【プロローグ】
空白の目覚め
カンナギタウン。古の神話と遺跡が眠る静かな山間の集落は、秋の穏やかな日差しに包まれていた。
「……ブォオ」
低い唸り声が、木造の家屋の奥から漏れる。その音に導かれるように、白い髪を束ねた老婦人―――カンナギタウンの長老が、そっと部屋の戸を開けた。
陽だまりに敷かれた布団の上で、青年は身動ぎをしていた。どこか野性的な表情を持つその顔はまだ幼さが残るが、纏う空気は異様に静かで鋭い。ギンガ団調査隊の簡素な服ではなく、見慣れない柔らかな布地の衣服を身につけている。彼の傍らには、古式ゆかしい麻縄ではなく、艶やかな赤い塗料を纏った現代のモンスターボールが、五つ、無造作に転がっていた。
青年は、弾かれたように跳ね起きた。
「バクフーン!」
テルが名を呼ぶと、ボールの一つが自動的に開き、**バクフーン(ヒスイのすがた)**が現れた。その背から立ち上る青白い炎は、熱ではなく、むしろ周囲の空気を冷やすように揺らめいている。
「グアァ…!」
次に現れたのは、ヒスイのゾロアーク。銀の毛皮と、炎のような赤い瞳は健在だが、普段の自信に満ちた笑みはなく、警戒と混乱に満ちていた。
テルは自分の手を見る。それは、ポケモン図鑑を完成させ、時空の王たちを鎮めた、あの日から何一つ変わっていないはずの自分の手だ。しかし、周囲は全てが異なっていた。窓の外に見える風景、流れる風の匂い、そして自分の胸を満たす**「空白」**の感覚。
「どうした、みんな……ここ、は……」
テルが言葉を失っていると、長老が静かに話しかけた。
「目を覚ましたかい? 長い間、眠っていたようだね」
テルは反射的に構えたが、相手から敵意は感じられない。それどころか、その瞳は、彼がヒスイ地方で出会ったギンガ団長(シマボシ隊長)やコギトにも似た、古き歴史を見通すような、深い叡智に満ちていた。
「俺は……テル。俺は、ヒスイ……」
「わかっているよ、テル。きみは、遠い昔から時を越えてきた」
長老の言葉に、ゾロアークが低く唸った。テルは、自分が現代の世界に来てしまったことを、ようやく悟った。しかし、それだけではない、大きな違和感が彼の心を支配する。
「だが、どうしてこのボールが……。それに、この服は。俺は……」
「きみは、数ヶ月前、このシンオウ地方のチャンピオンだった」
長老の告げた事実は、テルの全身を雷が貫いたような衝撃を与えた。チャンピオン。それは、ヒスイの時代には存在しなかった、現代の**「最強の証」。そして、それを奪った相手こそ、後に彼の「最大の謎」**となる人物の名だった。
「シロナという女性を知っているね? 彼女はきみに敗れ、きみがシンオウの新たな頂点に立った。その後のきみの活躍は、凄まじかった……だが、ある日を境に、きみは消えた。痕跡もなく、誰も追えない場所へ」
テルは膝から崩れ落ちそうになった。自分にはその記憶がない。最高の栄誉と、最大の成功。それらが、彼の人生から数ヶ月間、ごっそりと抜き取られていた。
「俺が……消えた……」
長老は、柔らかな手でテルの肩に触れた。
「ええ。そして、きみが消えた後、シロナは再びチャンピオンの座に戻ることなく、自ら旅に出た。きみのような、時を越えた強さの秘密を追って。そして、きみを……見つけ出すために」
窓の外の景色は、テルが知るシンオウの原型とは似ても似つかない、発展した文明の光を放っている。その光景が、テルに決意を促した。
「俺が消した、俺の足跡……。そして、シロナ……」
テルは立ち上がった。ヒスイの仲間たちを背に、彼の瞳は、未知の**「自分の過去」**を探る、新たな調査へと向かう、開拓者の鋭さを取り戻していた。
「このシンオウ地方を、もう一度、"調査" する」
失われた記憶の欠片を求め、そして、時空を超えた絆を追う、テルの一人旅が、今、始まる。