一方、琥珀は直前までの饗談との戦いに、もはや余裕の表情は見られず、激しく息を切らしていた。そんな中、彼女の脳裏に三ツ者になる前の幼少時の記憶がよみがえってくるのだが……
結局饗談の頭領は、逍遙軒信廉の元へと戻る三ツ者の追跡をあきらめ潜伏地点を後にした。三ツ者達が去って行ったおおよその方角はつかんでいる。今はそれで十分、とはいえなかったが情報を手にした事実は成果として残る。
今は、森に配置した六名の配下の行方を優先することにした。自分たち四名で逍遙軒信廉の防諜を斥け、情報を持ち帰る自信がないわけではない。だが、森に残った配下の行方も気がかりであったし、それ以上に気がかりなのは森に残った三ツ者の女のことだった。
使命を果たすときに最も危険なことは、自分の気配を敵に気取られたり敵の拠点へ気づかれずに潜入することではない。なぜなら、その手の訓練は飽きるほど行っており、もはや目をつむってもできるからだ。
草にとって一番の敵とは『慢心』である。任務に成功した帰り道に命を落とした草は極めて多い。任務に成功しても主のもとに情報を持ち帰るまでは『使命』は終わってはいないのだ。
だから、退き口に敵がいるというのは、それだけで精神力を消耗することになる。新たな道から退いていくという手もあるが、勝手知ったる道を通るのとはわけが違う。その場合は、来る時にかかった時間の倍の時間を覚悟して戻らねばならない。
だが、今回は時間が勝負だ。徳川方は我ら三河饗談のみが使命についているはずだが、恐らく、いや、間違いなく織田方も草を放っているだろう。絶対に尾張饗談らに先を越されるわけにはいかなかった。いかなる犠牲を払ってもだ。
その場所に入って饗談の頭領はすぐに気付いた。血の匂い、それも尋常でない数の……一人や二人の血の量ではなかろう。そして彼は思った。
つまり六名の配下はみな殺られたのか、四半時もたたない内に。それもたった一人の三ツ者のおなごに……馬鹿な! ありえぬ。いや、あってはならぬ事だ。
我ら十名の草はいわゆる以心伝心どころではなく、お互いに考えていることがほぼ十中八九わかる。実の兄弟同士であってもここまでの画一的な思考はできぬはず。そのように我々は訓練された。
技の力量もほぼ拮抗している。だが、自分が他の九名と異なる点が一つだけある。それは、『野心』だ。だから頭領に任じられた。
あの三ツ者をどのように追って行ったのかは現場を見なくてもわかる。恐らくまっとうなやり方だろう。数にまかせての攻囲。当然だ。だが、殺られた。六名全員が。残念な事実だが、現時点での我らの劣勢を認めねばならない。
だが、こちらも饗談の技をすべて見せたわけではない。まだ終わってはいない。正攻法で殺れないなら詭計で殺るしかない。彼はそう考えた。
琥珀は大木の幹に体を預けて肩を激しく上下させて喘いでいた。時折、嘔吐(えず)くような声も聞こえる。自分との力量の差がさほど大きくない六名もの草を殺ったのだ。呼吸が乱れて当然だった。今は、あの菩薩のような表情はかけらも見られない。疲労に困憊する少女の顔があるだけだった。
激しく呼吸を乱しながら彼女は記憶の片隅にわずかに残っている育ての親である頭領の言葉を思い出していた。だが、それは幻蔵のことではないし、反り蔵のことでもない。ずいぶん昔の記憶だ。かなり集中しなければどんな場面だったのか思い出せないほどの……
……どんな顔してたっけ、もうしつこく教わったこと以外は何も思い出せないよ。唯一楽しかった記憶は小さかった時に、ほんの数回だけ草の仲間たちと一緒に連れて行ってもらった時の村祭りのわずかな記憶だけ。
私達は飴玉を買うお金もなく、ただまぶしそうに弟と二人で夜店を眺めてた……だから、私は村祭りでは踊りに熱中した。踊りにはお金がかからないから。
でも、どうしても思い出せないことがある。私の左目はいつから見えなくなった? 私の弟がいなくなったのはいつからだ? どうしてこれほどまでに昔のことが思い出せない? 何か大事なことが……思い出せそうで思い出せない……そう、何か……何か大切なことが……
琥珀の頭領が言った。
「琥珀よ……呼吸だ、すべては呼吸が勝敗を決める。無論、技や精神も大事だが、常日頃の鍛錬の成果を十全に引き出すには安定した身体を作らねばならない。呼吸が乱れていては身体をうまく動かすことはできぬ」
「そんなこと言ったって、全力で走ったり、刀を振ったら疲れるに決まってるじゃないか」
琥珀は不平気味に吐き捨てるようにそう言ったが、頭領はわずかでも表情を変えることもなく、しばらく少女を冷徹な瞳で見つめて黙っていたが、間もなく再度口を開いた。
「とかく無駄な動きが多い故、疲労するのじゃ。弟を見よ、常に急所に攻撃を集中しておる、無駄口一つ利かず表情はあくまで涼しげ、ヤツの泣き言など聞いたことがないぞ?」
「そりゃ螺鈿(らでん)は何でも器用にこなすからねっ、私みたいに出来の悪い姉と一緒にはならないよねっ!」
琥珀は弟と比較されたことにかすかに傷つき、すねたように叫んだ。
「拗ねるな、謗(そし)るな、妬むなっ、お主はお主、お主の弟はお主の弟じゃ。お主の弟がお主より秀でているとは言っておらぬ。ほれ、螺鈿が困っておろうが、お互いの良いところを取り入れ、より高みを目指すのじゃ」
「チェッ……でも、そうは言っても、いつも正確に急所に一撃ってわけにはいくもんかっ!」
「うむ、その通りじゃ、だからまず形から入れ」
「形?」
「ああ……姿勢を整えろ、疲れた声を出すな、面はあくまで柔らかくだ」
それを聞いた琥珀はしばらく黙って何かを考えこむようなしぐさを見せたが、しばらくすると一つ小さなため息をついて、つぶやいた。
「どれも無茶な注文だね……」
「だが、お主、祭りの踊りの時は楽しげではないか」
「そりゃ、祭りの踊りと草働きとは全然違うもの……」
「同じじゃ……同じにせねばならぬのだ。草の仕事を続けるならな……深いひと呼吸ができれば体を起こすことができる。ふた呼吸もできれば、頭にかかった霧が晴れる。み呼吸さえできれば戦う態勢に戻れる。呼吸だ、呼吸を忘れるな……」
琥珀は深呼吸で身体の疲労を払いながら琥珀は自分の身体の状態を確認した。わき腹と太ももの二か所にわずかな刀傷があるだけで、骨が折れたり関節が外れたりはしていないようだった。
彼女は傷口を竹筒の水で洗い、ふところからハマグリの貝殻を取出し、中身の灰色っぽい粘性のあるものを傷口に塗った。
草相手の戦いの場合、ほんのわずかな傷でも死に至ることがあることを彼女はしつこいほど言い聞かされていた。本来は傷口を焼灼してから処置をするのがよいのだとも教わったが、今、森の中で火を起こすわけにはいかなかった。
まだ戦いは終わってはいない。自分たちの後をつけてきたのが十名だと琥珀は気づいていたからだ。必ず、追手が来る。仲間が殺られて放置する草はこの世に存在しない。
饗談の頭領は決心した。我ら四名は絶対にお互いの姿が確認できる位置で必ず戦う。絶対に一対一になるような状況は避け、少なくとも二対一になるまで仕掛けないと。
だが、こちらの手の内をすべて見せて戦うのは愚策というもの。その上で自分自身は最終的な予備戦力となることを決めた。
その理由は……これまたあってはならぬ事だが、もし、万が一、配下三名が全て殺られて彼自身しか残らなかった時のことを考えてのことだった。
それは彼の心の中の 『野心』の呼びかけによる生存本能からの警告でもあったが、もっと深刻な状況になった時のためでもある。草はいついかなるときも全滅は許されない。なぜならば、情報を持ち帰るのが草本来の使命だからだ。
こちらが姿を現さねば、あの三ツ者の女も当然隠れたままだろう。そこで、自分達四名の内、一人だけが姿をさらし、自分からは決して仕掛けず囮となり、配下の二名が伏せている場所へ女を誘い三名で始末する。それでも、手に余るようならさらに自分がその場に合力する、そのように作戦を決めた。