【新テニ】戦庭の彼方へ   作:Relics

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フランス大会編①



#5 決壊

フランスの空は青く、高かった。

視界の限りを呑み込むほどの蒼穹。

その下に佇むのは、赤土(クレーコート)の聖地――スタッド・ローラン・ギャロス。

 

コートを囲むスタンドは静まり返り、試合前の異質な緊張を孕んだまま息を潜めている。

幾多のドラマを飲み込んできたこの場所は、かつて栄華がジュニア時代に初めて世界の舞台を実感した場所でもある。

 

それでも彼女には、懐かしさに浸る余裕など一片もなかった。

 

U-17 W杯(アンダーセブンティーン ワールドカップ)フランス大会。

開幕を目前に控えたチームは、まさに怒涛の調整期間中にあった。

 

戦術会議、対策ミーティング、選手個別のコンディション確認。

さらにコーチ陣との連携、試合球のチェック、テーピングやサポート器具の最終確認――

数えきれない業務に追われながらも、栄華の目は常にある背中を追っていた。

 

その背に静かな炎を灯すような男。

平等院鳳凰。

 

代表内定者の中でも誰よりも早く現地入りし、誰よりも黙々と身体を追い込む姿。

叫ばず、焦らず、己の肉体と秘めた狂気を飼い慣らすように。

 

「……いよいよね」

 

ふと呟いた栄華の声は、誰に向けたものでもなかった。

隣でメディカルキットの補充を手伝っていたスタッフが、手を止めて顔を上げる。

 

「隆姫さん、どうかしましたか?」

「……いいえ、何でもないわ」

 

微笑を浮かべながらも、栄華の視線は遠くを見据えていた。

 

(……人って、何かを背負ってるときほど、余計なことは喋らないものよ)

 

平等院に対して、決して特別な感情があるわけではない。

けれど、気づけば目で追ってしまう。

 

背負ったものの重さを、誰にも告げずに進む者。

その姿がかつての自分と重なるから。

そしてその“熱”が、なぜか離れずに胸に残るからだった。

 

 

 

***

 

 

 

その日の昼下がり、街は穏やかな陽射しに包まれていた。

 

郊外にある一角、観光地とは異なる生活感のある石畳の街並み。

並んだアパートメントの下には、地元民に愛される小さな店があった。

 

──Boule de riz(ブール・ド・リ)

 

フランスにありながら質素で美しい“おにぎり”を提供するこの店は、選手やスタッフにとっても馴染み深い。

その店先で、小さな少女が跳ねるように笑っていた。

 

「クロエ買ってあげる!」

 

透き通るような声に、石造りの壁が陽光を弾く。

明るく天真爛漫な笑顔。

くるくると動くその瞳は、まるで陽だまりに棲む妖精のようだった。

 

少女の名はクロエ。

兄であるデュークを誰よりも信じて疑わず、彼が試合前になると決まって“おまじない”を贈るのが恒例だった。

 

「デューク兄ちゃん!今日もぜったい、ぜーったいに勝てるからね!後でおにぎりにも、おまじないしてあげる!」

「……Merci, ma petite princesse.(ありがとう、小さなお姫様)

 

デュークが微かに目を細め、クロエの頭をそっと撫でる。

 

鋼の肉体とパワーを誇るフランス代表のエース。

その豪腕は敵をねじ伏せる獣のようでありながら、妹の前ではすべての“武器”を置く。

今はただの優しい兄でいられた。

 

店先で待っていた、次の瞬間――

ドン、と鈍い音が突然空を裂いた。

 

視線の先、店舗上部の壁がわずかに傾き、石の破片が粉塵と共に落下する。

脆くなっていた屋根が崩れた。クロエの笑顔が驚きに染まる。

 

「あっ――」

 

悲鳴と同時に、瓦礫が弧を描く。

 

「クロエーーーーッ!!」

 

デュークの声が空気を引き裂く。

駆け出そうとした、その刹那。

突風のような影が彼を追い越し、瓦礫の降り注ぐ中へ飛び込んだ。

 

腕を広げ、クロエを抱くように覆いかぶさる。

鋭い破片が舗道に散り、粉塵が白い幕のように視界を奪う。

 

金髪を束ねるヘアバンド。

血を吸って赤く染まったシャツの背。

硬く結ばれた口元。

 

「ッ……!」

 

唖然と立ち尽くす群衆の中。

瓦礫の中でただ一人、男は静かだった。

崩れ落ちたかと思えば、次の瞬間に立ち上がる。

肩を押さえ、顔を上げ、誰かの声に耳を貸すこともなく歩き出した。

 

デュークが我に返ったとき、男の背はすでに雑踏の中に消えていた。

 

「……!」

 

掌には何の感触も残らない。

ただ、クロエの手元からすべり落ちた白いリボンが――

血に染まりながら風に揺れていた。

 

 

 

***

 

 

 

 

数時間後、大会会場の控室。

 

壁に掛けられた時計の針が、爪を立てるような音で進む。

試合開始まで残された時間はわずか。

それでも、彼の席だけが空白のままだった。

 

「……平等院、一体どこへ行ったの?」

 

低く漏れた栄華の声が、乾いた空気にひびを入れた。

一瞬の沈黙の後、周囲が目を交わす。

 

平等院なら、いつものように入口の影から現れる――

そんな物語めいた予感がベンチに漂っていた。

だが彼女だけは、違う匂いを嗅ぎ取っていた。

 

あの男が姿を消す時、それは些末な理由ではない。

欠場という言葉では追いつかない何かがあるはずだ。

 

栄華は、喉の奥に引っかかった言葉を押し出すように口を開いた。

 

「……探してきます」

 

言い終えると同時に栄華は駆け出していた。

会場の喧騒を背に、ユニフォームの裾を握りしめるようにして。

 

 

 

***

 

 

 

午後の陽はすでに傾きかけていた。

 

路地裏の石畳に長い影が伸びる。

乾いた空気の中。突如、粉塵の匂いが鼻を刺す。

喉の奥にざらりと触れる、さっきまで無かった気配。

 

その片隅に、男が崩れるように腰を下ろしていた。

崩れかけた通用口の石段に背を預け、肩を大きく上下させながら、何かに堪えるように歯を食いしばっている。

 

「まさか……!」

 

栄華の心臓が一気に跳ね上がる。

駆け寄った瞬間、目に飛び込んできたのは、血に染まった背中だった。

 

布地は裂け、下着ごと抉るように深い傷が走っている。

皮膚の下で脈打つたびに、傷口が生き物のようにうごめいて見えた。

言葉にせずとも、すぐに処置をしなければ手遅れになる――

その感覚だけが肌に張りついた。

 

「……聞こえる!? 平等院!!」

「っ……」

 

彼の瞼がゆっくりと持ち上がった。

 

焦点が定まらないまま遠くを見ている。

しかし、痛みに飲まれてはいなかった。

むしろ宿っていたのは、誰にも手出しを許さぬ矜持。

 

「戻って。すぐに治療するわ。これ以上は……」

「……時間がねえ」

「バカなこと言わないで!」

 

思わず語気が強まった瞬間、栄華の喉がかすかに震えた。

だが、止めることはできなかった。

 

「このまま試合に出れば、勝てるどころか……!」

「……分かってる。だが、構わねえ」

 

彼の声音には、不思議な温度があった。

ただ、覚悟の中にある静けさ。

 

「……本気なの?」

「勝つために死ぬ気は、ねえ。だが、死ぬほどの代償を払っても勝つ」

 

その一言に、栄華の胸が詰まった。

ただ勝利を求める者の覚悟。

 

応急処置用の道具は、何一つ手元にない。

あるのはハンカチと、自分の手と、男の誇りだけ。

 

「前を、向いていて」

「……ああ」

 

平等院がわずかに背を伸ばす。

 

彼女がシャツの裂け目に触れた瞬間、熱が指に伝わる。

手が微かに震えた。だが、それは空気の縁に紛れた。

布を当てて圧迫し、裂けた皮膚の周囲を一気に巻き締める。

血はなお滲むが、彼女は必要以上の言葉を挟まず、手早く結び終える。

 

「……最低限しかできないわ。あとは、あなたの気力だけ」

「上等だ」

 

平等院は脚に力を入れ、立ち上がる。

重心が揺れるたび体が前へと流れそうになる。

それでも、向く先を変えようとはしない。

 

「……行ってくる」

 

言葉より先に、歩みが揺れる。

その背へ彼女の手が静かに添えられた。

 

「……せめて支えるわ。あなたが選ぶなら、私はあなたの歩幅を守る」

 

数秒の沈黙。

やがて平等院がうなずくと、彼女の肩に体を預けた。

 

ふたりはゆっくりと歩き出す。

一切の言い訳もなく。

一切の同情もなく。

ただ勝利の先を見据える者として。

 

 

 

***

 

 

 

スタジアムに戻ると、すでに場内アナウンスが会場を震わせていた。

 

──デューク渡邊。

 

その名が響いた瞬間、観客席からは大きな歓声が上がる。

 

観る者を圧倒する重力のような存在感。

その豪快なプレースタイルから“破壊王(デストロイヤー)”の異名を持ち、国境を越えて多くのファンを魅了していた。

 

だがその彼ですら、今は裏に重たい靄を抱えていた。

誰にも見えない場所で、記憶が脳裏に浮かぶ。

 

(……あのときの男)

 

おにぎり屋での崩落事故。

クロエを庇い、何も言わずに立ち去った背中。

目に焼きついて離れなかった。

恩を返せぬままの後悔が、未だ胸に刺さっている。

 

そして今、呼び上げられたのは――

 

──平等院鳳凰。

 

会場がざわめいた。

出場登録されていながら、会場入りしていないとされた男。

誰かの声が観客席を揺らす。

 

「おい、見ろ!」

 

無数の視線が一方向へ吸い寄せられる。

コートエントランスの通路から、ゆらりと男が現れた。

ジャージの肩口は血に濡れ、ラケットを握る手に微かな震え。

それでも、その一歩は確かだった。

 

「……!」

 

ベンチにいた栄華が思わず立ち上がる。

平等院は何事もなかったかのように歩みを進め、ただ前だけを見ていた。

裂傷の痛みによろめきながらも、視線は鋼のように揺るがない。

 

(……!)

 

胸の奥で静かに何かが疼く。

彼の姿を見た瞬間、デュークは理解した。

 

この男こそが、クロエを救ってくれた人物。

誰のためでもなく、小さな命を守った“戦士”。

 

言葉では言い表せない感情がせり上がる。

 

「ア、アンタは……」

 

一瞬だけ、デュークは頭を下げた。

儀礼には届かない角度だが、そこに宿るものは明確だった。

彩りのない敬意と感謝。

 

平等院は応えない。

ただラケットを持ち直す。

 

「行くぞ」

 

その一言が、静寂を切り裂いた。

 

 

 

***

 

 

 

試合はまるで拷問だった。

 

序盤こそ、一進一退の攻防が続いた。

平等院は鋭い読みとテクニックで、デュークの圧倒的なパワーに食らいつく。

しかし次第に明らかになっていく、限界。

 

サーブのフォームが沈まず、スイングの切れが僅かに鈍る。

呼吸は浅く、目の奥には痛みの影。

 

胸が詰まる。息が出ない。

見てはいけない。

なのに、目が離せなかった。

 

(……限界を、超えてる)

 

血が落ちた音。

それでも平等院は打ち返す。

 

痛みに顔を歪めながら、無理を通すようにボールを打ち返す。

ラリーを繋げるたびに、赤が滲む。

技術も体力も、誤魔化せないほど削られているのに。

 

その姿をデュークは見ていた。

 

(なぜだ……なぜ、そこまで……)

 

敵である自分に勝とうとしているだけではない。

あの男は何かのために闘っている。

誰に強いられたわけでも、何かを証明しようとするわけでもない。

ただ背負った責任の重さを、ひとりで受け止めようとしている。

 

──自分が庇った“命”の代償に、何も語らず血を流す男。

 

デュークの視界がわずかに滲む。

 

「……っ」

 

試合中に涙など、ありえなかった。

だが、それは感傷ではなかった。

“戦士”の姿を前にして、心が震えた。

 

(アンタの想いを、無下にはできない)

 

だからこそ全力で打つ。

 

スマッシュが雷鳴のように炸裂する。

それでも、平等院は受け止める。

 

倒れそうになりながら、それでもラケットを振る。

デュークの胸に言いようのない痛みが走る。

 

やがて、何度目かの衝撃で平等院は膝をついた。

返したボールはネットに阻まれ、無残に落ちていく。

 

『ゲームセット! ウォンバイ、デューク渡邊!

2-3により、日本はグループリーグ敗退が決まりました』

 

無慈悲なコールが場内に響く。

 

確かにそれは“勝利”だった。

だがデュークの中には何も残らなかった。

涙だけが、頬を伝った。

 

ベンチへ向かう途中、彼は一度だけ立ち止まり、俯いたままの平等院に視線を向けた。

 

「……Merci, mon frère.(ありがとう、俺の戦士よ)

 

誰にも届かないような小声で。

それでも、届いてほしいと願いながら。

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