【新テニ】戦庭の彼方へ 作:Relics
試合が終わった後も、心のざわめきは消えなかった。
罵声、落胆、怒り──
戦犯という烙印が平等院の背に突き立てられる。
その中心で彼は短く息を整え、ただ一言だけ落とした。
「全責任は俺が取る」
その声は驚くほど静かだった。
背を向けた男の姿を、栄華はただ見つめていた。
呼び止めはしなかった。
抱えている痛みに触れようともしなかった。
だがこの沈黙こそが彼を孤独から遠ざける唯一の温度だったと──
本人はまだ気づいていない。
***
ホテルの廊下はひどく静かだった。
白い灯りに照らされた絨毯の上を、重たい足音だけが響く。
身体のあちこちに残る痛みは、空気に触れるたび鋭さを増す。
背の奥ではまだ熱が鈍く脈打っていた。
だが、それよりも。
胸の奥でひとつの空洞が膨らんでいた。
(……負けた)
力を尽くした、という言い訳は喉元で砕けた。
そもそも届かせるための身体すら整えられなかった。
その事実は、身体の痛みよりもはるかに重い。
怪我はいずれ治る。
だが、この空洞は――
部屋のドアに手をかけようとした、その時。
背後に、ふっと気配が差し込む。
「……ああ」
振り向かずとも誰なのか分かった。
向こう側に一人佇む影。
隆姫栄華。
両手に載せた小さなトレイには、包帯と軟膏が揃えられていた。
「……どうしても手当をさせてほしい、とは言わないわ。
怪我の理由も、話さなくていい。……でも」
一歩、足音が近づく。
「今は、ここにいさせて」
その声は、驚くほど真っ直ぐだった。
言葉を尽くすのではなく、ただ傍にいるという意思。
慰めも、同情の匂いもない。職務めいた距離感とも違う。
まるで“そこにいる”という行為そのものを差し出すかのような気配。
ドアを開ける音が小さく軋む。
言葉は置き去りのまま部屋に入り、ベッドの端に腰を落とす。
ジャージの背を下ろすと、空気がひやりと触れる。
露出した皮膚の上を痛みが低く鳴いた。
振り向かずとも、背後で息の深さが変わるのがわかる。
彼女がそっと近づいてくる。
照明は落とされ、スタンドライトが狭い範囲だけを照らしていた。
その薄明りの中、彼女の指がそっと背に触れる。
布をめくると、滲む血と裂けた皮膚。
熱が生き物のように脈打つ。
「……まだ出血してる」
呟いた声はかすかに震えていた。
だが、その手は確かだった。
傷口を洗われるたび、熱が薄く散っていく感覚があった。
軟膏が触れると、鈍い疼きが皮膚の裏側に潜り込む。
包帯が巻かれていく動きは、機械的な正確さではなく、壊れ物の位置を確かめながら触れるような、慎重なリズムだった。
必要な処置をしているだけなのに、妙に胸の奥が静かになっていく。
どこまでが自分の痛みで、どこからが彼女の体温なのか、分からなかった。
触れられているのに、同時に触れている気さえした。
応急手当、と言えばそれまでだ。
だがこの沈黙に流れるものは、それとは別の何かだった。
互いに深部を見せることを、声ではなく時間で許しているような感覚。
背に触れる彼女の気配から、俺は初めて本当の静けさを掴んだ気がした。
自分を見失えば沈むような日々の中で、それでも折れない人間の静けさ。
自分の影に引きずられながら、それでも誰かを遠ざけない人間の稀有さ。
気づけば、問いがこぼれていた。
「……おい、」
「どうしたの?」
「……お前の“
包帯を巻く手が、一瞬だけ止まった。
だが、静かに答えが返る。
「信じてくれるなら、話すわ。……でも、信じられないなら、それでも構わない」
押しつけがましさのない返答。
俺は目を閉じた。
「……なら、今は話さなくていい」
その言葉が自分の声帯を通ったとき、なぜか呼吸が軽くなった。
視線は交わらなかった。
やがて彼女が包帯の端を結び終える。
「終わったわ。もう、無理はしないで」
「……とっくに越えてる」
吐き出したそれは、愚痴でも敗者の独白でもない。
今日の試合は誰のためでもなかった。
俺自身が選んで踏み込んだだけだ。
それでも今、誰かの手で引き上げられたような感覚があった。
この夜、ひとつだけ確信したことがある。
彼女の目には、俺が敵でも味方でも、英雄でもなく――
ただのひとりの人間として映っているのだと。
そう見られるのは不慣れで、扱い方も知らない。
だが、背中の包帯よりも心のどこかに残った小さな熱の方が、今は離れなかった。
***
翌朝、空には薄い靄がかかっていた。
陽はもう昇っているはずなのに、街路の上を白い光が漂っている。
昨日までの青さはそこになく、まるで昨夜の余韻を世界がそのまま抱えているような――そんな朝だった。
ホテルのロビーは静かだった。
チームの数人がすでに食事に向かった後なのか、テーブルの間には人影がまばらに見える。
焼きたてのパンとコーヒーの香りが漂い、ゆるやかに空間を温めている。
私は隅の席に腰を落ち着け、開いたままのファイルを前に置いていた。
紅茶は冷めかけ、湯気が名残のように揺れている。
ページの文字は視界に入るが、なぜか脳には届かない。
窓の向こうの方がよほどよく見えた。
庭の奥で水やりをするホテルスタッフの姿。
花壇の周囲を歩く野良猫。
風も音もないのに、何かが動いている朝。
(……今日も、始まる)
自分に言い聞かせるように、心の中で呟く。
そのとき。
ふと、視線の端に動く影があった。
廊下からロビーに入ってきた平等院。
背筋は変わらず伸びているのに、歩調が少しだけ沈んで見えた。
いつものジャージに、濃い影を落とした瞳。
動作のひとつひとつが、昨日よりも明らかに鈍い。
呼び止めない。目を向けもしない。
だが、彼がこちらに気づいたことだけは分かった。
一瞬。ほんの一瞬、足が止まる。
そして何も言わずに、そのまま通り過ぎていく。
私たちの間には、何もなかった。
昨夜、交わされた沈黙も。
交わされなかった言葉たちも。
何一つ、朝の会話に変換されることはない。
不思議とそれでよかった。
それでいて、何かは確かに残っていた。
ただ、そばに漂うもの。
触れれば崩れてしまう何かを守るために、互いが少しだけ引いた場所。
近づきすぎないけれど、寄り添う距離。
「……おはよう、平等院」
去り際にほんのわずかだけ。
視線を向けず、背に届くくらいの声で言った。
返事はなかった。
だが数歩先で、足音がわずかに緩んだ。
それだけで十分だった。
***
午前中の練習メニューは軽いランと戦術確認。
グループ敗退の報に、メディアや外部は騒がしかったが、
内部には静かに修復と再始動の気配が流れていた。
新しい一日が、少しずつ、確かに始まっていく。
喪失と痛みを抱えながらも、誰も立ち止まらない。
平等院は誰よりも早くコートに出た。
いつも通りの無言。
けれど、フォームの一つひとつが昨日と違う。
一歩の歩幅。ラケットを持つ指の力。
小さな違和感さえも、彼の中で塗り替わっている。
私は遠くから、それを見ていた。
黙って、言葉もなく。
彼が一歩ずつ自分の軌道を取り戻していくのを。
それが答えなのだと分かっていた。
彼は自分を誰にも見せない。
見せずに闘い続ける。
それでも、決して孤独には沈むことはない。
そんな男だった。
だからこそ何も言わなかった。
今日もまた、ただの「隣人」でいることを選んだ。