【新テニ】戦庭の彼方へ   作:Relics

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革命編


#3 烽火

その朝、崖の上を覆っていた霧はいつもより早く晴れた。

湿った空気が揺れ、地面の匂いが立ちのぼる。

何かが変わる前触れのように、自然がその息をひそめていた。

 

足音がひとつ、霧の向こうから近づく。

金色の髪が朝日にきらめき、足音は踏むごとに大地を軽く鳴らした。

姿は変わらず大柄で粗野だが、その佇まいには以前とは異なる均衡があった。

 

平等院鳳凰。

己と向き合うために旅に出た男が、精神の修行を経て再び戻ってきた。

 

遠くを見つめる瞳は、以前とは違っていた。

射抜くようでありながら、殺気も怒りも、研ぎ澄まされた心の内に在る。

 

「……戻りやしたか、お頭」

 

そう呟いたのは、大曲だった。

その声に込められていたのは、畏怖ではない。

確かな尊敬と言葉にならない“合流”の合図だった。

 

平等院は言葉を返さなかった。

ただ一歩、また一歩と、ゆっくりと歩みを進める。

その目はまっすぐ前だけを見ていた。ただひとつ、勝利だけを見据えて。

 

「本隊の連中を、叩き潰す――革命だ!」

 

平等院の叫びが空気を裂いた。

それを皮切りに、崖の上の“負け組”たちが一斉に立ち上がる。

 

かつて敗北を味わい、爪を噛み、拳を震わせてきた者たち。

憤怒と渇望がたちまち場を満たした。

 

その中心に静かな影があった。

声も仕草も抑えられているのに、空気がわずかに引き締まる。

 

隆姫栄華。

 

紙の擦れる音だけが響く。

彼女は資料を次々と配り、対戦データと相性表を指で追う。

指先が数値をなぞるたび、散らばった情報が形を変えてゆく。

戦力の割り振り、時間差の作戦、相手の癖を突くための細かな指示。その采配はまさに軍師そのもの。

彼女は「革命」の黒幕を見事に演じきっていた。

 

「一人でも取りこぼせば終わりよ。本気でやりなさい!……全員、必ず勝ってきて!」

 

凛としたその声に、全員が頷いた。誰一人として疑う者はいない。

彼女がただの補佐ではないことを、今では全員が知っているからだ。

 

崖の上に立つその群れは、もう散り散りの影ではない。

立つ位置も視線も、みな同じ方向を向いていた。

 

資料を配り終えると、栄華は束を抱えたまま手を止めた。

紙の端が指先にあたり、かすかな痛みが残る。

それを抑えるように、掌の中で束をひとつにまとめる。

過去の汚名を背負いながらも、今ここで新たな秩序を築く――

その重さを静かに受け止めていた。

 

平等院の瞳が一瞬だけ栄華に向けられる。

ただ一度だけ眼差しだけが往き交う。その一瞬に何かが渡った。

 

空の色がゆっくりと移り、やがて彼らの列が走り出す。

崖の上の空気だけが彼らの決意を知っていた。

 

 

 

***

 

 

 

そして、火蓋が切られた。

 

試合とは名ばかりだった。

コート上に叩きつけられる気迫は、もはやテニスの枠を超えた意志のぶつかり合い。

 

栄華はコート脇の最前線に立ち、そのすべてを冷静な視線で見届けていた。

データ表を胸に抱え、目だけで戦況を読む。

歓声も、嘲笑も、雑音も一切届かない。

彼女の中にはただ一点――勝利の軌道だけがあった。

 

先陣を切るのは、大曲竜次。

両手にはそれぞれバランスの異なるラケット。

二天一流兵法を想起するその姿は、コートという名の戦場に降り立つ(つわもの)

 

「始めっか」

 

息が白く散り、緊張がコート全体に広がる。

 

対するは、本隊の上位選抜。

手堅い戦術と配球で知られる技巧派プレイヤー。

その構えには余裕すらあった。

 

序盤、大曲はあえて緩やかなテンポで打ち続ける。

トスは甘く、スイングも浅い。

観客からは小さなどよめきが起こる。

 

「所詮は負け組、大したことねぇな……それとも様子見か?」

 

相手が押し切れると油断した瞬間。

大曲の眼が細まる。

 

「ッ!?」

 

フォームが一瞬で豹変した。

スライスかと思われた打球が、ふいにロブに変化する。

次の瞬間には逆回転のドロップ。

 

「なっ……」

 

相手が追うより早く、ボールは軌道をねじ曲げる。

フェイントの上にフェイントを重ねた二重の罠。

 

そして、深い守備位置からでも拾い上げてくる鬼のような粘り。

コート全面を縦横無尽に走り回り、起点の見えないカウンターを次々と放つ。

 

「ッ……どこを打っても、返ってくる……!」

 

観客席の空気が震える。

 

大曲は息を荒げながらも構えを崩さない。

顔は汗で濡れ、呼吸は焼けるように熱い。

それでも、その瞳はまだ燃えていた。

 

栄華の視線がデータ表から離れる。

 

(限界が近い。けど……行け。最後まで、自分の形で)

 

最終ゲーム。スコアは5-2。

大曲の足取りは重い。それでも、持ちこたえた先に勝利がある――

そう確信した、最後の一本。

 

大曲のラケットが再び唸る。

低く滑るサイドスピンを拾い上げ、逆サイドへ回り込む。

交差するように両腕を振り抜いた。

 

弦が鳴る。一瞬、空気が止まる。

 

「……クロスカウンターだとッ!?」

 

白線をかすめる乾いた音が、コートの奥まで突き抜ける。

ボールが落ち、跳ねずに沈んだ。

 

「ゲームセット!ウォンバイ大曲!6-2!」

 

歓声が爆ぜる。

大曲は動かず、肩だけがわずかに上下していた。

息をこぼすように唇の端を上げる。

 

「勘弁しろし。最後の最後で決まんのかよ……」

 

吐息に混じる笑い。

誰に言うでもなく呟いた声が溶けていった。

 

 

 

***

 

 

 

そして、響いた重低音。

腹の底を叩くような震えが地面を這い、靴底を揺らす。

それに導かれるように、平等院がコートへ歩み出る。

 

足音はほとんど聞こえない。

だが、一歩進むたびに周囲の密度が変わっていく。

 

対する相手は現役の代表レギュラー。彼もまた、一歩も引かない。

眉一つ動かさず、姿勢を整える。

呼吸だけが微かに胸を押し上げ、瞳の奥には同じ熱を灯していた。

 

「来やがったか」

 

低く、どこか笑いを含んだ声。

獲物を見据えた獣のような目。

 

平等院が短く鼻を鳴らす。

その奥で、別のものが牙を剥いた。

 

「……テメェを潰す。それだけだ」

 

風が切れ、二人の影が交わる。

 

 

 

***

 

 

 

初手。相手サーブの衝撃が胸を突き抜け、骨の奥まで響く。

打球は重く、鋭く、迷いがない。

目で追うより速く、影だけが遅れて飛ぶ。

だが、その勢いごと平等院のラケットが吸い込んだ。

相手の立ち位置、間合いさえも奪い、圧力でコート全体を飲み込む。

 

「くっ……!」

 

踏み出したはずの足が、確かな感覚を失っていく。

自分から動いたのか、相手に押し出されたのか、もう分からない。

次第に世界が歪み、やがて意識が何か別の空間に引きずり込まれていく。

 

荒れ狂う海、軋む木の床、船を揺らす暴風――

現実のコートに立っているはずが、まるでその“甲板”に立たされていた。

 

風が吠え、塩を含んだ飛沫が頬を打つ。

ラケットを握る指先が濡れ、そのぬめりが現実かどうかを曖昧にしていく。

 

「一体なにが起こってる……?!」

 

ボールが跳ねた。しかし音だけが空を裂き、足元に痛みを残す。

次の瞬間、打ち返したはずの球が背後から地を叩いた。

 

5-0。遠くで誰かが叫んでいる。

それが歓声なのか悲鳴なのかも分からない。

 

最後の一本。相手が振り絞るように打ち込んだ渾身のショット。

その一撃に、これまで積み上げた全ての意地が詰まっていた。

 

だが――

 

「滅びよ……」

 

ベースラインのはるか後方から叩き込むフルスイング。

まぶしい光と轟音がコートを揺らす。

その衝撃の後に残ったのは、焦げ付いたような匂いと地面に刻まれた打球の跡だった。

 

「……ゲームセット!ウォンバイ平等院、6-0!」

 

歓声の代わりに衣擦れの音がひとつ。

それすらも、すぐ空気に吸い込まれていった。

 

視覚、聴覚、体感――すべてが支配される。

これが、“別次元のテニス”。

 

やがて三船がゆっくりと立ち上がった。

腕を組んだまま、視線だけをゆっくりと前に送る。

その口元が、かすかに動いた。

 

「……やりおったな。平等院」

 

三船の視線がまだ前に残っていた。

誰も言葉を探さず、息の音だけが積もっていく。

コートの向こうで焦げた匂いがもう一度立ちのぼった。

 

 

 

***

 

 

 

その日の朝は、いつもより静かだった。

 

風が崖の上を撫でても、音は薄く、鳥の声も遠い。

空気の底にはまだ熱の名残がくすぶっている。

 

勝ったのだ。だが、それは歓喜ではなかった。

確かに、崖の上の選手たちは己の存在を証明し、

勝者と敗者の間に立ちはだかった壁は音を立てて崩れた。

だが、それでもなお、全てが変わるわけではない。

 

だからこそ栄華は、誰にも告げることなくひとりで動いた。

 

外へ出た時、まだ空は青く、風がやさしく枝葉を揺らしていた。

足音を潜めて歩くその先にあるのは、三船の部屋。

 

廊下の床板は古く、踏むたびにわずかに軋む。

だが、その音ですらも今や馴染んだ生活の一部だった。

 

トントン、とノックの音が響く。

 

「入れ」

 

短く返されたその声に促され、栄華は部屋に足を踏み入れる。

 

部屋の中はいつも通りだ。乱雑な書類の山と散らかった酒の瓶。

それでも、空気は凛としていた。

秩序なき秩序――この男の本質そのもの。

 

三船は胡座をかき、手元の紙に目を通していた。

彼女の気配に気づくと、視線をゆっくりと上げる。

 

「来たか」

 

栄華は黙って立ち、軽く頭を下げた。

やがて三船は一枚の紙を引き出し、指先で軽く叩いた。

 

「話はついとる。これでお前は本隊のマネージャーだ」

 

たった一言。

それだけの言葉だった。

 

それでもその瞬間、栄華の中で何かがほどけた。

 

ありがとうも、嬉しいも、何も言わなかった。

ただ深く頭を下げた。

その肩はかすかに震えていた。

 

三船は何も言わず、傍らの瓢箪を手に取る。

栓を抜くと酒の香りが広がった。

 

ひと口、喉を鳴らす。

その音が部屋の静けさに吸い込まれる。

唇の端からこぼれた一滴が、机をゆっくり伝った。

 

短い吐息とともに三船は窓を開けた。

風が流れ込み、酒の匂いが外気と混ざる。

その瞬間だけ、空気が静かに整った。

 

 

 

***

 

 

 

部屋を出ると、ふと横から声がかかった。

 

「……よぉ」

 

振り向くと、大曲が立っていた。

首にかけたタオルが汗を吸い、片手はポケットに沈んでいる。

寝起きの気怠さと、いつもの癖が混ざった姿。

 

「大曲くん?」

 

彼は軽く顎を上げる。

 

「こんな朝っぱらから何の面接だし。就職希望か?」

 

冗談めかして言うその声に、栄華は思わず笑った。

 

「そんなところ。履歴書は出してないけどね」

「ふーん……ま、ようやくかって感じだな」

「何が?」

 

大曲は背中を向けた。

肩の動きだけで答えを押し出す。

 

「なんつーか、今までの隆姫、罪滅ぼしでもしてるみてぇだったろ。

 でも今は違う。……掴んだんだろ、自分で」

 

風が抜けたあとに、紙の端がかすかにめくれた。

栄華は何も言わず、笑みの形だけを残した。

 

「……“火”は消えていなかったようだな」

 

不意に割って、奥から低い声が響いた。

栄華が振り向くと、平等院が立っていた。

トレーニングウェアのまま、肩にタオルを引っかけている。

汗の跡が光を帯び、瞳だけが冷たく光った。

 

「平等院……」

 

彼は壁にもたれ、鼻で息を鳴らす。

 

「テメェが俺たちを裏切らねぇということだけは覚えておいてやる、今のところはな」

 

吐き出した声が、室内の空気をほんの少し焦がす。

栄華は短く息を吸い、指先で乱れた前髪を押さえた。

 

「じゃあ、そのご期待に応えられるように、もう少しだけ粘ってみようかな」

「……そうかよ」

「よろしくね、“お頭様”」

 

一瞬、平等院の口元が動いた。笑ったのかどうかは分からない。

だが、その目がわずかに柔らいだ気がした。

 

言葉の代わりに、踵の音が床を叩く。

それが遠ざかるにつれ、廊下の空気が少しずつ元の温度を取り戻す。

 

「……ったく、二人して相変わらずだよな」

 

大曲が片手を振り、照れたような笑いを残して歩き出す。

栄華はその背を見送り、唇の端をわずかにゆるめた。

そこに宿っていたのは、これまでのどんな勝利よりも確かな実感。

 

もう誰かに与えられた立場じゃない。

自ら選んだ者として再びこの場に立った。

見えない場所から、すべての勝者を支える存在として。

 

朝の光が坂道を満たしていく。

その中を栄華はゆっくりと歩き出した。

 

足取りは静かだが、踏みしめるたびに地面の奥から新しい音が返ってきた。

 

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