長いようで短いような夏休みも終わり、二学期が始まった。
部活で真っ黒に日焼けした男子生徒、髪を切ってコンタクトに変えた女子生徒。夏の間に変わった奴もいれば変わらない奴もいる。最初こそ違和感があるかもしれないが、それもやがては日常へと溶け込んでいくのだろう。
……変わった奴、といえば。
ペンを動かす手を止めて、隣で寝息を立てる一ノ瀬に視線を送る。
時刻は放課後。立候補する奴が居なかった文化祭実行委員を引き受けた俺は、今日のHRで挙がった内容を纏める作業を行っていた。時間に追われない帰宅部というのはこういう時に便利だ。もちろん、晩飯の買い物があるので夕方のタイムセールまでには帰りたい所だが。
特に用事は無いはずの一ノ瀬は、果たして何故居残っているんだろうか。作業の邪魔をされてる訳でもないし、別にいいんだけど……「終わったら起こして」と言い残したきり昼寝をされては、意図が掴めないのでちょっと気になるのが本音だ。
グラウンドから響く運動部の掛け声と、隣から聞こえる穏やかな寝息をBGMに作業を進めることしばらく。
キリの良い所でひと段落をつけ、ぐっと背中を伸ばした。
気持ち良さそうな寝顔をちょっとだけ眺めてから、指先でコンコンと机を叩き、声を掛ける。いつもの───寝ている一ノ瀬を起こす時の、最早ルーティーンになってしまった動作。
少しだけむずがるように眉を顰めて、ゆっくりと瞼が開かれる。焦点の合わない紫水晶の瞳がふら、と彷徨ってから俺の顔に。そのままぼうっと見詰められていたが、やがて可愛らしい欠伸と共に身体を起こした。
「ふゎ……ぁ。……おわった?」
「おう。で、一ノ瀬は? なんか用事あったんじゃないのか?」
「……別に、なにもないけど」
「えぇ……?」
訊ねてみれば、返ってきたのはまさかの返事。内心首を捻る俺を他所に、さっさと帰り支度を済ませる一ノ瀬。マジで帰るだけじゃねぇか。なんで待ってたんだよ。
「河村は? もう仕事全部終わった?」
「まあ、今日の分は一応」
「ふーん。じゃ、帰ろっか」
「うい」
促され、昇降口へと向かう。「先に帰ってても良かったのに」とは思ったが、口には出さず留めておく。なんだかんだ言って一ノ瀬と過ごせる時間が増えて嬉しいのは事実だし。それがただの帰り道だったとしても、だ。
昇降口で靴を履き替えたところで、微かな雨音が響き始めた。軒先まで出て雨足を確認してみれば、アスファルトは既に黒く染まり始めている。天気予報では曇り程度のハズだったんだけどなぁ。秋の天気は変わりやすいというが、こちらとしてはたまったものではない。
バッグを漁り、常備している折り畳み傘を取り出す。カバーを外しながら一ノ瀬の様子を窺うと、空を見上げたままぽけっと突っ立っていた。……こんなんでも絵になるんだから、美人ってすげーよな。
「一ノ瀬。一応聞いとくけど、折り畳み傘とか持ってるか?」
「逆に聞くけど、うちがそんなもん持ってると思う?」
「胸を張って言うことじゃねぇんだよなぁ!」
いやまあ知ってたけど。
学校の最寄り駅までは歩いて十分程度、走っていくなら五分ちょいだが……ずぶ濡れになって風邪引いた前例もあるので、一ノ瀬を雨の中走らせるのは流石に気が引ける。……ここはひとつ、男として格好つけさせて貰うとしよう。
開いた折り畳み傘を一ノ瀬に差し出す。男用なので、折り畳み傘でも一ノ瀬の体格なら十分なハズだ。
「ほら、これ使え」
「……え? 河村はどうすんの?」
「本降りになる前に走って帰る。一ノ瀬も濡れないようにな。そんじゃ───ぐべっ!?」
「待って」
折り畳み傘を押し付け、雨避けのためにバッグを頭に乗せて走り出した瞬間、制服の後ろ襟を引っ張られた。つぶれたカエルみたいな声と共に急停止し、げほげほと喉元を抑えて下手人を睨み付ける。やらかした当の本人からは何故か呆れたような目線を向けられたが。
「な、何すんだお前……!」
「何してんだはこっちのセリフなんですけど。なんでわざわざ濡れて帰ろうとする訳?」
「は? いやだって、傘は一本しか……」
「こうすればいいじゃん」
無いだろ、と言う前にするりと腕を取られた。俺の左手に傘を握らせた一ノ瀬が、そのまましがみつくように身体を寄せる。決して広いとは言えない傘の下、二人分の体温が重なった。
九月とはいえまだまだ残暑冷めやらぬ気温。お互い薄手のワイシャツというのもあって、柔らかな肌の感触が生地を通して伝わってくる。
相合傘───例外はあるにせよ、一般的に仲の良い男女が行うもの。また、恋人同士であることを示すアイコンとしても機能するので、周囲の目を気にする思春期の高校生にはハードルの高いもの……だと、思ってたんだけど。
予想外の展開にフリーズする俺を他所に、一ノ瀬が急かすように俺の腕を軽く引っ張る。
「なにボサっとしてんの。早く帰るよ」
「あ、おう……」
傘を持っている以上、雨の中へと踏み出していく一ノ瀬を濡れさせる訳にもいかず、流されるままに足を動かす。腕に伝わる温かな感触と鼻腔をくすぐる仄かな甘い香りが、混乱したままの思考を整理する暇を与えてくれなかった。
下校時刻とはいえ、まだまだ周囲には他の生徒もいる訳で。四方から突き刺さる好奇の視線に羞恥心と居心地の悪さを感じながらも、降って湧いた突然のイベントに内心喜んでいるのもまた事実。油断すると上がっていきそうになる口角を、表情筋に力を入れることで普段の位置に押し止める。
そんな嬉し恥ずかしな駅への道を、ゆっくり歩くことしばらく。
通り雨かと思えた小雨は『しとしと』から『ざあざあ』と表せる程度には本降りの様相を呈していた。アスファルトには小さな水たまりができており、歩く度につま先から跳ねる雨水が制服の裾を濡らしていく。……うーむ、結構染みてきたなぁ。
「この後一時間くらい雨だって。どっかで雨宿りでも……」
信号が変わるのを待つ傍ら、スマホを弄って天気予報を調べていた一ノ瀬がそう言いながら此方に顔を向ける。が、その拍子に何かに気が付いたのか、言葉が途切れると同時に小さく目を見開いた。その視線の先は俺の右肩───雨に濡れ、色が変わってきている制服。……バレたか。
「ちょっ、めっちゃ濡れてんじゃん」
「そりゃお前、折り畳み傘を二人で使うのは限界あるって。一ノ瀬が濡れるよりはいいだろ」
元より一人用なのだ、二人で使うことは想定されていない。それでも一ノ瀬を雨に打たせるよりはマシなので、俺の右肩には天然のシャワーを浴びてもらっていたのだが。
俺の言い分を聞いた一ノ瀬は眉根を寄せ、きゅっと引き結んだ口元をむにむにとさせていた。怒っている、という訳ではなさそうだけども……。
「はぁ……気遣いは有難いけど、それで河村が風邪引いたらどうすんの」
「あー、そん時はまた看病頼むわ」
「え、嫌だけど。仕事増やさないでよ」
「泣けるぜ……」
秒で切り捨てられた俺を他所に、何かを探すようにきょろきょろと視線を巡らせる一ノ瀬。やがて目的のものが見つかったのか、袖口がくいくいと引かれる。
……最近、気が付いたんだが。一ノ瀬が何か意思表示をしたい時は、袖やら裾やらを引っ張って注意を向けさせることが多い。しかも、ある程度の関係値が築けている奴にしかやらないっぽい。田中や山本とかにやってるの見たことないし。
人見知り故、声をあげるよりも変に目立たないからそうしてるんだと思うけど、仕草がめっちゃ可愛いんだよなぁ。以前提唱した『一ノ瀬うるは=幼女説』のエビデンスが高まるばかりだ。学会での発表が待たれますね。
「あそこ入ろ。雨宿り」
「おう」
細い指先で示されたのは小洒落たカフェ。全国チェーンの有名なお店だが、少々割高と聞いているので来たことないんだけど……まあ良いか。そんなに長居するわけでもないし。
つーか、一ノ瀬もこういう所行くんだな。似合わないってわけじゃないけど、どうにも普段の生活と結びつかないというか。オシャレなカフェでコーヒー飲んでるよりも、エアコンの効いた部屋でエナドリ飲んでる方が解釈一致になっちまう辺りどうかと思う。
などと失礼なことを考えていると、斜め下から湿っぽい視線が突き刺さるのを感じた。
「……何か変なこと考えてるでしょ」
「や、一ノ瀬もJKっぽい店行くんだなって」
「ぽいも何もJKなんだけど」
「残念ながら……」
「〇すぞ」
「言葉強いったイン!?」
茶化したら
傘をしまってお店の扉を開く。からん、と涼やかなドアベルの音に続き、深みのあるコーヒーの香りがふわりと流れ出してきた。平日の夕方ということもあってか、お客さんはそこまで多くない。歓談に興じる奥様方のグループと、後は同じ学校の制服がちらほら見える。
カバンの肩紐でハンドタオルを右肩に押し付けて水気を吸わせつつ、メニュー表を眺める。…………なんだこれ、呪文か何かか? フラペチーノってなんだよ。マキアートってなんだよ。俺が知ってる飲み物がコーヒーと抹茶しかないんだけど。
「河村、決まった?」
「エッ、いやちょっ……その、これはどれがなに?」
「……もしかして、来るの初めて?」
「残念ながら……」
見栄を張ってもしょうがないので素直にゲロった。
また言葉のナイフで滅多刺しにされるかなぁなんて思っていたが、一ノ瀬は小さくため息をひとつ。
「はぁ……もう。フレーバーは?」
「フレ……なに……??」
「味だよ味。何飲みたいの」
「あ、じゃあ抹茶の……あんま派手じゃないやつで」
「派手じゃないやつ……? んー、まあこれでいいか」
そう言って、店員さんに向かってスラスラと注文していく一ノ瀬。人見知りとはいえ、こういった場面だと問題ないんだよな。仲良くなろうとすると途端に何喋っていいか分からなくなる、とは本人の談だ。
なんてことを考えつつ、注文が終わるのを待っていると店員さんが何やらパンフレットを取り出す。一ノ瀬が覗き込むのにつられて俺も身を乗り出し、ポップな書体で描かれた文字を見て───思わず吹き出しそうになるのをギリギリで我慢した。
「当店ではただいま『カップル割引』キャンペーンを行っていましてー。男女おふたりでカップルの証明を行っていただければ、それに応じてお値段が割引されますー。ご参加されますかー?」
にこにこと説明される内容は中々にヘビーなものだった。パンフレットに掲載されている証明方法は『手を繋ぐ』『腕を組む』『ハグ』の二つで、それぞれ一割、三割、半額の値引きが適用されるらしい。
これ考えた奴とGOサイン出した奴は頭ん中お花畑なのか?? 見ず知らずの客のイチャイチャを見せ付けられる店員さんと周囲のお客、あと独身勢に多大な精神的ダメージを与えるだけだろ。
まあ、俺と一ノ瀬には関係のない話だ。ただの友人なんだし、そもそも一ノ瀬はこの手のイベントは敬遠するだろう。サクッと流してお会計を済ませてしまおう。
「あー、そういうのは───」
「……ん」
遠慮しておきます、と断りを入れようとした瞬間。黙ってパンフレットを見詰めていた一ノ瀬がこちらへ向き直り、控えめながら両腕を広げるような格好をとった。言葉らしい言葉はなかったけれど、八の字に垂れた眉と下方へ逸らされた視線、髪の隙間から覗く赤らんだ耳が、彼女の心情を雄弁に物語っている。
……流石の俺も、これを見てなにをすればいいか察せられない程の鈍感じゃない。じゃないからこそ余計に驚いている訳で。
だって、あの一ノ瀬だぞ? 何かにつけて『面倒臭い』がいの一番に出てくるような奴だ。勿論、自分の利になることや理屈が通っているなら動く時は動く。けれど、衆人環視の中で精神的な負荷を受けてまで承諾し、なおかつ『ハグ』を選んだ一ノ瀬の、真意は───?
予想外の反応にフリーズする俺。いつまで経ってもリアクションが返ってこないことを不審に思ったのか、不安げだった一ノ瀬の眉が徐々につり上がっていく。マズい、羞恥が怒りに変換されようとしている。
喉元まで出かかっていた言葉が、出口を失って腹の中へ落ちていく。
答える代わりに、半歩踏み出して距離を縮めた。それだけで、こちらの意図を汲んでくれたらしい。非難の色を含み始めていた視線は再び足元へ固定されてしまった。くそ、せめて軽口のひとつでも叩いてくれればこっちの気も紛れるってのに、意識するなって方が無理だろ……!
「じゃ、じゃあ……いくぞ」
「ん」
一言断りを入れてから、恐る恐る手を伸ばした。軽く開かれた腕の下を通すように背中へ腕を回してから、どこに手を置こうかと一瞬悩む。結局自分の手首を鷲掴みにし、一ノ瀬の腰あたりに落ち着けた。ちょっと俺の腰が引けてはいるが、これでハグの格好にはなっている……と、思う。
しかし、どうやら一ノ瀬は俺の対応がお気に召さなかったらしく。
互いが密着しないように空けておいた拳一つ分のスペースを押し潰すように、一ノ瀬の身体が押し付けられた。反射的に身体を引きかけたが、背中でガッチリとロックされた一ノ瀬の腕がそれを許してくれず。胸から腹辺りにかけて感じる一際柔らかな感触の正体は考えないようにしつつ、小声で耳打ちする。
(お、おい一ノ瀬っ、近いって!)
(ハグなんだから当たり前でしょ。ていうかあんまり焦ってると店員さんに怪しまれるから。じっとしててよ)
(むしろお前はなんでそんなに落ち着いてんだよ……!)
(ハグくらいで一々騒がないでよ、童〇臭い)
(どどどど童〇ちゃうわ!)
(は?)
(嘘です見栄張りました。彼女いない歴=年齢です)
信じられないくらい低い声だった。
そんなキレなくても良いだろ……本気で命の危険を感じたぞ。背骨から一瞬『ミシッ』て聞こえたような気がしたけど、多分気のせいだろう。一ノ瀬がそんな力出せるわけないし。
などと普段と同じようなやり取りをしたお陰か、恥ずかしさが良い具合に薄れてきた。
緊張に振り切れていた感情のメーターが元に戻り、今度はじんわりとした安心感が全身を包んでいく。
自分と比べて少しだけ低い体温。シャンプーの香りと一ノ瀬自身の香りが混じり、ほのかに甘い香りが鼻腔をくすぐる。華奢な体躯は少し力を入れて抱き締めれば折れてしまいそうな程なのに、しっかりと女性らしい柔らかさを備えている。
身長差の都合、俺からは一ノ瀬の頭頂部しか見えないけど。時折小さく鼻を鳴らしたり、胸元に額を擦り付けるようにする仕草は、まるで飼い主にじゃれつく大型犬のようだった。普段はあまり甘えないけど、『これは自分のものだ』と主張するかのように匂いをつけてマーキングしてる、みたいな。
……自分で考えておいて何だけど、発想がだいぶキモいな。自分が一ノ瀬のお気に入りだという前提で話を進めてる辺りが特に。でも実際、どうなんだろうなぁ……脈はある、と、思う……思いたい。でなけりゃ異性とこんな事しないだろ。こないだのプールの時もそれっぽいこと言ってたし……いや、でもなぁ……。
恋愛経験ゼロの河村くんにはハードル高いって。こんなことならギャルゲもプレイしとくんだったなぁ。女心がこれっぽっちも分かりません。あー……それにしても一ノ瀬いい匂いだなぁ……すごい落ち着───
「あの、お客様? もう大丈夫ですので、受け取り口までお進み頂けると……」
「ああああすみませんすみませんすぐ退きます!!」
すごく申し訳なさそうに店員さんから声を掛けられて我に返った。
そうだよまだお会計途中ってか店の中だよここ! ハグを堪能してる場合じゃないって! やばいめっっっちゃ恥ずかしい!! やめて!! 『若いっていいわねぇ』みたいな目でこっち見ないでそこの奥様方!!
同じくあまりの羞恥に顔を真っ赤にして動かなくなってしまった一ノ瀬の手を引き、グラスの乗ったトレーを持ってそそくさと空いている席へ移動する。
その後、二人して無言でドリンクを飲み干し急いで退店した。
せっかく頼んだ抹茶フラペチーノの味なんて、ほとんど覚えていなかった。