【新テニ】戦庭の彼方へ   作:Relics

8 / 10
デューク加入編


#7 礎

午後の練習が終わった。

選手たちが濡れたシャツのまま、少し疲れた足取りでそれぞれの部屋へと散っていく。

コートに響いていた打球音と掛け声が消えたあとには、汗と土と微かに草の匂いが残っていた。

 

そんな空気を、ふとした気配が切り裂いた。

 

「なんか、デカいの入ってきたぞ」

「え……あれって、まさか……」

 

数人の選手が足を止め、ざわつく声がロビーに走る。

 

エントランスのドアが開いた瞬間、まるで風景の一部が揺らいだように、異質な存在が静かに姿を現した。

その男は喧騒をものともせず、ただゆっくりと歩いてくる。

 

デューク渡邊。

 

かつて“破壊王(デストロイヤー)”と恐れられたフランス代表の怪物。

その名の通り、彼の持つパワーは時にラケットごと相手を打ち砕くとすら言われる。

 

しかし今、彼の表情はどこか柔らかい。

そしてどこか“帰るべき場所”に辿り着いたような安堵が宿っていた。

 

その姿を見た者たちが次々に声を潜める中、

奥の通路から影が一つ、音もなく現れた。

 

「……よぉ、デューク」

 

ラケットを肩に担いだまま、平等院が歩み寄る。

笑みはない。

だが、その目だけが静かに綻んでいた。

 

「ビョードーイン。来たぞ」

 

応える声もまた、深くまっすぐだった。

ロビーの空気が一瞬張り詰める。

言葉少なに交わされたそれだけのやり取りに、傍にいた者たちは何も言えなかった。

 

試合で打ち合い、なお残るもの。

互いの拳で語り合った者にしか交わせない沈黙。

 

その様子を見ていた栄華は、柱の陰からそっと足音を忍ばせる。

懐かしさよりも、確信を込めた視線でその大きな背中を見つめた。

 

「随分、立派になったじゃない」

 

不意にかけられた声に、デュークの肩がぴくりと動いた。

 

「……エイカ、さん……?」

 

驚きが滲んだ声に、栄華は唇をゆるめた。

 

「……久しぶりだな。元気だったか?」

「まあね。何とかやってたわよ。あなたは?」

「フランスにいた頃とは、いろいろ変わったが……今は、ここに来られてよかったと思ってる」

 

言葉を交わすごとに、デュークの表情が少しずつほどけていく。

 

「日本代表、移籍したのね。歓迎するわ」

「ああ。少しでもビョードーインの力になりたかった。それに――」

 

言い淀み、彼の視線が落ちた。

 

「クロエのことね……本当に、無事でよかった」

「……ありがとな。クロエも、アンタの話よくしてる」

 

デュークは深く頭を下げた。

背幅の大きさに似合わないほど、その所作は静かで丁寧だった。

 

「……にしても、あの子、あの掛け声を覚えたって聞いたわよ?」

「“プレイボール”だろ? 学校で飼ってるニワトリ相手に叫んでるらしい。言ったら走ってくるってな」

「ふふっ、あの子らしいわ」

 

二人の間に笑いが弾け、その声が周囲の緊張をほどいていく。

平等院が横目で二人を見やり、一瞬だけ目を細めた。

 

「ところで、本当にマネージャーになったんだな」

「意外だった?」

「いや……むしろ、アンタらしいと思った」

 

短い間が落ち、デュークの瞳がふっと揺れた。

 

「俺は、アンタがまたこの世界に戻ってくるんじゃないかって、ずっとどこかで信じてた」

「……そう」

「だけど今は……あの頃より、ずっと強く見える」

 

静かに、だが確かに届けられたその言葉。

栄華はほんの一瞬だけ目を伏せ、笑みを浮かべた。

 

「ありがとう。でも、強く見えるのと、本当に強いのは別よ?」

「それでも戻ってきてくれただけで、俺は十分だと思ってる」

 

遠巻きに聞いていた平等院の目が二人を捉え、わずかに和らいだ色を帯びた。

まるでデュークという男の言葉にならない敬意に、自分の中の何かを照らし合わせるように。

 

異なる道を歩んできた者たちが、今、同じ場所で交わりはじめる。

 

「デューク、これからまたよろしくね」

「もちろんだ。ビョードーインも、アンタも――全力で支える」

 

 

 

***

 

 

 

合宿所のミーティングルーム。

抑えられた照明の下、壁に張り出された戦術ボードには、各国代表の戦型分析と想定布陣がぎっしりと書き込まれている。

その前に立つのは――栄華、平等院、そしてデューク。

三人だけの密やかな作戦会議だった。

 

すでにスタッフも退き、他の選手たちは食堂や自室へと散っている。

外の廊下から漏れる笑い声やシャワーの音が、この部屋の緊張をかえって際立たせていた。

 

「……主戦力の調整に加えて、シングルス3の選出が難航してる。身体への負荷を考慮して、戦法の再編も視野に入れる必要があるわ」

 

栄華がボードに伸ばした指先で布陣をなぞる。

ペンが描く線よりも先に、思考が盤面を渡っていく。

彼女にとってこの会議は選手を守る責務であり、同時に勝利を掴むための一歩でもあった。

 

「前衛の消耗が早い布陣が続いているな……シングルスの“二枚看板”に対して、カウンター手段がほぼ一点読みだ」

 

平等院の声が静けさを切り裂く。

言葉の端には、かつて自らの身体を削った試合の記憶が滲んでいた。

 

デュークはその響きに一瞬、瞼を伏せる。

彼にとってもまた、勝利と引き換えにした代償の記憶は鮮明だった。

だが栄華は彼の沈黙を拾わず、あえて淡々と続けた。

 

「私の案では、次の仮想布陣にデュークを前提に組み込んでいるわ。あなたのフィジカルとラリー耐性、それと──」

「“静の攻め”だな」

 

デュークが言葉を継ぐ。

 

「破壊的なパワーの裏で、繊細な技を織り交ぜる。……アンタは昔からそこを見抜いてくれていた」

「もちろん覚えてるわ。誰よりも力強いのに、誰よりも優しいショットを打つ人だったから」

「ははっ、嬉しいな。じゃあ、俺の枠は正式に日本の勝ち筋に貢献できるってことでいいのか?」

「まだ“仮”よ。でも、私はあなたを信じてる」

 

栄華の言葉に、デュークの笑みが深まる。

そのやり取りを前に、平等院は黙してボードを見つめ続けていた。

 

やがて、一歩前に出る。

靴底が床を擦る音がやけに響いた。

 

「デューク」

「なんだ、ビョードーイン」

「……あの時のことは、たまたまだ。礼はいらねぇ」

 

平等院の声は冷たく聞こえた。

 

「それでも……俺の心は動いた」

 

デュークは真っ直ぐに言葉を返す。

 

「ならば試合で見せろ。過去の借りで動く奴は、いつか足を取られる」

「借りを返すために来たわけじゃない。……アンタと戦いたいと思った。アンタのそばで、“勝ちたい”と思った」

 

その言葉を受け、平等院は短く息を吐いた。

 

「……なら何も言わねぇ。俺は俺のやり方で、お前の信念を試す。それだけだ」

「望むところだ」

 

部屋を包む沈黙は、確かな約束の重みだった。

語らずして理解する者同士の間に落ちる、無言の握手のような間。

 

この空間では、誰も“過去”を口にしない。

沈黙の中で過去を超えて歩もうとする彼らを見て、栄華は視線を落とした。

そっと吐いた息がいつもより温かいことに気づいた。

 

「……じゃあ、今日はこのくらいで。あとは資料にまとめて黒部コーチに報告しておくから」

「助かるよ」

「俺も明日の調整に戻る」

 

平等院が背を向け、ドアノブに手をかける。

そのとき、不意にデュークが呼び止めた。

 

「ビョードーイン。……無理はしてないか?」

 

平等院はしばし足を止めたまま、振り返らない。

わずかに沈黙があったのち、低く答えた。

 

「……今くらいがちょうどいい」

 

ただ己自身に、確かめるように放った言葉だった。

そして、廊下の闇に消えていく背をデュークはしばらく見送っていた。

 

「やっぱり、あの人は“戦士”だな」

 

デュークの呟きに、栄華は横顔を見やる。

 

「そうね。戦い方は違っても、あの人が信じるのはいつも前だもの」

「だからこそ、俺はここに来たのかもしれない」

 

その言葉に、栄華はわずかに微笑んだ。

同じボードを見つめながら、小さく囁く。

 

「同じ場所で違う過去を背負うのは、簡単なことじゃない。

……でも、違う場所で生きてきた者たちが、同じ未来を目指すことは――きっとできるはずよ」

 

二人の視線の先、戦術ボードに描かれたラインはまだ未完成で、仮の勝ち筋にすぎない。

だが、そこに刻まれた矢印は誰か一人のためのものではなかった。

 

これからチームで描く未来の線。

まだ名もないその軌跡こそが、足もとを確かにしていた。

 

 

 

***

 

 

 

夜は静かだった。

 

代表合宿所の一角。

日中の喧騒が消えた廊下を歩きながら、栄華は手にした一通の便りを見つめていた。

封筒の裏に躍るのは、少女らしい丸い文字。

 

『From Chloé』

 

クロエ渡邊。

 

かつて海外滞在中、空き時間でよく一緒に遊んだ、デュークの妹。

光を纏ったような笑顔を思い浮かべると、自然と口元がほころぶ。

手紙の中は彼女らしい飾らない言葉で満ちていた。

 

デューク兄ちゃんが、ニホンのチームに行くって聞いたとき、

びっくりしたけど、なんだかうれしかったよ!

エイカもビョードーインもいるなんてびっくり!

ふたりともすごいって、兄ちゃんが言ってた!

いまでも毎日、“おまじない”してるよ。

みんなが楽しくテニスできますように、ってね!

 

(……変わってないな、本当に)

 

小さく息を吐いて笑い、封筒をそっと胸ポケットにしまったその時。

 

「……ちょっといいか」

 

背後から低い声。

振り返ると、控室の扉から顔を覗かせたのはデュークだった。

手には湯気の立つティーカップが二つ。

 

「紅茶、差し入れだ。フランスから持ってきたやつでさ。よかったら、一緒にどうだ?」

「嬉しいわ。随分と洒落てるのね」

「たまには落ち着く時間もないと、身も心ももたないからな」

 

デュークはそう言ってテーブルにカップを置く。

スタンドライトの淡い光が机を照らし、ふわりと香ばしい茶葉の香りが漂った。

忙しない日々の中で、この瞬間だけが切り取られたように感じられる。

 

「クロエからの手紙、読ませてもらったわ。あなたのこと、すごく誇りに思ってるみたい」

「そうか……あの子の前じゃ、どうしても兄貴面しちまうな」

「いいことじゃない。家族なんだから」

 

デュークは目を伏せ、小さく頷いた。

 

しばらく二人は言葉を交わさず、ただ紅茶を口にする。

その香りはどこか懐かしく、優しかった。

 

「……平等院のことだけど、」

 

栄華が静かに切り出す。

 

「あの怪我について、あなたから何か聞くつもりはない。彼自身が語らない限り、私も聞かないわ」

「……アンタらしいな、そういうとこ」

 

デュークの口元にかすかな影が走る。

だがすぐに、それを拭うように表情が締まった。

 

「それでも、俺は感謝してる。命を救われた、なんて大袈裟に言うつもりはないが……

ただ、あの時クロエを選んでくれたこと。その選択に、敬意と感謝を」

「……彼はそんなふうに思われるのも、きっと望んでいないと思う」

「分かってる。だから返すとかじゃない。“一緒に戦う”んだ」

 

その言葉に、栄華はそっと目を細める。

 

「……同じ道を選んだ、ということね」

「ああ。過去じゃなくて、これからの信頼に身を置くって決めた。

それが俺の、そしてアンタの“居場所”だ」

 

時計の針がコチ、と鳴る。

静かな部屋の空気に、その音が不思議と大きく響いた。

やがて栄華が立ち上がる。

 

「……そろそろ戻るわ。明日も早いから」

「ああ、気をつけて」

「ありがとう、デューク。久しぶりにこうして話せて、嬉しかった」

 

控室を出て栄華は廊下を歩き出す。

その背に、デュークがそっと呟いた。

 

「――またいつか、アンタのテニスを見せてくれる日を……俺は信じてる」

 

その言葉に返事はなかった。

けれど、背を向けたままの彼女の手が、一瞬だけ胸元のクロエの手紙を押さえた。

 

小さく、やさしく。

まるで未来の鼓動を確かめるように。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。