深い森の中に二人の男女が向かい合って立っている。男は三河饗談の一人で全身黒ずくめの装束、片膝をついているが女から視線を片時も外さなかった。
一方、女は甲斐の三ツ者の一人で名を琥珀という。歳は恐らく十二、三で、どこにでもいるような少女だったが、普通の少女と一点だけ大きな違いがあった。彼女の左目は淡い緋色の麻ひもで縫われていた。せっかくの愛らしい顔が台無しだったが、彼女はそういったことをまるで気に留める様子は示さなかった。
彼らは無論、逢引きのためにではなく、殺し合いのためにそこにいた。また、男は武器を持っていなかったが、女は一尺の長さに満たない黒い刀身の小太刀を二振り、それぞれ逆手で両手に持っていた。男は直前に女の無手の技の一種である蹴り技を身体に叩き込まれて太刀を飛ばされており、女のほうは無傷だった。
男は思った。今だかつて自分が太刀を飛ばされたことなど一度としてない。自分の技量がこの女のそれに劣っているのか? いやそんなはずはない。では女だと甘く見たのか? そうではない! この女の体捌き……明らかに相当な訓練を積んだ動きだ。しかし、まずい事になった、無手でこれほどまでにヤルとは……
どうしても太刀が必要だ。逃げ出すにしてもこのまま戦うにしてもだ。飛ばされた太刀と自分との間の距離はおよそ四間(約7.2m)、相手の不意をつけば取れないこともない距離だ。
だが、女の気配がわからぬ、表情が読めぬ。最初に顔を合わせた時から太刀合わせの時も、そして今も全くの無表情だ。
いや表情はあるにはあるが、仏像のような何とも言えぬ表情だ。しかし、誓ってもよいが、この女は決して仏などではない。感情を完全に排除した殺しができる、言うなれば『殺戮菩薩』だ。
……不気味な女だ。だが、まだ自分には苦無が三本残っている。甲と小手は鋼で覆われている。まだ負けたわけではない。なんとかして罠におびき寄せねばならぬ……
琥珀は思った。最初にこの男に会った時から既に違和感があった。先手の六人は一気に集団で襲いかかってきたのにこの男は一人で挑んできた。この男も恐らく饗談の一人に違いない。服装や雰囲気が最初の六名によく似ている。
もしや、この男が饗談の頭領なのだろうか……それにしてはもろすぎる。自分のほうが技量がはるかに上だとうぬぼれているわけではない。
男の太刀を跳ね飛ばしたのも極度に集中して何とか成したくらいだ。もう一度やってみよ、と言われても再現できるかどうか彼女には完全なる自信はなかった。
それにしても頭領にしては策もなしにこの場に一人で出てくるはずがない。残りの三人はどこだ? こうしている間にもこちらの様子を木の陰から窺っているのだろうか。男から視線を外さず、琥珀はあたりを探った。
その瞬間、男が苦無を二本、彼女にめがけて放った、と同時に太刀を拾い上げようと大きく跳躍した。琥珀は二本の苦無を両手の小太刀でそれぞれはじき、すぐさま男のもとへと殺到した。
彼女は油断したわけではない、表情が男に読まれたのでもない。少女が片目だったことが男にツキを呼び込んだ。男は琥珀のたった一つの目にだけ注意を向けていればよかったからだ。
人間は何か考え事をすると必ず正面から視線が外れる。仮に正面に視線を向けていても
自分がここで討たれては自ら囮を請け負った意味がない。もうこんな気味の悪い女とは戦うつもりはなかった。一合だけ打ち合ってこの場から立ち去ることに決めた。もう十分、この女の心の中に自分を追う動機が形成できたはずだった。無論、それと気取られぬよう、女が追いつけるようにうまく退くつもりだ。
女は男が思ったよりも俊敏に反応して襲いかかってきた。男は太刀を拾い上げたとき『これで目的は達した』考えた。今度は先ほどのような力の入らない太刀による薙ぎではない。太刀を両手で握った力のこもった横薙ぎだ。
女が上に飛び上がって太刀を避けるにせよ下にしゃがんで回避するにせよ、もうこちらとの距離を詰めることはできない。このあとすぐ逃げ出すつもりだったからだ。
男は背後にいる女に向けて、大きく振りかぶって太刀を半回転させ女の胴体を横に薙いだ。だが、女は太刀を避けずに二本の小太刀で男の太刀を受け止めた。
男は内心ほくそ笑んだ。『馬鹿めっ! こちらの太刀を受けるとは!』大人の男の力のこもった渾身の横薙ぎだ。衝撃を受けとめた時に小娘の動きが完全に止まる。
女の体格ではなおさらだ。無手の技はもちろん、刀による攻撃もできないわずかな空白の時間。運が良ければ女の腕はしびれてすぐには使えないかもしれない。
黄金と交換したいほど望んでいた、この『殺戮菩薩』の時間をようやく
しかし、琥珀は男の当てを避けようともせず、むしろ男の拳に自身の頭をぶつけに行った。確かに自分から距離を詰めていけば、それに応じて打撃の衝撃も少なくなろうというもの。
だが、ただの拳ではない。甲に鋼が入っている拳だ。しかも殺すつもりで打ち込んだ当てだ。理屈では分かっていても反射的に身体がのけぞるはずだ。のけぞらなければ……人間ではない。
鈍い音がして琥珀の右頭部上部に男の当てが入った。琥珀は一瞬ふらついたが、今度は男の時間が
馬鹿な! 避けようと思えば避けられたはず。確かに当てを避けたならば、こちらとの距離が開く。そして今一度仕切り直しか、あるいはそのまま逃がしてしまうかもしれない。だが、それにしてもあり得ぬことだ、どうしてこうもあり得ぬことばかりが起こるのだ?
女はすぐさま男のほうを向き、蹴りによる当てを入れた。先ほどの立ち合いが記憶に残っていたのだろう、男は胴の中心を防御したが、今度の蹴りは男の左ひざ頭の上部あたりに、袈裟懸けに太刀で斬るかのようなするどい蹴りだった。
背骨を殴られたかのようなすさまじい激痛に、男は太刀を再び取り落し片膝をついた。だが、痛みで呻いている暇はない。もし、先ほどの攻撃が再現されるなら、今度は自分の首を小太刀で薙ぎに来るはずだ。そしてそれは現実となった。
男は必死で痛みに耐え、左手の小手を自分の顔の前に持ってきて防御した。心配は無用だ。小手には鋼が入っている。小太刀でしかも女の腕力だ。容易に防ぐことができる。実際に先ほどはこの女の攻撃を防いだではないか。そのあとは、どうにかしてこの女から逃げ出す算段をつけよう。幸い、もう一本だけ苦無が残っている。
だが、男の耳には女の小太刀を鋼で防ぐ時に発するはずの金属的な鈍い音は届かなかった。代わりに聞こえたのはまるで林檎に刃を立てるかのような妙に湿り気のある音だった。
男の左腕は手首から先がなくなっていた……
男は息を切らせながら戦いの場から必死に逃げ出していた。信じられぬ、動いている拳の甲と小手の合板のほんのわずかな隙間に刃を通すとは! あれが甲斐の三ツ者か……なんてヤツじゃ……化け物めっ。
愚かじゃった、あのような死の化身と渡り合おうと思ったこと自体が間違っていた。心の中で激しい舌打ちをしながら、饗談の男は左足を引きずりながら森の中をよろめくように退いて行った。
左足はしびれてまともに走れない。さらに左手は拳が跳ね飛ばされて激しく出血している。布を幾重にも巻き出血を止めようとするが、激しく息切れしているうえに身体を動かしているから容易には出血は止まらない。
それでも拳を飛ばされたときに鉄砲水のように噴出していた鮮血はようやくおさまってきた。頭がぼんやりする。だが、使命を果たさねばならない。いかなる犠牲を払っても女を罠に落とす。
幸い、女はすぐには追っては来なかった。自分を殺っても、戦いは終わらない。まだ三人残っているのだ。自分の跡をつけてきているのだろう。そしてまとめて殺るつもりにちがいない。男はそう思った。
ならば、そちらの思惑に乗ってやろう。そう改めて決心し、潜伏している仲間のもとへと痛みで自由にならない足を必死に運んでいった……