「ただいま……お母さん」
テルは、安堵と混乱が入り混じったまま、母親に連れられ自分の部屋へ向かった。
部屋は、ヒスイから旅立つ前、フタバタウンでの生活を始めた頃とほとんど変わっていなかった。いや、違う。壁には見覚えのないポスターが貼られ、机の上にはたくさんの道具が置かれている。そして、部屋の隅、見慣れた棚の上に、テルが探していたものが整然と並んでいた。
テルは思わず駆け寄った。
棚の中央に置かれていたのは、銀色のボディを持つ、現代のポケモン図鑑だ。それを手に取って電源を入れると、画面にはシンオウ地方のポケモンたちが整然と並んでいた。
『しんおうずかん コンプリート!』
その表示の下には、テルがこの世界で出会ったすべてのポケモン、そして捕まえたすべてのポケモンの記録が残っていた。見慣れたムクホークのデータ、ゴウカザルの成長記録、そしてもちろん、ヒスイのポケモンたちの情報も、現代の図鑑の様式でしっかりと記録されている。
「…本当に、俺がやったのか」
テルは思わずつぶやいた。この完璧な記録こそが、彼が確かに**「シンオウ地方のチャンピオン」**として、この世界を駆け抜けた証だった。
その隣には、眩いばかりのトロフィーが二つ並んでいた。
一つは、金色の台座に輝く、威厳のある大きな杯。プレートには**「シンオウリーグ チャンピオン」と刻まれている。
もう一つは、もう少し小ぶりで華やかな装飾が施されたカップ。「ヨスガシティ マスターランク コンテスト優勝」**の文字。
そのトロフィーを見た瞬間、テルの中に鮮明な記憶が蘇った。
シロナとの、魂を焦がすような激しい最終バトル。
ヨスガシティの舞台で、バクフーンの炎が観客を魅了した、熱狂的なコンテスト。
記憶の空白が、少しずつ埋まっていく。チャンピオンとして戦った日々、ポケモンコーディネーターとして新たな一面を見せた日々。テルは知らぬ間に、この世界で二つの大きな目標を達成していたのだ。
その時、ノックの音と共に母親が部屋に入ってきた。
「あら、起きたのね、テル」
母親はテルの横に立ち、トロフィーを眺めながら穏やかに言った。
「あなたの大事なものだからね。埃が被らないように、ちゃんと掃除しておいたのよ。でも、すぐにまた冒険の旅に行くんでしょ?」
テルは母親の顔を見つめた。なぜ、失踪した息子を咎めないのか。
「……お母さん、俺……」
「わかっているわよ、テル。あなたは、どこにいても、いつもポケモンたちのこと、そして知らない世界のことばかり考えているんだから。でも、風邪引かないようにね」
母親のその変わらない包容力と、何の疑いもない眼差しが、テルには唯一の安らぎだった。
テルは頷いた。失踪の謎、シロナとの再会、そしてヒスイに戻る方法。やるべきことは山積みだ。
「うん。行くよ」
テルがそう答えると、母親は笑顔になった。そして、少しだけ真面目な顔つきになって言った。
「そうと決まったら、旅立つ前に、一つだけお願いがあるの」
テルは姿勢を正した。
「ナナカマド博士よ。あなたが突然いなくなった時、博士はとても心配して探していたの。博士の研究所があるマサゴタウンへ行って、まずは無事を報告してきなさい。それが、このシンオウで最初にお世話になった人への、チャンピオンとしての礼儀よ」
ナナカマド博士。この現代で、彼に最初にポケモンと図鑑を託した人物だ。
テルは改めて深く頷いた。
「わかった。すぐに行くよ。マサゴタウンの研究所へ」
テルは、図鑑を大事に抱え、ムクホークのボールを握りしめた。チャンピオンとしての過去と、ヒスイからの開拓者の精神を胸に、彼の「シンオウ再調査」の旅は、いよいよ指導者の元から本格的に始まるのだった。
ムクホークの背を借り、テルはフタバタウンから一つ先の町、マサゴタウンへと移動した。海に面したこの砂の町は、シンオウ地方における彼の冒険の始まりの場所だ。
研究所へ向かう短い道すがら、テルの中に、失われたはずの記憶が波のように押し寄せた。
「そうか、ここだ……」
マサゴタウンの研究所から少し離れた海辺を通り過ぎる。あの時、ライバルのジュンと初めてバトルをしたのもここだった。
「遅れたら罰金100万円な!」
ジュンのせっかちで大仰な声が、耳の奥で響く。あの威勢のいい、嵐のような少年。チャンピオンとして戦う過程で、彼とは何度も熱いバトルを繰り広げたはずだ。
そして、もう一人。
「確か、ナナカマド博士の助手で、旅の仲間だったヒカリも、この研究所に顔を出していたな」
ヒカリの姿を思い浮かべると、テルは少しだけ眉をひそめた。
「私は貴方より早くポケモン図鑑をコンプリートしたかったのに、負けたのは悔しいですわ」
そう言って、悔しそうな顔をするヒカリの姿が蘇る。あの時の彼女は、どこかお嬢様気質な口調で、負けず嫌いを露わにしていた。
(……ショウとは大違いだ)
テルは、ヒスイで同じくギンガ団の調査隊として活動した少女、ショウを思い出した。質実剛健で、常に冷静。ヒカリと同じ顔立ちをしているが、性格も話し方も全く異なっていた。
(この世界の俺は、あの二人とどんな旅をしたんだろうな……)
そんな郷愁と疑問を抱きながら、テルは研究所の大きな青い扉の前に立った。深呼吸をし、意を決して扉を開ける。
「失礼します、ナナカマド博士」
彼の声に、研究所内が一瞬静まり返った後、一人の白衣の老人が弾かれたように振り向いた。シンオウ地方の権威、ナナカマド博士だ。
「おお! テル君!」
博士は手に持っていた資料を放り出し、大股でテルに駆け寄った。
「テル君、よく無事に戻ってきてくれた! 心配しておったぞ!」
その力強い握手と、心からの安堵の表情は、母親の「長い旅をしてたのね」という言葉よりも、テルの心を深く揺さぶった。
研究員たちも変わらない。テルの顔を見て「おかえりなさい!」「無事でよかった!」と次々に声をかけてくる。この場所だけは、テルがチャンピオンとして失踪したという騒動から切り離された、温かい「始まりの場所」のままだった。
ナナカマド博士はテルを奥の部屋に招き入れ、コーヒーを淹れながら言った。
「すまんな、急に呼び出して。君が戻ってきたと聞いて、この目で確かめたかったのじゃ。それで、一体どこで何をしていたのだ? まるで、時を飛ばされたかのように忽然と姿を消したと……」
テルはコーヒーを一口飲み、決心したように口を開いた。
「ナナカマド博士。俺がこの数ヶ月間、消えていた理由を話します。ただ、それは……この世界の常識では、理解しがたい話かもしれません」
テルは、知っている限りの情報を、簡潔に、しかし真剣に伝えた。
「俺はチャンピオンになった後の記憶がほとんどありません。しかし、覚えているのは、やぶれたせかいの裂け目です」
「そして俺は、本来の時代である**『ヒスイ地方』**の時代に飛ばされていた。それは、まだシンオウと呼ばれていない、神話と自然が濃く残る、遠い過去の世界です」
博士は目を見開き、淹れたばかりのコーヒーを持つ手が微かに震えた。
テルは続けた。
「俺の図鑑を覚えていますか? そこには、ヒスイのすがたを持つポケモンたちのデータが載っているはずです。俺はあの場所で、そのポケモンたちと共に、ディアルガ、パルキア、そしてギラティナにまつわる、このシンオウの根源的な事件を解決していました」
テルは、懐から取り出した現代の図鑑を開き、ヒスイのバクフーンのページを見せた。
「この図鑑のデータは、俺がヒスイ地方で集め、そして現代に戻ってきた時、何らかの力で自動的に記録されたもののようです」
長老から聞いた「失踪」ではなく、テルは自らの意思とは無関係に「過去の世界」へ移動していたのだ。そして、過去の世界で歴史の修正を行い、再び現代へと戻ってきた。しかし、その過程で、現代の**「チャンピオンとしての数ヶ月間の記憶」**を失ってしまった。
博士は、テルが話した壮大で途方もない話に、しばらく言葉を失っていた。やがて、彼は椅子に深く腰掛け、大きく息を吐いた。
「……テル君。信じがたい話だが、君の目、そして図鑑のデータ……何より、君が失踪したという事実そのものが、それを裏付けているように思える」
博士は立ち上がり、テルの肩に手を置いた。
「わかった。君がこの空白の期間に、我々が知るシンオウの歴史の根幹に触れていたことは理解した。その真実は、誰にも軽々しく話すべきではない」
博士は顔を近づけ、低い声で言った。
「だが、テル君。君が過去で成し遂げたことは、恐らく未来の歴史をも揺るがす、極めて重要なものだ。そして、君がこの現代で『チャンピオン』として残した功績もまた、消えることのない偉業だ」
「君が今すべきことは、失われた記憶と、この現代での**『君の役割』**を、見つけ出すことだ。わしは全力で君をサポートしよう。遠慮はいらん」
ナナカマド博士の強い言葉に、テルは力強く頷いた。
「ありがとうございます、博士」
こうして、時空の旅人、元チャンピオン、テルによる**『空白のシンオウ再調査』**は、シンオウの賢者の全面的な協力を得て、新たな一歩を踏み出した。