残響異譚   作:雨(あめ)

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森の妖精。

草木の音が喝采のようにあたりを包む。

その先で、弦の軋む音が、微かに響く。

 

張力、射角、風向――その全てが、幾千の戦場で得た直感に重なる。

狙いは正確。互いが、指をわずかに動かすだけで相手を殺せる。そんな状況。

 

空間に縫い付けられたかのように動かない影。

それは東雲もまた同じであった。

 

浅く、浅く呼吸を刻む。

頬を伝う汗の一滴にさえ、今この瞬間は止まっていてほしいなどと、どうにもならない考えを巡らす。

そんな肌を打つ緊迫の中に、どこか不変の静寂にも似た心地よさがあった。

 

両者が動かないまま、随分と長い時が経った。

いや、実際には一瞬の間だったのかもしれない。

だが、そこに流れる時間は、当の本人たちからしてみれば、ひどく長いものに感じられた。

 

東雲は、生来の癖であるため息をどうにか押し殺していた。

息一つで、この均衡が崩れ落ちる気がしたのである。

 

ゆえに、蝸牛の歩みのごとき緩慢な動作で銃口を下げ、両手を掲げてみせた。

 

「攻撃の意思はない」と示す動作――もっとも、相手がそれを理解する保証など、どこにもない。

 

だが東雲は、この言葉もないやり取りの中で、一つの結論を得ていた。

あの影は敵ではない、と。

 

もし敵であれば木の陰に隠れながら矢を放つこともできたはず。

それが敢えて危険を冒してまで接近してきた。

つまり、相手もまた、こちらが敵かどうかを見定めようとしている。

そして、接触した今この瞬間も、あの矢はこの体に刺さっていない。

 

あれに敵意があれば、とっくに事は終わっていた。

 

――だからといって東雲の行動が賢明であるとは言い難い。

だが彼は心のどこかで、もはやどうでもいいなどと思っていた。

 

一度は死んだ身だ。生への未練など端からない。

だのに、なぜまだ自分は命のやり取りをしているのか。

それが甚だ馬鹿馬鹿しく感じられてならない。

 

ああ、いっそこのまま終わりだと言われる方がどんなに楽か。

奇妙な希望を宿した東雲の視線は、すっと森の奥を見つめる。

 

やがて、視線の先の影が動いた。

木を一本、二本、三本。

近づくほどに、木漏れ日に晒されていく。

 

それは、若い女だった。

 

だからと言って東雲の顔に宿る”温度”というものが変わることはないのだが。

彼は所帯を持っていない。その上、人生の大半は男ばかりの軍隊生活。当然女の扱い方など知る由もない。

 

花も恥じらう乙女の姿を、穴が開くほどにじろじろと見るものではない。

そんな礼さえ知る機会がなかったのだ。誰が彼を責められようか。

 

だが見るなら見るで、もう少し色を感じるような視線を向ければよいものを。

彼の目は路傍の石でも眺めるかのように冷え切っていた。

 

言うまでもなく、女が悪いわけではない。

むしろ女は、『絶世』だの『傾国』だのと形容されるであろう類の美貌を持ち合わせている。

 

しかし、。

 

――背が高いな。

そんな女を前に、こんな感想しか湧かないのだから、東雲はもとより色恋など向いていない。

 

褐色の肌に銀色の瞳。

身にまとう衣は軽装。目から下を覆う一枚布が風に煽られ、その下の輪郭がかすかに見えた。

さらさらと風に靡く黒髪。そこからのぞく耳は、不自然なほどに長く、そして尖っている。

 

古い本で見た妖精だか悪魔だかの挿絵が、こんな姿をしていたかもしれない。

この際、東雲にはどちらでもよかった。

 

女は何かを言った。

意味は分からない。

抑揚のある響き。まるで風そのものが言葉を紡いでいるような音だった。

 

東雲は表情ひとつ変えず、胸元に手を当てた。

そして簡潔に名を告げる。

 

「東雲。東雲宗一郎。」

 

女は瞬きもせず、その音を聞いていた。

だが意味を理解している様子はない。

再び何事かを言い、弦をわずかに引き直す。

 

不用意に動けば矢が飛ぶ。

東雲は二歩、いや三歩か、慎重に後退した。

その動作が功を奏したのか、女の腕からわずかに力が抜ける。

 

女もまた、東雲と同じく表情を変える事はない。

怒りも悲しみも喜びも、その瞳には宿っていない。

ただただ状況を観察し、どうすべきかと思案しているようだった。

 

「……敵ではない。」

 

そう言って、東雲は腰の軍刀をゆっくりと抜き、地面に寝かせるように置いた。

そして両手を広げ、武装解除の姿勢を見せる。

 

女はしばし沈黙した。

そして一歩、東雲へ近づいた。

様子を見てさらに一歩。

距離が詰まるごとに、彼女の呼吸の揺らぎさえ聞こえそうだった。

 

距離、およそ十歩。

女が矢を下げ、東雲の目を真っ直ぐに見据える。

 

「……シ・ヴァール・フェアイ……?」

 

意味は分からない。

だが、声の調子からして問いかけであることは確かだ。

 

東雲は、答えない。答えようがない。

 

女はさらに近づく。

 

そして、東雲の目を見つめたまま、地面に転がった刀を取ると、一歩後退した。

風が吹き抜ける。

彼女の黒髪がふわりと舞い、空の青と重なる。

 

「……害意はない。」

 

静かに落ちたその声は、久しく忘れていた穏やかな響きであった。

 

女は短く言葉を紡ぎ、刀を持ち替えると、森の奥を指し示した。

そして手をひらひらと動かしてみせる。

東雲の見慣れたそれとは少し違うが、”ついて来い”。そう言う動作なのだろうと思った。

 

「……了解した。」

 

当然、東雲の言葉も相手には通じない。

だが頷くという動作は共通なのか、女の目がわずかに和らいだ。

 

東雲は女の背中を追って、森の中へと足を踏み入れる。

湿った土の匂いが強くなる。

どこか遠くで、獣の鳴き声が響く。

 

生の延長か、死の果てか。

いまだ判然としない。

確かなのは――終わったはずの自分という存在が途切れずに続いているという事実。

 

なぜここにいるのか。

何の意味があるのか。

 

銀の葉の声が、何かの始まりを告げている気がした。

東雲はまた一つ、ため息を飲み込んだ。

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