【新テニ】戦庭の彼方へ   作:Relics

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フランス大会編②


#6 深温

試合が終わった後も、心のざわめきは消えなかった。

 

罵声、落胆、怒り──

戦犯という烙印が平等院の背に突き立てられる。

その中心で彼は短く息を整え、ただ一言だけ落とした。

 

「全責任は俺が取る」

 

その声は驚くほど静かだった。

 

背を向けた男の姿を、栄華はただ見つめていた。

呼び止めはしなかった。

抱えている痛みに触れようともしなかった。

 

だがこの沈黙こそが彼を孤独から遠ざける唯一の温度だったと──

本人はまだ気づいていない。

 

 

 

***

 

 

 

ホテルの廊下はひどく静かだった。

 

白い灯りに照らされた絨毯の上を、重たい足音だけが響く。

身体のあちこちに残る痛みは、空気に触れるたび鋭さを増す。

背の奥ではまだ熱が鈍く脈打っていた。

 

だが、それよりも。

胸の奥でひとつの空洞が膨らんでいた。

 

(……負けた)

 

力を尽くした、という言い訳は喉元で砕けた。

そもそも届かせるための身体すら整えられなかった。

その事実は、身体の痛みよりもはるかに重い。

 

怪我はいずれ治る。

だが、この空洞は――

 

部屋のドアに手をかけようとした、その時。

背後に、ふっと気配が差し込む。

 

「……ああ」

 

振り向かずとも誰なのか分かった。

 

向こう側に一人佇む影。

隆姫栄華。

両手に載せた小さなトレイには、包帯と軟膏が揃えられていた。

 

「……どうしても手当をさせてほしい、とは言わないわ。

怪我の理由も、話さなくていい。……でも」

 

一歩、足音が近づく。

 

「今は、ここにいさせて」

 

その声は、驚くほど真っ直ぐだった。

 

言葉を尽くすのではなく、ただ傍にいるという意思。

慰めも、同情の匂いもない。職務めいた距離感とも違う。

まるで“そこにいる”という行為そのものを差し出すかのような気配。

 

ドアを開ける音が小さく軋む。

言葉は置き去りのまま部屋に入り、ベッドの端に腰を落とす。

 

ジャージの背を下ろすと、空気がひやりと触れる。

露出した皮膚の上を痛みが低く鳴いた。

振り向かずとも、背後で息の深さが変わるのがわかる。

彼女がそっと近づいてくる。

 

照明は落とされ、スタンドライトが狭い範囲だけを照らしていた。

その薄明りの中、彼女の指がそっと背に触れる。

 

布をめくると、滲む血と裂けた皮膚。

熱が生き物のように脈打つ。

 

「……まだ出血してる」

 

呟いた声はかすかに震えていた。

だが、その手は確かだった。

 

傷口を洗われるたび、熱が薄く散っていく感覚があった。

軟膏が触れると、鈍い疼きが皮膚の裏側に潜り込む。

包帯が巻かれていく動きは、機械的な正確さではなく、壊れ物の位置を確かめながら触れるような、慎重なリズムだった。

必要な処置をしているだけなのに、妙に胸の奥が静かになっていく。

 

どこまでが自分の痛みで、どこからが彼女の体温なのか、分からなかった。

触れられているのに、同時に触れている気さえした。

 

応急手当、と言えばそれまでだ。

だがこの沈黙に流れるものは、それとは別の何かだった。

互いに深部を見せることを、声ではなく時間で許しているような感覚。

 

背に触れる彼女の気配から、俺は初めて本当の静けさを掴んだ気がした。

 

自分を見失えば沈むような日々の中で、それでも折れない人間の静けさ。

自分の影に引きずられながら、それでも誰かを遠ざけない人間の稀有さ。

 

気づけば、問いがこぼれていた。

 

「……おい、」

「どうしたの?」

「……お前の“災禍(かこ)”は、どこまで本当なんだ?」

 

包帯を巻く手が、一瞬だけ止まった。

だが、静かに答えが返る。

 

「信じてくれるなら、話すわ。……でも、信じられないなら、それでも構わない」

 

押しつけがましさのない返答。

俺は目を閉じた。

 

「……なら、今は話さなくていい」

 

その言葉が自分の声帯を通ったとき、なぜか呼吸が軽くなった。

視線は交わらなかった。

 

やがて彼女が包帯の端を結び終える。

 

「終わったわ。もう、無理はしないで」

「……とっくに越えてる」

 

吐き出したそれは、愚痴でも敗者の独白でもない。

 

今日の試合は誰のためでもなかった。

俺自身が選んで踏み込んだだけだ。

それでも今、誰かの手で引き上げられたような感覚があった。

 

この夜、ひとつだけ確信したことがある。

彼女の目には、俺が敵でも味方でも、英雄でもなく――

ただのひとりの人間として映っているのだと。

 

そう見られるのは不慣れで、扱い方も知らない。

だが、背中の包帯よりも心のどこかに残った小さな熱の方が、今は離れなかった。

 

 

 

***

 

 

 

翌朝、空には薄い靄がかかっていた。

 

陽はもう昇っているはずなのに、街路の上を白い光が漂っている。

昨日までの青さはそこになく、まるで昨夜の余韻を世界がそのまま抱えているような――そんな朝だった。

 

ホテルのロビーは静かだった。

チームの数人がすでに食事に向かった後なのか、テーブルの間には人影がまばらに見える。

焼きたてのパンとコーヒーの香りが漂い、ゆるやかに空間を温めている。

 

私は隅の席に腰を落ち着け、開いたままのファイルを前に置いていた。

紅茶は冷めかけ、湯気が名残のように揺れている。

ページの文字は視界に入るが、なぜか脳には届かない。

窓の向こうの方がよほどよく見えた。

 

庭の奥で水やりをするホテルスタッフの姿。

花壇の周囲を歩く野良猫。

風も音もないのに、何かが動いている朝。

 

(……今日も、始まる)

 

自分に言い聞かせるように、心の中で呟く。

 

そのとき。

ふと、視線の端に動く影があった。

 

廊下からロビーに入ってきた平等院。

背筋は変わらず伸びているのに、歩調が少しだけ沈んで見えた。

いつものジャージに、濃い影を落とした瞳。

動作のひとつひとつが、昨日よりも明らかに鈍い。

 

呼び止めない。目を向けもしない。

だが、彼がこちらに気づいたことだけは分かった。

 

一瞬。ほんの一瞬、足が止まる。

そして何も言わずに、そのまま通り過ぎていく。

 

私たちの間には、何もなかった。

昨夜、交わされた沈黙も。

交わされなかった言葉たちも。

何一つ、朝の会話に変換されることはない。

 

不思議とそれでよかった。

それでいて、何かは確かに残っていた。

 

ただ、そばに漂うもの。

触れれば崩れてしまう何かを守るために、互いが少しだけ引いた場所。

近づきすぎないけれど、寄り添う距離。

 

「……おはよう、平等院」

 

去り際にほんのわずかだけ。

視線を向けず、背に届くくらいの声で言った。

 

返事はなかった。

 

だが数歩先で、足音がわずかに緩んだ。

それだけで十分だった。

 

 

 

***

 

 

 

午前中の練習メニューは軽いランと戦術確認。

 

グループ敗退の報に、メディアや外部は騒がしかったが、

内部には静かに修復と再始動の気配が流れていた。

 

新しい一日が、少しずつ、確かに始まっていく。

喪失と痛みを抱えながらも、誰も立ち止まらない。

 

平等院は誰よりも早くコートに出た。

いつも通りの無言。

けれど、フォームの一つひとつが昨日と違う。

 

一歩の歩幅。ラケットを持つ指の力。

小さな違和感さえも、彼の中で塗り替わっている。

私は遠くから、それを見ていた。

 

黙って、言葉もなく。

彼が一歩ずつ自分の軌道を取り戻していくのを。

それが答えなのだと分かっていた。

 

彼は自分を誰にも見せない。

見せずに闘い続ける。

それでも、決して孤独には沈むことはない。

 

そんな男だった。

 

だからこそ何も言わなかった。

今日もまた、ただの「隣人」でいることを選んだ。

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