エデン条約の調印式を間近に控えたある日、トリニティの救護騎士団長、蒼森ミネから連絡があった。内容としては、あのクーデターに見せかけたアリウスによる襲撃事件の際、保護されたアリウス生の内の1人との面会準備ができた、という内容だった。
その生徒とは、聖園ミカが襲撃に際し本来の部隊に紛れ込ませた内の1人で、極度の衰弱状態にあった者と聞いている。つまり、彼女に『マダム』、ベアトリーチェの存在を明かしてしまい、何らかの懲罰を受けていたと思われる生徒のことだ。
その生徒は、白洲アズサのように全く洗脳が効いていなかった訳ではないようだが、効き目が薄かったか、あるいは既に洗脳が解けかけており、保護され、意識が戻ってから暫くした後、情報提供の意思があったという。しかし、当然というべきか、救護騎士団からは体調が良くなってから、という判断が下されており、実現までには時間がかかっていた。それだけ、その生徒の状態が悪かった、ということだろう。
すぐにトリニティが運営しており、アリウスの生徒たちが入院している病棟へと向かう。アリウスの生徒たちは保護された時点で全員が慢性的な栄養失調状態になっており、また多くの者が何らかの外傷や心的外傷を抱えていたらしく、保護された多くの生徒がここで入院しているとのことだ。
蒼森ミネは多忙のため、面会の付き添いには別の救護団員がつく、という話だったが、受付に尋ねると、一人の救護騎士団の生徒が迎えに来た。
「あ、あなたが先生ですね! お待ちしてました、一年生の朝顔ハナエです!」
「よろしくお願いします。ハナエさん。貴女が今日案内してくれるという方ですか?」
私が訪ねると、朝顔ハナエと名乗った少女は笑顔で頷いた。
「はい! ミネ先輩から話を聞いていて、お会いできるのを楽しみにしていました! 最近はマイアさん、私とも普通に話せるようになりましたから、それで私に任されたんだと思います」
「マイアさん……というのがその?」
聞きなれない名前が出てきたので、思わず聞き返す。
「はい、そうです。立木マイアさんと言います。最初は、えーと、結構混乱とか動揺があったみたいで、ミカ様とアズサさん、それとミネ先輩以外とは上手く話せなかったんです、私も初めて会った時は泣かれてしまって。でも、だんだん仲良くなれて来てると思います!」
なるほど、そのような状態であれば、最初に私との面会を止められるのも当然だろう。むしろ、献身的に接してきただろうこの朝顔ハナエと言う少女で「最近ようやく」と言う話だとすれば、まだ時期尚早ではないのだろうか?
「そのような状況で、私と会わせても大丈夫なのですか?」
「それは……マイアさん自身が、先生とお話したい、って言ったんです。先輩やアズサさんから、先生の話も色々聞いているみたいだし、大丈夫だと思うんですけど……」
「もし、マイアさんが動揺して泣いたりしてしまっても、落ち着いて対処してくださいね、ハナエちゃん」
突然、背後から何者かが会話に加わってくる。
「うわぁ!? セリナ先輩!?」
「初めまして、先生。救護騎士団の鷲見セリナといいます。偶々そこの部屋の前を通りかかったのをお見掛けしたので、ご挨拶をしようと思いまして」
驚く朝顔ハナエのことは気にせず、突然現れた生徒は自己紹介を始めた。セリナ先輩、と呼ばれていたことから恐らく2年生か3年生の生徒だろう。
「マイアさんは、ハナエちゃんのおかげで今は初対面の方でもある程度普通に話せる程度には落ち着いています。 ですが、もしかしたら先生の姿を見たら怖がってしまうかもしれません。マイアさんは、もしかしたら……見知らぬ背が高い方が怖いのかもしれません、正義実現委員会のハスミさんがいらっしゃったときも怯えていましたし、先生は、ミネ団長やハスミさんよりも随分背が高く見えます」
その話を聞いて、私はその立木マイアというアリウスの生徒が何に恐怖しているかある程度察した。
「……成程。お教えいただきありがとうございます、セリナさん」
「なので、頼みますね、ハナエちゃん。騎士団の中ではマイアさんはあなたを一番信頼していると思いますから」
「は、はい! セリナ先輩。頑張ります」
朝顔ハナエは、先輩からのアドバイスに、真剣な表情で頷いた。
「はい、頑張ってくださいね。では、すみません、お邪魔してしまいまして。今度、改めてご挨拶させてもらいますね」
鷲見セリナはそう言って、慌ただしく去っていった。元々、別の用事があったのだろう。
「では、改めてマイアさんのところに行きましょう、先生!」
先輩からの激励で更にやる気を増したように見える朝顔ハナエについていき、その立木マイアという生徒のいるという病室へ向かう。彼女たち保護されたアリウス生は捕虜に近い立場でもあったはずだが、少なくとも立木マイアの個室は、脱走防止のような仕組みは見られなかった。脱走されても困らないのか、あるいはその恐れが無いとみられているのだろう。
「少し、ここで待っていてくださいね、先生」
そう言って、朝顔ハナエは先行して病室に入っていった。相手に心の準備をさせるなど、するべきことがあるのだろう。
少し待っていると、室内から声がする。
「先生、お待たせしました」
それに従って、中に入る。
個室となっていたその病室の中には、朝顔ハナエの手を握っている小柄な少女がいた。彼女が立木マイアだろう。彼女は私の姿を見て顔を青ざめさせたが、朝顔ハナエが先行したことが功を奏したのか、泣き出したり取り乱したりはせずに、こちらを見ていた。
「初めまして、私がシャーレの先生をやっているものです。よろしくお願いしますね」
出来るだけ威圧感を与えないように、こちらから話しかける。
「あ、あなたが、せ、先生……あ、あの、先生! お、お、お願いします! み、みんなを、た、助けてください!」
立木マイアは、朝顔ハナエの手をきつく握りしめながら、必死の形相で絞り出すようにそう言った。
「あ……す、すみません。いきなり……」
そして我に返ったかのように縮こまってしまう。彼女なりに私に会ったときに言おうと思っていたことがあり、恐怖と緊張でそれが勢いで出てしまったのだろう。
「気にすることはありませんよ、マイアさん。私は貴女の話を聞くためにここに来ました。貴女が話したいこと、私たちにしてほしいことを、ゆっくりでいいので、私に聞かせてください」
「あ……」
私がそう言うと、緊張が少し解けたのか立木マイアが涙を流した。事前に鷲見セリナと話していた朝顔ハナエは、落ち着いた様子で彼女の頭を撫で、寄り添っていた。
暫くして、落ち着き始めた立木マイアが少しずつ、これまでのことについて話し始めた。
「私は、立木マイアと言います。アリウスで暮らしていて…… わ、私はアリウスの中で、スクワッドの皆さんや、
それは、白洲アズサのようなどこか並外れた精神性を持つ者の言葉でも、聖園ミカが見て感じた外面でもない、私が初めて耳にしたアリウスの現実だった。立木マイアは細々と、自分の中から言葉を絞り出すように話を続ける。
「でも、少しだけ。ちょっとだけですけど私は外の世界のことに興味があったんです。……だから、外から来たミカさんとお話しする機会が出来て、舞い上がっちゃって……きつく口止めされていたことを言ってしまったんです。……
聖園ミカは、この立木マイアという生徒から『マダム』という存在について話を聞くまで、その存在を認識していなかった。ベアトリーチェが、アリウスの裏で手を引く大人の存在がいることに聖園ミカが気付かないよう手を回していたのだろう。
「気付いた時にはもう遅くて、周りにいた子に、睨まれていました。ミカさんは、何も気にしていないように見えましたが、駄目、だったんです。ミカさんがいなくなった後、私は……マダムのところに……」
一言話すごとに立木マイアの顔色が悪くなっていく。彼女の心的外傷の決定的な部分に近づいているのだろう。
「無理に話すことは無いですよ、話したいところだけで大丈夫です」
そう彼女に伝えるが、彼女は首を振る。
「どっちにしても、その日から、あの襲撃の日までのこと、そもそもあんまり覚えていないんです。殆ど何も飲ませてもらえなかったことと、体中が、ずっと、痛かったことくらい、です」
気付けば朝顔ハナエは殆ど泣いているような顔で、立木マイアを抱きしめていた。しかし、抱きしめられている彼女はそれにもほとんど気付いていないかのようだった。
「……気付けば、私はどこかも分からない場所で倒れてた、みたいです。あとからミカさんに聞いたんですけど、ミカさんは、そうやって死にかけていた私にお水を飲ませてくれて、トリニティまで連れ出してくれたみたいです。襲撃の前の慌ただしい時間に、こっそり抜け出した、と、言ってました」
あの事件の裏で、最後尾にいたはずの聖園ミカはそこまでの危険な行動をやり抜いていたらしい。見つけたのが仮に偶然だとしても、一体、どんな離れ業でそのようなことを実現したのだろうか。
「それからのことは、ちゃんと覚えています。意識が戻ってきて、最初は、自分が天国にいるのかと思ったんです。やわらかいベッドの上で、綺麗な翼の生えた人が、お世話してくれていましたから」
蒼森ミネのことだろうか。確信は持てないが恐らくそうだろうと考える。
「暫くして、それが私が、私たちが憎んでいたトリニティの人たちだって気付いて、今度は突然怖くなって、泣いてしまいました。でも、その人は私を優しく抱きしめてくれて……、今のハナエさんみたいに」
立木マイアはそこまで言い、私がここに来て以来、初めて目を少し細めて小さく微笑んだ。
朝顔ハナエははっとした表情になった後、顔を赤くして、
「ご、ごめんなさい、つい……」
と言ったが、結局抱きしめる手は離さなかった。
「それから、色々な人と会いました。最初は……まともに言葉も話せない状態だったんですけど、それで怒ったりするような方は一人もいなくて。段々、私は今までひどい思い違いをしていたんじゃないか、って思うようになったんです。だって、私をひもじい目に合わせていたのも、痛い目に合わせていたのも、トリニティの人たちじゃなかったのに、どうして私はトリニティを憎んでいたんでしょうか……」
それが、洗脳というものだ。確かにアリウスはトリニティに迫害されていた過去を持つ
そしてその辛さと思想を結び付けトリニティを恨むように強制されていた、というのがベアトリーチェの手法だったのだろう。彼女が効率的にそれを行う手段を熟知しているのはよく知っている。
「……それで、私たちは失敗しました。マダムがそのことをどう思っているかは分かりませんが、もしかしたら私が逃げ出したことで、誰かが……もしかしたら、『スバル先輩』が、責任を取らされているかもしれません。私なんかと違って先輩はとても優秀なので、殺されるようなことは、多分ないと思います。でも……」
立木マイアはそこで言葉を切って、心配そうな顔をする。「スバル先輩」と立木マイアは2度言った。恐らく、その者がアリウスにいた当時の彼女の心の支えになった人物なのだろう。
「マイアさん、一つだけ、聞いても良いですか?」
「は、はい……な、何でしょうか」
今まで黙って聞いていた私がいきなり話始めて驚いたのか、彼女は再び縮こまって返事をした。
「マイアさんはエデン条約の調印式について、何か知っていることはありますか? 例えば、襲撃にその『スバル先輩』が参加するかどうか、など」
「……ご、ごめんなさい、分からないです。でも、それは多分、スクワッドの皆さんが主導することになっているはずなので、多分スバル先輩は待機しているか、別の作戦を与えられてるか、だと思います」
立木マイアは、詳細な作戦内容などを知る立場にはなく、ただ指示されたことを忠実に実行することを求められる立場のようだ。致し方ないだろう。
「成程……私たちは今、いくつかの作戦を立てていますが、その過程でアリウスの生徒を『保護』することもあると思います。そのスバルさんと言う方を見つけた場合、マイアさんにもお教えします。今、私から言えるのはこのくらいでしょうか、本当は必ず助けるとお約束したいのですが……」
「い、いえ……それだけのことをしてもらえるだけで、ありがたいです。先生、どうか、よろしくお願いします」
「ええ、私も出来ることに全力を尽くします」
立木マイアと約束を交わした私は、シャーレへと戻った。
新たに有力な情報を得ることが出来たわけではないが、それでも、私の中で確かに、この作戦を必ず成功させるという意思が強くなったことを感じていた。そしてその理由について、私は未だ気づいていない振りをしている。