すっかり夜も更け、静まり返った馬車の中で、ティムはよほど疲れたのか、布団も被らずにシートの上で泥のように眠ってしまった。
せめて寝る前に風呂くらい入って欲しかったのだが、仕方がない。寝息を立てるティムに俺様はそっと毛布をかけてやった。
「ふぅ……仕方ないでしょ、慣れない座学で可愛い頭をフル回転させたんだから」
対面に座るエシュールが、ランプの灯りで温かいお茶をすすりながら苦笑した。
「あなたみたいに魔術の予備知識があるわけじゃないのよ? それなのに、教科書の内容をすんなり理解できちゃうんだから。ティムちゃんは本当に優秀な子だわ」
「……フン、そんなことは言われずとも分かっている」
俺様は窓の外を流れる夜闇を眺めた。
「あいつは実戦において天賦の才があるのは勿論だが、座学においても一定以上の論理的思考力と理解力がある。本当に……優秀な弟子だ」
エシュールは、俺様が素直にティムを褒めたのが意外だったのか、一瞬パチクリと目を見開いた。その後、すぐにニヤニヤとした実に不快な笑みを浮かべてこちらを見てくる。
「そのニヤついた目をやめろ! それよりエシュール、初学者向けではなく、もっとレベルの高い上位者向けの教科書をよこせ。所詮は基礎だ、俺様にとっては物足りん」
そう俺様が言った途端、調子に乗っていたエシュールはまるで苦虫を噛み潰したような顔を晒し、おずおずと言葉を濁らせる。
「………………ないわよ、売ったもの」
「は?」
今、とんでもない言葉が聞こえた気がするのだが。 わざわざ初学者用の教科書を大切に持ち歩いておいて、それ以上の高等教科書を売っただと?
「持ってないわよ! 売ったの! お金がなくて生活費にするために全部古本屋に売っちゃったのよ! この初学者用のテキストだけは、私のおばあさまから貰った大切な合格祝いだから売れなかったけど、実戦用の高度な魔術書は全部換金しちゃったから無いの!」
エシュールは駄々を捏ねた様子でワンワンと泣き叫ぶ。こいつ……腐っても元魔道警官だろう。 魔術書をすべて切り売りするほど困窮しているとは、一体どういうことだ。
いや、待て。「元」魔道警官? もしかしてこいつ、今は……。
「言っとくけど、無職じゃないわよ! 旅人! 私は自由な風を追い求める旅人だから!」
こいつ、いま口がでかいだけのただの無職かよ。
▼ ▼ ▼
「……しかし、なぜ魔道警官を辞めたのだ? 魔道警官といえばエリート中のエリート。給与も雇用福祉も、他のギルドとは比べ物にならないほど破格のはずだろう?」
改めて俺様が静かに問い詰めると、さっきまでワーワーと騒いでいたエシュールは途端に真面目な顔になり、何かを必死に堪えるように押し黙った。長い沈黙の後、彼女は自嘲気味に鼻を鳴らす。
「……ふん! 上司のやつがさ、クソみたいなパワハラセクハラ野郎でね。私の真っ当な意見を全部握りつぶすもんだから、嫌気がさして辞表を顔面に叩きつけてやったのよ!」
気配を読む限り、確かに嘘は言っていない。だが本心を語ってもいない。どうやら、公にできない深刻な何かを隠しているようだ。
もしかしたら、この先の俺たちに不利益をもたらす火種かも知れない。少し手荒だが、精神魔術で無理矢理に情報を吐き出させるか……
俺様は静かに前足を伸ばし、彼女の眉間に意識を集中させ――。
「……いや。それ以上は聞くまい。話さなくていい」
伸ばしかけた足を、そっと引っ込めた。
「……いいの?」
エシュールが自嘲的な笑みを消し、真剣な眼差しで俺様を見る。
「あなたほどの魔術師なら、私に無理やり情報を吐かせることだって簡単にできるでしょうに」
「ふん。他人の面倒ごとに首を突っ込むのはゴメンだからな。それに、お前もそれを易々と許すほど低レベルな魔術師ではなかろう。そんなことより、最先端の魔術学の本が読めないことが残念で仕方がない!」
「……ふふ、何よそれ」
エシュールは何か救われたように微笑むと、悪戯っぽく前髪を払った。
「何か、そんなに読みたかった特定の分野でもあったの? 元魔道警官のこの私が、口頭で教えてあげてもいいわよ?」
「別に、今の魔術がどれだけ発展しているかという、純粋な知的好奇心だ。特定の分野がというわけではない。……いや、強いて言えば、かつて未解決とされていた数々の術式仮説、俗に言う『79つの未解決問題』がその後どうなったのか気になるくらいだな」
そういうとエシュールはパチクリと目を見開いた後、何が嬉しいのか、ニヤニヤと意地悪く笑いながらこちらに詰め寄ってきた。
「あなた、できる魔術師の割に知識が古いと思っていたけど、なるほどね。少なくとも50年は魔術の知識が遅れてるわけだ」
......確かに概ね合ってはいる。しかし、なぜそんなことがわかるのか。俺様が不機嫌な顔でそれを問うと、エシュールは待ってましたとばかりに胸を張り、誇らしげに語り始める。
「だって、まともに魔術を齧ってる人なら、今どき『7つの未解決問題』なんて言うはずがないもの。――だってそれ、既に2つは未解決ではなくなったのよ!」
何だと……!? 7つの未解決問題といえば、古代の天才魔術師たちが提唱、予測、仮説を立てながらも、どうしても証明ができなかった魔術界の至高の難題。かつて、俺様を含む七賢人の間でも幾度となく議論を交わし、それでもなお解くことはできなかったはずだ、それが、解かれただと……?
「一つ目の【半永久的魔術結界構築論】は50年前、初代七賢人のアーテル様が。そして二つ目の【魔術及び魔力吸収の最適化論】については10年前に、現七賢人のイサザ様が既に証明、解明されたのよ!」
「……っ!」
まさか、あの未解決問題が二つも解かれていたとは。 特に一つ目の結界構築論については、当時、アーテルと俺様が共同で研究していた最大の難題であった。確かに、俺様が黒猫になる前、あと一歩のところまで証明を突き詰めてはいたのだが……。
(アーテルのやつめ、まさか俺様の手柄を横取りして一人で証明を完成させていたとは!!相変わらず抜け目のない男だ……)
胸の奥をドロリとした嫉妬の感情が掠める。だが、それ以上に「あいつはどうやってあの証明をどのようにしてまとめ上げたのか」という強烈な知的好奇心だけが、俺様の脳を揺さぶる。
「おい、エシュール。一つ目の結界構築論、あのままの軌道で進んでいれば、理論上不可能という結論になっていたはずだ。――今ここで、その証明を見せてみろ」
俺様は前足を何度も床に叩きつけ、エシュールを催促した。エシュールは真っ青な顔をしながら、あり得ないものを見るような目で俺様を見つめ返す。
「はぁ!? いや、結界構築論の数式証明って、信じられないくらい長くて複雑ってことで有名だし、そんなの魔術学院の教員採用試験レベルの超難問よ!? 」
「......そうか、あれだけ大口を叩いていながら、証明すらできないのか。魔道警官も地に落ちたものだな、まぁお前には過ぎた内容か」
俺様はあえて、エシュールを挑発するような態度を見せる。エシュールはポンコツ魔術師だがそれでもその腕と知識は一人前だと認めざる負えない。答えを知っている状態ならばあれぐらいの証明はできるはずだ。再度エシュールの様子を見ると何やら覚悟を決めたとばかりに、ペンを握りしめている。
「...なんですって!舐めないでよね!昔、アーテル様の論文はそれこそ穴が空くほど読み込んだの、思い出しながらでよければ、書いてやろうじゃない!いいでしょう、今ここで現代魔術の最高峰ってやつを見せてあげるわ!」
エシュールは覚悟を決めたとばかりに、バサバサと袖をまくり、眠気眼をこすりながら再度ペンを握りしめた。コレでこそ魔術師、実によい面構えだ。
「くくく、よく言った。今夜は寝かさんぞ、エシュール! 現代の魔術を存分に俺様へ叩き込んでみせろ!」
「望むところよ! 泣き言言っても止めないんだから!」
ガタゴトと小気味よく走る馬車のランプの下、ティムの穏やかな寝息を聞きながら、一晩中俺様たちは魔術談義に花を咲かせた。