【新テニ】戦庭の彼方へ 作:Relics
その朝、崖の上を覆っていた霧はいつもより早く晴れた。
湿った空気が揺れ、地面の匂いが立ちのぼる。
何かが変わる前触れのように、自然がその息をひそめていた。
足音がひとつ、霧の向こうから近づく。
金色の髪が朝日にきらめき、足音は踏むごとに大地を軽く鳴らした。
姿は変わらず大柄で粗野だが、その佇まいには以前とは異なる均衡があった。
平等院鳳凰。
己と向き合うために旅に出た男が、精神の修行を経て再び戻ってきた。
遠くを見つめる瞳は、以前とは違っていた。
射抜くようでありながら、殺気も怒りも、研ぎ澄まされた心の内に在る。
「……戻りやしたか、お頭」
そう呟いたのは、大曲だった。
その声に込められていたのは、畏怖ではない。
確かな尊敬と言葉にならない“合流”の合図だった。
平等院は言葉を返さなかった。
ただ一歩、また一歩と、ゆっくりと歩みを進める。
その目はまっすぐ前だけを見ていた。ただひとつ、勝利だけを見据えて。
「本隊の連中を、叩き潰す――革命だ!」
平等院の叫びが空気を裂いた。
それを皮切りに、崖の上の“負け組”たちが一斉に立ち上がる。
かつて敗北を味わい、爪を噛み、拳を震わせてきた者たち。
憤怒と渇望がたちまち場を満たした。
その中心に静かな影があった。
声も仕草も抑えられているのに、空気がわずかに引き締まる。
隆姫栄華。
紙の擦れる音だけが響く。
彼女は資料を次々と配り、対戦データと相性表を指で追う。
指先が数値をなぞるたび、散らばった情報が形を変えてゆく。
戦力の割り振り、時間差の作戦、相手の癖を突くための細かな指示。その采配はまさに軍師そのもの。
彼女は「革命」の黒幕を見事に演じきっていた。
「一人でも取りこぼせば終わりよ。本気でやりなさい!……全員、必ず勝ってきて!」
凛としたその声に、全員が頷いた。誰一人として疑う者はいない。
彼女がただの補佐ではないことを、今では全員が知っているからだ。
崖の上に立つその群れは、もう散り散りの影ではない。
立つ位置も視線も、みな同じ方向を向いていた。
資料を配り終えると、栄華は束を抱えたまま手を止めた。
紙の端が指先にあたり、かすかな痛みが残る。
それを抑えるように、掌の中で束をひとつにまとめる。
過去の汚名を背負いながらも、今ここで新たな秩序を築く――
その重さを静かに受け止めていた。
平等院の瞳が一瞬だけ栄華に向けられる。
ただ一度だけ眼差しだけが往き交う。その一瞬に何かが渡った。
空の色がゆっくりと移り、やがて彼らの列が走り出す。
崖の上の空気だけが彼らの決意を知っていた。
***
そして、火蓋が切られた。
試合とは名ばかりだった。
コート上に叩きつけられる気迫は、もはやテニスの枠を超えた意志のぶつかり合い。
栄華はコート脇の最前線に立ち、そのすべてを冷静な視線で見届けていた。
データ表を胸に抱え、目だけで戦況を読む。
歓声も、嘲笑も、雑音も一切届かない。
彼女の中にはただ一点――勝利の軌道だけがあった。
先陣を切るのは、大曲竜次。
両手にはそれぞれバランスの異なるラケット。
二天一流兵法を想起するその姿は、コートという名の戦場に降り立つ
「始めっか」
息が白く散り、緊張がコート全体に広がる。
対するは、本隊の上位選抜。
手堅い戦術と配球で知られる技巧派プレイヤー。
その構えには余裕すらあった。
序盤、大曲はあえて緩やかなテンポで打ち続ける。
トスは甘く、スイングも浅い。
観客からは小さなどよめきが起こる。
「所詮は負け組、大したことねぇな……それとも様子見か?」
相手が押し切れると油断した瞬間。
大曲の眼が細まる。
「ッ!?」
フォームが一瞬で豹変した。
スライスかと思われた打球が、ふいにロブに変化する。
次の瞬間には逆回転のドロップ。
「なっ……」
相手が追うより早く、ボールは軌道をねじ曲げる。
フェイントの上にフェイントを重ねた二重の罠。
そして、深い守備位置からでも拾い上げてくる鬼のような粘り。
コート全面を縦横無尽に走り回り、起点の見えないカウンターを次々と放つ。
「ッ……どこを打っても、返ってくる……!」
観客席の空気が震える。
大曲は息を荒げながらも構えを崩さない。
顔は汗で濡れ、呼吸は焼けるように熱い。
それでも、その瞳はまだ燃えていた。
栄華の視線がデータ表から離れる。
(限界が近い。けど……行け。最後まで、自分の形で)
最終ゲーム。スコアは5-2。
大曲の足取りは重い。それでも、持ちこたえた先に勝利がある――
そう確信した、最後の一本。
大曲のラケットが再び唸る。
低く滑るサイドスピンを拾い上げ、逆サイドへ回り込む。
交差するように両腕を振り抜いた。
弦が鳴る。一瞬、空気が止まる。
「……クロスカウンターだとッ!?」
白線をかすめる乾いた音が、コートの奥まで突き抜ける。
ボールが落ち、跳ねずに沈んだ。
「ゲームセット!ウォンバイ大曲!6-2!」
歓声が爆ぜる。
大曲は動かず、肩だけがわずかに上下していた。
息をこぼすように唇の端を上げる。
「勘弁しろし。最後の最後で決まんのかよ……」
吐息に混じる笑い。
誰に言うでもなく呟いた声が溶けていった。
***
そして、響いた重低音。
腹の底を叩くような震えが地面を這い、靴底を揺らす。
それに導かれるように、平等院がコートへ歩み出る。
足音はほとんど聞こえない。
だが、一歩進むたびに周囲の密度が変わっていく。
対する相手は現役の代表レギュラー。彼もまた、一歩も引かない。
眉一つ動かさず、姿勢を整える。
呼吸だけが微かに胸を押し上げ、瞳の奥には同じ熱を灯していた。
「来やがったか」
低く、どこか笑いを含んだ声。
獲物を見据えた獣のような目。
平等院が短く鼻を鳴らす。
その奥で、別のものが牙を剥いた。
「……テメェを潰す。それだけだ」
風が切れ、二人の影が交わる。
***
初手。相手サーブの衝撃が胸を突き抜け、骨の奥まで響く。
打球は重く、鋭く、迷いがない。
目で追うより速く、影だけが遅れて飛ぶ。
だが、その勢いごと平等院のラケットが吸い込んだ。
相手の立ち位置、間合いさえも奪い、圧力でコート全体を飲み込む。
「くっ……!」
踏み出したはずの足が、確かな感覚を失っていく。
自分から動いたのか、相手に押し出されたのか、もう分からない。
次第に世界が歪み、やがて意識が何か別の空間に引きずり込まれていく。
荒れ狂う海、軋む木の床、船を揺らす暴風――
現実のコートに立っているはずが、まるでその“甲板”に立たされていた。
風が吠え、塩を含んだ飛沫が頬を打つ。
ラケットを握る指先が濡れ、そのぬめりが現実かどうかを曖昧にしていく。
「一体なにが起こってる……?!」
ボールが跳ねた。しかし音だけが空を裂き、足元に痛みを残す。
次の瞬間、打ち返したはずの球が背後から地を叩いた。
5-0。遠くで誰かが叫んでいる。
それが歓声なのか悲鳴なのかも分からない。
最後の一本。相手が振り絞るように打ち込んだ渾身のショット。
その一撃に、これまで積み上げた全ての意地が詰まっていた。
だが――
「滅びよ……」
ベースラインのはるか後方から叩き込むフルスイング。
まぶしい光と轟音がコートを揺らす。
その衝撃の後に残ったのは、焦げ付いたような匂いと地面に刻まれた打球の跡だった。
「……ゲームセット!ウォンバイ平等院、6-0!」
歓声の代わりに衣擦れの音がひとつ。
それすらも、すぐ空気に吸い込まれていった。
視覚、聴覚、体感――すべてが支配される。
これが、“別次元のテニス”。
やがて三船がゆっくりと立ち上がった。
腕を組んだまま、視線だけをゆっくりと前に送る。
その口元が、かすかに動いた。
「……やりおったな。平等院」
三船の視線がまだ前に残っていた。
誰も言葉を探さず、息の音だけが積もっていく。
コートの向こうで焦げた匂いがもう一度立ちのぼった。
***
その日の朝は、いつもより静かだった。
風が崖の上を撫でても、音は薄く、鳥の声も遠い。
空気の底にはまだ熱の名残がくすぶっている。
勝ったのだ。だが、それは歓喜ではなかった。
確かに、崖の上の選手たちは己の存在を証明し、
勝者と敗者の間に立ちはだかった壁は音を立てて崩れた。
だが、それでもなお、全てが変わるわけではない。
だからこそ栄華は、誰にも告げることなくひとりで動いた。
外へ出た時、まだ空は青く、風がやさしく枝葉を揺らしていた。
足音を潜めて歩くその先にあるのは、三船の部屋。
廊下の床板は古く、踏むたびにわずかに軋む。
だが、その音ですらも今や馴染んだ生活の一部だった。
トントン、とノックの音が響く。
「入れ」
短く返されたその声に促され、栄華は部屋に足を踏み入れる。
部屋の中はいつも通りだ。乱雑な書類の山と散らかった酒の瓶。
それでも、空気は凛としていた。
秩序なき秩序――この男の本質そのもの。
三船は胡座をかき、手元の紙に目を通していた。
彼女の気配に気づくと、視線をゆっくりと上げる。
「来たか」
栄華は黙って立ち、軽く頭を下げた。
やがて三船は一枚の紙を引き出し、指先で軽く叩いた。
「話はついとる。これでお前は本隊のマネージャーだ」
たった一言。
それだけの言葉だった。
それでもその瞬間、栄華の中で何かがほどけた。
ありがとうも、嬉しいも、何も言わなかった。
ただ深く頭を下げた。
その肩はかすかに震えていた。
三船は何も言わず、傍らの瓢箪を手に取る。
栓を抜くと酒の香りが広がった。
ひと口、喉を鳴らす。
その音が部屋の静けさに吸い込まれる。
唇の端からこぼれた一滴が、机をゆっくり伝った。
短い吐息とともに三船は窓を開けた。
風が流れ込み、酒の匂いが外気と混ざる。
その瞬間だけ、空気が静かに整った。
***
部屋を出ると、ふと横から声がかかった。
「……よぉ」
振り向くと、大曲が立っていた。
首にかけたタオルが汗を吸い、片手はポケットに沈んでいる。
寝起きの気怠さと、いつもの癖が混ざった姿。
「大曲くん?」
彼は軽く顎を上げる。
「こんな朝っぱらから何の面接だし。就職希望か?」
冗談めかして言うその声に、栄華は思わず笑った。
「そんなところ。履歴書は出してないけどね」
「ふーん……ま、ようやくかって感じだな」
「何が?」
大曲は背中を向けた。
肩の動きだけで答えを押し出す。
「なんつーか、今までの隆姫、罪滅ぼしでもしてるみてぇだったろ。
でも今は違う。……掴んだんだろ、自分で」
風が抜けたあとに、紙の端がかすかにめくれた。
栄華は何も言わず、笑みの形だけを残した。
「……“火”は消えていなかったようだな」
不意に割って、奥から低い声が響いた。
栄華が振り向くと、平等院が立っていた。
トレーニングウェアのまま、肩にタオルを引っかけている。
汗の跡が光を帯び、瞳だけが冷たく光った。
「平等院……」
彼は壁にもたれ、鼻で息を鳴らす。
「テメェが俺たちを裏切らねぇということだけは覚えておいてやる、今のところはな」
吐き出した声が、室内の空気をほんの少し焦がす。
栄華は短く息を吸い、指先で乱れた前髪を押さえた。
「じゃあ、そのご期待に応えられるように、もう少しだけ粘ってみようかな」
「……そうかよ」
「よろしくね、“お頭様”」
一瞬、平等院の口元が動いた。笑ったのかどうかは分からない。
だが、その目がわずかに柔らいだ気がした。
言葉の代わりに、踵の音が床を叩く。
それが遠ざかるにつれ、廊下の空気が少しずつ元の温度を取り戻す。
「……ったく、二人して相変わらずだよな」
大曲が片手を振り、照れたような笑いを残して歩き出す。
栄華はその背を見送り、唇の端をわずかにゆるめた。
そこに宿っていたのは、これまでのどんな勝利よりも確かな実感。
もう誰かに与えられた立場じゃない。
自ら選んだ者として再びこの場に立った。
見えない場所から、すべての勝者を支える存在として。
朝の光が坂道を満たしていく。
その中を栄華はゆっくりと歩き出した。
足取りは静かだが、踏みしめるたびに地面の奥から新しい音が返ってきた。