北西の草原を、乾いた風が吹き抜けていた。
月氏の本陣――獣皮と木柵で囲まれた広大な陣地。
中央には赤い獣皮の幕舎がそびえ、族長の天幕を示す旗が風にはためいていた。
そこに、震国からの使者団が近づいていた。
悠馬、紅蓮、黒耀。
わずか十名の護衛を連れて、彼らは月氏の陣の中へ進む。
紅蓮が前を歩きながら小声で言う。
「……敵地のど真ん中ね。」
「敵やない。“まだ話の途中の相手”や。」悠馬が静かに答える。
黒耀が小さく笑った。
「陛下、いつも通りですね。」
「怖いときほど笑うもんや。」
紅蓮は呆れたように肩をすくめた。
「笑いながら言うことじゃないわよ。」
そんな軽いやり取りを交わしながら、三人は天幕の前に立った。
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幕の奥には、ひときわ重い空気が漂っていた。
中には黒い毛皮の敷物、壁に掛けられた槍と弓。
その中央に、一人の男が座していた。
肩まで伸びた黒髪、深い彫りの顔、鋭い眼光。
月氏族長――カン・バラ。
その存在だけで、周囲の空気が張り詰めていた。
悠馬は進み出て、軽く頭を下げた。
「震国王、悠馬。初めましてやな。」
カン・バラが低い声で問う。
「貴様が、我が地に城を築いた者か」
「そうや。」悠馬の声は落ち着いていた。
「けど、奪うためじゃない。この土地で“共に生きる”ためや。」
護衛の兵がざわめく。
「共に?」「侵略者が何を――」
カン・バラが片手を上げて黙らせた。
「……話は聞こう。」
悠馬は腰の地図を広げ、指で境界線を示した。
「この地は国境や。
秦にも近く、匈奴にも狙われやすい。
お互いに争ってる場合じゃない。
俺たちはどちらにも属さず、この土地を守るためにいる。」
「守る、だと?」カン・バラが眉をひそめる。
「侵入者が守りを語るとは滑稽だな。」
「そう思っても仕方ない。」悠馬が頷く。
「でも俺たちは、もう帰る場所がない。
この土地に城を築いたのは、生きるためだ。」
紅蓮が一歩前に出た。
「戦場で、あなたたちの兵を見たわ。
皆、強くて誇り高かった。……だから、殺したくなかった。」
カン・バラの瞳が僅かに揺れた。
「……ハルバを生かしたのは、そのためか。」
「そうだ。」悠馬が答える。
「彼は部下を想う将だった。
そういう人間を殺しても、何も生まれない。
生かして、次を作る方が価値がある。」
しばしの沈黙。
やがてカン・バラが立ち上がる。
その背丈は二メートルを超え、影が悠馬を包んだ。
「貴様の目的は何だ。
我らを従えるつもりか。」
「違う。」悠馬ははっきりと言った。
「支配なんていらない。
ただ――互いに干渉しない関係を作りたいだけだ。」
「干渉しない?」
「そうだ。敵対する気もない。
むしろ、協力したいと思ってる。」
「協力……だと?」カン・バラが眉を上げた。
悠馬は地図を指し示した。
「北を見ろ。匈奴が動き出してる。
あいつらは誰彼構わず襲う。
このまま争ってたら、どちらも飲み込まれる。」
天幕の中が静まり返る。
カン・バラの瞳が鋭く光った。
「……それを、どうして知っている。」
「偵察を出した。
まだ遠いが、三年もしないうちにこの辺りまで来る。」
「……お前、何者だ。」
悠馬は笑った。
「ただの市民上がりだよ。
けど、戦略を考えるのは得意なんだ。
ほんの数ヶ月だけ、本気で“考える戦い”をやってた。」
紅蓮が小さく笑った。
「遊びのつもりが、今じゃ国の命運を握ってるってわけね。」
カン・バラの口元が僅かに緩む。
「……面白い男だ。」
「褒め言葉として受け取っとく。」悠馬は淡々と返した。
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数刻後。
カン・バラはしばらく考え込み、そして低く言った。
「貴様の話、信じるかは分からん。
だが、我らも無駄な血は望まぬ。
――兵を退こう。戦は終わりだ。」
紅蓮が安堵の息をついた。
黒耀が静かに頷く。
カン・バラはなおも強い眼差しで悠馬を見据える。
「だが覚えておけ。約を破れば次はない。
我らの誇りは二度と折れぬ。」
悠馬は真っすぐに見返した。
「当たり前だ。約束は守る。それが国を名乗る最低条件だ。」
カン・バラは無言で右腕を差し出す。
悠馬も同じように手を伸ばし、強く握り合った。
その音は、剣戟よりも重く響いた。
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夕暮れ。
月氏の陣を離れると、空は赤く染まり始めていた。
紅蓮が小さく呟く。
「戦ってた相手と、手を組むなんて……信じられない話ね。」
悠馬は笑った。
「敵か味方かなんて、話が通じるかどうかの違いだよ。」
黒耀が静かに言葉を添える。
「陛下、これでひとまず北は安定しますね。」
「いや、これからだ。」悠馬は空を見上げた。
「匈奴が動き出したら、この協定が本物かどうか、すぐ分かる。」
風が草原を渡り、遠くの空へ流れていく。
その先に、次の戦の影が、確かにあった。