深夜のシャーレ事務室にて、私は狐坂ワカモが現れるのを待っていた。彼女に聞きたいことは様々にあったが、しかしあの場で聞けるようなものではなく、完全に解散となってから改めて出向いてもらうよう連絡したのだ。
「お待たせいたしました、あなた様♡」
午前0時丁度、予定通りに彼女は現れた。
「こんばんは、先ほどぶりですね。こんな深夜に呼んでしまい、申し訳ありません。ここまで入ってくるのに問題はありませんでしたか?」
「うふふ。ええ、特に問題はありませんでしたわ。ちょっぴり警戒心の強い子がいたようでしたが、気づかれてはいないでしょう」
問題は無かったらしいが、やはり七度ユキノ辺りは気になって見張っていたのかもしれない。しかし単独では狐坂ワカモの侵入を防ぎきることはできなかったようだ。
「そうでしたか。すみません、お手数をかけまして」
「とんでもありません。あなた様にお呼びいただけただけで、わたくしはっ、うっ、わたくし、は……あ……」
狐坂ワカモの言葉が詰まる。見ると、彼女は涙を流しているようだった。彼女自身もそれに驚いたように目を擦っていた。
「も、申し訳ございません。このようなみっともない姿を……」
「大丈夫ですよ、話は落ち着いてからにしましょう」
私はそう言いながら、やはり疑問、というより違和感を覚えていた。例え一目惚れだとして、
「さて、お互いに聞きたいことはあると思うのですが、先ほどはウチの生徒たちの話を聞いてもらったので、まずはワカモさんから私に聞きたいことはありますか?」
暫くして、狐坂ワカモが落ち着いたようなのでまずは彼女の話から聞くことにした。
「よ、よろしいのですか? では……」
と、彼女は何かを言いかけて口を開けたが、暫く何も言葉が出てこなかった。言うべきか、そうでないのか、迷っているようだった。
「では、ひとつだけ……」
それでも、ようやく決心がついたのか、彼女は真剣な顔で私に尋ねた。
「
聞かれたのは、ただそれだけだった。似たようなことを、どこかで誰かに聞かれた気がしたが、思い出せなかった。
覚えているか。何を、だろうか。そもそもそれが分からなかったが、彼女が求める答えを私が覚えていたとしたら、そんな疑問すら起こらないような話なのかもしれなかった。
「……」
私は答えられずにいた。それで、彼女は彼女の思うようなことを『覚えていない』ということを察したのだろう、淋し気に微笑んだ。それを見ると強い罪悪感のようなものが胸に伸し掛かる気がした。
「そんな顔、なさらないでください。殆ど分かっていたことですから」
と、彼女は私を慰めるようにそう言ったが、私はどんな顔をしているのだろうか。彼女には私の表情が理解できるというのだろうか。
「……わたくしからは今の質問で終わりですわ。後は、先生から、なんでもおっしゃってください」
私がなおも言葉を発せないでいると、狐坂ワカモはそう言って、私に発言権を回した。本当にそれでいい、と言うことのようだ。
「……すみません。ありがとうございます」
聞きたいことは実際多くある。罪悪感に負けている場合ではない。
「まず、そうですね。もしかしたら、ワカモさんの聞きたかったことと被ってしまうのかもしれないのですが」
「はい」
私が話し始めると、彼女はすぐに嬉しそうに相槌をうった。
「初めて私と会った際、ワカモさんは私の顔を見て、驚いたように叫び、すぐに立ち去ってしまったと思うのですが、それは……私のことを知っていたからですか?」
私には過去、狐坂ワカモと会った記憶がない。にもかかわらず、彼女は一方的に私のことを知っているようだった。
「あの時の事、覚えてくださっていたんですね♡ そうですね……正しくは、あの時に思い出した……と言うべきでしょうか。それで、少し混乱してしまい、逃げ出してしまったのです」
狐坂ワカモははっきりとそう答えた。
「それは、過去に私と会ったことがあった、ということですか?」
「いいえ、あなた様はきっと、わたくしと会ったことは無かったのだと思います」
彼女の答えは、私にとって身に覚えがある答えで、それ故に『私が知らないこと』が気になる答えだった。
「それはつまり、ワカモさんにも、未来の記憶がある、ということでしょうか」
「…………はい、はっきりと全て思い出せたわけではないのですが、あの時に。ですがやはり、先生もそうだったのですね」
少しの沈黙の後狐坂ワカモは小さく笑ってそう言った。
「……一応確認なのですが、過去の記憶での『先生』というのはこの私そのものでしたか?」
「はい? それはどういう……ええ、間違いなくそうだと思います」
私の質問に彼女は少し困惑して回答した。つまり、その時点で私の知る過去とはまた別である、ということだ。
「ありがとうございます。では、関連していくつか、そうですね……調印式の日にトリニティにいたのは、そこで何かが起こると知っていたからですか?
「ええ、あそこで先生が大きな怪我をすると思っていたのです。ですが、当日聖堂の様子がおかしいことに気付いて、見張っていたのです。 あなた様の作戦だったとお聞きしたときはこのワカモ、大変感激いたしました♡」
調印式の日に何故狐坂ワカモがそこにいたか、というのもわかった。
「では、今日のことはどうですか? テマさんのことです。初対面だと仰っていましたが……」
「テマ……あの子ですね。それは……本当に分からないのです。ただ、何となく、あのように取り付かれても気にならなくて、自然と頭を撫でてあげたくなって……それと、これなのですが……」
そういって、狐坂ワカモは1枚の紙を出した。そこには1枚の
「これは……」
「これは私が描いたものなのです。実際にこの狐面を作るために、試しに描いたもので、これ1枚しかありません。ですが……」
それは、テマの持っていた絵に描かれていた怪物の仮面部分そのものだった。
「不思議なものですね。彼女が大事にしていた絵は、これが
「はい、わたくしもそう思いました。ですが……私にとってはやはり、初対面だったのです」
テマ自身も初対面だと言っていた。狐坂ワカモとテマは同じような出自なのだろうか。
「実は先生とお会いする前、記憶を思い出す前にも似たようなことは幾つかあったのです。例えば……何故か甘いものが食べたくなったりとか……自分でも思い出せない何かに動かされているようなことが……」
狐坂ワカモに嘘をついている様子は無い。本当に自分でも分からないようだ。
「そういえば、全て思い出せたわけではない、と仰っていましたね。他には何か覚えていたことはありますか?」
「そ、それは……じ、実はもうほとんど無いのです。先生が傷つくことになったあの条約の時の事と、それと先生の事ははっきり思い出せたのですが、それ以外はあまり……」
そこで彼女は初めて、何かを隠しているような様子を見せた。言えないことなのか、言いたくないことなのか。深く追求は、すべきではないだろう。
「そうですか。教えていただきありがとうございます。私の事ももう少しお話したいのですが……生憎、条件がそろっていないようなので、別の機会になってしまいますね。申し訳ありません」
「謝らないでくださいませ、先生。あなた様が話されたいときにどうぞお話しください」
狐坂ワカモは常にこちらを立てて話す。その関係も、私に無い記憶によるものであり、利用するのは気が引ける。ただ、彼女にそれを言っても徒に傷つけてしまうだけだろう。
「ありがとうございます。では、その時になればまた、お声がけします」
「はい、喜んで♡」
狐坂ワカモと次に会う約束を交わす。もっとも、次に会うときは1対1ではないだろう。
「それでは、今度こそ、帰りますわ。何かあればいつでもお呼びください。このワカモ、あなた様のためならどこへでも、すぐさま駆け付けます!」
「ええ、ありがとうございます。先ほどの件ですが、近いうちにお呼びしますよ。ワカモさんも、お気をつけて」
その言葉を最後に、彼女は事務室を出て行った。
もっともそれは入口からではなく、窓からだったのだが。
狐坂ワカモとの謎の尽きない再会の日は、このようにして終わった。
次でSRT編終了となります。