【新テニ】戦庭の彼方へ   作:Relics

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マネージャー就任編
※ほぼ日常回。一部キャラの合宿招聘時期は捏造。


#4 再序

合宿所の本棟。

代表候補たちが暮らすその空間には、崖の上とは違う張りつめた空気が漂っていた。

ただの静けさではない。靴音ひとつにすら緊張が宿る、目に見えぬ圧。

常に見られている――そんな感覚が空気に溶け込んでいた。

 

数ヵ月前までいた場所には、誰も称賛をくれなかった。

泥と汗と、見えない嘲りだけがそこにあった。

今いるこの場所もきっと同じだ。

そして、再び立ち上がる者ほど最も厳しく見られる。

 

わかっている。

それでも。

 

(私は、ここに立つことを選んだ)

 

栄華は、トレーニングウェアのまま廊下を歩いていた。

無駄のない足取り。だがその胸の奥では、別の鼓動が鳴っていた。

 

サポート員としてではなく、マネージャーとして迎えられる初日。

彼らとようやく同じ地面を踏んでいる。

その決意を刻み付けるように、栄華は控え室のドアノブを回した。

 

中にいたのは、三人の男たち。部屋の空気は一瞬で変わった。

 

戦略コーチ・黒部由起夫。

精神(メンタル)コーチ・斎藤至。

サーキットコーチ・柘植竜二。

いずれも日本代表を支える柱であり、現場の采配を握る重鎮たちだ。

 

「あなたが、隆姫さんですね。U-17日本代表本隊への配属、おめでとうございます」

 

斎藤が口火を切る。

 

「実績は把握していますよ~。元・ジュニア海外トップランカー。戦術理解、分析、生活管理……総合的に高い評価です」

 

白衣を身にまとった、柔和な印象がある男。

だが、言葉の節々には隠しきれぬ鋭さがあった。

 

隣にいる黒部が、タブレット端末に目を落としながら、栄華を観察するように続ける。

 

「先日の戦略支援……あなたがまとめた資料は拝見しました。“革命”の立役者として、我々も注視していました」

「恐れ入ります」

 

栄華は丁寧に頭を下げる。

その一連の動作を見て、柘植が低く唸った。

 

「礼儀はあるようだな」

「ちょっと柘植ちゃん、最初からそんな言い方しなくても……」

 

斎藤が苦笑するなか、栄華は三人の視線を正面から受け止め、背筋を伸ばして告げた。

 

「本日配属されました、隆姫栄華です。マネージャーとして現場に携わりますが、選手たちの支援に全力を尽くします」

 

抑揚は少ない。だがその声には明確な意志があった。

黒部が再びタブレットを操作し、簡潔に告げる。

 

「あなたの担当は主に戦略支援とトレーニングデータの管理。希望すれば医療面や食事面の補助にも関わって構いません」

「全て対応できます。医学・心理学は現在も勉強中ですが、可能な限りのことは」

「それは心強い」

 

黒部の表情がわずかに和らぐ。

 

「……では早速ですが、午前中のトレーニングに同行してください。フィジカル班に合流を」

「承知いたしました」

 

栄華は頭を下げ、ドアを閉めて控室をあとにした。

一歩、外へ出てようやく息を吐く。

 

静まり返った廊下の向こうで、空気の重さがわずかに変わった。

気負わないつもりだった。

それでも、やはりこの場所は“本戦”だ。

 

 

 

***

 

 

 

コートサイド。

 

熱気を帯びた空気の中、選手たちの練習メニューはすでに始まっていた。

掛け声とシューズの擦れる音が交錯する。ボールが弾けるたび、乾いた衝撃が胸の奥に響くようだった。

 

栄華はデータ端末と補給リストを片手に立っていた。

冷静な表情のまま、選手たちの動線を追い、タイムを記録し、フォームのブレを見逃さない。

けれど内心は少しだけ張り詰めていた。

 

(まだ、私は“異物”だ。ここでは)

 

身体の動きは馴染んでも、この場所の温度に自分が完全に溶け込んでいるとは言えなかった。

視線を感じる。評価の目と、探るような目。

どれも正しい。

 

ここでは、全てが“結果”の後にしか得られない。

それでも怯む気はなかった。

 

そんな緊張を、ふいに割るように軽やかな声が飛んだ。

 

「アンタが噂のマネージャーさん?」

 

陽射しを背に、ひょいと顔を覗き込む男。

陽気な笑顔を浮かべ、ラケットをくるくると器用に回している。

 

種ヶ島修二。

チーム随一のムードメーカーとも言える男。

その笑みは、どこかこの空気を読むというより、読んだうえで崩す類のものだった。

 

彼は初対面のはずの栄華に、まるで旧友にでも話しかけるような軽さで続けた。

 

「女子マネが入るって聞いて、みんなソワソワしとったで。隆姫ちゃんでええ?」

「“ちゃん”は余計だけど、どうぞご自由に」

 

言葉が落ちた瞬間、栄華の声にほんの僅かな張りが混じった。

種ヶ島はそれを聞き逃さず、口角をゆるく持ち上げる。

 

「おっ!自分、ツッコミいけるんや!安心したわ。ほんなら“隆姫(ヒメ)”、よろしくな☆」

「ひ、ひめ?」

 

まさかの“愛称”指定に、思わず間の抜けた声が漏れた。

端末を握る手が止まる。

 

種ヶ島の笑い声が、熱気の中で軽やかにほどけていく。

近すぎず、遠すぎず、自然で。ほんの少しだけ肩の力が抜ける。

 

(こんなふうに人と話すの……いつぶりだろう)

 

これまでどんな会話も敵意の前触れのように感じていた。

けれど今、彼の声は風のようだった。

押すでも引くでもなく、ただその場の空気を撫でていく。

 

その瞬間だった。

 

「おいおい、あんまり彼女のこと困らせてやるなよ」

 

低く、ややしゃがれた声が背後から飛んできた。

振り返ると、がっしりとした体躯に鋭い目つき。

鬼十次郎がラケットを担いで立っていた。

 

「大丈夫よ。むしろ、少し安心してる」

 

栄華は肩をすくめて答えた。表情は崩さず、それでも口調に柔らかさを滲ませる。

鬼の目が一瞬、彼女を上下に走る。

値踏みするような視線。だが、数秒後にはふっと息を抜いた。

 

「鬼十次郎だ。よろしく頼む」

「こちらこそ。隆姫栄華よ」

 

短い名乗り合い。

言葉が交わった瞬間、わずかに空気が動いた。

 

「“災禍”っつうから、どんな奴かと思えば……全然普通だな」

「普通で助かるわ。こっちだって“鬼”なんて名前、初めは構えたんだから」

「ははっ、そりゃそうだ。だが悪ぃな、これは本名だ」

 

冗談めかしたやり取りに、横で見ていた種ヶ島が吹き出した。

 

「おー、なんやなんや十次郎(ジュウ)。もう意外と息合っとるんちゃう?」

「さっきより確かに“隆姫(ヒメ)”の肩、力抜けてるな」

 

鬼の口元がわずかに笑った。栄華の表情にも笑みが浮かぶ。

言葉のやり取りひとつで、重かった空気が少しずつ形を変えていく。

 

「あなたも十次郎(ジュウ)って呼ばれてるの?」

「種ヶ島の勝手なあだ名な。無視していいぞ」

「ふふ、気に入ったら採用するわ。よろしくね」

「ったく……勝手にしろ」

 

そう言いながらも、鬼は少しだけ目を細めた。奥には柔らかな色が差す。

その瞬間、胸の奥で何かが鳴った。

音も形もない。それでも確かに響くもの。

 

それを感じた時だった。

 

「“災禍”って響き、何だか物騒だけど……ボクからすると、ちょっと羨ましいくらい」

 

ふっと割って入るように、その声は背後から滑り込んできた。

振り向くと、柔らかく波打つ癖毛に丸メガネ。

光を受けたレンズの奥で、瞳の形が一瞬揺らいだ。

 

どこか掴みどころのない微笑を浮かべた少年が、腕を組んで彼女を見ていた。

 

入江奏多。

 

穏やかな物腰。

心から笑っているようで、一瞬だけどんな表情をしているのか分からなくなった。

 

「あなたが、入江奏多くん……?」

「うん。ボクのこと、知っててくれて嬉しいな。隆姫さん、でいい?」

「ええ、もちろん。よろしくね」

 

にこやかに笑いながら、入江の目は一瞬、鬼と種ヶ島を見た。

その動きだけで、彼が周囲の温度を精密に読んでいることが分かった。

 

「“災禍”って呼ばれてたってことは、少し厄介な過去があるってこと、なんだよね」

「……隠してないもの」

「でもボクはそういう人、嫌いじゃない」

 

その言葉の奥で何かが静かに揺れていた。

問いかけるでもなく、ただ測っているような。

栄華は視線を受け止め、わずかに目を細める。だが、それ以上踏み込むことはしなかった。

空気の表面に薄い緊張が走る。

 

(私の過去を興味本位で触る人間なら、こんなに穏やかに笑わない。

けど、ただの善意でもない。……この人、何かを見てる)

 

鬼が小さく咳払いをする。

重い音が、会話に楔を打ち込むように響いた。

 

「おい入江。初対面で詮索が過ぎるぞ」

「んー、そう? ただ気になっただけなんだけどな」

 

飄々と肩をすくめながら、入江はラケット指先で回す。

 

「でも、こうしてチームに刺激が加わるのは、悪くないと思ってるよ。ね、鬼?」

「……まあ、異論はねぇがな」

「ボクらの中には、()()()()()()()()()()()って人も多いからさ」

 

その言葉は柔らかい笑顔のまま放たれたのに、なぜか空気を一瞬冷やした。

種ヶ島が苦笑いを浮かべ、手を振る。

 

「せやな……せやけど奏多がそれ言うん、地味に怖いで」

「またまた修さんったら」

 

軽いやり取り。けれど、その下を流れる空気は静かに緊張していた。

視線がいくつも交差する。誰も声を上げない。

それでも確かに、場の重心が動いた。

 

(――観てる。私の“立ち方”を)

 

入江がラケットを肩にかける。

レンズ越しの瞳が、ゆっくりと光を受け流したときだった。

 

「おや、これはこれは……」

 

誰にでも聞き取りやすく、音の粒が揃った声。

まるで舞台の照明が音に合わせて点くような、完成されたトーン。

全員の視線が自然と声の主へ向かう。

 

振り返ると、華やかなオーラをまとった男がゆったりと歩いてくる。

髪は軽くセットされ、ユニフォームの着こなしにすら計算された演出が滲んでいる。

 

君島育斗。

 

メディアでの露出も多く、女性ファンから熱烈な支持を受ける人物。

だが、その笑顔の奥に潜むものを誰も見たことはない。

 

(さすが“キミ様”、ね)

 

栄華はわずかに息を整えた。その姿を見た瞬間、誰もが一瞬で理解する。

彼が空間の中心になろうと思えば、いとも容易くそうできることを。

 

「どうも、こうしてお話しするのは初めてですね?マネージャーの――隆姫さん、でよろしいでしょうか?」

 

丁寧な言葉。だが声をかけるというより、舞台から手を差し伸べるような響き。

 

「ええ。初めまして、君島くん」

 

栄華はほんの一瞬だけ目を細めた。

呼吸を合わせるように、同じリズムに乗せて返す。

柔らかさの中に、一筋の警戒が潜む。

 

抑揚、仕草、間の取り方。まさにどこかで見た芸能人のそれだ。

だが栄華の読みでは、彼の“それ”はただの表層にすぎない。

 

「かつての同級生と聞いて、親近感が湧いてきますね。“慶習院”以来、ということで」

 

その一言に周囲がわずかに反応した。

誰もが想像する。

この空間の外――彼女がどんな過去を背負っていたのかを。

 

栄華の瞳にわずかに翳りが走る。しかし、それを悟らせない。

 

「まさかここで再会するとは思わなかったわ。まあ、当時はお互いにほとんど話さなかったけれど」

「確かに。でも僕──いえ、私、こういう再会って……素敵だと思うんですよ」

 

“僕”と“私”の切り替え。ほんの一瞬の逡巡。

その一拍さえ計算に見えた。

笑顔の形は同じなのに、声の奥で何かがわずかに見え隠れする。

 

(この人……やはり、ただの人気者じゃない)

 

彼のまとう光がふと影を孕む。それは継ぎ目のように、ほんの一瞬。

栄華のまぶたが微かに動いた。

 

「へぇ。二人とも、知り合いだったんだ」

 

入江が目を細め、唇の端だけで笑った。その声に、わずかな湿り気が混じる。

君島は笑ったまま頷く。

 

「ええ、同じ中学に通っていました。ただ……その頃の彼女は、もう少し無口でしたけどね」

「それは今も変わらないかもしれないわ」

 

栄華は静かに息を吸ってから返す。

一拍遅れて、二人の笑い声が交わる。

 

ほんのわずかな音の重なり。それなのに、空気の奥がぎゅっと軋んだ。

 

君島の笑みは柔らかい。だが光の加減で、その輪郭が刃のように細く見えた。

栄華の眼差しもまた、それを受け止めるようにまっすぐだった。

 

種ヶ島が小さく息を吐き、鬼が腕を組んだまま動かない。

入江は笑みを保ちながらも、視線だけで三人の間を測っている。

 

そよ風が通り抜けた。土の匂い、遠くで響くボールの音。

穏やかな陽光の下、彼女の胸の奥だけが静かに熱を帯びていく。

それはまだ炎と呼ぶには小さく、けれど確かに、そこに灯っていた。 

 

「……なんだ、馴れ合いか?」

 

突如、冷ややかな声がその場の温度を一段下げた。

 

君島の背後から長い影がゆっくりと伸びてくる。

裂くような眼差し。黒髪が肩を流れ、歩を進めるたびに硬く揺れた。

姿勢は静かだが、片脚の沈み方がわずかに違う。そのズレが異様な印象を残す。

 

遠野篤京。

 

一部の選手たちからは恐れられ、その苛烈なプレイスタイルから“処刑人”の異名を持つ男。

 

「マネージャーだろうがなんだろうが……俺には関係ねぇ。弱けりゃ、切り捨てるだけだ」

 

射抜くような視線が、栄華を捕らえた。

重く、冷たい無音。だが、栄華は微動だにしなかった。

 

「……となると、私も“執行対象”かしら?」

 

声は張り詰めた糸の上を歩くように静かだった。

 

「さあな。判断材料はこれから集める」

「そう。じゃあこちらも必要な情報は、体の隅々まで聞かせてもらうことになるわね。特に、その()()とか」

 

一瞬、遠野の呼吸が途切れた。

視線が刃のように細くなる。

 

(……気づかれたか)

 

そう思った時にはすでに遅く、栄華は淡々と続ける。

 

「現場主義でやらせてもらってるの。色々サポートに入る予定だから、よろしくね、遠野くん」

「……目が全然笑ってねぇな」

「そちらも同じに見えるけど?」

 

金属の擦れるような音がどこかで鳴った気がした。

火花は見えない。だが、確かに熱は生まれていた。

 

鬼が目を細め、種ヶ島が肩をすくめる。

 

「おーこわ。初対面で処刑宣言されるマネージャーもそうおらんで」

「でも、隆姫さんなら大丈夫そうだね」

 

入江が軽く笑いながら割って入る。

 

「案外、遠野と相性いいかも。ね、君島?」

「ええ……彼女、なかなか手強いですよ。私の知るマネージャー像とは全く違う」

 

君島が穏やかに微笑む。

その言葉の“私”という響きに、遠野が小さく呟いた。

 

「……いい加減“僕”と“私”使い分けるのやめたらどうなんだ?」

「おや、それはつまり、こちらの素顔を知りたいと?」

 

挑発とも冗談ともつかぬ調子。

君島は涼しい笑顔を浮かべるだけだった。

 

栄華は彼らを順に見渡す。

鬼、種ヶ島、入江、遠野、君島――

個性の塊。揃いも揃って一筋縄ではいかない面々。

 

それぞれが交わるたびに、空気の形が変わるのが分かる。

血の巡りが少し速くなる感覚が走る。

 

「なかなか、やりがいがありそうね」

 

その声に、君島が穏やかに笑った。

 

「ふふ、ようこそ。混沌の現場へ」

 

軽口の余韻が消えていった。

誰からともなく息を潜め、空気の温度がひとつ下がる。

その沈黙を割ったのは、靴底が地を踏む乾いた音だった。

 

越知月光。

 

背の高い影が差し込む。白銀の髪が日差しを跳ね返し、そこに一筋の青が走っている。

前髪からのぞく瞳は鋭く、だが感情は読み取れない。

その佇まいには、言葉以上の圧があった。

 

「新入りのマネージャーか。初対面の挨拶くらいはしておくべきか」

 

淡々とした声。

抑揚がないのに、耳に残るのは言葉の輪郭ではなくその重さだった。

 

「越知月光くん、だよね。隆姫栄華です、よろしく」

 

栄華もまた表情を変えずに応じる。

呼吸を整え、視線を合わせた瞬間、時間がわずかに遅く流れる。

それが交わった一拍の間、空気が硬質になる。

 

越知は軽く瞬きし、静かに言った。

 

「……よろしく頼む」

 

その一言が意外なほど丁寧だった。

種ヶ島と入江が小さく囁く。

 

「……えらいちゃんとした挨拶やな」

「うん。これはきっと、相当な点数を出したってことだね」

 

その言葉に呼応するように、越知が続けた。

 

「……さして興味はないが、崖の連中の勝ち筋は記録として残っている」

「もしかしてデータ、見てたの?」

 

栄華が少し意外そうに訊くと、越知は頷くでもなく言葉を継ぐ。

 

「見た。“革命”の名に値するものだった。分析力、視野、整備。……さしあたって合格と言ったところか」

「随分と斜め上からな物言いね」

「事実の提示だ」

 

栄華の口元には苦笑が浮かぶ。だが、不快ではなかった。

核心をついた評価だったからだ。

 

誰かが気まずそうに沈黙するわけでも、笑いが起きるわけでもない。

それ以上の説明を必要としないという態度に、種ヶ島がふっと噴き出した。

 

「おー、出た。“さして興味はない”くせに、データめっちゃ見とるやん」

「情報収集は習慣だ。意味がないとは言っていない」

「なんやねん、相変わらず話ん中に地雷しかないな」

 

一歩下がったところで、遠野が口を開く。

 

「で、マネージャーの評価は?」

「問題はない。むしろ、現状のメンバーの中で最も働いている印象」

「へぇ……」

 

君島が横目で越知を見やる。

 

「君がそう言うってことは、相当“視えてる”ってことですね」

「主観の解釈は避けたいが、眼鏡越しの評価ならそれで構わない」

 

越知の声が途切れたあと、短い沈黙が落ちた。

まるで波紋が広がるように場を均していく。

栄華はその中に、小さな肯定の響きを聞いた気がした。

 

「……ありがとう。そう言ってもらえるなら、私は私の仕事を続けるわ」

「当然だ。対等に存在するというのは、そういうことだろう」

 

越知はそう締めくくり、無言でプロテイン飲料を開けた。

キャップが外れる音が乾いた空気を割る。

口に含んだあと、ごくりと飲み込む。

そして一言。

 

「味が薄い。次はベリー系を希望する」

「……それも、私の管轄?」

「気にするな。あくまで希望だ」

 

一瞬、誰も反応しなかった。

その沈黙の中で、君島が先に息をこぼした。

 

「いやぁ……こうして見ると、隆姫さんってやっぱり凄い人なんですね」

「どのへんが?」

 

栄華が問い返すと、君島は肩をすくめる。

 

「これだけ曲者が揃っても、みんな会話になってる。それって、並みの人にはできないことですから」

「……ある意味、“災禍”かもしれねえな」

 

そう口にしたのは鬼だった。

その眼差しには、わずかな柔らかさが宿る。

 

越知が空のボトルを閉め、呟いた。

 

「──このチームには、悪くない風が吹いている」

 

誰もが妙に納得してしまうその言葉に、緊張も笑いもひととき解ける。

彼らの中で、不思議な温かさが流れ始めていた。

 

 

 

***

 

 

 

それから幾週間後の夜、食堂の隅。

壁際の時計が小さく刻む秒音だけが、耳の奥に届く。

蛍光灯の白い光がテーブルの縁を鈍く照らし、湯気が天井へと細く昇っていく。

 

鬼が一人、その湯気をじっと見つめていた。

手の中の湯呑が、わずかに震える。

指先に残る熱を確かめるように、無言で息を吐く。

 

その隣には、いつの間にか種ヶ島が座っていた。

湯呑の代わりに味噌汁の椀を持ち、勝手に啜りながらごく自然に入り込んでいる。

 

「どしたん、真面目な顔して」

「……隆姫のことだ」

「おっ!なになに?」

 

種ヶ島が途端に身を乗り出す。瞳には好奇心の光。

けれど、鬼は視線を上げず、湯呑の中を覗き込むように言葉を落とす。

 

「“革命”のときの印象と、全然違ったな。もっと棘のある奴だと思ってた」

「確かにええ女やんな。ちょっと喋ったら分かるわ~」

「もう意地張らなくてもいい場所を、ずっと探してた感じだな」

「急に詩人みたいなこと言うやん」

「……うるせえ」

 

ふっと口の端だけを緩め、鬼が湯呑を置いた。

そこへ、金属の椅子を引く音。低い声が割り込む。

 

「……また女子の噂話かよ。勘弁しろし」

 

現れたのは大曲だった。無造作に腰を下ろし、テーブルに置いたサバ味噌定食を一気に頬張る。

 

「お、竜次も参戦かいな。やっぱ隆姫(ヒメ)、人気やなあ」

「別に参戦しねーし。ただ、あいつが来てから……この合宿、妙に回り出したのは確かだな」

 

その言葉に、空気が少し変わった。

大曲は味噌汁をすすりながら、ぼんやりと虚空を見つめる。

その目の奥には、かつて崖の上で見た夕焼けの色がかすかに宿っていた。

 

「隆姫は崖の上でもとにかく動き続けてた。全部()()()かと思ってたが、違うな。今は本当に好きでやってる」

「そうだな。ああいう奴は強い。見てりゃわかる」

 

鬼が短くうなずいた。

 

「けどまあ……お前らみたいなのに囲まれて、大丈夫かね」

「誰のことだ、大曲」

「誰とも言ってねーし」

「お前なあ……」

 

一瞬の沈黙のあと、三人の笑い声が重なった。

張り詰めた一日の疲れが湯気と共にふっと溶けていくような、そんな時間だった。

 

少し離れた席では、越知が一人静かに静かに箸を動かしていた。

姿勢は崩さず、表情も変えない。

だが、影で見えた口元は柔らかく緩んでいた。

 

「にしても、ええチームになってきたな」

 

種ヶ島がご飯をかきこみながら呟く。

 

「時間はかかったがな。だが今なら、どんな相手にも誰一人退かねぇ」

 

鬼の声に、湯呑が静かに置かれる音が重なる。

 

「……変わったよな」

 

ぽつりと大曲が呟く。

 

「前は、勝つために何かを削るチームだった。今は、何かを背負って勝つチームになった」

「……誰のこと言ってんだ?」

「誰とも言ってねーし」

 

また同じやりとり。

だが今度は、笑いは起きなかった。

 

皆、心のどこかで同じ男の姿を思い出していた。

 

平等院鳳凰。

彼の背を、あの闘いを――

 

いつの間にか、空気が変わっていた。

かつて“異分子”とされた存在。それが今ではこのチームの鼓動を刻んでいる。

男たちは確かにそれを感じ取っていた。

 

「……ま、俺らが勝手に気張らんでも、あの人ならやることやるやろ☆」

 

種ヶ島の緩い締めが、夜の静けさを和ませる。

鬼がぼそりと返した。

 

「ああ、だが油断するな。芯のある奴は、時に一番脆いからな」

 

沈黙が落ちる。

やがて大曲が箸を置き、立ち上がる。

 

「……さて、明日も早ぇしな。寝るか」

「おう。ちゃんと歯ぁ磨けよ、大曲」

「うるせぇ」

 

短い言葉と笑い。三人はそれぞれの方向へ歩き出す。

窓の外では、夜風が樹々の葉を静かに揺らしていた。

それは冷たかったが、不思議と心は冷えていなかった。

 

 

 

***

 

 

 

静けさが柔らかく部屋を包み込んでいた。

 

カーテンの隙間から差し込む月明かりは青白く、水のように透明だった。

その光の中に、栄華はゆっくりと腰を下ろしていた。

 

両手に触れたのは、お気に入りのアロマディフューザー。

電源を入れる前に一瞬だけ目を閉じ、深く息を吸う。

その呼吸の音すらも、部屋に吸い込まれていくようだった。

 

ラベンダーとフランキンセンスのブレンドオイル。

ほんの数滴を専用のトレイに垂らし、スイッチを入れる。

 

温かな蒸気が、じわりと立ちのぼる。

部屋の空気が少しずつ満たされ、乾いた心に染み込んでいく。

 

(……ようやく、自分の時間って感じ)

 

天井を見上げる。

白く整ったクロスの模様は、いつも通りの無機質。

けれど、今日のそれは不思議と悪くなかった。

 

U-17 W杯(アンダーセブンティーン ワールドカップ)――フランス大会。

その開幕まで、もうそう遠くはない。

 

選抜も最終段階に入り、選手たちは神経を研ぎ澄ませている。

補欠でも油断はできない。

落とされれば、もう二度と戻ってはこられないかもしれない。

 

(みんなの目、もう戦いの中にある)

 

ここで見てきた“地獄”と“再生”。

かつて自らも選手だった頃、勝ち続けることだけを価値としていたあの時代。

そして、そのすべてを失ったあとでも、こうしてこの世界に戻ってきたという事実。

 

以前は違った。

勝つためだけに生き、勝つことでしか呼吸を許されなかった。

敗北は、死と同義だった。

 

けれど今は違う。

負けても、壊れても、人は立ち上がれる。

そこに誰かの手が差し伸べられる限り。

 

ふ、と目を閉じる。

 

ラベンダーの香りがゆっくりと脳の奥に届く。

柔らかく、深く、眠りの境界を撫でてくる。

 

強さとは何か。

守るとは誰のためか。

自分がここにいる意味は、どこにあるのか。

 

答えはまだ出ない。

でも。

 

(あってもいいのかも。こんな夜が)

 

そう思えたのは初めてだった。

 

種ヶ島の無邪気な笑顔。

遠野の張り詰めた瞳。

君島の底知れなさ。

入江の舞台めいた笑み。

越知の静かな視線。

そして、鬼・大曲・平等院――

無骨で、不器用で、でもまっすぐな彼らの空気。

 

誰もがそれぞれの痛みを抱えている。

けれど、確かに同じ方向を見ている。

 

「……なんて、贅沢なチーム」

 

呟きながら肩の力を抜いた。

 

照明は落としている。スタンドライトもつけていない。

香りと呼吸。それだけで今夜は十分だった。

アロマの蒸気がゆっくりと天井に昇っていく。

 

「芯が折れない限り、人は何度でも立ち上がれる」

 

そんな言葉が、どこからか甦る。

遠い記憶の声。かつては信じられなかった言葉。

けれど今は、静かに胸の内で鳴っていた。

 

明日が来る。また、誰かと向き合う。

ぶつかっても、嫌われても、それでも歩みを止めない。

だってそれが、今の自分の選んだ道だから。

 

「……さあ、隆姫栄華。まだ、折れるな」

 

独りごとのように呟く声が月明かりに溶けた。

誰もいないその場所で、その光だけが彼女を見守っていた。

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