れを告げて、巨人の力に身を委ねた。

 

 

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