「どうしてこうなった...?」
全身から力を抜き、俺様は震えた声で、かすかに呟いた。
歴史上最強の雷魔術師、七賢人の一人、蒼雷の魔人シャルル・エクレール。
そう、全て俺様のことだ!
巨大なドラゴンを幾度となく蹴散らし、魔物共から民を守り、雷魔術をさらなる高みへと押し上げた天才。その功績と力によって、俺様は七賢人へと上り詰めたのだ。
人々はそんな俺様を見て嫉妬し、尊敬し、恐怖し、そして崇拝した。
俺様は天才魔術師のはずだ、天才で最強であるはずのこの俺様が、
今、ダンジョンの奥底で空腹により死にかけている。
...どうしてこうなった?
ここは古代の魔術師アルカナスが築いたとされる、本来立ち入り禁止の最難関ダンジョンだ。七賢人、あるいはそれと同等の力を持つと認められた魔術師に率いられたSランク以上の冒険者のみが立ち入ることを許されている。当然、助けなど来るはずがない。
「素直に冒険者を雇えばよかった、あのとき一人で潜ろうとした自分を、本当に殴り殺したい。こればかりは俺様の完璧なる失態だ。」
拳を硬い地面に叩きつけながら、悪態と反省を繰り返す。しかし、そんな行為が腹を満たすわけもない。それどころか、飢えは思考力を蝕み、理性を奪い去っていく。
古代の魔術師アルカナス――魔術の始祖とも呼ばれる伝説の存在。過去現在を通じて誰も再現できなかった「転移魔術」を操り、空間はおろか、過去や未来すら自由に行き来したとされている。
俺様がこのダンジョンに踏み込んだのは、その転移魔術の遺物を手に入れ、雷魔術を極限まで進化させるためだった。
「せめて、このダンジョンマップが粗悪品でなければ!」
ダンジョンに入る直前、露天で買った粗悪極まりない地図。近くに冒険者でもいれば、その価値のない偽物だと気づけたはずだった。
しかし、冒険者統制法が定める「ダンジョン内の獲得物はパーティーメンバーと等分する」という規定が俺様の判断力を鈍らせた。
馬鹿なことに、誰一人冒険者を雇わず単独でダンジョンに潜り、結果、トラップに引っかかり、落とし穴に落ち、未到達の階層へと迷い込み、今、飢えに苦しんでいる。
だが、転移魔術の遺物を冒険者ごときに渡せるわけがないだろう!どうせ彼らに渡してしまえば、二束三文で質屋に流され、何の価値も理解しない貴族どもの飾りになるのが落ちだ。
それならば、七賢人たる俺様が正しく研究し、魔術の発展の道しるべとする方が、遥かに世界のためではないか?
俺様は間違っているか?俺様の判断は正しかったはずだ!
いや、正しいわけないだろ、こればっかりは俺様が普通に馬鹿だった。せめて、罠の専門家である盗賊職の冒険者一人だけでも雇うべきだった。
「あぁ、俺様はここで死ぬのか」
アルカナスのダンジョンは、魔物の脅威よりも、アルカナスが侵入者撃退用に仕掛けた魔術トラップが圧倒的に難易度を上げている。幻影で通路や宝箱を偽り、踏めば上下左右の感覚を反転させる魔方陣。どれもこれも、天才的なまでにたちの悪い罠ばかりだ。ゴーレムもAランク級の実力を持つものばかりで、倒す度に魔力を消耗させられるのが鬱陶しい。
「アルカナスのダンジョンには、記録上、魔物のような生物はいないとされている。だが、ここは人類未到達の階層...もしかしたら、魔物がいるかもしれない。そうすれば肉が手に入る...。いや、贅沢は言うまい。ネズミでも、虫でも、埃でも何でもいい。何か、食料になるものを...」
ブツブツと独り言を吐き出しながら、最後の気力を振り絞って立ち上がった。薄暗く、硬質なレンガで覆われた通路を、警戒しながら歩き出す。
ダンジョンには魔力を巧妙に隠した罠が張り巡らされており、七賢人の俺様でも魔力感知を少しでも怠れば、あの忌まわしい落とし穴のように、すぐにトラップの餌食になってしまう。
「ニャー」
その時、思考の合間を縫うように、かすかに猫の鳴き声が聞こえた。
猫?こんなところに?ここはアルカナスのダンジョンだ。猫なんぞいるはずがない。
しかし、魔力感知の精度と範囲を拡げて確認すると、確かに微弱な魔力を帯びた猫のような反応がある。
いつでも反撃できるよう、慎重に鳴き声のする曲がり角に近づき、そっと顔を覗かせてみた。
猫だ、本当に猫がいる。
街で見かけるなら何の疑問もないが、このダンジョンで、しかもこんな深層で生き残っている理由が理解できない。何かの罠か?
そして、よりにもよって黒猫だ。忌々しい。
黒い毛並みは、不幸と嫌悪の象徴。かつての人間と魔族の戦争で、魔族の王が黒髪であったこと、そして黒髪の子どもが他の者より多く魔力を持って生まれる傾向にあることから、「魔王の血を引く者」として迫害されてきた歴史がある。
今の時代では迫害こそないが、根強い偏見が残っていた。俺様の髪は基本、美しい金色だが、少しだけ黒色の髪が混ざっている。それだけのことで親に捨てられ、エレノアに拾われるまで俺様はスラム街で幼少期を過ごした経験があった。
そのこともあり、俺様は黒いものが嫌いだった。切っても切っても生えてくる自分の黒髪が嫌いだった。
しかし、目の前のそれは、微々たる魔力しか持たない、ただの猫のようだ。
ちょうどいい、猫を食ったことがないが、遠い国では食用としているところもあるらしい。いいご馳走が手に入った。
俺様は素早く猫を捕まえようと手に魔力を込めた瞬間、黒猫はさっと背を向け、見えない糸に引かれたかのように、流れるような動きで逃げ出した。
「俺様の殺気に気がついたのか?猫のくせにやるではないか!」
しかし、みすみす食料を逃すほど俺様も甘くない。
すぐに手に込めた魔力で魔術を構築する。
「【雷撃の矢(ライトニング・アロー)】」
バチバチと雷光が弾ける矢の形をしたイカズチが音を置き去りにして黒猫に向かって放たれる。
しかし、黒猫はくるりと身をひねり、紙一重でその魔術を躱しながら、通路を走りぬけていく。
「はぁぁあああ!?ライトニング・アローは威力こそ低いが中級以下の魔術では最速を誇る魔術だぞ!それを逃げながら躱すなど、あり得ん!もしあいつが人間だったら、王国騎士の騎士団長にでもなれるんじゃないか?」
七賢人、しかも俺様のライトニング・アローを飄々と躱す。その驚異的な身のこなしに感心しつつ、追いかけていると、
「ニャニャニャー!」
黒猫が甲高い声で鳴いた。すると、その足元に即座に魔方陣が形成され、リンゴほどの大きさの火の玉が猛スピードで飛んできた。
次は魔術だと!?
驚きながらも、すぐに冷静さを取り戻し、水属性の魔術を展開して、瞬時に火の玉を打ち消した。
「ただの猫が魔術も使えるのか!しかも魔術の構築スピードも精度も悪くはなかった。もしあいつが人間だったら、俺様の同僚にでもなってたかもなぁ!」
ハアハアと息を切らしながら猫を追いかけまわす。
右や左やと長い間逃げ続けてきた黒猫だったが、ついに行き止まりの道に入り込んでしまった。観念したのか、その足をぴたりと止め、鋭い金色の瞳でこちらを威嚇し始めた。
「シャァァァ!!!」
逃走経路を立つため、周囲一帯に瞬時に結界魔術を張り巡らせる。勝利を確信した俺は黒猫に優越感を込めた声で話しかけた。
「惜しかったな、黒猫。猫でありながら魔術を習得したお前には敬意を払うが、お前は俺様の血肉になってもらうぞ」
魔力を右手に込め、トドメの一撃を放とうとした、その刹那――足元の石床が、青白い光を放ち始めた。
「な...っ!?魔方陣だと!?」反射的に目を背ける。
七賢人の一人である俺様が見たこともない、あまりに複雑で巨大な魔方陣。床いっぱいに古代文字が刻まれ、しかもその解読の難しさ、ここはアルカナスのダンジョンだ。導かれる答えは一つだった。
「ニャニャ!?」
「まさか、転移魔術の魔方陣か!?」
もし転移だとしたら、行き先はどこだ?高位魔物の巣窟か、煮えたぎるマグマの底か、それとも即死級の毒ガスが充満する部屋か。ダンジョン内の仕掛けである以上、無事なはずがない。
だが、もし、もしもだこれが本物の転移魔術だとすれば外に出られるかも知れない。
「どうせ、このままでは飢えて死ぬだけだ、一か八か、賭けてみるかっ!」
魔方陣への干渉を即座に諦め、全魔力を注ぎ込んだ頑強な防御結界を自身の周囲に展開する。
「...どうにかなってくれ」普段の自分であれば絶対に口にしない、根拠のない祈りを抱きながら、転移魔術の奔流に身を任せた。眩い白光が視界全てを焼き尽くし、俺様の意識は深い闇へと沈んでいった。