「こんなの絶対おかしいぞ」
日の光も注さない森の木の下、彼女は紙切れを持って頭を抱えていた。その髪は夜の色を映したように深く、目深に被った帽子の影に、まだ若い顔立ちが微かに覗く。
彼女の名前はルル。
鬱屈としたこの森で、時の流れすら忘れるほどの永い時を暮らす魔女の一人だ。
手元の紙きれは、森の湿気と不釣り合いなほど上等な紙質で、そこには流麗な文字で、「魔女の使い魔特集」と印字されていた。その紙面を飾るのは、まるで貴族の肖像画かと見紛うばかりの美男美女たちだ。
ルルは再度その紙を見ると、苛立ちを露わにそれを握りつぶした。
「"庭の森で倒れていたところを拾いました"?嘘つけ!私が森の中に何年住んでると思ってるんだ!」
最近、人間の世界で何らかの理由で街に居られなくなった者を魔女が拾い、使い魔として使役するケースが増えているらしい。
大抵は野盗などでそのまま野垂死にするのだが、稀に"当たり"が現れそういった者を使役するのが一種のステータスのようになっていると記事では解説されていた。
ルルは苛立ちを隠せないまま、その永い森生活の中で出会い、今も傍らに控える使い魔の方を振り返る。
左から、燃え盛る地獄の炎と氷獄の吹雪、腐食の吐息をそれぞれ異なる三つの口から吐き出す冥府の番犬ケルベロス。
その横には、太陽の光すら跳ね返すような漆黒の鱗が魔法を全て無効化し、一薙ぎで街を半壊させるほどの力を持つとされる伝承の存在、ブラックドラゴン。
そして最後に、自らの身体で巨大な輪を成し終わりのない破壊衝動をその身に巡らせ続けるウロボロス。
美男美女どころか、ヒト型ですらない、まさに実力一辺倒の使い魔達。どこの国が攻めてきたとしても国ごと滅し返せる程の過剰戦力であり、可愛さなんて欠片も持ち合わせていない危険生物の頂点。しかし今は、主の機嫌を損ねてしまったと勘違いし、その巨体を無理やり縮こませて、しょんぼりと地面に伏せている。
「ごめんね。君たちが悪いわけじゃないんだ......この森が悪いに決まっているさ」
彼女は一つ深い息を吐き出すと、ケルベロスの一番大きな頭から順に、ウロボロスの硬い鱗まで、愛情を込めてゆっくりと撫でていく。
こんなことを言ってはいるが、ルルは3匹のことが外見なんて気にならないくらい好きだった。彼らとの生死を分けた闘いの思い出はこの永い魔女生の中でも鮮明に記憶に残っているし、使い魔となってからは十全の忠誠を尽くしてくれている。しかし今、今に限って言えば欲しいのは見目麗しく、手先が器用で、衣食住の世話をこなし、『普通』の体裁を繕ってくれるような新しい使い魔なのだ。
「次の集会は半年後? はぁ、こんなんじゃまた欠席だよ」
今魔女達の集まりでは、自分の使い魔を連れていき見せ合うのが流行だった。
明確な決まりはないものの、力の強い魔女ほど綺麗な使い魔を連れて行くのが通例だった。
現在は顔だけでなく魔力や技術、魔女自身が与える力を総合しての評価ではあるが、それにしてもせめて人型であるのが最低ラインのようだ。
そんな中ルルは魔女達の中ではある程度力が強い方だと自負している。その分使い魔も美しいだろうと期待されているに違いない。
事実この記事にも、後ろのページに近づくに連れルルでも聞いたことのある魔女の名前が、見目麗しい使い魔と共に写っていた。
お陰でルルの中で、使い魔にハードルが上がる一方。ここ数百年は集会に参加した記憶がない。
にもかかわらず、よりによって次回の集会はすぐ近くでやるらしい。
今まで遠いことを言い訳に行っていなかったルルとしては次回は参加しない訳にはいかないのであった。
「......嘆いても仕方ないか。ご飯まで時間あるから好きに遊んでおいで」
ルはくるりと背を向けると、帽子のつばをさらに目深に被り直す。その幼い顔は、もう諦念と決意の色が混じり合っていた。
ブーツで地面を2,3度叩くと、その小柄な身体は森の深い闇に溶けるように残滓すら残さず姿を失った。
残された三匹の使い魔は、顔を見合わせ頷くと、主の新たな苛立ちの源となった雑誌を一瞥することもなく、それぞれ違う方向へと静かに姿を消した。
森の濃密な暗闇の中を、全く不釣り合いな小柄な人影が進んでゆく。頭から深くフードを被ったその人物は、歩くたびに、硬いブーツが湿った土を踏みしめる微かな音だけを響かせていた。
フードの奥に隠された顔は判別できず、零れる髪から性別だけが見て取れる。彼女の、その手元に携えられた古びたランプの、今にも消え入りそうな心細い黄色の光だけが、数歩先の足元をわずかに照らしている。
彼女は何かを探すかのように、微かに揺れるランプの光を左右に振りながら、この森に住まう魔物たちの気配すら飲み込むかのような冷たい静寂の中を、奥へと進み続けていた。
『ーー!』
突然、耳を突き刺すような咆哮が響き渡り、彼女はびくりと足を止めた。それは、獣というにはあまりに重く、大地そのものが呻いたような響きだった。
この森は、一度踏み入れたら最後、二度と生きて出てくることはできないと伝わる魔の森。濃密な闇と、肌を刺すような冷気、そして時折聞こえる恐ろしい獣の気配が、その悪名を裏付けている。間違っても人が、護身の武器一つ見えない軽装で訪れて良い場所ではない。
立ち止まった体は恐怖で微かに震え、時折見えるフードの奥の瞳は、まるで蝋燭の炎のように揺れていた。しかし、その震えは一瞬で収束する。
彼女は、ギュッと唇を引き結び、心細いランプの光を森の奥へと向けた。その瞳に宿るのは、恐怖を上回る切実な使命感。
「見つけないと......!」
胸の奥底で、誰にも聞こえない誓いを立てるように、彼女は再び、湿った土を踏みしめ一歩、また一歩と、絶望的な静寂が支配する森の深淵へと突き進んでいく。その決意が、一歩ごとに足元から湧き上がる冷たい湿気を払い退けているかのようだった。
しかし、そのとき、不意に空気が変わった。
それまで単なる暗闇でしかなかった森が、途端に生き物めいた重さを帯び始める。彼女の鼻孔を、それまでの土と草の匂いとは違う、鉄錆と獣臭が混じったような、生々しい匂いが鋭く刺激した。
『ーー!!』
先ほどの咆哮とは比べ物にならないほど、鋭く、近くで、その声は響いた。あまりにも近すぎて、森の木々が振動しているようにさえ感じられた。
彼女が恐怖に凍りつく間も、振り返る時間もなく地を這うような低い唸り声と、枯れ葉を蹴散らす猛烈な突進の音が聞こえた。思考は一瞬で停止し、本能が全身を支配する。彼女は脇目も振らず、心細いランプを投げ出すようにして走り出していた。
「いや...いやぁっ...!!」
呼吸は浅く、喉からはひきつった悲鳴のような音が漏れる。後ろの茂みから、木の幹をへし折るような音と共に、何かが飛び出してきた音がした。それは、ただの獣ではない。その巨体と速度を伴った「何か」が、迷いなく追いついてくる音が迫る。
判断できたのはそこまでだった。この先の地形も、逃げ道の方向も、全ては闇の中に消えた。
「助けて――!!」
誰に助けを求めているのか、彼女にも分からない。こんな魔の森の中で助けを呼んでも、誰も来るはずないと頭の中の冷静な部分は囁くが、声を止めることはできなかった。
しかし、その必死の逃走劇は、然程時間も経たないうちに唐突に終わることになった。
次の瞬間、背後から岩がぶつかってきたかのような突然の衝撃と共に、彼女は正面から地面に叩きつけられた。呼吸が止まり、全身の骨が軋む。頭上には、湿った土と腐葉土の匂い。そして、耳元で、生暖かい獣の吐息と共に、獲物を見定めたような低い唸り声が聞こえる。
「助け......」
絞り出そうとした声は、喉の奥で潰れた。左腕に、熱い鉄串で貫かれるような鋭い痛みが走る。その痛みが全身を駆け巡った瞬間、彼女の小さな意識は、深淵の闇へと吸い込まれていった。