バチバチと、横殴りの雨が窓を叩く。
十分ほど前から降り始めた雨は、雷と風を伴ってどんどんと勢いを増していた。窓から見上げた空は昼だというのに灰色の雲に覆われており、普段は鬱陶しい程の太陽も久しぶりのバカンスを楽しんでいるらしい。
「こりゃ酷いな……」
ボヤいたところで雨足が弱まる訳でもないが、そんな言葉が思わず口から漏れてしまう程度には土砂降りの様相を呈していた。スマホで天気予報を確認してみれば、案の定夜まで集中的な豪雨の予報となっていた。
夏休み初日から大雨とはツイてないが、今日は出かける予定もないのでノーダメだ。親が帰ってくる頃も土砂降りだろうし、今日の晩飯は身体の温まるものにしようか。
四方から響く雨音が落ち着かないのか、愛猫のニルが足元に擦り寄ってきた。エアコンで冷えた脚に小さな体温が心地良い。そのまま頭を擦り付けられてしまえば、可愛さにやられて抱き上げるしかあるまいて。
「よしよし。外がうるさいけど我慢してくれな」
「にゃぁーん……」
何とかしてくれ、と言わんばかりに俺に向かって不満そうな鳴き声をひとつ。すまんな、流石に天気まではどうにもならんのよ。そのままニルを腕の中で撫で回していると、雨音に混じって玄関のチャイムが鳴り響いた。
ん? 宅配か何か頼んでたっけか。俺は覚えがないし、母さん達からも特には聞いていない。となると宗教勧誘かセールスの類だろうか。いくら仕事とはいえこんな雨の中わざわざご苦労なことだ。
ニルを抱えたまま屋内インターホンの応答ボタンを押すや、ノイズ混じりの雨音がマイクから響いてきた。それだけで外の惨状は予想がつくというものだが、はてさて。
「はい、どちら様ですかー」
『……か、河村ぁ……うちだけど……』
「…………は?」
誰何してみれば、マイクから返ってきたのはあまりにも予想外な声。流石に一瞬反応が遅れ、脳が状況を処理する時間を稼ぐ為に間抜けな声が漏れた。
「一ノ瀬か!? お前どうしたこんな雨の中!?」
『ちょっと、上がらせて……』
「待ってろ直ぐ開ける!」
ソファの上のクッションに優しくニルを放り投げ『ナァーン!?』、抗議の声は無視して玄関へダッシュ。ドアロックを解除して扉を押し開けば、生ぬるく湿った風と雨粒が勢い良く降り込んできた。
そして、玄関横の壁にひっそりと身を寄せるように人影ひとつ。頭のてっぺんから爪先までずぶ濡れになった一ノ瀬が、コンビニの袋を提げて立っていた。まさに『濡れ鼠』という言葉がぴったりな状態だ。
コンビニ袋と反対の手には、骨組みがオシャカになったビニール傘が握られている。……おk、大体把握した。
「とりあえず入れ、今タオル持ってくるから!」
「ありがとぉ……」
ぺしょぺしょになっている一ノ瀬を玄関へ招き入れて風呂場へダッシュ。棚からバスタオルを二枚引っ掴み、ついでにお湯張りのボタンを押してとんぼ返り。早めに風呂掃除済ませておいて良かった。
一ノ瀬にバスタオルを押し付け、びしょびしょになった靴下は脱いでもらって別のビニール袋へ一時退避。
「ずぶ濡れだな……出掛ける前に天気予報見なかったのか?」
「だって、起きてからなんも食べてなくて……お腹すいたからコンビニ行ったら土砂降りになって……スマホの充電切れちゃって、連絡もできなくて……傘買ったのにすぐ折れちゃって……」
「あー……まぁ、なんつーか、災難だったな。いま風呂沸かしてるから温まってけよ。服も一回洗濯して、乾くまでは家にいればいいから。ほら、上着脱ぎな」
「うん……」
……いつもの軽口が出てこない辺り、だいぶ参ってるな。
水分を吸った髪の毛が頬や首筋に張り付き、手渡された薄手のパーカーはずっしりと重たくなっている。夏らしい白のノースリーブシャツも、ぴったりと張り付いてボディラインを浮き彫りにしており、その下の青い布地まで───って!?
ぐりん、と首筋を痛める勢いで顔ごと視線を横に逸らした。
当の本人は気が付いていないのか、両手で頭を拭いていたので完全にノーガードである。
「一ノ瀬、その…………透けてる」
「……? あっ」
がばっ、とバスタオルを抱え込むようにして身体を丸めたのが雰囲気で分かった。極力視線を下方に向けないように様子を伺ってみれば、頬を赤くした一ノ瀬がジトっとした視線を向けていた。
「……へんたい」
「今のは事故だろ……」
◇◆◇
「濡れた服はこっちのネットに入れて洗濯機。タオルはここな。着替えは俺ので悪いが、ジャージとTシャツとハーパン置いとくから好きなの使え」
「わかった。……なんか、ごめん」
「謝んなよ。あのままじゃ絶対風邪引くし、この間は世話になったしな。ゆっくりしてけ」
「ん……ありがと」
脱衣所のドアを閉めてリビングへ戻る。しばらくして微かな水音が聞こえて来たのを確認してから、俺はようやく一息ついた。あまりにも急な事態につき大分テンパってはいたが、まぁ対処としては上々だろう。
後はなんだ? 体の温まるものか?
昼飯買いに行ってたらしいし、多分まだ飯食ってないよな。何を買ってきたのか、心の中で謝りつつコンビニ袋をちらっと覗くと盛り蕎麦の容器が見えた。ホントに麺類好きだなあいつ。
にしても蕎麦か……肉蕎麦とかいいかな。肉焼いて出汁作るだけだし、体もあったまるし丁度いいだろ。一ノ瀬がいらんって言ったら晩飯に回せば良いだけだし。うん、決めた。
まずは出汁作りから。昆布を戻している暇は無いので今回は鰹節だけだ。水をはった鍋に鰹節をわさっと入れて火にかけ、沸騰を待つ傍らで豚こま肉を醤油とみりんで甘辛く焼いていく。作り置きや弁当に入れる場合は、ちょっと濃いめに味付けすると冷めても温め直しても美味しく食べられるぞ。
五分ほど鰹節を煮出したら火を止め、布巾とざるで濾して醤油で味を整えれば手抜きそばつゆの出来上がりだ。豚肉を皿へ取り、後はトッピング用にネギを刻む……という所で、リビングの扉が開いて一ノ瀬が姿を見せた。
風呂上がりで血行が良くなった肌はほんのり赤らみ、僅かに湿った髪が先程とはまた違った魅力を醸し出している。Tシャツとハーパンにジャージを羽織った格好なんだけど、俺の服を一ノ瀬が着ているってだけで妙に気恥しいというかなんというか。
彼シャツの良さについて力説していた田中の気持ちが分かったような気がする。
「お風呂ありがと……なんかめっちゃいい匂いするんだけど。なに作ってんの?」
「肉蕎麦。一ノ瀬も食うか?」
「え、食べたい。けどうちも蕎麦買ってきちゃったんだよね」
「それ使って作れば良いから。パック寄越しな」
「ん」
いそいそとコンビニ袋からトレーを取り出す一ノ瀬。受け取って蓋を開け、温かいつゆに蕎麦を入れて麺を整える。付属の薬味は好みで使ってもらえばいいか。
「ネギは?」
「マシマシで」
炒めた豚肉に刻んだネギをこんもりと乗せ、風味付けに七味唐辛子をパパっと振りかければ俺特製スタミナ肉蕎麦の完成だ。うーん、この甘辛い匂いだけで白飯が二杯はいけそう。俺も食べたくなってきたな……麺茹でるか。
行儀よくテーブルについている一ノ瀬。気の所為じゃなければ目が輝いてるんだが。
「じゃあ、いただきます」
「おう。味わって食えよー」
鍋で湯を沸かす傍ら、一ノ瀬の様子を眺める。まずはつゆを一口飲んで、ほっと一息。次いで麺と肉を一緒に口の中へ。旨味を噛み締めるかのように目を閉じてもぐもぐしていたが、ごくんと飲み込めば幸せそうなため息が漏れた。
「……え、ガチで美味しいんだけど。もうお店とかやれば?」
「最高の褒め言葉だな。美味かったなら何よりだ」
「なんか、アレだね。出汁? が、こう……イイネ! お肉も柔らかくて……いいと思います!」
「食レポ下手か」
何はともあれ、作った料理を美味い美味いと食べてくれるのは料理人冥利に尽きるというものだ。毎日弁当を作っていたとはいえ、こうやって作り立ての料理を一ノ瀬に食わせるのは久しぶりかもしれない。作る側からしたら、一番美味い状態のものを食って貰いたいじゃん?
自分の分が茹で上がったので水を切って丼へ。俺の場合は麺二人前肉マシネギマシ七味唐辛子多め、だ。そのまま一ノ瀬の対面に座ると、びっくりしたように丼の中身を覗き込んできた。
「多くない? 食べ切れるの?」
「男子高校生の食欲を甘く見るなよ」
こちとら育ち盛りの男子高校生。食った分だけ栄養になって吸収されていく。帰宅部の俺ですらこうなんだから、運動部の奴らとかもっと凄いぞ。田中の弁当とか見てみろ、あれだけで一ノ瀬の一日分は行くからな。
むしろ最初に弁当渡した時の感想にびっくりしたわ。あれの半分で良いとか言われた時には正気を疑ったね。女子ってそんなもんで足りるの? 栄養不足で倒れない?? もっと食べていいんだよ??? と孫に食わせるばあちゃんみたいになってたもん。
麺を吸い上げ肉を喰らいつゆを啜る。うおォン俺はまるで人間火力発電所だ───なんて何処ぞのグルメみたいに丼と口とで箸をシャトルランさせることしばらく。一ノ瀬の心配を他所に汁の一滴まで飲み干した俺は、満腹感と多幸感にふっと息を吐いた。俺が食い終わるのとほぼ同時くらいに一ノ瀬も食べ終えたようだ。
食器を回収し、手早く洗っていく。ぐでっとテーブルに身を預けた一ノ瀬の表情はさっきよりも明るく柔らかい。適度にリラックス出来たらしい。
「ふう……ご馳走様でした。美味しかったよ」
「そりゃどうも。調子は戻ってきたみたいだな」
「ん……ご飯食べたらなんか元気出てきた」
「凹んでる時なんてそんなもんだ。飯食って風呂入って寝れば大体忘れる」
「じゃあ後は寝るだけかー……河村のベッド借りていい?」
「まさかお前人の家でガチ寝しようとしてる……?」
いくらリラックスしてるからって肩の力抜きすぎだろ。力抜きすぎて形状崩壊してんぞ。スライムかよ。出会った当初は触れたら切れるジャックナイフみてーな雰囲気だったのに、印象変わりすぎだろ。
仲良い奴の前だとこんな感じになるっていうなら、俺の前でそういう姿を見せてくれるのは信頼の証みたいで嬉しいが。そう思いながらじーっと一ノ瀬を眺めていると、視線に気がついたのか向こうも視線を向けてきた。
「なに?」
「いや、一ノ瀬も最初に会った時とは随分印象が変わったなーと。ぶっちゃけ素がこんな感じだとは思ってなかった。最初なんてナイフだったからな。ジャックナイフ一ノ瀬」
「……ふふっ、なにそれ」
俺の言葉に、一ノ瀬は困ったように眉を下げて笑った。
学校ではほとんど見せない、こいつが自然に笑う時の癖。
俺が───俺だけが知っている、一ノ瀬の笑顔。
それを自覚した途端、妙に気恥ずかしくなって視線を逸らした。頬が熱いのはきっと温かい飯を食べたからだろう、なんて、誰に向けたのかも分からない言い訳まで心の中で垂れ流して。
むず痒い沈黙が降りようかというところで、洗濯が終わったことを告げる無機質な電子音が扉の向こうから響いてきた。
「あ、せ、洗濯物! ちょうど終わったみたいだし、干してくる!」
「うえっ!? ちょっ、ま、待って!」
早足で脱衣所に向かおうとしたところ、やけに焦った様子の一ノ瀬に手を掴まれた。うわめっちゃ手ぇ柔らかいしすべすべのモチモチ。ほんとに同じ人間?
「なんでだよ。服は早めに干しといた方がいいだろ?」
「ぅ、あの……そのぉ……」
至極もっともな俺の意見に対し、完熟したトマトのように顔を真っ赤にしてもにょもにょと言い淀む一ノ瀬。たっぷり十秒程悩んでから、蚊の鳴くような声で小さく絞り出した。
「し、下着……一緒に、洗っちゃっ、て」
「……………………は?」
下着。
したぎ。
下着を一緒に洗った? さっき着てた洋服と一緒にってことか? え? でも一ノ瀬は俺が貸した服着てるよな。え? でも下着も洗ったって言ったよな。しかも、さっきコンビニの袋見た時に替えの下着らしきものは特に見当たらなかった。
…………つまり?
視線が思わず下方に落ちる。体格差によって袖が余った学校指定のジャージ。そして、同じく首元が緩んだシャツから覗く、いつもより明らかに肌色の比率が多い、一ノ瀬の、胸元が───
「───うるぱんち!!!」
「ぽッッッ!?」
刹那、顎に強烈な衝撃が走り、俺の意識は刈り取られた。
◇◆◇
「───……ぅ、ん?」
あれ……俺、いつの間にか寝てたのか?
なんだろう、物凄く顎が痛い。……でも顎の痛みに反して後頭部が凄い柔らかいんだけど。
「あ、起きた」
そんなことを考えながらボケっと天井を眺めていると、視界の端から一ノ瀬の顔がひょこっと現れた。
「……一ノ瀬? 俺、どうなった? なんか記憶が曖昧で……」
「ご飯食べた後、洗濯物踏んで派手に転んだんだよ。顎ぶつけて倒れちゃったから、こうやって休ませてあげてる訳」
「なる、ほど……? そう言われれば、そんな気が、するような……」
リビングの隅っこに一ノ瀬の服が干されてるってことは、一ノ瀬が自分で干したのか。……若干型崩れしそうな干し方なのは目を瞑るとして。
「あと、ついでにもう一個聞きたいんだけど……なんで俺、膝枕されてんの?」
起きたら一ノ瀬の膝枕に寝かされていた件。ハーフパンツ越しとはいえ、有り得ない柔らかさを後頭部に感じる。風呂入ったとはいえ、同じシャンプーとかボディーソープ使ったはずなのに何でこんな良い匂いするんだよこいつ……。
「なに? うちの膝枕に文句あるんですか?」
「寝起きで膝枕は驚くだろ……いや寝心地は最高だけども」
暖かいし柔らかいし控えめに言ってヤバい。
「まぁほら、ご飯作ってもらって洗濯もやってもらったし。いつものあれこれとか諸々含めて、そのお返し……みたいな? あと、迷惑かけてごめんの気持ちも少し」
そう言って一ノ瀬は毛先をくるくると弄った。表情こそ変わらないが、内心は照れているらしい。普段はあまり他人のために動くことが少ない一ノ瀬だからこそ、こうやって言葉や行動にしてくれたのは素直に嬉しい。
それに、美少女の膝枕なんて嫌いな男はいないだろうし。
「……そういうことなら、ありがたく休ませてもらおうかな」
「……ん」
一ノ瀬の言葉に甘えて、体の力を抜く。満足そうに小さく笑った一ノ瀬の細い指先が俺の髪を撫でる。ぎこちない手つきだが、それだけでも彼女の優しさは十分に伝わってくるような気がした。
「あ、白髪みっけ」
「痛ってぇ!!!」
…………、気がした。