【新テニ】戦庭の彼方へ 作:Relics
※捏造しかない
重く、粘つく。
風のない熱帯の空気が、肌にまとわりつくようだった。
ここはインドネシア・モルッカ諸島北部。原生林が生い茂る地。
視界のすべてが緑に覆われ、うねるような樹々の合間を縫うように、三人の影が進んでいく。
「……ほんとにここから始めるの?」
栄華が思わず口をついて出した言葉に、デュークが後ろから応じる。
「まさか陸路すらままならないルートを選ぶとはな」
先頭を行く平等院は、一言も返さなかった。
その背中は迷いなく、密林の奥へと分け入っていく。
栄華は、足を止めてそっと息を吐いた。
空気だけではない。音も違う。
鳥の声や虫の羽音、どこかから響く獣の気配。
その全てが、日常からかけ離れた異空間を作り出していた。
彼女はほんの一瞬、数日前の記憶へと意識を沈めた。
***
【――数日前 早朝 合宿所】
夜と朝の境目がまだ薄く残っていた。
コートに足を踏み入れると、靄が地を這うように揺れる。
(……静かすぎる)
栄華が予定よりも早く来てしまったことを、少しだけ悔やみかけたその瞬間――
耳を打つ音が空気を裂いた。
ひどく鋭い打球音。
それは規則性を持たず、ひとつひとつが空気を叩き潰すようだった。
視線を向けると壁打ちに没頭する平等院の姿があった。
髪の先から滴る汗が、首筋を伝い落ちていく。
ただ打つ。
まるで自分自身を壁にぶつけるかのように。
ラケットが振り抜かれるたび、靄の粒が震え、光を散らした。
美しい光景のはずなのに、その眼差しには温度がなかった。
――空洞。
迷いはない。だが、どこか危うい。
栄華の胸に言葉にならない不安が刺さる。
(……立ち止まってはいない。けど、進む先を知らないまま、ただ走っている)
知らず、手が胸元のビデオカメラに伸びていた。
録画ボタンを押す。
目の前の男の異変を記録するためではない。
この男が、いま何を失いかけているのかを。
そして、自分がそれにどう向き合うべきなのかを確かめるために。
***
【――同日 午後 合宿所・モニタールーム】
黒部は無言のまま映像を見つめていた。
無機質なスクリーンに映し出されるのは、数時間前の早朝。
ひとり黙々と壁打ちを続ける平等院の姿だった。
ユニフォームは汗で肌に貼り付き、息づかいすら映像越しに荒々しく響く。
壁に叩きつけられるボールは、破壊的でどこか不穏なリズムを刻んでいた。
背後の扉が静かに開き、酒気を纏ったような風とともに三船が現れる。
瓢箪を開ける音が、かすかな間を切り裂いた。
「……また、朝から鬼の形相じゃな」
「ええ」
黒部は画面から目を逸らさず、次のカットに映る栄華のレポート画面に切り替える。
「隆姫くんが残したレポートとコンディションデータを照らし合わせた結果、負荷の蓄積は予測以上でした」
「見てりゃ分かる」
三船は椅子に腰を落とし、瓢箪を傾ける。
その横顔は笑っているようで、底に険しさを宿していた。
「で、……“逃がす”ってわけか?」
「逃がすというよりは、
黒部は一枚のレポートを机に置き、はっきり告げた。
「平等院くん、デュークくん、そして隆姫くんを三人同時に“外”へ出す。現場主導での個別強化プログラムです」
「ほう」
三船の口角がわずかに上がる。
「ヤツの心を折るほどの強敵との闘い……精神レベルが自在に操れるようになった今、ワシもそろそろ頃合いだとは思っていた」
「ええ」
「アイツは野良犬のような男だ。繋いでおけば暴れるし、放せば突っ走る。――“好きに暴れさせて、あとは拾ってやる”方が性に合ってるのは、確かだな」
沈黙が落ちる。
映像の中、平等院が再びボールを叩きつける音が、まるで心臓の鼓動のように響いた。
「彼の進化の鍵は、己の衝動に正直になれる環境です。その傍らに、制御や分析ができる二人がいる。今しかありません」
「……いいだろう」
三船は立ち上がり、ドアへ歩みながら一度だけ振り返る。
「武者修行、の名目で出してやれ。ルートは自由にさせろ。ただし――」
一拍の間。
「帰ってきたとき、“別物”になってなきゃ意味はねぇぞ」
***
【――同日 夜 合宿所・ミーティングルーム】
窓の外では虫の声が響き、遠くで風がネットを鳴らす音がする。
だが、この部屋だけは別世界のように静まり返っていた。
抑えられた照明の下、三人の影が並ぶ。
平等院、デューク、そして栄華。
正面の壁には、青白い光で戦術データが投影されていた。
その光を背にして立つ黒部は、静かに口を開いた。
「あなたたち三人に、外部遠征を命じます。名目は“個別強化”。ですが実質は、次期選抜チームの中核として、“勝ち筋”を再定義してくるためのものです」
落ち着いた声が部屋に響き、空気を一段と張りつめさせた。
「場所の指定はありません。テーマは次の三つ」
二つ、テニスプレイヤーとして限界を越えること。
三つ、チームとしての連携を完成させること。
「……以上を同時に満たさなければ、“世界”には決して届かない」
静寂の中、平等院の目が細められる。
その奥に宿る冷たい光を、栄華は見逃さなかった。
――言葉にされぬまま心に刻まれた、あの敗北。
誰にも頼らず、己だけで抱えてきた痛み。
黒部はそれを承知の上で、あえて拾わない。
ただ、前だけを示す。
「この遠征では、隆姫くんが戦術支援と観察役を兼任します。ただの帯同者ではなく、“共に闘う者”として行動してください」
「承知しました」
栄華の返答は短かったが、その声音に揺るぎはなかった。
「上等だ……どこだろうと構わねえ。必要なのは“勝てる何か”だ」
「ビョードーインとなら、どこへでも行けるさ」
平等院が低く呟く。
その横で、デュークはゆったりと笑った。
「それに……アンタも一緒なら、行く価値はある」
「……勝手にまとめないでよ。私はデータと報告を持ち帰る係」
「それが
冗談めかしたやり取りに、ひととき張りつめた空気が和らぐ。
だが三人とも、心の奥に燃える決意は隠していなかった。
「道中の判断はお任せします。我々からの指示や通信はありません」
黒部の言葉に、三船が付け加える。
「好きに暴れてこい!以上じゃ!」
それは命令であると同時に、
選ばれし者にしか許されない、“逸脱”の許可。
そして――
そのとき、平等院の背中にはすでに、
ジャングルの風が吹き始めていた。
***
【現在 インドネシア・密林】
「……この先、湿地帯を越えて高地まで出れば、初日の鍛錬エリアになるはずよ」
地図と座標を確認しながら栄華が言う。
だが平等院は一瞥もくれず、ぬかるんだ道へ足を進める。
「ショートカットだ。正面を突っ切れば、半日短縮できる」
「ちょっと待って。そっちは地図に詳細がないの。……最悪、足を取られるわ」
「なら泳げばいいだけの話だ」
「何かあったらスイスに辿り着けないわよ!?」
栄華の声に、わずかな熱が宿る。
だが、平等院は振り返りもせず言った。
「止めるなら力ずくで止めてみろ」
その背に、数秒の沈黙が流れる。
デュークは二人の間に視線を置きながら、静かに言った。
「……俺はどっちにもつかない。けど、どっちの言い分も、間違っちゃいない」
「ッ……はぁ、もう……」
小さく吐息をつき、再び歩き出す。
その瞬間だった。
ブン――――
突如、羽音が唸るように響いてくる。
「あれは……?」
平等院がぴたりと足を止めた。
視線の先。
葉陰から、巨大な羽音とともに現れたのは――
黒く光る甲殻。
人の親指ほどの大きさもある、異様な存在。
世界最大の蜂、“ウォレスズ・ジャイアント・ビー”
「なんだコイツ……!」
重低音の羽音。
羽ばたきが起こす風が、樹々の葉を逆なでする。
次の瞬間。
数体の個体が、三人に向かって襲いかかってきた。
翼の振動が空気を震わせ、唸るように鼓膜を叩く。
全長6センチを超えるその巨躯が、槍のように一直線に突き進んでくる。
「――ッ、伏せろ!」
三人の身体が地面へ滑る。
すぐ頭上を、一体のウォレスズ・ジャイアント・ビーが通り抜けた。
弾丸のような飛行。
次の瞬間、近くの木の幹にぶつかり、まるで杭を打つような音を立てて突き刺さる。
「うそ……、貫通した……?」
栄華の目が見開かれる。
「ヤバすぎる、あいつ……!」
デュークも額に汗を浮かべながら、背中のラケットケースをしっかり押さえる。
だが――その中で、ただ一人。
平等院だけが、まるで何かを観察するような目で空を見上げていた。
「――あれだ」
「何が?」
静かに眼の奥が光る。
(真上から……あの速度と軌道。一気に上空から落ちる……“意識の外”からの一撃……)
平等院が静かに呟く。
「……“Wallace's Giant Bee”」
「え?」
「いいか、コートの上でも進路を読ませない弾道ってのは、絶対的な武器だ」
「……まさか、ここに来たのって……」
「偶然だ。だが、意味はあった」
平等院は、ふっと笑った。
「行くぞ!今日は一日、あの“蜂”に学ぶ!」
平等院の瞳に宿る光が、炎のようにゆらめく。
その横顔を、栄華は息も洩らさず見つめた。
胸裏に焼けつく熱は、怯えと目を背けられないほどの眩しさを同時に孕んでいた。
「……本当に、世話が焼けるんだから」
誰にともなく呟いたその声に、平等院は気づかぬふりをしたまま走り出した。
***
その日、平等院は一つの“技”を生んだ。
枝を揺らしながら旋回するウォレスズ・ジャイアント・ビー。
その動きに、平等院は目を細める。
「……あの飛び方。真上から急角度で落ちてくる……人間には、見えてすらいねえ」
「飛来角度はほぼ鉛直。重力と加速を同時に乗せて、相手の“死角”を突けるわ」
背後からの栄華の分析が、平等院の思考と交錯する。
彼は一歩、足を引いた。
「つまり……“見せずに落とす”」
近くの倒木を目印に、蜂の軌道をなぞるように腕を振る。
木屑が裂け、風が鳴る。
次の瞬間、打球の軌道が変わった。
振り上げず、弧を描かず、真上から一気に“刺す”。
まるで針のように。
「行ける」
蜂の間合い。
蜂の軌道。
そして、反応の遅れすら利用する奇襲。
それは彼の動きと融合し、やがてある名前が与えられる。
――“Wallace’s Giant Bee”
音もなく忍び寄り、鋭く穿つ。蜂のように、確実に。
分析と直感の末に編み出される、攻撃の美。
(……また、進化していくのね。こんな場所でも)
空を切る一閃だけが静かに息づいていた。
***
夜。
焚火の炎が、密林の闇を柔らかく照らしていた。
石を円に組み、木の枝を削った即席の串がその上に並ぶ。
獲物は、日没前に何とか釣り上げた淡水魚と、少しばかりの野菜。
調味料は最低限。
質素だが、不思議と心落ち着く食事だった。
「……塩気ねぇな」
魚をひと口かじった平等院が、思わず顔をしかめる。
「文句言うなら自分で釣ってくださーい」
栄華が即座に返す。
声の端に薄く疲れを貼りつかせたまま、唇の奥で小さく笑った。
「勝手に川の向こうに渡るから、こっちの獲物まで逃げたのよ」
「……蜂の軌道が気になってな」
真顔で返す平等院に、デュークが小さく吹き出した。
「まぁ、あの追いかけ方は“研究熱心”ってレベルじゃなかったな。二回も逃げられてたし」
焚火を前にしても落ち着かないのか、平等院はすでに食べ終わった串を木刀のように握り、素振りを繰り返している。
「さっきから動きすぎだろ、ビョードーイン」
「……身体が“跳びたがって”んだよ。完全に頭に焼きついてやがる」
火の粉がパチンと弾けた音をきっかけに、ふと会話が途切れた。
虫の声と焚火の揺らめきが、しばし三人の沈黙を満たす。
やがて、栄華がぽつりと呟いた。
「……ねぇ、あの蜂、怖くなかった?」
火に照らされた横顔が、そっと探るように揺れた。
「もしほんとに襲われたら、修行どころじゃ済まなかったのに」
「俺は平気だ」
平等院は目を伏せ、火の向こうの沈んだ闇へ視線を沈めた。
「……ああいうやつと睨み合う感覚ってのは、テニスにもある。
気配の殺し合い、間合いの奪い合い。それを、体で理解したかった」
「理屈じゃなくて?」
栄華の声が、少しだけ静かに変わる。
「理屈が通じる世界なら……とっくに勝ってる」
栄華は黙ったまま火を見つめる。
木の脂がはぜて、小さな炎がはじけた。
彼の“飢え”はやはり止まっていなかった。
勝利への欲求。あの焦燥の正体。
まるで喉元に引っかかる棘のように、まだ彼の中に疼きを残していた。
デュークは横目にその気配を捉え、唇の端をわずかに持ち上げた。
「少しは、落ち着いたんじゃないか?」
「……さぁな」
平等院が串を地面に突き立て、ようやく腰を下ろす。
「だが、今日は……少し前が見えた気がする」
その言葉に、栄華とデュークは目を合わせた。
(ああ……また、この人は進むんだ)
栄華は、心の中でそう呟いた。
さっきまで魚に文句を言っていたくせに、気づけばその目は闇の向こうへ伸びていた。
狩場を嗅ぎつけた獣のような背中に、思わずため息が落ちた。
「……ほんと、世話が焼けるわね」
ぼそりと呟いたその声は、森の奥へと溶けていった。
***
エジプト北東部。
古代都市の廃墟と乾いたオアシスのあいだに広がる、地図の余白に沈む土地。
かつて王墓へと続いていた参道の断片が、風化した岩に半ば埋もれている。
三人はその上に立っていた。
「……今日も、か」
デュークがぽつりと声を漏らす。
返事はない。
前を歩く平等院が腰を下ろすと、ゆるやかに背筋を伸ばす。
額に滲む汗は、激しいトレーニング後のそれではなかった。
両膝の上には、薄い和紙が広がっている。
筆の穂先にわずかに墨を含ませ、彼は静かに書をなぞっていく。
写経――
仏も神もいない乾ききった大地。
その中で、ただ一人彼は“自分の心”と向き合っていた。
デュークはその様子を遠くから見つめる。
「勝つために、こうして“静”を取り入れるあたり……あの人らしいな」
その傍で、栄華は地図を確認しながら、平等院の背中をちらりと見た。
だが、特に声はかけない。
すでにこの数週間でわかっている。
彼が集中しているときに、言葉は意味をなさない。
***
夜が明けようとしていた。
まだ星の光が残る空に、東の地平から微かに朱が滲む。
静寂を裂くように始まる一日の予兆だった。
オアシスの小さな泉――
砂岩の裂け目に湧く泉のそばに、平等院の姿があった。
薄衣を肩から滑らせ、静かに足を踏み入れる。
肌を撫でる水は夜の熱を冷まし、次第に朝の空気へと染まっていく。
水面は揺れもせず、鏡のようだった。
彼の背が映る。
だがその目は、空を見上げていた。
――義で、世界は獲れない。
まだ誰にも告げたことのない言葉が、胸の内でこだました。
武を磨くこと。誰にも縛られないこと。
勝利こそがすべて――そう決めたはずだった。
だがその信念の奥に、ふと浮かぶのは――
密林で蜂を睨みつけた時の、あの緊張。
テントの火を囲みながら、無言で共に食事をとる仲間の気配。
そして……無防備に地図を広げ、背を向ける“彼女”の姿。
それらが一つずつ、知らず知らずのうちに、胸に灯をともしていた。
(……俺の中に、揺らぎがある)
否定すればするほど、確かに存在する気配。
このままでは戦う理由が濁るのではないか――
「……邪魔を、するな」
低く呟いて、両手を合わせる。己の内側に向けた命令のように。
そのときだった。
夜明けの光が水面に差し込み、黄金色に染まっていく。
その揺らぎの中に、彼は空を翔ける鳥の幻影を見た。
羽ばたく金の翼。揺れる朱の尾。
それは火のように舞い、やがて、翼を折って急降下する――
(……高く舞って、落とす……)
蜂の突き刺す弾道とは違う。
それは、誰の目にも映らぬ高さから、静かに急所を撃ち抜く。
太陽が昇る。
その逆光の中、平等院の手が水面をすっと裂いた。
“ザ フェニックス オブ エジプト”
それは、祈りのように、誓いのように。
唇から自然と落ちた言葉だった。
***
栄華は、仄かなランプの明かりの下で記録用の端末にデータをまとめていた。
ふと気配に気づき、顔を上げる。
泉のほとりに立ち、黙って空を見る平等院の背。
動かないその肩、何かを研ぎ澄まそうとする気配。
その姿を、栄華は長く見つめることなく、すぐに手元に目を戻した。
(……あれでいて、ちゃんと考えてるのよね)
呆れとも感心ともつかないものが、胸の奥をかすめた。
けれどそれ以上、なにかを深く追おうとはしなかった。
ただ――
その時、風が流れた。
朝日の色が水面にほどけ、きらきらとほどけては寄せ返す。
かつては恐ろしいとさえ思ったあの男の背に、温もりが差したように見えた。
「……きっと気のせい」
栄華は胸の奥でその感覚を押し消すように、小さく息を落とした。
***
翌朝。
陽の昇りはじめた岩場で、平等院は誰にも何も言わずにラケットを構えた。
静かに振りかぶり、天を指すように打ち上げる。
弧を描いたボールが、空へ、空へ。
太陽の昇りとともに頂点を越え、鳥のように滑空する。
そして。
翼をたたんだようなロブが、視線の外から一直線に落下する。
すでにその軌道は視認できなくなっていた。
「……完成間近ってとこか」
デュークがぽつりと呟く。
その横で栄華はノートを開き、静かに書き記した。
――“ザ フェニックス オブ エジプト”
かくして、エジプトの地にて新たな炎が、男の掌に宿った。
それはやがて、世界を焼き尽くす光となるだろう。