【新テニ】戦庭の彼方へ   作:Relics

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オリ主過去編
(※オリ主以外のオリキャラが登場します)


プロローグ
#1 底り


乾いた打球音がアクリル張りのドームに反響し、沸き起こる歓声の中にはざわめきが潜む。

誰もが拍手のタイミングを見失い、ただその小さな背中の向こうで跳ねたボールの行方を見つめていた。

 

『ゲームセット!ウォンバイ隆姫(たかき)、6-0!』

 

電子掲示板の数字が鮮やかに点灯する。

その光が少女の頬を掠め、汗に濡れた肌を一瞬だけ照らした。

彼女はラケットをゆっくりと下ろす。その指先は燃え尽きたように乾いていた。

 

解説者が賞賛の言葉を述べている。だが、彼女の耳には届かない。

羨望と憧憬、そして恐怖。拍手の奥にあるわずかな拒絶。

彼女はそれを嗅ぎ取る。勝利のたびに、孤独が濃くなることを知っていた。

 

隆姫 栄華(たかき えいか)

 

その名は今や、世界ジュニア界で“災禍”という異名と共に囁かれている。

破綻のないプレー、理知的で容赦のない戦略、弱点を即座に分析して潰す圧倒的な読解力。

美しく勝つが、相手に反撃の機会を一切与えない。

ときに冷酷だ、無慈悲だと囁かれるたび、彼女は繰り返し自分を律してきた。

 

(勝たなければ、意味がない。勝つことでしか、ここにいられない)

 

表彰台の頂点で、その瞳は微かに揺れていた。

トロフィーを掲げる手が震えている。疲労のせいではない。

手にした重みが自分を遠ざけていく感覚。誰も触れられない高さへ押し上げる冷たい風。

 

(――だけど、本当にこれが正しいの?)

 

報道陣に囲まれる中、彼女は誰の顔も見ていなかった。

ただ、はるか彼方。見えない誰かを探すように、観客席の向こうの闇を見つめていた。

 

 

 

***

 

 

 

「君のテニス、美しいと思ったよ」

 

控室に戻ろうとした時、その声は穏やかに落ちてきた。

試合後の空気にはまだ熱が残っている。

観客の吐息、照明の光、汗の匂い。それらの名残が混ざり合っていた。

 

振り向いた視線の先に、見知らぬ少年が立っていた。

銀灰の髪が光を受けて揺れている。

彼は微笑みを浮かべていたが、それは整いすぎていて、どこか不安を誘った。

 

「どうして?」

 

その声は自分でも驚くほど低く出た。

少年は、手に持っていたペットボトルを軽く揺らしながら言った。

 

「君のテニスは、まるで海のようだね」

 

海。その響きが頭に残る。

幼い頃、まだ何も知らずに見上げた夏の海。その青を思い出す。

けれど今、それは記憶の中で静かに濁っている。

 

「落ち着いてるのに、気づけば底が見えない。……その構造が美しい。

でも、勝つことだけが君を守ってくれるとは限らないよ」

 

彼は一歩近づいた。風にのって、淡く月桂樹の香りがした。

その距離の近さに思わず身体の芯が硬くなり、危険信号のような感覚が走る。

 

「あなたは、誰なの?」

 

そう問いながらも、なぜか逃げようとはしなかった。

少年は微かに口角を上げた。

 

「同じ場所を目指してる者だよ。ただ、君ほど孤独じゃないけどね」

 

その言葉の「孤独」の部分だけが、やけに柔らかかった。

拍手の余韻が遠ざかるほど、彼の声だけがやけに近く感じられた。

 

 

 

***

 

 

 

その数日後。

彼はまるで偶然を装うように、しかしそうは見えないほど自然な足取りで、私の所属するクラブに姿を現した。

 

「やあ、また会ったね。今日から期間限定でこちらの施設に滞在することになって――」

 

また、柔らかな笑み。通訳を介さずに流暢な日本語を口にした瞬間、周囲のスタッフが色めき立つ。

外からやって来た者への好奇と緊張。その波が一瞬、こちらの足元にも触れたが、私は速度を落とさなかった。

 

ランニングマシンの規則的な振動音。耳にかかる髪の先を汗が静かに伝っていく。

彼の存在を視界で捉えながらも、壁を見るように意識の焦点をずらした。

私は、乱されない。そう言い聞かせるようにペースを刻む。

 

「……話しかけてほしくない空気、全開だな」

 

苦笑混じりに呟いた声が背後から届いた。

イヤホンはしていないが、聞こえなかったふりをする。

その無反応に彼は少しだけ口元を歪めて――それでも翌日も、またその翌日も、同じ時間帯に姿を見せた。

 

練習の合間。コーチの指示が飛び交う中で、彼はいつも一定の距離を保っていた。

決して踏み込みはしない。けど、離れもしない。

球を拾うたび、いつも視界の端に彼の姿が映る。

最初はそれが煩わしかったが、やがて意識のどこかに微かな定点のように沈殿していった。

 

一週間後。練習を終えたあと、彼と偶然同じ水飲み場に並んだ。

シャワー室の方から立ちこめる湿気の中、金属の蛇口がきらりと光る。

水を飲み干す。冷たくて、少し鉄の味がした。

 

「……どうして黙ってるの」

 

彼はタオルで髪を拭いながら、口元にうっすらと笑みを浮かべる。

 

「君が上辺だけの言葉で揺らぐような相手じゃないと思ってるだけさ」

 

声が途切れた瞬間、私はわずかに目を細めた。

 

探ってる?

 

そんな気配が染みてくる。けれど、同時にその奥にかすかな熱を感じてしまったのも確かだった。

言葉を返すのはやめて、唇を湿らせるようにグラスを傾ける。

水が喉を落ちていく音だけが残った。

 

私たちが正式に“話すようになった”のは、それから二週間後の合同トレーニング中。

選手たちの笑い声やボールを打つ音が錯綜する中で、彼は静かに手を上げた。

 

「ダブルス、俺は君と組みたいな」

 

周囲の視線が一斉にこちらへ刺さる。

軽い言い方をしているのに、声の奥に迷いはない。

 

「君の読みが正確なら、俺は“仕掛け”に集中できる。理想的な関係だと思わないか?」

「ただの練習試合じゃない」

 

理想的。

その響きがわずかに腹の底を熱くする。

何に反応しているのか、自分でもわからない。

言葉より先に身体が静まってしまった。

 

「でも、君はパートナーに任せるプレーをしたことがない。……一度試してみないか」

 

任せる。そんなことは今まで考えたこともなかった。

けれどあの瞬間は、なぜか拒む理由が消えていた。

 

私は一拍だけ息を置いて、頷いた。

ある意味、賭けだった。自分の感覚を誰かに委ねるという無謀な賭け。

 

試合が始まる。

彼が前へ走る。私はその背中を追いながらも、視界の端で相手の癖を読む。

そのわずかな動きを彼がすぐに拾い、コースを捻る。

思考よりも早く、呼吸が合っていく。

 

こんな感覚は知らない。一つの呼吸、一つの動き。

彼と自分の境界が曖昧になっていく。

 

試合が終わり、汗に濡れた彼の横顔が光を受ける。

正直、勝った気はしなかった。

しかし、なぜか心に閉じ込めていたものが静かにほどけていく感覚があった。

 

その日を境に、彼と過ごす時間が少しずつ増えていった。

遠征の移動時間、ホテルのロビー、ウォームアップ前のストレッチ。

会話は少なく、必要な言葉しか交わさない。けれど、不思議と沈黙は苦にならなかった。

 

夜。部屋へ戻る廊下を並んで歩く。

蛍光灯に照らされ、影が寄り添うように伸びていく。

そのとき、彼がふと立ち止まった。

 

「君は、どうしていつもそんなに冷静なの?」

 

足を止めたまま、私は視線を落とした。

 

「勝つこと以外に価値を見出したことがないから。そうやって育ってきたから」

 

言葉はすぐに出た。決して嘘ではない。

 

「じゃあ、今は?」

 

一瞬、呼吸が止まる。

言葉を探す間に、心が先に揺れた。

彼の問いが、私の中の暗い場所をなぞっていく。

 

「……分からない。でも、あなたと打ってるときは、勝ちたい理由が“自分のもの”になる気がする」

 

彼は何も言わず、ただ隣に立っていた。

その沈黙が、なぜか私を静かに照らしているように感じた。

 

それ以来、彼と話す時間が増えていった。

練習を終えたベンチでは、互いのプレーを解説するように言葉を交わし、

夜のラウンジでは、グラスの水面を揺らしながら好きな音楽や本の話をした。

 

言葉に大きく感情を乗せることはない。

それでも、彼の一語一語にある“間”が、何かを伝えてくる。

その静かな熱に気づくたび、呼吸の仕方を忘れそうになった。

 

この気持ちが何なのか、名前をつけたくなかった。

言葉にすれば薄っぺらくなりそうで。

 

友情と言うには、あまりに淡い。

でも恋と言うには、あまりに静かで。

けれど、それは特別だった。

 

 

 

***

 

 

 

彼の滞在期間の終わりが近づいた夕暮れ。

クラブハウスの奥、いつものように窓際のベンチに並んで座る。

夕陽が低く窓枠の縁に差し込み、空気を橙色に染めていく。

 

彼はしばらく黙っていた。指先で胸ポケットを探っている。

おもむろに取り出したのは、小さなガラス瓶。

軽く傾けるたび、中の液体が金色の光を反射して小さく揺れた。

 

「アロマ、好きだろう?試合前に緊張をほぐせるように。香りって、記憶と結びつきやすいらしいよ」

 

その言葉に瞬きをし、彼の手元に視線を落とした。

ラベルのないその小瓶。私はそれを受け取ると、蓋を緩めて、無意識のうちに息を吸った。

微かに立ちのぼる月桂樹の香り。青く、爽やかで、ほんの少し甘い。

その奥に言葉にならない温度が潜んでいる気がした。

 

「ありがとう。使わせてもらうわ。でも、私は試合に感情を持ち込まない」

 

言い慣れた調子で言ったつもりだった。けれど、彼は微笑んで首を横に振る。

 

「それでもいい。……ただ、“誰がくれたか”は忘れないでほしいな」

 

胸の奥で何かがわずかに鳴った。

 

――なぜ、そんな言い方をするの?

 

その問いを飲み込んだとき、彼は身に着けている指輪を外していた。

金属が指から抜ける音はほとんどなかった。

指先を離れる一瞬、夕陽を受けて鈍い輝きが走る。次の瞬間、それが私の掌に置かれた。

 

「……これは、」

 

声が漏れる。

冷たい感触が、体温と重なって異様に鮮やかだった。

 

「“証”だよ」

 

言葉を失い、ただその指輪を見つめた。

真っ直ぐに告げられる言葉。

勝つことだけを価値としてきた私にとって、それは自分のままでいいと肯定されたような感覚だった。

 

「君はもう、俺にとってただのチームメイトじゃない」

 

まるで冗談でも言ったように微笑んだ彼の顔は、どこか寂しげで。

私はただ立ち尽くすことしかできなかった。

 

夕陽が傾くにつれ、掌の指輪がゆっくりと体温を吸い込んでいく。

手を閉じる。逃したくなくて、けれど掴み切ることもできずに。

 

目の前に広がるその橙色の景色は、指先から私の中へと静かに染みていった。

この瞬間をきっと忘れない。そう思いながらも、言葉にはできなかった。

後になって何度も思い返すことになる、その沈黙の重さだけを確かに感じていた。

 

 

 

***

 

 

 

いつも通りの朝だった。

朝七時、白い壁に反射する柔らかな陽光。金属と木材で統一されたミニマルな室内。

目覚まし時計のアラーム音が響く。

 

ベッドから起き上がると、窓を開け、静かに深呼吸をする。優しい風が、すっと部屋を通り抜けていく。

この国の空気は、余分な湿気が少なくて好きだ。呼吸をするたび、体が研ぎ澄まされていく感覚があった。

 

着替えを済ませると、手早く朝のルーティンをこなす。

サーブ動作のイメージトレーニング、手首と肩の可動域チェック、体幹ストレッチ。

鏡に映った目に、一切の迷いはない。この朝もまた、世界のトップジュニアとしての一日が始まるはずだった。

その扉を、あの声が叩くまでは。

 

「隆姫、今すぐコーチ室へ。連盟から人が来てる。君の持ち物を——」

 

言いかけたメンターの声がわずかに震えていた。

普段、どんな局面でも声色を崩さないはずなのに。その違和感が、脳の奥に響いた。

 

(……何かが、起きた)

 

心臓が一段階、強く打った。

体はまだ動いているのに思考が沈んでいく。状況を読み取るより先に直感が走った。

これから起こることは、選手としての自分を根底から揺さぶるそんな何かだと。

 

コーチ室には三人の男がいた。

クラブ運営のディレクター。連盟本部の薬物検査官。通訳を兼ねたコーチ。

 

重苦しい沈黙の中、机の上に置かれたのは小さなアロマオイルの瓶。

あの日、彼から贈られたものだった。

ガラス越しの液体。その揺らめきはあの日と同じはずなのに、今は異様なほど冷たく見えた。

 

検査官が書類を指先で叩く。淡々とした声が、乾いた空気を裂いた。

 

WADA(世界アンチドーピング機構)より、報告書が届いています。あなたの所持品から、禁止物質が検出されました」

 

言葉が落ちた瞬間、音がすべて消えた。時計の秒針も、呼吸の音も。

ただ、心臓の鼓動だけがはっきりと耳の奥で響いていた。

 

視線が文書に落ちる。そこには、自分の名前――“Eika Takaki”の文字。

 

「待ってください。私、そんなこと……」

 

思わず喉が詰まり、声が遅れて漏れる。

 

「申し訳ないが……プレイヤー責任制度のもと、弁明は認められない」

 

感情の起伏を持たない声。

その言葉がどこか他人事のように聞こえて、頭が白くなっていく。

 

「では、なぜ私の部屋を調べなかったのですか? 映像は? 持ち物は管理下に——」

「証拠能力があるのは、提出物のみです」

 

遮るように言葉が突きつけられる。

机の上の紙と、小瓶。それだけが彼らにとっての“真実”。

隣に立つコーチがようやく口を開いた。

 

「異議申し立ては可能だ。ただし……君が有利になる証拠は、何もない」

 

その一言で、全てが途切れた。頭の中で思考が空転する。

部屋の向こうで扉が閉まった。それがまるで世界の終わりの音のように聞こえた。

 

冷たい水が染み込んでくるように理解する。抗う前から、結論はすでに決まっていると。

そしてそれは、隆姫栄華という選手の“終わり”を意味していると。

 

 

 

***

 

 

 

あの一球が最後だった。

打球音が遠のいていく。ボールはゆっくりと弧を描き、ラインの外へ落ちた。

その瞬間、観客席の空気が固まる。それでも誰も声を上げなかった。

 

初めての国際ジュニア選手権。

ここまで積み重ねてきた全ての時間を、この一瞬にぶつけた。

結果は静かだった。勝者のガッツポーズも、敗者の涙もない。

コートの上で、私はただラケットを下ろした。

 

試合に敗れたことではない。誰よりも努力してきたこと、そして自分を信じてきた時間。

無数の日々が誰の目にも届かずに否定されたこと。それが何よりも痛かった。

 

「禁止成分の検出は確かです。処分は妥当かと」

 

記者会見の場で並ぶ役員たちの無機質な声。

カメラのフラッシュが走るたび、自分の名前が違反者というラベルに貼り替えられていく。

 

「君は大丈夫だ」

「何も言わなくていい」

 

そう言って肩に手を置いたスタッフも、慰めの言葉を並べるコーチも、すでに“元選手”を扱う目をしていた。

 

報道は加熱し、翌朝の世界は騒音で満ちていた。

憶測、断定、中傷。

誰も真実なんて知らないのに、誰もが真実を語りたがっている。

ただ誰かを燃やすための燃料がほしいだけ。

 

そんな無数の言葉が飛び交う中で、私はただひとつの声を探していた。

けれど、どこにもなかった。

 

彼だけは何も言わなかった。

正確に言えば、現れなかった。

 

最後に姿を見たのはクラブの廊下の影だった。

あの日のように、夕暮れの橙色が差し込む中、彼は立っていた。

 

穏やかで、聡明で、誰よりも礼儀正しくて――共に同じ夢を見た人。

 

「心が疲れたとき、この香りが君を助けてくれるように」

 

アロマオイルを手渡したときの声が鮮明によみがえる。

彼の言葉はいつも優しかった。

けれど、あの廊下で一瞬だけ視線が交わったとき、彼は目を逸らした。

口を開かず背を向けた。

 

それだけで、すべてが分かった。

 

その背中が遠ざかるのを、息をすることさえ忘れて見つめていた。

胸の奥で何かが静かに崩れる音がした。

 

 

 

***

 

 

 

その後の処遇はあまりに早かった。

最終処分――二年間の大会出場停止処分および過去の全出場成績の抹消。

紙面に刻まれたその活字は、判決文のように冷たかった。

 

クラブの声明には、「個人の事情についてコメントは控える」という一文だけが浮いていた。

声を出す前に、居場所が消えていた。

潔白も抗いも、誰の耳にも届かないまま、私は世界の端からそっと削り取られた。

 

中学三年。夏の終わり。

陽炎が立ち上る午後、ロッカールームに戻り、クラブのロゴが印字されたユニフォームを静かに畳む。

試合のたびに着続け、汗と涙を染み込ませたそれは、まるで自分の皮膚の一部のようだった。

折り目を整えるたび、胸がきゅっと痛む。

 

ロッカーを閉める音が、静まり返った空間に小さく響く。他の選手たちはすでに帰っていた。

残されたのは使い古されたボールとグリップの匂いだけ。

この瞬間を見ている者はいない。それでも、私は背筋を伸ばしてここを出た。

 

誰にも見送られることなく、私は空港へ向かった。

タクシーの車窓に流れる街並みが、次第に知らない景色に変わっていく。

窓ガラスに映る自分の顔は、不思議と穏やかだった。

涙は出なかった。でも、最後まで“選手”でいたかった。

その言葉が、心のどこかでゆっくり反響する。

まるでそれだけが、私とこの世界をつなぎ止めているようだった。

 

帰国便の中、最後に見た空は灰色だった。

かつてあれほどまでに広く、高く、自由に感じた世界は、今やガラス越しの檻にしか見えなくなっていた。

思考は乾いていた。悲しみというより、何も感じないという空洞のほうが近かった。

 

日本に降り立ってからも、その灰色の空がそのまま頭上に続いていた。

湿った空気と規則正しく並んだ標識。何もかもが整っていて、何も問いかけてこない。

 

スーツケースが床を擦る。最低限の荷物しかないはずなのに、妙に重たく感じる。

外に出ると街はいつも通り。行き交う車と、コンビニの明かり。

どれもが日常で、まるで私の時間さえも変わっていないかのように見えた。

だけど、もう同じではない。

 

かつて胸に刻んだ「世界を制する」という誓い。それは今や、どこにも届かない。

誰にも知られぬまま遠い場所に取り残されている。

 

家の玄関を開けると、中の空気は外よりもわずかに温かかった。

母の声が静かに落ちる。

 

「……おかえりなさい」

 

涙も、詰問も、安堵もない。ただ事実としての帰還を告げる声。

だからこそ鋭く突き刺さった。家の匂いが懐かしいほどに、すべてが終わったのだと分かった。

 

私は小さく頷き、靴を脱いだ。床の冷たさが足の裏に染み込む。

外の世界で燃え尽きた熱が、音もなく静まっていった。

 

 

 

***

 

 

 

数週間後。ニュースサイトの片隅にその記事は現れた。

 

隆姫栄華、競技活動の無期限休止を発表

 

見出しは小さく、隣に並ぶ派手な広告バナーにすぐ埋もれてしまう。

かつて自分の名が速報のトップに並んだ日々が嘘のようだった。

今はただ一行のテキストとして画面の隅で静かに消えていく。

 

記事の内容は驚くほど淡泊だった。

過去の成績とクラブの形式的なコメントを添え、最後に「本人からの声明はなし」とだけ記されていた。

その一文だけが、やけに強く目に残った。

あたかも、もう語ることがないと言われているような。

 

「あのニュースってホントなのかな」

「薬物?だっけ、やばいよねー」

「ねぇ、それよりさ、昨日のキミ様の番組見た?」

 

復学した中学校の廊下。交差する制服の波の中で、言葉の破片が背中に突き刺さる。

笑い声に混じる悪意は軽く無邪気で。だからこそ残酷だった。

私はただ黙って歩いた。視線を床に落とし、呼吸を一定に保つ。

それでも制服の袖の下で隠した指先がわずかに震えていた。

 

かつて、自分が命を削っていた場所。勝つために生きていた世界。

そこではどんな試練も苦痛も、勝つための糧となった。

だが今はそのすべてが否定され、忘れられ、残ったのは汚れた選手という烙印だけ。

 

(私は……何をしていたんだろう)

 

その問いが張りついて離れなかった。言葉にすれば壊れてしまう気がした。

だから沈黙だけが自分の呼吸になった。

 

教室の席。教師の声が遠くで響き、チョークの音が単調なリズムを刻む。

静かに、誰とも目を合わせず、最低限の会話だけで日々を過ごす。

出席を重ね、課題をこなし、周囲の視線を受け流す。

自分という人間が再び表に出ないように、私は普通の生徒を演じ続けた。

 

社会から一歩下がった位置で身を潜めるような日々。

何も問われない場所で、何も答えずにいられること。誰の期待も背負わずにいられる時間。

それらが積み重なるたび、ようやく自分が自分でいられる気がした。

 

 

 

***

 

 

 

夜。部屋の灯りは小さなデスクライトだけ。

カーテンの隙間からは、街の明かりが遠くに滲んで見える。

 

私は机の引き出しをゆっくりと開けた。

金属の擦れる音。その奥に小さな小箱が眠っていた。

触れた瞬間、指先に冷たさが走る。

開けるたびに何かを失う気がして、ここしばらくずっと開けられずにいた。

 

蓋を上げると、銀色の光が息をするように揺れた。

シルバーの指輪。そして、使いかけのアロマオイル。

かつて誰かの掌から受け取ったもの。

栄光と失墜の境界にあった、唯一の“証”。

 

オイルの中身はわずかに減り、瓶の底で沈黙している。

あの月桂樹の香り。思い出そうとするたびに、心に刺すような痛みが走る。

 

指輪の表面には細かな傷が増えていた。磨けば光るのかもしれない。

けれど今は、その光を確かめる勇気はなかった。

 

あの頃の笑顔、声、息づかい。全てがこの小箱の中に閉じ込められている気がした。

同時に、それが自分を縛る鎖でもあると分かっていた。

 

それでも、どうしても捨てられなかった。

たった一年に満たない時間でも、かけがえのない記憶だったから。

あの香りの中で、初めて自分の意思で勝ちたいと思えたから。

 

怒りと未練、そしてまだ形にならない感情が、心の底で形を探していた。

それを押し込めるように、私は小箱の蓋を閉じた。

 

 

 

***

 

 

 

時は流れ、冬が来た。

校舎の窓には朝の霜が薄く貼りついている。

今日は進学面談の日。職員室の奥で、担任がファイルをめくる音が響く。

 

「隆姫は立海大附属か? 推薦なら間違いないと思うが」

 

声の調子は穏やかだったが、その奥にはどこか期待の影が見える。

私は少し間を置いてから顔を上げる。

きっと彼の目に映るのは、まだ“元選手”としての私。その視線に、わずかに息が詰まる。

 

「いいえ、このまま高等部に進もうと思います」

 

言葉を口にした瞬間、担任のペンが止まった。

彼の後ろにいた副担任や他の教師たちも、小さく目を見開いた。

 

誰もが、私が再起を賭けて次の舞台へ進むと思っていたのだろう。

もしテニスを捨てるなら、全く別の道へ行くはずだと。

だからこそ、この選択は中途半端に見えたに違いない。それでも私の中では確固としていた。

 

テニスはもう武器ではなかった。勝つための刃でも、己を研ぎ澄ませるための鍛錬でもない。

それでも、完全に手放すことはできなかった。

あの時間のすべてが、今の私の骨格をつくっていると分かっていたから。

今の私に必要なのは、証明することではなく“知ること”。

 

なぜ、人は勝ちたいと願うのか?

なぜ、敗れた者に背を向けるのか?

なぜ、時に正しさは力で踏みにじられてしまうのか?

 

問いは消えなかった。むしろそれだけが自分の中で残っていた。

 

勝つための理論は、もう身体に染みついている。

どれほどの努力が必要かも、勝者に必要な思考や目線も、すでに自分の一部になっている。

 

けれど――心が折れる理由だけは、誰にも教えてもらえなかった。

 

だからこそ決めた。戦うことをもう一度選ぶと。

今度は、学ぶ者として。

他者をねじ伏せるのではなく、勝利の構造と敗北の傷みを知る者として。

答えを他人に求めるのではなく、自らの手で掴むために。

 

自分を破壊した世界を別の視点から見下ろせるようになれば、新たな世界が見えてくるかもしれない。

その小さな決意が、かすかに息づいていた。

 

 

 

***

 

 

 

図書室。放課後の静寂の中で、ページをめくる音だけが響く。

受験を控えた冬の午後、窓の外では粉雪が舞っている。

机の上には、分厚いスポーツ医学と心理学の専門書。どちらのページにも、自分の筆跡がぎっしりと並んでいる。

 

メカニズム、反射、心因――冷たい単語の群れ。その隙間に、私はずっと何かを探していた。

ふとペン先を置く。インクが紙を染める音が、静かに響いた。

 

『戦うとは、誰かを倒すことではなく、誰にも負けない心を持つこと』

 

書き終えた瞬間、ようやく言葉として置き換えられたという実感だけが残った。

かつて誰かが言いかけて、結局口にしなかった言葉。その続きをいまの自分が紡いでいる。

それだけで、不思議と息がしやすくなった。

 

過去は消えない。けれど、きっとあの経験が別の角度から自分を支えている。今はそう思えた。

ページをめくるたびに、痛みが少しずつ別の形に変わっていくかのように。

 

だからこそ、あの日。

平等院鳳凰という男を知ったとき。

彼の奥底に燃える思いに、ただの興味ではなく新たな問いを抱くことができた。

 

敗北や挫折を背負いながら前に進むこと。それは私がいちばん避けてきたものだった。

弱さだとさえ思っていた。

目を逸らしてきたはずなのに、彼の姿を見ると心のどこかが小さく反応した。

 

――どうして、この人は立ち上がれるのだろう。

 

あの日の私はまだ気づいていなかった。

その小さな問いこそが、再び“記されざる誓い”を灯す始まりになることを。

誰に見せるでもない、誰に証明するでもない、私自身のための目に見えない約束。

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