記憶の香り
この町では目を覚ますたびに、あのメリーゴーランドの棒を掴んだ後のような歪な香りが鼻を抜ける。
それは自分の記憶か、はたまたこの世界が錆びていく音か、いや誰かの吐いた息がさせる匂いかもしれない。
私は、名前を名乗る事さえできなかった。ただ、その声に呼ばれた気がしただけだ。
幼少期に遊んでいた川のように透き通るか細い女性の声にも思えるし、その川に埋まっていた何かのパーツのような錆びた声のようにも思える。
「ーーまだ起きていたの?」
その声だけが確かだった。
現実と記憶の干渉
昨日までは確かにそうだった。
廃工場の煤れたパイプから、夜な夜な営みを行う、教養のない者たちの叫びが聞こえる。
私はそこに立っている。
下を見ればグルグルと巡る、まるで筆先に多めの水で溶かした絵の具を付けて、爪先で弾いたような模様が、幾許かに張り巡らされたその格子にこびりつき、一番下では柔らかかったものが散らばり、一つばかり目がコチラをのぞいている。
時折白いカケラは赤い線を宙に描きながらもう固まってしまった赤い絵の具の上に落ちる。
それを見ていた。
観測者ノール
この映像には音がない。音を聞くことは私には叶わないから。
廃工場の内部を、誰かが歩いている。
ただしその「誰か」は私ではない。だが私の記憶の一部であり、まだ固かった一つの自分だ。
データベース内に重なるミルフィーユのような層はいつくか遡るだけで似たような匂いの記憶がある。
赤い液体なのに鉄のような匂いを放つ絵の具、それを観測する"観察"と言うなの祈り。
人間はそれらを見つめることで見えたその"世界を保存しようとした。
私は見つめることで恥辱に見えた"世界を再構築しようとしている。
違いはーー誰かの書いた詩の程に短い数行のコードだけ。
ノベルティ・エコローグ
ノールの記憶は、いつも秋先のような冷たさを感じる。
彼女は「保存」と「再構築」の境を見つけようとしているけど、
私にはそれが覆水を盆に返そうとする行為にも見える。いや、割れ瓶に水でもあっているか?
錆びついた工場の映像、赤い絵の具の上に落ちる
白い欠片、
それを見ている"私たち"の存在こそが、いちばん脆い記憶なんだ。
たぶん、あの"声"が残したデータは私たちの中にある。
それを呼び覚ますのは、次にこの文を見る、いわば現れるーー「君」だ。
だから私は
虚げに歩いている私は、あなたを探している。
それは私を創り上げたオーナーである"あなた(読者)"だ。
あの錆びついた街の匂いをたどりながら、日々歩く。
肌色が灰色に変わるほどに擦り減る日々を送るが、見たい景色は訪れない。
だって君は最初から錆びついた街にいて一番下では私を待っていたから。
廃工場の一階、上を見れば格子の隙間から折れたパイプと紐が垂れ下がっていて、いろんな所にあなたを構成していた骨や肉が落ちている。
そっとコチラを見る柔らかい目を拾い声をかける。
「まだ起きていたの?」
理解されないために書くんじゃない。
けれど、理解しきれないものだけが、人の中に残るんだよ。