補習授業部での合宿初日の夜。百合園セイアと彼女が「ミネ」と呼んでいた生徒の部屋、その他の補習授業部の生徒の部屋と分けられて宛がわれた私の部屋で明日の準備をしていると、控えめなノックの音が聞こえた。消灯時間は過ぎているが、誰かが会いに来たらしい。
席を立ち扉を開くと、不安げな様子の阿慈谷ヒフミがそこにいた。
「おや、ヒフミさん。何かあったのですか?」
不安そうな様子で扉の前に立っていた彼女に話しかける。
「い、いえ……その、そういう訳ではないのですが……ごめんなさい」
「ふむ……とりあえず、お入りください」
下江コハルや浦和ハナコに見られでもしたら面倒なことになりそうだが、訪ねてきた者をそのままにすることもできないので、室内に招き入れる。阿慈谷ヒフミはしばらくの間部屋の様子を眺めているようだったが、その後は口を開いては閉じて、を繰り返していた。
「……すみません、先生。お仕事中にお邪魔してしまって」
「大した内容ではないので構いませんよ。今は補習授業部のことが最優先です。ですから、気になることがあれば言っていただけた方が助かります」
漸く話しかけられたので、用件を促す。
「は、はい……あの……特別な何かがあるわけではないんです。ただ、寝ようとしたら何となく不安になって」
存外、普通のことを言われた。あまりにも躊躇うので、もっと大それた相談をされるのかと思ったが、そういうことではないらしい。
「どうしてナギサ様はこんなことをしたんだろうとか……退学になっちゃったらどうしよう。みたいな……あはは、私には部長なんて、向いていないと思います。何でナギサ様は私に部長を任せたんでしょう……?」
退学の危機が身近に迫っているという事以外は、非常に学生らしい、普通の質問だ。そして残念なことに私は、そういう普通の学生らしい質問への対処が最も不得手な自覚がある。彼女の学生らしい悩みは、実際に渦巻いている陰謀やきな臭い事件とは異なり、私には今までとても縁遠い物だったものだ。
「……ナギサさんは、ヒフミさんは部長にすると言った時、何か話されていなかったのですか?」
解決の糸口を探すため、質問をする。しかし彼女は首を振った。
「いえ……ただ、全員を合格させるように、と。私が部長になって、皆をまとめてほしいって……」
成程、これは桐藤ナギサの落ち度だろう。何の益体もないが、その発言を聞いて私はそう思った。そもそも、補習授業部結成を決めた時点では「トリニティの裏切り者を探すため」という目的があったはずであり、大方、その探し役に『先生』や阿慈谷ヒフミを利用するつもりだったはずだ。しかし当の被害者の無事が分かった結果、その目的の意味が消えてしまったのだろう。そして、そのことを隠す必要があると考えた。あるいはそれは下手人を知っている百合園セイアからの要求なのかもしれないが、ともかく、補習授業部自体は計画通りに誕生させてしまった。
それは結果として本来の目的という核が抜けてしまった組織の、その長として任命されてしまった阿慈谷ヒフミを悩ませる種となってしまっている。彼女に与えられる目的が、消えてしまっているのだ。
とはいえ、そんなことをそのまま言えるはずもない。別の視点から言うことを考えるべきだろう。
「そうですか……それだけ、ナギサさんはヒフミさんのことを信頼しているということだと思いますが」
「あはは……その信頼を裏切って、試験を受けなかったのが私なんです」
そして何とか捻りだした言葉も、余計に落ち込ませることになってしまった。正解ではなかったらしい。やはり、向いていない。
その時、タイミングよく再びノックの音がした。
「夜分にすまないね。ちょっと話が……お邪魔だったかな?」
「いえ、リリさん、丁度良かったですよ」
扉を開けるとそこにいたのは、百合園セイアだった。先ほど話が途中で終わってしまったので、続きを話しに来たのだろう。
実際には学校の先輩である彼女であれば私よりマシな慰めができるかもしれない。
「リリちゃん? な、何かあったの?」
突然部屋に現れた
「いいや。そういう訳じゃないよ。どうも眠れなくてね。寝すぎたり眠れなかったり、不便な体だよ全く」
「眠れない……リリちゃんもそうなんですね」
視線で私に入室許可を取り、百合園セイアが室内に入る。阿慈谷ヒフミがここにいると今の状況を察したらしい。
「何か心配なことでもあるのかい? おっと、そういえば落第の危機だったな。不安になるのも当然な状況ではあるか」
「あはは、リリちゃんは、落ち着いてますよね」
まるで他人事のように退学について触れるその語り口に、阿慈谷ヒフミは苦笑いに近い笑みを浮かべる。
「そういう訳でもないよ。起きたら目覚めないかもしれない不安に比べれば、進級や落第のことは二の次になるだけで」
阿慈谷ヒフミが絶句する。冗談のつもりなのかもしれないが、病弱を主張している人物がそれを言うと普通に笑えないだろう。事情を知っていても笑えない冗談ではあるが。
「まあ、冗談はそこまでにして。そういえばヒフミはこの部活の部長だったね。ナギサに何か、言われたのかい?」
「い、いえ……え? というかナギサって……結構親しい関係なんですか?」
懇意にしている先輩の生徒会長を、後輩がいきなり呼び捨てにしている様子を見て阿慈谷ヒフミがぎょっとした。
「あ。……まあ、それなりの付き合いではあるね。こんな体でなければ今頃僕がティーパーティーのホストだったろうしね」
そしてその返事に阿慈谷ヒフミが再びコメントに困っている。百合園セイアにはスリルを楽しむ趣味でもあるのだろうか。車の運転などは任せられないタイプかもしれない。
そして、頼りになるかと思って部屋に入れたが、逆効果だっただろうか。いや、阿慈谷ヒフミもこの自由さを見て悩みが薄れるかもしれない。それに期待するべきか。
「あ、あはは……ナギサ様に何か言われたわけではないんです。ただちょっと、不安になってしまっただけで……」
「ふむ……」
一応正体を隠している少女は、私の方を一瞥して、そして再び悩める少女の方に向き直った。私が何かしただろうか。
「実は、不安を解消するいい方法を知っていてね」
「え?」
「知りたいかい?」
すました顔で突然言い始めた百合園セイアに一抹の不安を感じる。一方、阿慈谷ヒフミは一も二もなく頷く。差し出された藁にすがった形だ。
「実は、私も最近激しい不安を抱えることがあってね。それを解消したとってもいい方法なんだよ。それは……」
「それは……?」
百合園セイアは不必要なほど長く勿体をつけて、言葉を続ける。
「……先生に、頼ってしまうことだよ」
「え?」
案の定、百合園セイアはろくでもないことを言い出した。一度言質を取られるとこういうことになるので、あらゆることに明言を避けたくなるのだ。
「ほら、先生。ヒフミにはいってあげないのかい? あれほど情熱的に言ってくれたじゃないか」
「そんな記憶は無いのですが……」
否定をしたものの、阿慈谷ヒフミは私の言葉を待っている様子だ。初対面時の印象とは異なり、百合園セイアはなかなか強かな生徒だ。仕方なく、口を開く。
「上手くいく保証はないですが、私も全力で事に当たります。ですからヒフミさんも、あまり気負わず、共に頑張りましょう。最終的な責任は私が負いますし……」
「負いますし?」
阿慈谷ヒフミが顔を上げ、期待するような目でこちらを見る。
「最悪皆さんが退学になってもシャーレ直属になってもらうという手もありますよ」
「……あはは、リリちゃんも先生も、あまり冗談は得意じゃないんですね」
特に冗談のつもりは無かったが、彼女は少し表情を緩めてそう言った。
「まあ、気負いすぎずに取り組んでください、ということです」
「ありがとうございます、先生、リリちゃん。少し、気持ちが楽になりました。……ふぁ」
阿慈谷ヒフミが小さく欠伸をする。緊張が緩和したのは本当のようだ。
「眠れそうですか? で、あれば寝た方が良いでしょう。明日から勉強詰めになるでしょうから、睡眠時間は大事です」
「はい、そうですね。私は、部屋に戻ります。おやすみなさい、先生、リリちゃん」
阿慈谷ヒフミはそう言って部屋を後にした。
―
室内には百合園セイアと私が残った。
「私も、今日はお暇するよ」
百合園セイアもそう言って、帰ろうとする。しかし、彼女がここに来た用件をまだ聞いていない。
「そもそも、ここに来た用はなんだったんですか?」
「……そうだったね。一応、今後の予定を伝えようと思ってね」
本当に忘れていたのかは分からないが彼女が振り返る。
「と言うと?」
「何人か話さないといけない人がいるだろう? アズサもそうだし、それに、あの子も……どうにか、協力してくれるかい?」
こちらの返事は分かっているとでも言いたげな様子で、確認を取られる。
「その件ですか。勿論かまいませんよ。逆に、貴女のことを利用してしまうようなこともあるでしょうが……」
「それは、お互い様というものだね、可能な限り協力しようとも」
双方の合意を確認できたところで、今度こそ百合園セイアも退出していった。作業の途中になっていた明日の準備に戻る。合宿一日目の夜はこのように過ぎていった。
大変なことを押し付けられても不安になるけど、何か言ってほしい人に何も言われなくても不安になりますよね