『風邪ひいた』というLI〇Eが一ノ瀬から送られてきたのは、先日の豪雨から二日が経った朝方の事だった。
自力で起きるにしても朝九時は確実に過ぎる事の多い一ノ瀬が、朝の七時に連絡を送ってきた時点でもうただ事じゃない。この間も体調を崩さないようにできる限りの対処はしたつもりだったが、元々体は強くないと言っていた一ノ瀬のことだ。あれがキッカケになったことは想像に難くないだろう。
幸いにして今は夏休み期間。時間なら腐る程ある。
あまり悩むこともなく、一ノ瀬の見舞いに行こうと決めた。寝間着から着替える片手間にメッセージを送る。
『様子見に行くわ』
『別にいいよ。悪いし』
『俺が風邪ひいた時は来てくれたろ。お互い様だって』
しばらく間が空いてから『わかった。ありがと』と返信があった。おおよその到着時間を送って、安静にしておくよう言含める。俺が来るからと言って何か準備するようなタチじゃないけど、一応な。
向こうの親御さんには体調崩した事を伝えたらしいが、幾分急なことで仕事を休めても明日になるとのこと。なので今日は夜まで一ノ瀬が一人きりになる訳だ。
両親が仕事へ出ていくのを見送ってから、掃除洗濯等の家事を手早く終わらせる。夜までには戻るつもりだが、何かあっては困るのでニルの餌と水は多めに準備。財布とエコバッグ、念の為着替え一式をリュックに詰めて家を出た。
時刻は午前十時を少し過ぎたところ。もうじき八月に入るこの時期、夏真っ盛りの気温はかなり厳しい。歩いているだけでアスファルトの照り返しがジリジリと体力を奪っていく。
道すがら、ドラッグストアで冷感シートやのど飴、ゼリーとスポドリを購入。トローチや風邪薬の類も買おうか悩んだが、体質によっては合う合わないもあるので今回は見送った。最悪、一ノ瀬の家に着いてからもう一回買いに行けばいいし。
ついでにスーパーに立ち寄り食材もいくつか買い込んだ。俺が調理してもいいし、そのままでも手軽に食べられるようなものをチョイス。食欲もあるか分からんから下手に多く買ってもな。
そんなこんなで、両手に買い物袋を提げて一ノ瀬のマンションに到着。予め言われていた通り、エントランスの受付? にいる人に声をかける。部屋番号と一ノ瀬の名前を伝え、学生証を提示するとエレベーターまで通してくれた。
えるしっているか、高級マンションのエレベーターは音がしないし揺れない。
廊下を抜け、部屋のチャイムを鳴らす。到着した旨はLI〇Eで送ってあるので大丈夫だと思うけど。待つこと三十秒ほど、ガチャっと部屋の扉が開いてマスク姿の一ノ瀬が姿を見せた。……美人ってすげーよな、マスクつけてても面が良いの分かるんだもん。
熱のせいか顔は赤く、紫水晶の瞳は蕩けたように揺れている。一目で体調が悪いと分かる程度には病人らしい様相を呈していた。
「おう。体調は……あんまよくなさそうだな」
「けほっ……だいぶ、きついかも」
「だろうな。とりあえずお邪魔するぞ」
靴を脱いで上がらせてもらい、一ノ瀬にはいったん寝てもらおう……と、思ったが部屋の惨状を見てやめた。うん、まあ……前回掃除したのが半月くらい前だもんな。しばらく一ノ瀬の家にも来てなかったからこの散らかり具合も妥当なところか。
ただ、病人が休むには不適切なことに違いないのでそのままリビングのソファで横になってもらうことにした。枕替わりにクッションを敷き、一ノ瀬の自室から持ってきた掛け布団を被せる。買ってきた食材を冷蔵庫に避難させる傍ら、体温計を渡して熱を測ってもらう。
小さな電子音が鳴り、表示された数字は38.2℃。まあまあな熱である。
「一旦こっちで休んでてくれ。薬はなにか飲んだか?」
「なにも……朝ご飯も、たべてない」
「ふむ。食欲はあるか? なにか食べたいもんは?」
「……かわむらのご飯、たべたい……けほ、けほっ!」
「……あいよ。ちょっと待っててな」
「ん……」
病人相手に不謹慎なのは重々承知しているが、今日の一ノ瀬は破壊力が凄い。声が張れないので寝起きのような舌っ足らずな喋り方に、普段よりも甘えがちというかストレートに気持ちを出してくるので庇護欲がぎゅんぎゅん高まってくる。
このか弱い生き物は、俺が
冷蔵庫からネギと生姜、うどん玉と天かすを取り出す。知っての通りネギはビタミン豊富で免疫力を高め、生姜は血行促進により発汗を促す。喉が枯れないよう天かすの油分と、消化に良いうどんを柔らかめに茹でれば河村家秘伝の病人食が完成である。俺もこの間は世話になった。
ちなみにネギは刻むんじゃなくて細胞を壊すように手で引きちぎるか麺棒か何かで叩いて潰すと栄養が汁に溶けだしやすくて尚良い。生姜はおろしてもスライスでも千切りでもお好きにどうぞ。
鍋とお椀を用意しリビングのテーブルへ運ぶ。匂いに気が付いたのか、微睡んでいた一ノ瀬がうっすらと目を開けた。
「ほれ、できたぞ。自分で食べられるか?」
「うん……なんとか」
「水はここに置いとく。無理に食べなくてもいいからな? 俺は一ノ瀬の部屋掃除してるから、おかわりか、何か用事があればスマホ鳴らしてくれ」
「ん」
掛け布団にくるまったまま器用にソファの上で起き上がった一ノ瀬。緩慢な動きでお椀を手に取り、もそもそと麺を啜り始めたのを見てから俺はリビングを後にした。
◇◆◇
部屋の掃除に取り組むこと三十分ほど。ひとまず散らかったゴミが片付いてきたところで、ポケットに突っ込んでいたスマホが鳴った。
手を止めてリビングに戻ると、暑くなったのか掛け布団を剥いだ一ノ瀬。テーブルの鍋は空になっていて、傍には風邪薬の薬包も。ふーむ……これだけ食べられるなら、それ程酷くはならなそうだけども。
「吐き気とかはないか?」
「……だいじょぶ」
「そうか。ベッド周りは片付いたけど、部屋で寝るか? ソファじゃあんまり休まらないだろ」
「うん……」
立ち上がった一ノ瀬はふらふらと覚束無い足取りで自室へ向かう。……なーんか心配だな、と思って見守っていた矢先。大きく後ろにふらついて倒れ込み───反射的に伸ばした手がギリギリで背中を支えることに成功した。
「っぶね……! おい、ほんとに大丈夫か?」
「……なんか、だるい……」
「あーもう……ほら、肩貸してやるから。もうちょい頑張れ」
そのまま腕を俺の首に回し、もう片方の手で背中を支えながら一ノ瀬の部屋までゆっくり歩いていく。薄い寝間着越しに密着した一ノ瀬の身体は火傷しそうな程に熱く、じっとりと汗ばんでいる。飯食って熱上がってきたっぽいな。
普段ならドキドキしそうな状況だが、辛そうな一ノ瀬の顔を見ればそんな気は微塵も起きなかった。少なくとも今は下心よりも心配の方が大きい。
部屋に到着し、ベッドに一ノ瀬を寝かせる。呼吸は浅く、時折苦しそうに咳き込んでいる。持ってきたタオルで顔の汗を拭いてやり、冷感シートを額に貼り付け、掛け布団を上まで掛ける。暑いだろうけど我慢してくれな。
最後にサイドテーブルにスポドリとビニール袋をセットすればOKだ。さて、俺はどうしようか。掃除の続きをしてもいいんだが、病人の横で音やホコリを立てる訳にもいかないからな……今のうち、夕食に食べられそうなものでも作っておこうか。
「じゃあ、俺リビングに居るから。用があればスマホで───」
そこまで言いかけた所で、体を僅かに引っ張られる感覚。見れば、布団から伸ばされた一ノ瀬の指がそっと俺のシャツを摘んでいる。
うっすらと開いた瞼から、濡れた紫水晶の瞳が覗いていた。
「まって…………、いかない、で」
度重なる咳で掠れ、熱に浮かされて消え入りそうな声。
それでも、そこに込められた彼女の気持ちを汲めない程俺はバカではないつもりだった。
天井を仰いで小さく息を吐き、ベッドにもたれ掛かるようにして腰を下ろした。シャツを摘んでいた一ノ瀬の手を軽く握ってやると、そのまま布団の中にゆるゆると引っ張りこまれる。
仰向けで寝ていた状態からもぞもぞと横を向き、両手で包み込むように俺の手を握った。熱を帯びた柔らかな感触が這い回り、少しだけくすぐったい。
やがて安心したように大きく息を吐くと、程なくして浅い呼吸は規則正しい寝息へと変わっていった。
風邪を引いた時や寝込んだ時は、妙に人肌が恋しくなる。あの寂しさはなんとも形容し難いものだ。ご両親が多忙で、一人でいる時間が多い一ノ瀬なら尚更だろう。
気が緩んだ時に見せる、普段の様子からは想像できないくらいの甘え方は、こいつなりの寂しさの裏返しなのかもしれない。
とはいえあくまで他人だし、心の中で思っていること考えていること全部を推し量ることなんてできない。俺の考えてることが全くの見当違いだってことも有り得るし。
だけど───俺と一緒にバカなことやってる時間が、こいつにとって楽しいものだったら。少しでも、寂しさを紛らわせる為の助けになれていたらいいな、なんて。
心から、そう思った。
◇◆◇
「───……んあ?」
ふと目が覚めた。
いつの間にか寝落ちしてしまっていたらしい。目を擦りながらベッド脇の時計を見れば、最後に見た時からおよそ一時間が経過していた。寝る前と同様に右腕は一ノ瀬に抱え込まれていて、流石に暑い。
一方で、一ノ瀬の表情は幾分か和らいでいるような気がする。頬の赤みが少し引いており、呼吸もやや深い。解熱剤が効いてきたのだろう。しかしその分発汗も多く、額の冷感シートも剥がれかけている。新しいのに交換したいところだ。
眠る一ノ瀬を起こさないようにそろそろと右腕を引き抜く。少しだけむずがるような素振りを見せたが、すぐにまた穏やかな寝息を立て始めた。
リビングに戻って濡れタオルを作り、冷蔵庫から冷感シートを取り出して部屋へ戻る。ぬるくなったシートを剥がし、顔や額の汗を軽く拭いた所で一ノ瀬が目を覚ました。
「悪い、起こしちまったか。気分はどうだ?」
「ん……だいぶ、楽になった」
「薬も効いてきた頃だしな。今は熱も下がってるだろ」
さっきより意識も言葉もはっきりしてるし、反応も早い。この分ならしばらくは大丈夫だろう。
「それより、マジであっついんだけど……」
言って、ばさっと掛け布団を剥がす一ノ瀬。いくらエアコンをつけているとはいえ、真夏に布団を被って寝続けるのは大変だろう。しかも昼飯に食った生姜のおかげで身体の芯から温まってるし。薄い寝間着も汗でびっしょりと濡れている。……透けない素材で良かったよホント。
「取り敢えず汗拭いて着替えた方が良いな。タオル置いとくから、着替え終わったら呼んでくれ」
そう言って部屋を後にしようとした所で、軽く体が引っ張られる感覚。見れば一ノ瀬が俺のシャツを摘んでいた。あれ、なんかデジャブ。
「……河村は、病人に自分で体を拭かせるワケ?」
「相手が女性だったらそうした方が良いと思うんですけど(名推理)」
「背中拭いて。あと着替えも出して。動くのだるい」
「…………うっす」
一言断ってからクローゼットを開いて替えの寝間着を取り出す。ネイビーのシンプルなデザインのものだ。え? 替えの下着? 俺に社会的に死ねと?
そうこうしているうち、後ろから小さく衣擦れの音が聞こえてくる。恥じらいの心とかないんか? 俺の記憶が間違ってなければ、あなたこの前下着透けて恥ずかしがってませんでした? 背中ならセーフってこと? わっかんねぇ……!
「……ん。いいよ」
許可が出たので恐る恐る振り返る。
ベッドにぺたんと座り、上の寝間着を脱いだ一ノ瀬がこちらに背中を向けていた。引きこもり特有の不健康なまでに白い肌は、熱と暑さでほのかに赤らんでいる。汗ばんでしっとりと湿った柔肌は艶かしい輝きを放ち、見ているだけで吸い込まれてしまいそうだ。
なんで俺、同級生の女子の部屋で同級生の女子の背中見てるんだ。女子の間では男子に背中を見せるのが流行っていたりするんだろうか。そういやどっかの学校だとポニテ禁止になったって聞いたな。女子高生のうなじが劣情を煽るだとかなんとかで。
聞いた時は「ンな訳ねぇだろ」って笑った覚えがあるけど、今なら分かる。普段見えないものが見えた時にテンション上がるのは仕方ない。人間だもの。ほら、戦闘機の裏側とかロボの配線部分とか見えたら興奮するじゃん? え? そういうことじゃない?
「……早くしてくれない? さすがに寒いんだけど」
心の中で怪文書を並べ立てていると、肩越しにジトっとした視線が突き刺さった。
「あ、あぁ、悪い……。……じゃあ、拭いてくぞ」
「ん……」
タオルを掴み、深呼吸をひとつ。
慎重に、優しく肌に押し当てる。繊細なガラス細工の手入れをするかのように、擦らず叩くようにして拭いていく。
これは看病なんだ、決してやましい事じゃない。心を無にして余計な事は考えなくて良い。ほら、今日も世界は回っているし、空はこんなにも綺麗。今なら悟りだって開ける気がする。
よし行ける。このまま何事もなく終わらせて着替えさせて任務完了だ。
背中の上半分を拭き終わり、俺はタオルの面を変える為に掌の中で持ち替えようとした。その時、座り直そうとしたのか一ノ瀬も少し身動ぎをした。幸か不幸か互いの行動が重なった結果───俺の指先が、一ノ瀬の背中をなぞるような形で触れてしまった。
「んっ……」
僅かに鼻にかかった吐息が漏れた。
一ノ瀬がよく返事で使うものじゃない。
思わず漏れてしまった、と表現するのが相応しいような小さいものだ。本人も驚いたのだろう、後ろ髪の隙間から見える耳は、風邪の熱とは違う熱さにみるみるうちに真っ赤に染まって───
「観自在菩薩行深般若波羅蜜多時」
「……え、なんて?」
「照見五蘊皆空度一切苦厄舎利子色不異空空不異色」
「なになになになに怖い怖い怖い」
「色即是空空即是色受想行識亦復如是舎利子是諸法空相」
「ちょっ……マジで怖いなに!? ねぇ河村!? 河村ってばぁ! 」
その後のことは、あんまりよく覚えていない。
気が付いたら自分の家に戻ってて、一ノ瀬から『ごめん』『今日はありがと』『もう日本語喋れる?』という感謝してるんだか煽ってるんだか良く分からないメッセージが送られてきていた。
夏って怖いね。