桐藤ナギサのシャーレ視察①
「おはようございます。先生」
「いらっしゃいませ。あなたは……」
ある朝のこと、シャーレ事務室にあまり見慣れない生徒が現れた。
トリニティの一般制服に身を包み、帽子と眼鏡をかけた生徒のその声はしかし、
「失礼ですが、ナギサさんですか?」
「正解です。よくお分かりになりましたね?」
私が彼女の名を言い当てると、彼女は嬉しそうに微笑んだ。
「やはりそうですか、驚きましたよ。何かあったのですか?」
「いいえ、そう言うことではなく、今日は珍しく予定が空いていたものですから、私もここに一度来てみたかったのです。ミカさんやセイアさんは結構気軽に来ているとお聞きしましたので」
私の質問に、彼女はそう答えた。そういえば以前、そのような話をしていた気がするが、本当に実行したということか。
「お一人で来られたのですか?」
「いえ、あの、……お友達に連れて来てもらいました。本人はカフェにいると仰っていましたが……」
『お友達』か。桐藤ナギサのことを詳しく知っているわけではないが、彼女が聖園ミカや百合園セイア以外でこう表現する相手を私は1人しか知らなかった。
「成程、ヒフミさんですか。後で顔を出してみましょう」
「……え、どうしてそこまでお分かりに?」
彼女が不思議そうな顔をするが、正直に交友関係があまり広くは無さそうなため、知っている名前を言えば当たると考えたとは言いづらく、黙って話を進めることにした。
「それでは、何か特別な用件があってきたわけじゃない、ということですか。内部のご案内をしたいところなのですが、丁度、別件でシャーレの案内をする予定の方も来る予定なのです。その生徒と一緒でもよろしいですか? それまではどこかでお待ちいただくことになりますが……」
以前の話のことを考えると、他校生との交流の場があった方がいいのだろうか。そう思いそう提案する。
「まあ、そこまで気を遣っていただかなくても良いのですが……もちろん、ご案内いただけるのならそれだけでありがたいことです」
桐藤ナギサはそう言ってすぐに私の提案を承諾した。さて、それまでどう過ごしてもらうかだが……
「折角なので、それまでは先生のお仕事を見学させていただいてもよろしいですか? 何かお手伝いできることもあるかもしれません」
桐藤ナギサがそう言うので、一旦、事務室にいてもらうことになった。
―
暫くすると、別の生徒が事務室に顔を出した。と言っても、先ほど言っていた来客ではない。シャーレのアルバイト職員、早瀬ユウカだ。律儀に職員証を目立つように身に着け、今日も予定時刻の少し前に現れた。
「こんにちは、先生。今日も……あら、あなたは……あなたも先生のお手伝いかしら。その制服、トリニティよね?」
当然ながら、事務室にいる見慣れない生徒のことが気になったようだ。早瀬ユウカは桐藤ナギサ
にそう尋ねる。勿論、相手が誰かは分かっていないだろう。
「……えっ、あ、私ですか? あら、あなたは……」
私の隣でシャーレに届いている種々の問い合わせ内容を眺めていた桐藤ナギサは、突然現れた人物に話しかけられたことに少し動揺していた。普段そこまで気軽に話しかけられることも無いのかもしれない。
「あ、ごめんなさい。私、ミレニアムの早瀬ユウカといいます。アルバイトで先生のお手伝いをしているんです」
「早瀬ユウカさん……あなたが。はい、よろしくお願いします。私は桐……キリエと言います」
相手がミレニアムの有力者であると気付いたらしい。そして名乗ろうとして、自分が変装していることを思い出し、予め決めていたのかもしれない偽名を名乗った。
「キリエさんですね。よろしくお願いします。先生、今日は何からすればよいですか?」
「おはようございます。請求書のチェックからお願いします。いつも通りですが……」
「了解です。それと……今日はお客さんが来るんでしたっけ。キリエさんとは別で」
「はい、すみませんが、その間は来客などがあった場合の対応をお願いします」
すっかり慣れた様子の早瀬ユウカを桐藤ナギサは興味深そうに見ていたが、彼女が仕事に集中し出したあたりで、小声で私に尋ねた。
「先生……ユウカさんというのは、ミレニアムのセミナーの……」
「ええ、そのユウカさんであっていますよ」
「そのユウカさんがシャーレで事務員のアルバイトを……」
桐藤ナギサは複雑そうな表情で何か思い悩むように考え始めた。妙な誤解を生んでなければよいのだが。早瀬ユウカに特に裏はないことは私はよくわかっているが、トリニティのトップとなると色々と考えてしまうものだろう。
やがて、何かの結論を付けたのか。それとも考えることを諦めたのかは分からないが。桐藤ナギサは立ち上がり、何やら持ってきていた鞄を探り始めた。
「先生、折角ですので、紅茶をお淹れしようと思うのですが、飲まれますか?」
案の定、というべきか。持ち運びの出来る紅茶セットを持ってきていたようだ。
「いただきましょう」
「はい! ……お仕事中すみません、ユウカさんも飲まれますか?」
桐藤ナギサは勇気を出したように、早瀬ユウカにも尋ねる。
「え、トリニティ式の紅茶ですか? 興味深いですね。いただいても良いのですか?」
早瀬ユウカは目を輝かせてそう返事をした。
「勿論です! では、準備をいたしますので、少々お待ちください」
桐藤ナギサは微笑んで、給湯室の方へと行き、暫くすると恥ずかしそうに戻ってきた。
「すみません、先生。使い方を教えていただいてもよろしいでしょうか」
「それなら、私が教えますよ」
という、早瀬ユウカに対応を任せ、私は仕事をつづけた。
―
「……あ、美味しい」
早瀬ユウカが提供された紅茶に、素直な賞賛を述べる。桐藤ナギサは満足そうに微笑んだ。
「それにしても、トリニティの人が紅茶を嗜むのに力を入れているのって本当なんですね。ミカさんも、ラブもあまりそういった感じではなかったから、何だか新鮮です」
早瀬ユウカが桐藤ナギサにそう言った。
「ミカさん? えーと、お知り合いなんですか? ミカさ……まと」
桐藤ナギサが目を見開いた
「え、ええと、はい。一応。と言ってもあったのは一回だけですけど。それより、トリニティでは生徒会長のことを様付けで呼ぶんですね。お嬢様学校って感じで、ちょっと良いですね。私なんか後輩にも呼び捨てですよ、呼び捨て」
「まあ、そうなんですか? ですが、それもまた少し羨ましいかもしれません。それだけ、親密な関係ということなんでしょう?」
本人がお友達と呼んでいる阿慈谷ヒフミからも様付けで呼ばれている彼女にとっては、フランクに接してもらえる間柄は望ましい物なのだろう。本心から言っているように見えた。
「どうなんだろ? まあ、嫌われていないと、良いですけど……」
実際に嫌われてるわけは無いと思うが、早瀬ユウカは少し自信なさげに笑った。
―
「こんにちはー、先生! イロハちゃん連れてきましたよー」
紅茶の効果もあり、少々打ち解けた様子の二人と雑談を交えながら仕事をしていると、いつの間にか予定の時刻になっていたらしい。元宮チアキが事務室に顔を出した。
「おっ、ユウカちゃんは今日もいるんですねー」
「あら、チアキ。こんにちは。今日のお客さんってチアキだったの?」
既に何度かシャーレ内で会ったことのある元宮チアキに、早瀬ユウカが反応した。
「それはどっちかというとイロハちゃんの方ですねー。あれ、イロハちゃんは?」
「歩くのが早いんですよ、チアキは……。こんにちは、先生。……と、あなたは」
現れた棗イロハは、元宮チアキと話していた早瀬ユウカに気付き、尋ねた。
「こんにちは、アルバイトの早瀬ユウカです。一応ミレニアムの2年生です。チアキのお友達ということは万魔殿の?」
「はい。棗イロハです。え……チアキ。何故ミレニアムのナンバー2とそんな仲良さげなんですか?」
棗イロハが恨めしそうに元宮チアキを見る。そういったことを伝えたことが無かったらしい。
「いやー、シャーレに通っててユウカちゃんを知らない生徒なんてモグリですよモグリ!」
「いや、そんなことは無いと思うけれど……というか、イロハさんも万魔殿の幹部ですよね? 名前を聞いた事があります」
「さあ、どうなんでしょうか……、まあよろしくお願いします」
棗イロハは何かを投げ捨てたようにぞんざいに頭を下げた。
「先生、ユウカさん、戻りました……あら、あなたがたは……」
「お帰りなさい、キリエ。さっき先生が仰っていた、お客さんが来られたの」
「まあ、そうだったんですね。……えっ?」
桐藤ナギサは頷いて、何かに気付き私の方を見た。そういえばここは初対面ではなかったはずだ。流石に相手が誰なのか気付いたらしい。
「チアキさん、イロハさん。今日はこの、キリエさんも初めてシャーレに来られたので、折角なので一緒に中のご案内をしようかと。トリニティの生徒ですが、よろしいですか?」
念のため、二人に同意を取る。
「私は全然大丈夫ですよ! よろしくお願いしますね」
「私もそれは良いのですが……えっ、この人……え?」
元宮チアキの方は相手に気付かず、一方で棗イロハの方はすぐに誰か分かってしまったらしい。
「あっ、ありがとうございます。今日はよろしくお願いいたします」
「こちらこそ、騒がしくてすみません。桐……エさん」
微妙にぎこちない二人の挨拶が私の耳に届いてきた。