一方、三河の饗談は琥珀の潜伏している地域に侵入した際に、不思議な感覚にとらわれていた。彼ら草の戦いはまさに本能のぶつかり合いというに等しく、常に殺気にまみれたものだ。それにもかかわらず、この近辺には殺気がまるで感じられない。
しかし、彼らは予感していた。ここには相手に殺気を感じさせない恐るべき手練れがいることに。饗談と琥珀の戦いの行方は……
琥珀の動きに無駄な部分は欠片もなかった。敵の刀が避けきれないと見るや、何のためらいもなく相手の刀の柄付近に、自分の身体が当たるように敵の攻撃を受け、自分にはわずかな傷、相手には致命傷を与える一撃を叩き込んでいく。
私は初め、琥珀の動きは無秩序だと評したが、それは無思慮の動きではなく、『無秩序に見える動き』だった。無秩序に見えたのは私の見識不足で、彼女の動きは秩序を極めた先に到達する予測しがたい動きだったようだ。
筋肉の伸縮や関節の可動範囲は研究されつくしていて、それ故に攻撃の仕方は規則化する。攻撃の仕方が規則化されるということは、自分の動きを予測されるという欠点を孕むことになるが、もし、攻撃の規則化に揺らぎが全くなく、無意識の領域にまで刷り込まれた者がいたとしたら、その者が最終的に勝利を収めるだろう。
なぜなら、偶然に頼った攻撃で相手を斃しても、その動きの強化に資することが少ないからだ。再現性の薄い方法に価値はない。特に草の任務ではそうだ。
彼らの仕える『館』は草に対し、安定した平均的な成果を要求している。草に出される使命の達成度にばらつきがあるのを彼らは好まない。
基礎・基本の動きの徹底こそが自分に対する自信と動きの強化に通ずる道である。ただ、『それ』を行うことができず鉄火場のばくちのように一発逆転を狙う者は少なくない。多くの場合、そういった者はこの世から退場することになる。
また、逆に非常に稀ではあるものの、尋常でないほどの厳しい鍛錬を通して常人の関節の可動領域以上の動きで、相手に予測しがたい攻撃をする者がいないわけではないが、それも長くは続かない。身体に無理な動きは筋肉や骨の寿命を縮めることになるからだ。
この世に都合のよい【奥義】などというものは存在しない。もし、それがあるとすれば、基本技の積み重ねの先に開く門なのだと思う。琥珀の動きを見ていると私は一層そう思わずにはいられないのだ。
琥珀は、おなご故の身体や筋肉の小ささをよく知っており、男相手にまともに渡り合っても劣勢に立たされるのはよく分かっているようだった。
また、自分の身体の動かし方を完全に把握しており、どの角度からどのように力を込めれば刃が無理なく通るかよく理解していた。
剣撃の無駄打ちは一切しない。逆に相手に致命の一撃を与える機会が得られれば微塵の躊躇もなく、刃を突きこんでいく。手数で相手の剣撃の機会を喪失させるという手もあるが、それは恵まれた体躯と体力を持つものができる業であって、小柄で華奢な身体の琥珀には到底無理な芸当だった。
草とは使命に殉ずる者だ。従って彼らは攻撃の手段を選ばない。だが、なるべく労少なくして果実をもぎ取ろうという気持ちはあるはずだ。
侍ならば槍なのだろうが、隠密性と取り回しのしやすさから考えると草の任務には向かないのだろう。槍を使う草を私はほとんど見かけたことがない。たまに火縄(銃)を使う者もいるが、少なくとも三十間(約54m)は離れないと臭いで気づかれてしまう。
この三十間という距離は武者の鎧を貫通できるかどうかというぎりぎりの距離である上に、火縄の最大の弱点は次の攻撃に移るまでの時間がかかりすぎるということだった。
一発必中で急所にあてられるならそれでもよいが、相手は人形ではない。鎧さえ着ていなければ、『種子島』ならば二町(約218m)の距離からでも相手を倒すことができるそうだが、猟師でもなければその距離から当てるのは至難だろう。しかも森の中では木々が邪魔して役に立たない。
様々なことを考慮するに普段から扱いなれていて、入手が容易で草の任務に耐える得物となると、刀以外の選択肢はないのだろうと思う。
だが、侍と異なり草に降伏はない。当然、刀を失った時の攻撃の手段にも通じているはずだが、わざわざ敵を無手(素手による格闘技術)でたおす意味はなく、必然的に無手を使う機会もほとんどない。無手の技を磨く時間があるなら、剣撃の精度を高めるために使いたい、というのが彼らの正直な思いだろう。
琥珀は、無手でも一撃で饗談を屠っていく。指や拳には恐らく暗器がしこまれているのだろう。無手の攻撃も全て
舞い……だ。まるで舞いを見ているようだった。そしてなんという柔らかな表情。琥珀の口元にはうっすらと笑みさえ浮かべているようだ。
ただし、これは『死の舞』だ。彼女に近づく者は全て命を奪われる。琥珀は小太刀の殺傷範囲をはずれた部分を無手の死の舞で補っている。饗談どもは琥珀の一見無秩序に見える動きに翻弄されて、一人また一人と屍(しかばね)を森の中にさらしていった。
偵察に出した配下の一人が恐るべき報告を頭領にもたらした。どうやらこの森に残って彼ら追っ手を防いでいるのは、たった一人の三ツ者の女であるらしい。そこで頭領は手勢を二手に分け、六人は足止めしている女を殺る。残りは退いて行った三ツ者の集団を追う、と方針を決めた。
一人の草を殺るのに六人もこの森に残すのは心配の度が過ぎるような気もするが、出立の前に新たに自分たちの陣営の下に甲斐から帰順してきた三ツ者の元頭領の言葉が、彼の心の中に小さなトゲとなって引っかかっていた。その元頭領が言った。
「三河の饗談の技の冴えは山奥の甲斐においても聞き及んでおりますが、我らと別れて甲斐に留まった三ツ者どもは、それぞれ恐るべき手だればかりです。くれぐれもご油断なさらぬよう、お気をつけられませ……」
何を申すか! うぬの尻拭いに我らが征くのであろうがっ。饗談の頭領は危うく激高するところだったが、仕えている主の前でそんなことができるはずもなく、怒りの激流が面に噴出しないように必死で装った。
そもそもこの三ツ者の元頭領が、配下をまとめて帰順してくれば済むはずであったのに、配下は二手に分裂して片方は武田方に残ったままだという。
さらに先だっては自分の手下の幾人かを討たれ、己の【影】さえ殺られたという。彼はこの『反り蔵』という三ツ者の元頭領が嫌いだった。
返り忠(寝返り)が気に入らないのではない。草は使命に全てをかける者だ。従ってそれぞれの使命さえ果たせば、より多くの活躍の機会を求めて仕える主を変えるのは当然、と彼も考えてはいた。
何はともあれ、甲斐から帰順したこの草の者どもと自分たちが同列に置かれるのは納得しがたいことだった。ただ、それを口に出せばこの三ツ者の元頭領と一緒に帰順してきた入道梅雪斎不白(穴山信君)に対して角が立つ恐れがある。
今回の甲州入りの主役はあくまでも織田方で、しかも梅雪は織田方総大将岐阜中将(織田信忠)の客将だった。自分が強弁すれば主の忠勝(本多平八郎忠勝)の顔に泥を塗ることになる。
忠勝は武の質や身分にこだわる将ではなく、力ある者を愛したため彼は重用された。褒賞も十分満足のいくものをもらっている。だから彼は耐えた。彼はこれまで様々なことを耐えることによって今までしのいできた。そして、その忍耐によって抑圧され蓄積されたエネルギーを使命に注いで昇華してきたのだった。
徳川軍の活躍の機会がほとんどない以上、今回が自分たちの草働きを示す大きな機会と考えていただけに、この使命は彼にとってはなはだ不本意だったが、それでもこの使命を彼は受けた。
そもそも草に使命を断る選択肢はない。数少ない例外を除いて、草の多くは先祖代々農民が出自だ。使命を果たす手段を問わないその草のやり方に、『卑怯者よ、身分卑しき者よ』と蔑み、あからさまに忌避するような表情を浮かべる主は少なくなかった。
侍は面子にこだわり、敵を討つ手段に美学を求める。彼にとっては全く笑止なことだった。集団戦で火縄銃が普通に使用され、遠距離から労せずして相手を倒すのが当たり前の時代になったというのに……名乗りを上げ、一騎打ちの時代などはもはやはるか昔に過ぎ去ったというのに……
いや、そういう時代だからこそ侍は面子にこだわっているといっていいのかもしれなかった。集団戦による個の埋没、多くの武者の中の一人。もしかするとそういった状況に危機感を抱いていたのかもしれなかった。
彼はそのような自分が今まで仕えてきた、したり顔の主を内心軽蔑していた。だが、その当の侍でさえ元は野伏りだったり、せいぜい他より多少裕福な土豪くずれに過ぎなかったりで、出自が怪しいというならば自分達とそう大差はなかったはずだ。少なくとも彼はそう思っていた。
生まれついての出自に大差がないのなら『作られた身分』の階梯を実力で昇っていくことは可能だと彼は考えていた。無名の草で終わるつもりはさらさらなかった。
饗談の本流は尾張にあると、何かと普段から尾張饗談らと比較されているのも彼は気に入らなかった。草に多弁は不要だ。ただ実力による成果のみが求められる世界だからだ。
だからこそ、武田方敵将、武田逍遙軒信廉の居所を突き止める使命に失敗は許されない。使命はあくまで信廉の居場所を突き止めること。三ツ者共を討つことではない。
だが、あの三ツ者のおなごを討ち損じればヤツに嗤(わら)われる。場合によっては、あの気に入らない三ツ者の元頭領の傘下に自分たちが置かれる可能性がないとは言い切れなかった。
だから六名をかの地に残した。ほんの四半刻(約30分)もあればその六名は自分らに合流し、残った三ツ者の防諜を斥け悠々と敵の情報を自陣に持ち帰ることができるはずだった。だが、その六名はいつまでたっても彼らの潜伏地点に戻ってはこなかった……