ガタゴトと小気味よい音を立てて走る馬車の中、ティムは俺様を膝の上に乗せていた。その小さな手で広げられているのは、表紙に『魔術学・初学者用』と書かれた分厚いテキストだ。ティムは、これから始まるエシュールの講義をワクワクした様子で待っている。
「いい? ティムちゃん。このテキストは、そこら辺の田舎の露店に置いてあるようなパチモンじゃなくて、王都の学術院が監修したちゃんとした魔術学の教本なんだからね! 初学者用とはいえ、もの凄く高いんだから!絶対に汚したりしないでよね!」
エシュールは赤髪を揺らしながら、人差し指を突き立てて警告した。だが、テキストの悲惨な様子が俺様とティムの目に映る。
「いや、それにしては随分とページの端がよれているし、妙な汚れやシミが目立つようだが?」
「こ、これは、私が学生時代に血と汗と涙を流しながらたくさん使ってたんだから汚れるのも仕方ないでしょ! そんだけ熱心に勉強したっていう努力の証なの!あと、その茶色いシミも……ちょっと夜更かし中にコーヒーを零しちゃっただけで……」
こいつ、本当に魔術師か?魔術師の魂とも言える魔術学の教本にコーヒーをこぼすなど言語道断、昔ならそれだけで破門にされてもおかしくない。
さっきまで尊敬で目を輝かせていたティムも、今は完全にジト目でエシュールを見つめている。
「……そんなことより! はい! 雑談は終わり! 教科書15ページを開いて!」
露骨に話題を逸らしたな。だが、さっさと現代の魔術学とやらを拝見したいため、俺様もあえて追及はしないでおいてやる。
「こほん! 今から数千年前、魔術が生まれた黎明期は『詠唱』によって魔術を使っていたの。術者のイメージと、言葉に宿る意味――いわゆる言の葉の力によって事象を固定して発動させる。ここまでは分かるわよね?」
「うん! その言葉の意味を、さらに数式から導き出した『魔法陣』によって3次元の空間に幾何学配置して、より複雑で強力なものに発展させたのが、今の現代魔術なんだよね!」
「その通り、予習バッチリね! つまり魔術学とは、初歩的な言葉による発動の法則から、空間配置における数式的な効率化までを体系的に解き明かす学問なの。さぁ、ガリガリ張り切って勉強していくわよ!」
* * *
それからの数時間、馬車のランプの光の下で繰り広げられた講義を聞きながら、俺様は内心で凄まじい衝撃を受けていた。
「――つまり、ここのルーン文字を単に直線で繋がずに、螺旋状に配列することによって、魔力の繋がり形成されるの。これで魔力消費量を極限まで抑えながら、さらに術式を詰め込んで威力を高めることができるわけ!」
「なるほど……!これを使えば小さな魔法陣1つでも高威力な魔術が使えるんですね!すごい!」
「そして、この公式が、魔力消費量の概算計算に使う【基礎流動公式】。感情による精神的変数や、周囲の環境マナの吸収量なんかは入学レベルの試験だとすべて『微小な誤差』として無視されるから、今は覚えなくていいわ。ひとまず、この公式の導き方だけ頭に叩き込んで、こっちの練習問題を解いてみて!」
まさか……ここまで魔術の一般化が進んでいるとは。魔術のあり方そのものが変わったわけではない。だが、昔に比べて明らかに魔術は効率化され、かつて天才たちが一生を捧げて模索した知識は、無慈悲なまでに公式へと置き換えられ、誰にでも解るように噛み砕かれて記載されている。
しかも、だ。教科書をチラホラと盗み見ていると、かつて古代の七賢人の間で日々議論を交わし、話し合っていた最先端の原理・法則が、一般の学生向けの基礎知識として、何食わぬ顔で並んでいるのだ。
このレベルを、今の時代の子供たちが当たり前のように学ぶのか。 はは、面白いではないか……!
「どう? ねこ師匠」
エシュールが、問題を解くティムの頭を撫でながら、ニヤニヤと俺様を見下ろしてきた。
「あなた、ティムちゃんの師匠なんでしょ? あなたって魔力の使い方はとんでもなく上手だけど、知識が古いものね。まあ、古代の魔獣?なんだから当然だけど。最先端の魔術学は、新鮮でついていけないんじゃない?」
「……いや、これだけでも大きな収穫だ」
俺様は喉の奥でゴロゴロと興奮の音を鳴らした。
「かつて俺様たちが――いや、かつての七賢人たちだけが秘密裏に議論し、体系化してきた魔術の原理や法則が、よもやこのような初学者向けの教科書に載り、まさか学生が学んでいるとはな。ここまで魔術が普及し、洗練されているとは、正直に言えば興奮を隠しきれん」
未来の教科書といっても、所詮は基礎だ。ブランクがある俺様でも、背景にある理論はすべて理解できる。しかし、教科書レベルの内容であっても、俺様が知らなかった新しい定義や法則、さらには未知の公式がたまに混ざっている。
まさに目から鱗。痒いところに手が届くような知識とその最適化がなされており、読んでいて全く飽きない。教科書でこのレベルなのだ。王都の魔術学院で行われている研究や講義は、一体どれほど高レベルなものか。それを学べば、俺様の魔術はさらなる高みへ至るに違いない。
「しかし、エシュール。現代の魔術は文字配列を螺旋状にすることが主流のようだが……。これによって魔力消費が抑えられ、威力が強化されるのは理解できる。俺様もたまに使ってたからな。だが、これでは『魔術の初速』が犠牲になるだろう? 従来の直線型魔法陣に比べ、構築の流動経路が長くなる分、発動がわずかに遅くなるはずだ。実戦におけるそのタイムラグは、どのように対処しているのだ?」
「お! 目の付け所がいいわね、あなた。本当に魔術学院を受験した方がいいんじゃない?」
エシュールは胸を張り、教科書のテキストを読み上げるかのように講釈を垂れる。
「確かに、発動スピードは少し落ちるわ。でもそれって、1秒にも満たないコンマ数秒の差でしょ? 魔道警官の突入任務でもあるまいし、日常生活ではそんなこと気にするより、魔力消費を抑えて安全に威力を上げる方が何倍も優先されるのよ」
何だと……? 魔術とは速さこそが命だ。 どれほど凄まじい強力な魔術が使える魔術師であろうと、発動のコンマ数秒の遅れで心臓を撃ち抜かれれば、それで敗北する。敵国の兵士や、突如現れる賊に遅れを取らないためにも、速度を最重視するのは魔術師として当たり前で大前提のはずだが。
「げ! あなた、思想まで昔の魔術師なのね」
俺様の険しい顔を見て、エシュールが呆れたように肩をすくめた。
「確かに年寄りの魔術師や、現役の魔道警官の一部は、スピードが落ちるからって螺旋配列を嫌うわ。でもね、魔道警官にでもならない限り、現代で対人戦なんてすることはないの! 普通、魔術を使う相手は狂暴な魔獣か、あるいは物を動かしたり修理したりする生活魔術でしょ? スピードより、コスパと威力のほうが重要なのよ」
なるほど。平和になった今の時代らしい、極めて合理的で、そして無慈悲なまでに効率的な思想だ。
だが、雷魔術の権威であった俺様として、スピードが落ちることだけは万に一つも容認できん! こと対人戦や極限の戦闘において、無駄な威力など必要ない。必要なのは、相手を上回る圧倒的な初速が重要なのだ!
「おい、ティム。その教科書は魔術を理解する上では非常に有用だが――そこに書かれている現代の魔法陣を丸暗記する必要はない。原理、理論、法則、公式だけを頭に入れろ」
「あ! ちょっとこの老害ねこ! 可愛い後輩の魔術師としての可能性を、古い思想で潰すんじゃないわよ! ティムちゃん、このバカ猫の偏ったアドバイスなんて聞かなくていいからねー!」
いや、可能性を潰しているのはこのマニュアル主義の教科書だ! ティムには、俺様の系譜である雷魔術を極めてもらうのだ。スピードという概念を極限まで突き詰め、光速を超え、『時間』という世界の根源へ至る資質が、あいつにはある!
「え、ええ? 二人とも落ち着いてよ! ちょっと、馬車の中で喧嘩しないで!」
俺様はティムの膝の上から前足でテキストを引っ張り寄せ、自分の前に広げた。エシュールが何やらギャーギャーと騒ぎ、ティムがアワアワと俺様とエシュールを交互に見て戸惑っているが、肉球のある前足をすっと突き出して二人を制する。
「落ち着け、エシュール。何も昔のやり方をそのまま押し付けようというわけではない。少し黙って見ていろ」
確かに、この教科書に書かれた魔法陣は現代の知識を上手く組み合わせたもので、実によく出来ている。だが、魔法陣の本質とは丸暗記ではなく、カスタマイズだ。魔法陣には使い手の個性が出る。だからこそ面白い。
「ティム、この魔法陣はよくできている。しかし、単に威力を高めるために入れられた言葉や魔力の相互作用を期待して、ただの魔力の道として繋げられたようなもの、位置の関係で入れざる終えなかったような無意味なものもある。そこを書き変えて新しく作り直すのだ」
ティムに指示させ魔法陣に修正を加える。ティムはワクワクした表情で魔法陣を書き直していく。
「ここのいらない部分、もしかして水魔術系統の文字を入れるの?水を触媒として初速を速くするんじゃないかな?どう?」
「分かってきたではないか、そういうことだ!あと、そこの部分は螺旋状である必要はない、直線にして繋ぎなおせ」
そう、昔の魔術にも、今の魔術にもそれぞれの良さがある。 今と昔、二つの時代の論理を組み合わせて取り入れ、既存の型に囚われない柔軟な魔術師に、ティムにはなって欲しいのだ。
「……!? ちょっと、見せなさいよ」
エシュールが騒ぐのをピタリと止め、ティムと俺様がノートに描いた即席の魔法陣を覗き込んできた。
「……ふーん、なるほどね。確かにこれなら、威力は少し落ちて、難易度も少し上がるけど......。それ以上に魔力消費量を抑えたまま、スピードを上げることができる。さすが、ティムちゃんの師匠を名乗ってるだけあるじゃない!よし、これ私も使ってみよ!」
エシュールはそう言うと、手元のメモ帳に俺様の新術式をガリガリと書き留め始めた。
おい。本来、魔術師にとっての独自の術式や知識は、命の次に重い宝とも呼べるものだ。それを目の前で平然と盗み見てメモするなど、昔ならそれだけで呪い殺されても文句は言えんぞ。
……しかし、エシュールには現代のことを色々と教えてもらった恩がある。それに、今はそんな血生臭い時代ではないのだ。秘匿ではなく共有し、互いに知識をアップデートし合ってきたからこそ、この素晴らしい教科書が存在するのだろう。俺様自身も、少し頭を柔軟にせねばな。
「さあ、ティム、エシュール! 感心している暇はないぞ、ページをめくれ! 次の章に進むぞ!」