第一話 「悪とは何か。」
【速報】〇〇元総理の死亡確認 銃撃され搬送先の病院で
テレビのアナウンサーの声が震えている。普段なら淡々とニュースを読み上げるその口調に、感情がにじんでいた。田中はリモコンを握ったまま、手の感覚を失っていることに気づく。
「死んだ……のか?」
口の中でつぶやいた言葉は、空気に溶けていくように消えた。信じたくない。だが、テロップは無慈悲に繰り返す。
画面には、病院前に集まる人々の姿が映し出されている。泣き崩れる支持者、カメラを構える報道陣、そして警察車両のサイレンの音――どれも現実の出来事とは思えなかった。
我が国は、こんなにも簡単に「安全神話」を失うものだったのか。
わずか数分前まで、自分が住む国の平穏を信じて疑わなかった田中の中の、何か大切なものが崩れ落ちていった。
銃撃事件から一年が経った。
あの日の衝撃が落ち着いた頃、日本の空気は静かに変わっていった。ニュースでは「国の安定を守るための改革」が次々と打ち出され、メディアはそれを当然のように肯定的に報じた。
田中はその変化を、初めはほとんど意識していなかった。だが、ある夜、ニュース番組のキャスターが口にした言葉に違和感を覚える。
「政府の方針に批判的な言説をSNSなどで拡散する行為は、社会の分断を助長しかねません」
その言い回しが妙に引っかかった。
「批判」が、「分断」と同義になっている。かつてはメディアこそが権力を監視する存在だったはずなのに、今では権力の代弁者のようだった。
翌日、田中は自分のSNSに短い投稿をした。
「この国、少しずつ自由が減ってないか?もしかして乗っ取られている?w」
何気ない呟きのつもりだった。
しかし数時間後、見知らぬアカウントからの返信が相次いだ。
「陰謀論者乙」
「そんなこと言うやつが一番国を壊す」
「デマを拡散するな、通報する」
自分の意見が極端に否定されていたのはショックだが、田中は仕事で忙しい身。暫くするとそのことを忘れていった。
ある朝、田中のSNSのタイムラインには、見覚えのない記事が並んでいた。見出しは淡々としているが、行間は匂わせる。
「一部で見られる『不安を煽る発言』が社会に与える影響」
「専門家が指摘:建設的な議論とは何か」
テレビのワイドショーでも同様に、特集の端で取り上げられる
「社会の分断を防ぐために必要な自制」
MCは微笑みながら、「過激な発言は避けましょう」と軽く断じる。ゲストの論客は、個別事例を一般論にすり替え、結論はいつも「冷静に」「協調して」あるべきだと言う。
田中は、焦燥と共に確信する。
――この国は、表向きは平穏でも、何かにじわじわと侵食されている。
そしてその侵食は、外からでもなく、内側から進んでいる。
その夜、田中は学生の時、勉学のため用意した未使用のノートを引っ張り出す。
そして、タイトルを書き込む。
「悪とは何か。」