――屋根の上から観察する、向かい側の領主邸の状況に異変は一切なかった。
「…………」
一切ないどころか……無さ過ぎていた。あまりにも静かで、遠目からでも人の気配が
時刻は濃い闇に閉ざされた深夜。
外から見える屋内の灯火の光はふらりとも揺れず、いるはずの
(今日、侵入するのは止めた方がいい。……じゃあ、いつ侵入する。明日? 明後日? ……時間がない。
思わぬ事故――空間魔術に必要な転移地点に不具合が生じたせいで、ここに辿り付くまでに多くの時間を要してしまった。
結果として、単騎での暗殺任務となり……そして、その暗殺対象には予想外の護衛が増えているという始末だった。
(あの魔術師――メリザンシヤが、まさか遠距離から転移の魔術に介入してくるとは想定していなかった。どこまでも……ツイていないな)
リディヴィーヌの弟子、
その弟子の一人である遅延魔術の使い手、昼間に監視したあの男を思い出す。
ベルトラン・ハスク。
おそらく今、領主の館で起きている異常な静寂の正体はこの男の仕業なのだろう。
確実に“私”の存在に気付き、今夜、動くことさえも見抜いている。
「…………」
欲に目が
……だが、私にそんな選択肢は残されていなかった。
そのまま地面に着地して、向かったのは――領主の館を取り囲む高い
監視塔の“眼”が生きているならば、手間を増やして入り込むのだが、もはや、その必要もなさそうだった。
窓を
警備が手薄という以前に、それはもぬけの殻に等しい静けさだ。
事ここに至ってしまえば、おかしい、と感じるだけの警戒は何の意味も成さない。罠の中にいる――それを承知で目的を果たさなければならない。
灯火の明かりがない廊下の薄闇を進みながら、暗殺対象が眠っているはずの部屋へと向かう。
「…………、……?」
移動の途中、ふと、足が――自分の意思を離れた感覚に襲われる。
一瞬の気の迷いだと思い、再び踏み出そうと力を入れるが、この両足が自由に動くことはなかった。
いや……
その奇怪な現象と、
即座に顔を上げて、廊下の先に現れた気配に視線を向ける。
「――昼間、オレの背後をつけていたのはお前か?」
そこに立っていたのは、やはり、昼間に監視した男――ベルトラン・ハスクだった。
「…………」
全身を漆黒の法衣で
「館の守衛は全員、オレの遅延魔術で動きを遅らせているから安心しろ。今のお前の足みたいにな」
そう言って、男は私の足を指差した。
視線は前方に固定したまま――腰に備え付けていた
だが、
「〈
男が発した言葉に呼応して、瞬時に宙を浮かぶ青白い光の文字群。
それと同時、私の伸ばし掛けていた手は――腕は両足と同じく、私の意思を離れて空間に固定された状態となった。
男はさして
「“
「…………」
窓から差した
男の中では既に勝敗の決着が付いており、
「お前が
人を食った話し方で挑発を続ける男。
何度も見てきた光景だ。確信的な勝利を目前にして、
人間だからこそ起こり得る隙――そんな一点を突くために、“武器”は存在する。
男との距離が近付き、あと数歩でトドメを刺される間合いに入り込む。
もう、油断を誘う必要はない。
私は胸元に隠した
「――――<
侵入者が何かの
「――〈
相手の動きを完全に制御するために、今度は手や足だけではなく全身に向けて遅延魔術を放つ。
「…………」
オレは廊下の半ばで立ち止まり、遅延状態になった侵入者の“男”を観察する。
その足は〈
だが、何かが……おかしい。
感覚としては、確実に遅延魔術を通したはずなのだが。
「面倒事はご
直前に呟いていた侵入者の謎の言葉が気に掛かるが、オレはそれを無視して、侵入者へと近付く。
しかし、
「……――!!」
目の前で起きた僅かな変化に、オレは
瞬間、鋭い刃が
着地すると同時、視界が捉えたのは、確かに遅延状態だったはずの――短剣を振り払う侵入者の姿だった。
(こいつ……なぜ動いてる?)
まさか、〈
「……ッ!」
直前にかわしたはずの刃が、気付けば、もうオレの首筋に向けて二度目の弧を描いていた。
一瞬で間合いを詰める
「〈
対象にしたのは侵入者ではなく、投げた銀貨の方だ。
甲高い金属音とともに、遅延状態になった銀貨と短剣の刃が衝突する。
その攻撃の勢いから、侵入者の首に
それは窓から差した薄い光を反射する、首飾りの金具に
(……! 魔封具か!)
一つの可能性が
背後の先にある扉まで走りながら、腰に
「どいつもこいつも簡単に防いでくれるな――〈
先ほどの銀貨と同様、それは遅延魔術の影響によって、空間の中をゆっくりと漂う障害物へと変じた。
短剣を身構える侵入者を
固定化された扉を背に、前方の廊下を見据えながら、オレはため息を吐いた。
「……はあ、“加速魔術”の魔封具か。噂には聞いていたが……本当にオレの遅延魔術を
あの一瞬に見えた首飾りで、脳裏を過ぎった可能性。
ここ最近になって、一部の無法者たちの間で流通しているという魔封具――“加速魔術”の魔封具。
文字通り、それは使用者の速度を遥かに向上させて、通常の時間の流れから
なぜ、そんな物が流通しているのか、また誰が結晶化してその魔封具を作り出したのかは分かっていない。
そもそも、“加速魔術”自体がこの大陸で確認されたことのない、新たな魔術だったのだ。
(魔術で身体能力を向上させた結果として行動速度が上がることはあっても、時間そのものに干渉する魔術は……オレの遅延魔術以外にはなかった)
侵入者が呟いていたのはおそらく、その魔封具を起動するための命令句だろう。
あの時、咄嗟に遅延魔術を放っていなければ、目にも
とはいえ、そんな強力な代物には……往々にして、負の副作用が付き物だ。
「……さて、オレの寿命が先か、あの侵入者の命が先か」
黒法衣の
その蓋を開いて、一切と動く気配のない二つの針を頂点に合わせる。
そして――
「…………〈
吐き捨てるように、オレは自身に課していた“制約”を解く魔術を唱えた。
奇病を
そうして施した特殊な遅延状態が、今この瞬間に――時の束縛を解除した。
「――! ごほっ、がっ…………くそ、慣れないもんだな」
突然、喉の奥から思い出したように絞り出された赤い液体を片手に受け止めて、オレは首を振る。
激しくなる鼓動と、
(……さっさと終わらせるとしよう)
そんなことを考えつつ、扉から離れて廊下を歩き始めると――不意に、前方の横合いに並ぶ窓の一つが大きな音を立てて割れた。
だだっ広い廊下に窓の破片を撒き散らしながら、見覚えのある人影が――館の外から回転するように飛んできた。
そのまま、受身を取らずに難なく着地したのは、やはり……侵入者だった。
「おいおい、ここは三階だぞ」
想像以上の離れ
てっきり、階段を下りて
オレが呆れているのもお構いなしに、侵入者は流れるような動作で何かを
ほんの僅かな光の反射とともにまっすぐ飛んでくる投擲物。かろうじて目で追える間合いにあっても視認が難しいほど小さな武器となると、おそらくは針の類か。
オレは何の身構えもせずに魔術を唱えた。
「〈
詠唱に従って、瞬く間に出現する半透明な球状の膜。
青く薄い
久方ぶりの魔術だったが、案外、精度は悪くないようだ。
「悪いな、遅延特化と言いながら他の魔術も使ってしまって――〈
結界の内側から続けざまに魔術を唱えて、今度は足元の近くに“
魔力の流れによって誘導された水が、見る見るうちに
「これが魔術師の本領だ。勉強代だと思って――大人しくやられてくれ」
侵入者を
その命令は、“敵対者を刺し貫け”。
「……!!」
標的に向かって、一箇所に殺到する水刃の雨。
さすがの侵入者も突然の物量に驚く様子を見せたが、次の瞬間には、抜き放つ短剣が居合切りの要領で水刃を跳ね除けた。
一刀に終わらず、侵入者は小回りの利く短剣を素早く振るいながら、次々と放たれる水刃の射出を一つも漏らさず叩き落していく。
こうした攻撃と相性が良いのが短剣の利点だな、と半ば力技にも思える相手の防御方法に感心を覚えつつ、オレは次の魔術を放つための詠唱を開始した。
だが、
「……?」
侵入者は水刃を
追尾の攻撃を上手くかわしながら、侵入者が向かった先は……おそらく、ルドヴィックのいる部屋だろう。
「まあ、さすがに目的遂行に切り替えたか」
オレは指を鳴らして防御結界を閉じ、
追おうとして――その足元で、何かが閃きを放った。
「――――?」
視界の端で、侵入者が何かを合図する動作が見えた。
それはオレに向けた合図などではなく、今、地面に転がったまま
(爆破魔術――)
察する直後、暗がりを割る閃光とともに――凄まじい衝撃が空間を圧倒した。
オレが立つ周囲一帯、背後の扉を除く廊下のほとんどが魔術の爆風によって吹き飛ばされて、その形を崩していく。
突き上げる衝撃にひび割れた天井の一部が、オレの頭上に大きな影を落として――そのまま、轟音を響かせながら〈防御結界〉に激突した。
「…………はあ」
「やることが暗殺者とは思えないな」
領主の館が頑丈じゃなかったらどうするつもりだったのだろうか。
散らばった
黒の法衣に付いた汚れを払いつつ、先ほどの魔術を思い返して、ゆっくりと進む。
(あの侵入者が使った魔封具は、おそらく二種。〈加速〉と〈爆破〉の魔封具だ。そして……それ以外の魔封具は持っていない)
今のところ、侵入者の攻撃手段は魔封具に依存した奇襲がほとんどだ。
あいつ自身が魔術師という可能性がない限り、魔力の関係上、魔封具もあの二つのみと考えていいだろう。
一般にはあまり知られてないが、魔封具の使用は無制限というわけではない。使用者の質を問わない道具である魔封具でも、微力ながらに使用者の魔力を消費しているのだ。
そうした魔封具の中には、強力な魔術の負荷に結晶が耐え切れず、代償として使用者の魔力と命を同時に削る魔封具もまた存在する。
そして、その魔封具こそが――“加速魔術”の魔封具だ。
(使用者の報告から推測するに、肉体に掛かる負荷は相当なはずだ。こんな代物を何度も使っていたら、オレの
“加速魔術”の魔封具も、相手が“遅延魔術”の使い手であるオレじゃなければ、必殺の切り札だったに違いない。
何人の命を、それで仕留めてきたのかは知らないが……さておき。
ルドヴィックの部屋の前に到着し、開け放たれた入り口から室内に足を踏み入れる。