薬品の匂いが漂う病院の廊下。私、生塩ノアは息を切らしながら走っていた。 目の前には友人のユウカちゃんが取り乱した様子で目的地に向かっている。看護師の注意する声を振り切り、目的の部屋に辿り着いた。
「先生!」
ユウカちゃんが勢いよく部屋を開けた。真っ白なベッドの中、先生が横たわっていた。全身に包帯が巻かれて、口には人工呼吸器をつけられている。私を何度も撫でてくれた優しい手には事故の凄惨さを物語るように包帯が何重にも巻かれていた。
死体のようにも見えたが、先生を繋いでいる心電図のモニターから一定間隔で鳴る音だけが生きている事を教えてくれた。
全ては一時間前のニュースから始まった。セミナーの部屋で流していたテレビに速報が入った。シャーレの建物が突如爆発して、先生はそれに巻き込まれたというのだ。目に映ったテロップを見て、私は視界が一瞬揺らいだ。隣に目を向けるとユウカちゃんが目を見開いていた。瞳と手が小刻みに震えていた。私と同じで現実を受け入れきれていなかったのだ。いてもたってもいられず、私達は病院に向かった。
「シャーレの先生のお知り合いでしたか?」
白衣を着た看護師の女性が入って来た。
「ミレニアムサイエンススクールの生塩ノアと言います。隣にいるのは友人の早瀬ユウカちゃんです」
「せ、先生は、先生は無事なんでしょうか?」
ユウカちゃんが声を震わせながら、看護師さんに問いかける。
「分かりません」
「わ、分からないってなんですか? 助けてください。お願いします! お願いします!」
「ユウカちゃん!」
ユウカちゃんが勢いよく看護師の両肩を掴んだ。私は急いで、ユウカちゃんを看護師さんから引き剥がした。
「先生」
力無い足取りで彼が横たわるベッドにしがみついた。半年前、先生とユウカちゃんは交際を始めた。ずっと先生の想いを胸に抱いて燻っていた彼女の背中を押した結果、交際に行き着いたのだ。幸せの絶頂の際にこんな悲劇が見舞われた彼女の心労は計り知れないものだろう。
「ノア」
優しい顔と声でいつも私に語りかけてくれた彼。焦がれ、求めた暖かな微笑みも見る事が出来ない。自然と視界が淀み始めた。面会時間終了まで、私とユウカちゃんはただ眠る先生を静かに眺めていた。
あれから数日。先生は全く目を覚まさない。毎日面会に行っても目に映るのは未だに微動だにしない先生と心電図の音だけ。今日も行ったが結果は同じだった。
明日は起きる。明日こそ起きてくれる。そんな淡い希望に縋りながら、毎日を生きている。光一つ差し込まない真っ暗なトンネルの中を進んでいる気分です。先生が綺麗と言ってくれていた髪も所々、枝毛が見え始めました。ダメですね。手入れはしっかりしないと。こんなんじゃあ先生に笑われてしまいます。
セミナーに行って、先生に会いに行って、家に帰る。これの繰り返し。私もユウカちゃんも先生の事があったせいか、仕事のミスが増えた。後輩のコユキちゃんにまで心配される始末です。
そして今日も部屋の中、布団の上で膝を抱える。今来ている白いパジャマ。以前、先生が可愛いと言ってくれたもの。このパジャマを着るたびに先生との思い出が蘇る。一度、捨てようとしましたがそれをすると先生との記憶まで捨ててしまいそうで怖かった。そんははずないのに。
「先生。私はどうすれば」
涙が視界を覆い隠そうとした時、ポストに何かが投函される音がした。
ポストの中には黒い封筒が一つだけ入っていた。封筒の中を開けると私宛にとあるビルに来るように書いてあった。こういう宛先がよくわからないものには応じない方が良いのですが、何故かその時の私は自然と足が外に向いた。
指定されたビルに到着するとすぐにエレベーターに乗って、階層ボタンを押した。
一体、誰が何の目的で私を呼んだんだろう。ここに来て、警戒心が沸々と強くなっていく。
エレベーターが止まって廊下に出ると一つの扉があった。ノックをすると扉の奥から声がした。生唾を飲んで、扉を開けた。
そこには真っ黒な顔に白いひび割れが刻まれているスーツ姿の人が椅子に腰掛けていた。
「初めまして、生塩ノアさん。ここまで御足労頂きありがとうございます。まぁ、私の事は黒服とでも呼んでください」
「それでお話とは? 黒服さん」
「先生の件は誠に残念でしたね」
その事を聞いて、胸に僅かな痛みが走った。
「追い討ちをかけるようで申し訳ありませんがあえて言います。先生が目を覚ます事はないでしょう。内臓の損傷があまりにも激し過ぎる」
「貴方がなんでそんな事を」
「私も外の存在だからです。とはいえ彼とは違う存在ですが」
この人の言う通り、先生はキヴォトスの外から来た人間。身体能力、耐久力はキヴォトス人より弱い。ならば今回も事故も致命傷になる。
「そこで一つご提案がありまして」
「提案?」
私が顔をしかめると黒服さんが反応するように軽く息を吐いた。
「生塩ノアさん。先生の子供を産みませんか?」