そんな中、饗談の頭領は無駄と知りつつ自身の配下になるよう少女を説得しようとするのだが……
森の中でもやや開けた場所に琥珀と手傷を負った饗談の男が向かい合って立っていた。二人の間の距離はおよそ十間(約18m)、すぐさま駈け出しても何かができる距離ではない。
男は血まみれの布に包まれた左手首をかばうように押さえており、琥珀は樹木の太い幹に右腕で自分の身体を支えるように立っていた。彼女見える範囲には一人しか見えないが、さらに三人がこの場に伏せていることに彼女は気づいているようだった。
「この場に他にも三人いるのはわかってる、隠れてないで出てきたらどうなんだい?」
「我らの仲間を殺ったのはお主か?」
手傷を負った男の背後の茂みの奥から声がした。例の饗談の頭領だった。彼は自身が予備兵力になると決めたはずだったが、実際に少女の姿を目の当たりにしてにわかに心が変わったのだろうか。琥珀が彼の言葉の後をつなげる。
「そうだよ、あたしがみんな殺った」
「ほぅ、華奢な体でしかも片目とは……それほどヤルというわけか」
「そこそこね……もっとも、あんたの期待に応えられる技かどうかは知らないけどね」
「試みに聞くが、六人もの同時の仕掛けをどうやってさばいたのだ? かの六名はなまなかな相手ではなかったはずだが?」
「そんなこと聞いてどうすんのさ……この森から生きて出られないのに……」
「ふふっ……ずいぶんな自信だな、だがだいぶ疲労している様子、これ以上の戦いに身体がもつかな?」
「ハッ……まあ、やってみるさ、おしゃべりは女の仕事だろ? もう終わりにしよう」
琥珀は発言の終わりと同時に樹木の幹から体を離し、開けた場所の中心に向かってゆっくり歩きだした。そして彼女の行動をきっかけに、一瞬にして広場の気配がムっと殺気で満ちあふれた。
本当は琥珀にとっては、時間をかけたほうが幻蔵達がやってくる時間を稼げて利点しかなかいはずだったが、彼女はあくまで自分自身の力だけで決着をつけるつもりだった。
さっきの男の鋼の甲による『当て』のせいで目が霞む。疲労度や身体の具合からみてすぐにでもしかけないと、もう持たない。敵の頭領の言ったとおりだった。だが、戦いはすぐには始まらなかった。頭領は、まだ何やら演説したいようだった。
「まあ、待て、お主の力量のおおまかなことはお主の目の前の男から聞いておる。そこでだ……」
琥珀は歩みを止めた。彼女が現れた樹木から二間(約3.6m)程度離れた開けた場所の離れに彼女は立っている。
「正直、ワシも弱っておってな。我らはすでに半数以上が殺られた、何とかして今後、草の組織を再建せねばならなくなった。それもこれもすべてお主のせいじゃ」
「泣き言かい? なら、あたしに言うなんて筋違いじゃないのかい?」
「まあな、だが我らは侍ではない。仰ぐ旗でお互いに戦っているわけではない。条件次第で敵から仲間に鞍替えしたとしても誰に責められるいわれもない」
「なんだ、
「なぜだ、お互いにどうしても殺しあわなければならない理由があるのか?」
琥珀はほんのわずかの間、黙った。そして、感情を押し殺して低い声で言った。
「……私にはある」
そう言った琥珀の表情はかすかに歪んでいた。こんなやつに自分の想いを語りたくないし、知られたくもないと彼女は思った。
「お主のそれほどのかたくなな理由はなんだ? 我ら草は技で『たつき』をたてる者どもではないか」
饗談の頭領がそう言った瞬間、琥珀の全身が殺気がふきだした。ただ、それは慎重に抑制されたものだった。
「……あたしはそういう言葉が大っ嫌いなんだ! 確かにあたしら草は家臣たちとは違って、主君に特別な忠誠心を持っているわけじゃない、お前の言う通りさ。でもね……」
そこまで言うと、琥珀はしばらく口を閉ざしたが、すぐに言葉をつなげた。
「仲間はどうなる? 一緒に飯を食ったり厳しい訓練を一緒に乗り越え、生活を共にしてきたんだ。私が仲間の命を救ったり、それとは逆に自分の命を助けられたことだってある。それらを捨てていくのか? お前だったら全部捨ててしまえるのか?」
「いやはや、これはなんと……お主、そのような甘い考えでようこれまで生きてこれたの。草は言わば蛇ぞ。蛇が自分の子や仲間を育てたり、いたわったりなど聞いたことがないわ……しかし、これまで生き延びられたということは……おおよそ、【おなご】を使って手心を加えられたのだろう」
「ふざけるなッ! あたしが【おなご】を使って切り抜けたかどうか、今試してやってもいいんだぞ!」
そう言って琥珀は、燃え上がるような殺気を一気に周囲に迸らせた。彼女は自分の技に多少なりとも自信がある、と言うより自分の技に矜持があった。それを【おなご】を使って切り抜けたなどと言われて黙っているわけにはいかなかった。
だが、それでも琥珀は懸命に殺気の放射を抑えようと努力をした。少し前に幻蔵にも注意されていなければ、すぐにでも彼を殺しに行っただろう。殺意にまみれた激情をなんとか押さえながら琥珀は憎悪に濡れた視線を声が聞こえる方へ向けた。
「まあ、そう熱くなるな、つまり、お主を甲斐に縛り付けているのは『仲間の存在』というわけじゃな、お主にとってそれが大事だということはわかった。もっともワシにはそこら辺の感情が今一つ理解できぬがな」
「……」
「だったら、お主を含め甲斐の草の仲間のことごとくをワシが抱えてもよい。十分な褒賞は出す。もう家族や村の仲間が飢えに苦しむこともなくなる」
饗談の頭領の話は琥珀にとって、頭の隅にかすかにちらつくほど魅力的ではあった。だが、いまさら饗談の配下になる気は毛頭なかった。村の者達の『たつき』は
「確かに今後の天下の行方はワシにも分からぬ。天下様が尾張の参議殿(織田信長)になるか、あるいは我ら三河の殿か、はたまた名も知らぬ大名がそれにとって代わるか……だが、一つだけはっきりわかっておることがある。それは……もはや武田家の命数は尽きたということだ。お主もわかっているはずじゃ」
琥珀は、信廉がもはや今後生きながらえぬことを薄々感じていた。武田家の館の大膳大夫勝頼は太郎信勝(武田勝頼の嫡子)とともに新府城方面へ退いて行方が分からぬと聞いているし、実際に向こうにいる草と連絡が取れない。
また、武田家の多くの将は討たれるか、敵方へ寝返っている。もはや、武田方として旗幟を鮮明にしているのは、逍遙軒信廉と薩摩守五郎盛信(仁科盛信)だけといった有様だ。それでも琥珀は表情を改めて言った。
「それでも、使命がある……」
「使命か……滅び行く主の使命を果たして何とするぞ!」
饗談の頭領は聞き分けの悪い娘にヤレヤレといった調子で語りかけた。
「お主の頭領の反り蔵は早々に我が方へ返ったではないか、これが本来の草じゃ。何を思い煩う必要があるのか……」
頭領のこの言葉とともに琥珀が今まで必死に心の内に抑え込んでいた憎悪や様々な感情がついに爆発した。
「黙れッ! あんなヤツと一緒にするなッ!」
琥珀は饗談の頭領の声がした茂みに向かって走り出した。だが、左下方に人の気配がしてすぐに視線を向けた。一人の草が下生えから上半身を現し、琥珀の脚を薙ごうとした。
琥珀は空中に飛び上がって太刀による足払いを避け、飛び上がったその頂点で彼女の脚を薙ごうとした草の頭に蹴りによる当てをいれた。
蹴りは草の鋼入りの小手で防がれ、蹴りの反動で琥珀は背後の樹木の幹に身体をぶつけた。背中に何かちくっと感じたがぶつかった衝撃は大したことはない。
地面に着地した琥珀はすぐさま右側に頭を向けた。右方から何かが飛んでくる気配がしたからだ。だが、彼女は自分の身体が思うように動かないのを知って愕然とした。
何だ、どういうことだ? 背中に何かが刺さっている! 琥珀がぶつかった木の幹からぶら下がっていた何本かの紐のついた針が彼女の背中に刺さっていたのだった。どうやらこれが饗談の頭領の言っていたワナのことだったようだ。
琥珀は、なんとか飛んでくるものを払おうと、右腕を自分の顔の前にかざした。飛んできたものは苦無でも矢でもなく鎖付の分銅だった。
鎖が自分の小手に絡む。琥珀は右手に絡んだ鎖を外そうとしたが、うまくはずれなかった。クソッ、右の小手の下に仕込んだ暗器が引っかかっている! なんたる様だ!
必死に鎖を外そうとする彼女に今度は左側から鎖が飛ぶ。彼女は左側から飛来する鎖を空中で何とか落とそうとするが、背中に棘が噛んでいるうえに、右手の鎖を敵が思いっきり引っ張るために身体が思うように動かない。
琥珀の努力もむなしく、結局彼女の両腕は両方向から引っ張られて樹木の幹に張り付けられるような形となった。駄目だ、厄介なことになった。
訓練の時に片腕、あるいは足の一部を縛って模擬戦をやったことはあるが、こんなにまずい状況に陥ったのは今回が初めてだ。
両腕に巻きついた鎖も厄介だが、まず背中の棘をなんとかしないと……背中に感じる様子から、無理して引き抜くしかないと彼女は少し憂鬱になった。それでもやるしかない……