「───よし、お疲れさん。後夜祭担当以外のメンバーは解散でいいぞー」
受け持ちの先生がそう締め括り、俺を含めた実行委員達は一仕事を終えたとばかりに息を吐いた。
体育館に敷かれたマットにパイプ椅子、模擬店に使用したテントの片付け、業者からレンタルした物品の返却チェック、装飾や立て看板の収納作業エトセトラ。各クラスの片付けとは別に駆り出され、校内を西へ東へ走り回ってようやっと作業が終わったところだった。
時計を見ればもう五時半を過ぎている。後夜祭の開始が六時からなので、残された時間はもう僅かしかない。予想されていたこととはいえ、まさかこんなにも時間がかかるとは思わなかった。
急いでスマホを取り出しLI〇Eを開く。一番上に表示されていたトークルームを選んで、手短に文章を打ち込んだ。
『今終わった。すぐ向かう』
程なくして既読が付いた。
返ってきたのは『ん』という一文字だけ。
それで十分だった。この後の集合場所も、そこで何をするのかも、お互いに理解している。
歩くとも走るとも言えない微妙な速度で廊下を抜ける。生徒の殆どは後夜祭のために校庭へ移動し、校内は伽藍としている。外履きに履き替える時間すらもどかしい。脱いだ上履きを乱雑に下駄箱へと突っ込んだ。
目指すは西校舎、非常階段の裏手。
走って、走って。
目的地の角を曲がる直前に、少しだけ深呼吸をした。
そっと覗き込んでみれば、まだ人影は見当たらず。ほんの少しだけ胸を撫で下ろして、僅かに乱れた息を整える。そうしながら、なんとはなしに空を見上げた。
秋の日はつるべ落としと言われる程には日暮れも早い。ぼんやりとした残光が西の空をオレンジに染め、東の空には既に濃紺の夜闇がじわじわと広がり始めていた。
想いを告げる。
言葉にすればただそれだけのこと。胸の内に抱えた好意を口に出して、付き合ってくれと伝えるだけだ。
包み隠さず言ってしまえば、向こうは俺の気持ちに気付いているんだろう。気付いた上で、今まで通りの距離感……いや、むしろ距離を詰めさせるような素振りさえ見せてきたんだ。まかり間違っても『嫌い』と言われることはないだろう。
ただ、やっぱり不安はある。
多分、きっと、おそらく、十中八九、九割九部上手くいくとは思うけど、どうしても『もしかしたら』という不安がうっすらと付き纏って離れない。
失敗したらどうしよう。
断られたらどうしよう。
始まる前から弱気になってちゃ仕方ないと言われたらそれまでなんだが……彼女いない歴=年齢にとっちゃ、異性に告白するというイベントがどれだけ高いハードルであることか。
はち切れそうな緊張と不安から、全身がぶるりと震える。四肢から血液が吸い取られ、全て心臓に持っていかれているような気がした。
ひゅう、と風が吹いた。
「───河村」
背後から、名前を呼ぶ声。
少し低めの、耳に心地良い落ち着いた声だ。聞き間違えるはずもない、もう幾度も名前を呼ばれてきた。普段通りの声で、怒ったような声で、拗ねたような声で、穏やかな声で、少しだけ甘えるような声で、楽しそうな声で。
そうやって名前を呼ばれるだけで、胸の奥に暖かい火が灯るような気さえした。
ゆっくりと振り返る。
風に吹かれて巻き上がりそうになる髪を片手で抑えながら、どこか所在無さげな一ノ瀬がそこに立っていた。
けれど目線は行ったり来たりで、時折目が合ってはすぐに逸らされる。前髪を弄ったり、ジャージの裾を摘んだりとどうにも落ち着かない様子だった。
昼間は普段通りといえば普段通りだったけれど、今日この日に想いを伝えると宣言してからはや一週間。向こうも向こうで気を揉んでいたのかもしれない、という希望的観測。いや、どうであれやる事に変わりはないのだが。
「……ごめん。遅くなった?」
「ああ、いや。……こっちこそ、終わるまで待たせて悪かったな」
「別に……することも、なかったし」
「……そうか。なら、良いんだけど」
交わす言葉も、お互いにどこかぎこちない。この後の事に思考のほとんどが持っていかれて、世間話どころじゃなかった。
今しがた喋っていたハズなのに、知れず口内がカラカラに乾いていることに気が付いた。
ごくりと、意識的に唾を飲み込んで。
僅かに潤いの戻った喉で言葉を紡ぐ。
「一ノ瀬。……聞いて欲しいことが、あってさ」
「……うん」
声が震えなかったのは奇跡だった。
逆に、一ノ瀬の方は少しだけ声が上擦っていて。向こうも緊張してんだな、なんて妙に冷静な感想が浮かんではすぐに消えていった。
深呼吸を挟んでから、一歩、歩み寄る。
話し始めるキッカケさえ作ってしまえれば、後は自分でも驚く程すらすらと言葉が出てきた。
「一番最初に、一ノ瀬と向き合って話した時。すごい美人な奴だなって思った。けど話してみたら、案外ノリが合うっていうか、話せるっていうか。それこそ最初は男友達みたいな感じだなって、思ってた」
一ノ瀬は、黙って聞いている。
話しているうちに喉の奥が熱くなってきて、顔から耳から全部赤くなっているだろうことは鏡を見なくても分かった。そのうち心臓が口から飛び出ていかないかと不安になるくらい、胸の内側が暴れ回っていた。
予め考えていたセリフなんて、もう全部吹っ飛んでいて。それでも喋り続ける口は、止まることを知らずに抱えていた想いを全部言葉に変えて吐き出していく。
「部屋の掃除とか、飯作ったりとか、どう考えたって恋愛なんてもんとは程遠い始まりだった。
……でも、気が付いたら、俺の日常に一ノ瀬が居るのが当たり前になってたんだ。ゲームやって夜更かしして、くだらない雑談で笑い合って、一緒に飯食って、お互い好きなことして。
そういうなんでもないような時間を、もっと一緒に過ごしたい。俺の隣には一ノ瀬が居てほしいし、俺も一ノ瀬の隣に居たい」
視線を合わせる。
僅かに潤んだ紫水晶の瞳に、俺の顔が映っていた。
小さく息を吸いこんで、万感の想いを込めてその言葉を告げる。
「───好きだ、一ノ瀬。俺と付き合ってくれ」
返事はなかった。
伝えた言葉に嘘偽りが無いことを証明するように、視線は逸らさずにじっと言葉を待つ。
やがて、白磁の頬を一筋の雫が流れ落ちた。
この世のどんな宝石よりも美しい涙を流しながら、静かに身を寄せてくる一ノ瀬。ジャージの胸元が握り締められ、額を押し付けられた箇所から暖かく湿った感触がじわりと広がった。
たまらなくなって、両腕を回し華奢な身体を抱きすくめる。
もう、拳一つ分の隙間なんて残すつもりもなかった。腕の中の温もりを確かめるように固く、優しく包み込む。
すん、すん、と小さく鼻を啜る音。
何を言うでもなく、黙って待ち続ける。
一分か、二分か。
やがて腕の中で身じろぎをした一ノ瀬は、それでも身体を離す事はなく。
額を胸にくっつけたまま、涙に濡れてくぐもった声を絞り出す。
「……うち、めんどくさい女だよ」
「知ってる」
「メンタル弱いし、逆ギレとかも全然するよ」
「知ってる」
「部屋も片付けないし、引きこもりだし」
「よーく知ってる」
「愛想だって良くないし、可愛げないし、付き合っても、恋人らしいことしてあげられるか、分かんないよ……?」
「めんどくさい所も可愛い所も、全部含めて一ノ瀬を好きになったんだよ。今更取り繕われても、こっちが困る」
「なに、それ……」
ぎゅう、と。
一際強く、ジャージが握り締められた。
「……本当に、こんな……こんなうちでも、いいの」
「一ノ瀬『が』いいんだ。信じられないんなら、何度だって言うぞ───好きだ、一ノ瀬。俺と付き合ってくれ」
「うん…………うん。ぐすっ……うちも、すき。
───大好きだよ、かわむら……!」
ぽろぽろと、胸を濡らす涙は留まるところを知らず。
腕の中で震える身体が落ち着きを取り戻すまで、ただ優しく背中を叩き続けた。
◇◆◇
組み上げられた薪の櫓、その中心に置かれた噴射式の置型花火。やや季節外れのキャンプファイヤーは後夜祭の目玉であり、全校生徒待望のイベントもある。
あくまで文化祭の打ち上げみたいなものなので、周りを囲うのは生徒と教師のみ。
代表して、実行委員の生徒が携帯式のライターを手に着火を行っていた。周囲はまだまだ騒ぎ足りない生徒たちが、今か今かとその時を待っている。
導火用の紙に火をつけて、そそくさと離れる生徒。遠目にはちろちろと燃える小さな炎しか見えない。
けれどそれも束の間のこと、根元まで到達した火種が火薬に燃え移って盛大に発火。炎色反応を伴う色とりどりの火花が、校庭の空高く噴き上がった。
湧き上がる歓声、打ち鳴らされる拍手。
花火のシーズンはとうに過ぎてしまっているが、それでも夜闇を明るく照らす光は幻想的で。思わず魅入ってしまうくらいには、形容しがたい不思議な引力を感じさせた。
「……綺麗だな」
「……うん」
二人並んでコンクリートの段差に腰掛けて、後ろ手に上体を休ませる河村と、膝を抱え込んで座る一ノ瀬。思わず、といった風に漏れた河村の呟きだったが、思いがけず隣から反応が返ってきた。
ちらりと視線を向けてみれば、顔の下半分を己の腕に埋める一ノ瀬の姿。『今は顔ブスだから見んな』と真っ赤に泣き腫らした瞳で言われてしまえば、河村としては従う以外の選択肢はなかった。
それでも、視線だけは真っ直ぐ花火へと向けられていて。明滅する光に照らされて、濡れた紫水晶の瞳が淡く暗闇に浮かび上がっていた。
数瞬、その瞳に心を奪われていた河村だが、こういった場面に相応しい言葉はないかと脳内辞典を検索して。弾き出されたそのフレーズを、できるだけ自然体を装って出力してみる。
「大丈夫、一ノ瀬の方が綺麗だぞ」
「すん……急に、なに。ていうか、それで喜ぶ女子って、あんまりいないと思うよ。…………悪い気は、しないけど」
「一ノ瀬ってもしかしてチョロい?」
「ぶっ飛ばすぞお前……」
いつも通りの軽口。
けれど、それすら今は心地良くて。打てば響くようなやり取りが、それだけ気心の知れた仲だということの証明になっていた。
普段と同じようなやり取りをしたお陰か、一ノ瀬の声に幾らか活気が戻る。
「遅くなっちまったけど。一緒に見れて良かったな、花火」
「……そうだね」
「でもまあ、せっかく花火見るんだったらもっとデカくて派手なヤツの方がいいよなー。なんだかんだ今年は見そびれちまったし」
「あー……。あの時は、ごめん。大変だったでしょ」
「謝んなって。別に今年が最後ってわけでもないしな」
目を伏せ、申し訳なさそうな表情を浮かべる一ノ瀬。草履の鼻緒が切れてしまったのは誰が悪いという訳でなし、強いて言うなら運が悪かった、で終わる話なのだが。
あれはあれで記憶に残る思い出になったものの、最後の花火が見られなかったのが心残りとなっていたのもまた事実で。
流石に正面から告げるのはまだ気恥ずかしさが勝ったのか、視線を泳がせながらも河村が口を開いた。
「だから、さ。……来年もまた、一緒に見に行こうぜ。花火」
まだ先の、未来の話。
その時が来るまで、変わらず同じ関係で居たいという意味も込めて。隠された意図に、果たして彼女が気付いたかどうかは分からないけれど。
河村の言葉を聞いた一ノ瀬は、口元を柔らかく緩ませて。
「───遠慮しとく」
「えぇ……」
「だって、外出るのめんどいし、暑いし、草履は歩きにくかったし。あ、ご飯は美味しかったね」
ムードもへったくれもない、あんまりにもあんまりな一ノ瀬節が炸裂して河村はスンッとなった。今の流れで断られるパターンあるんだ……と内心では驚き半分呆れ半分。らしいと言えばらしいが、良くも悪くもとことんブレない一ノ瀬である。
湿度の高い河村の視線に気が付いたのか、はたまた流石に悪いと思ったのか。小さく咳払いをした一ノ瀬は、取り繕うように言葉を続ける。
「あー……まあ、でも……そん時に河村が誘ってくれたら……もしかしたら、行く気になる可能性もゼロとは言えないですよ?」
「なんだそりゃ」
どこまでも後ろ向きな妥協案というか、むしろそこまでいくならいっそ断ってくれた方が潔いというか。マイペースなくせに、妙なところで変な気を回してくるのだから憎めない。
ただまあ、一ノ瀬との付き合いも長い河村からしてみれば、今更な反応だった。彼女の言動に一々目くじらを立てているようでは、今頃恋仲になんてなれていない。
天を仰いで『しょうがねぇなコイツ』みたいな息を吐く河村。身体を支えるため体重を預けていた手先に、ひんやりとした柔らかな感触が伝わった。
見れば、ほっそりとした白魚のような一ノ瀬の指先が、遠慮がちに河村の指先に重なっていた。顔を埋めているせいで表情全ては窺えないが、火花の明かりを受けた耳が赤く染っているのは暗闇の中でもハッキリと分かった。
「……勘違いしてほしくないから、言っとくけどさ」
視線は寄越さないまま、口の中で転がすようにもにょもにょと言葉を続ける。
「別に……河村と一緒に遊びに行くのが、嫌って訳じゃない。ただその……ほら。うち引きこもりだから、わざわざ外に出なくても、ぉ……お前と一緒なら、別にそれで、いいっていうか……」
「っ、そ、そうか……」
不意打ちでぶつけられた一ノ瀬の『デレ』に、掻きむしりたくなるようなむず痒さが河村の全身を襲った。溢れ出る感情の行き先をどうしようかと悩んだ挙句、何をとち狂ったか重ねられていた指先を絡ませるように組んでみた。
いわゆる『恋人繋ぎ』である。
一瞬、手を引っ込めようとするような硬直があったが、すぐに力は抜けて優しい力で握り返される。昼間にあれだけのキー捌きを見せたとは思えないほど華奢で、滑らかな指先だった。
お互い気恥ずかしくて目線は合わせられない。花火を火種にして燃え盛り始めた櫓に目線を固定しつつ、手から伝わる柔らかさに全神経を集中させていると、スピーカーからアナウンスが響いた。
『それでは、ただ今よりフォークダンスの時間となります! 友達と、恋人と、気になるあの子と! ルールなんてありません、皆様奮ってご参加ください!』
「……よし! 俺らも行こうぜ一ノ瀬」
「は? うちダンスとか無理なんだけど」
「大丈夫、俺もやった事ねぇから!」
「いや意味分からんて……ちょ、おい引っ張んな!? ……ああもうっ、倒れたらちゃんと介護しろよお前───!」
嬉々として手を引く河村。転ばないような絶妙な力加減で先を行く背を追って、悪態をつきながらも手を引かれるまま歩き出す一ノ瀬。
その顔には呆れたような笑顔が浮かんでいて。繋がれた手を一層固く握り返し、互いの身体を寄せ合った。
息遣いが届く程の至近距離。
互いの瞳に互いの笑顔を映しながら、足の向くままくるくると踊ってみる。
作法もステップも分からないが、ぎこちなくも相手に合わせようという気遣いだけは忘れずに。
くるくる、くるくる。
結局、スタミナ切れと三半規管のダメージによって一ノ瀬が早々にリタイア。後半は、そんな彼女を校庭の隅っこで介護しながら、他の生徒達を眺めるだけになってしまったけれど。
「───ねえ、河村」
「ん?」
「うち今……結構、幸せかも」
「……そうだな。俺も、幸せだわ」
いつか理想という熱が、現実という冷たさに醒めてしまう時が来るかもしれない。
いつか高い壁に阻まれて、立ち止まってしまう時が来るかもしれない。
けれど今は───今だけは。
余計なことは考えず、全力で青春を楽しめばいい。
いつか大人になったとしても、心を満たすこの感情、この想いだけは誰にも奪えない。
宝石のようなこの一瞬の煌めきが、巡る季節を越え、またいつかの春を青く彩ってくれることを信じて。
───
次回、エピローグとなります。