ヘビガミツカミ 作:イルルヤンカシュ
「お酒が足りないんですよねぇ……」
数時間に及ぶ騎士団司令部での会議が終わった時、イリィス女史がテーブルに突っ伏しながらそう漏らした。
「私で良ければ奢りますよ。ここ最近病気に戦争と立て続けで、お仕事を休む暇もないんじゃないですか? 本格的に魔王軍とやり合う前にですね、こう一回ぱーっと……」
「いえ、そういう意味ではなく……うーん、そういう意味でもあるんですが……。儀式用の御神酒の話ですよ」
「御神酒?」
イリィス女史は懐から小瓶を取り出してテーブルに置いた。
「教会本部で製造してるお酒でして、神様への捧げ物として儀式には欠かせません。市場に出回るようなものではないので、完全に本部からの配給に依存しているんです。普段は足りてるんですが、最近は連日消費しているので供給が追いついてないんですよ。……ほら、魔王軍来襲のD-デイを神様から引っ張り出さなきゃいけないので」
ぼやきつつ、イリィス女史は小瓶の口を開きかけて、それを鋼の精神力で押さえ込んでテーブルの上に戻した。どうやら本格的に酒を奢って差し上げる必要がありそうだ。
「へぇ……それ美味しいんですか?」
「知ってどうするんですか? 売り物じゃありませんよ」
「飲んじゃダメでも、飲んだら美味しいかも知れないじゃないですか」
「意味が分かりません……。まあ、美味しいですよ。かなり」
「やっぱり。じゃ一口頂いてもいいですか?」
「耳イカれてるんですか? いえ頭がイカれてるんですか? 今し方酒が足りないって話をしたばっかりだと思うんですが」
「誤差ですよ一口くらい。神様も気にしませんって」
「はぁ~。……まいっか、一口だけですよ。後で私も飲も……」
そしてイリィス女史から小瓶を受け取った私は、その黄色がかった透き通る酒を口に含んだ──
入り組んだ細い路地を、一人の女が走っていた。青い髪を振り乱し、鬼気迫る表情で、乱れる呼吸にも構わず一心不乱に走っていた。時折に背後を振り返っては恐怖に顔を歪め、もつれる脚に鞭打って、ただ走り続ける。
「ようやく、ようやく見つけたのに……っ」
女は荒い息の隙間から呟きを溢した。女は、逃げ惑っていた。
「一体何なの!? あの蛇は!?」
路地を縫うように駆け抜け、必死に振り切りを図る。隠している翼を出す訳にはいかなかった。これを使ってしまえば、魔力の残滓を嗅ぎつけた龍狩り騎士団の連中に己の存在が露見してしまう。魔王様の命令は「人に悟られず、人を殺さず、密かに事を成せ」である。これに反する訳にはいかない。
「……いや」
或いは今ここで騒ぎを起こして、少しでも奴らの戦力を誘引するべきなのではないか? 仲間たちは死に、私の命運も尽きた。ならば価値のある死に方をしなくてはならない。……既にゲートの設置も完了している。私が死んだとしても、遠隔で起動できるはずだ。
それに、あの忌まわしい蛇の凶行を龍狩り騎士団は魔族の工作と断じている。……この時点で当初の奇襲は不成立なのだ。そも、テヴェクに龍狩り騎士団が現れたこと自体が予想外の事態である。しかし魔王様は地上にお戻りになられた。もはや作戦中止はありえない。今ここで死ぬことこそが、私にできる最後の献身なのだ。何を恐れることがあるだろうか?
覚悟を決めた女は、人の皮に包んで隠していた己の正体を露わに──
「──破廉恥な行動は慎みなさい。魔族とやら」
高く、幼い声が聞こえた。少女の声だった。路地の向こうの暗闇から、赤く煌めく双眸が女を見据えていた。
その視線に射貫かれた瞬間、身体は凍り付いたかのように硬直した。指先一つ動かすことは叶わず、うめき声を漏らすことすらできない。邪眼の類いか? 化身の解除もできないまま女は思考するが、その思考には意味がなかった。
「人前で服を脱ぐなんて、常識がないのですか? お里が知れますね」
ゆっくりと狭い歩幅を繰り返しながら、それは女に歩み寄った。長い白髪の隙間から、赤い瞳が覗いていた。
「魔族……この世界では知恵ある化生の類いをそう呼ぶらしいですね。聞けば魔王などという大仰な名を持つ存在の走狗だとか。地底に封じられるような小物を有り難がっているようでは、天帝に弓引くなど夢のまた夢ではなくって?」
バイニャンは女の顔を覗き込み、酷薄に笑みを浮かべた。
「ああ、けれど……思えば全ての犬を捕殺するのに随分と手間取ってしまいました。私の目と鼻でもなかなか捉えられなくて、こうして出歩く人がいなくなってようやくです。余程、己を貶めるのが得意と見えますね」
女は、口元の自由が僅かに許されたことに気が付いた。身体の方は全く動かせないままだったが、どうやら眼前の存在は会話を望んでいるらしい。
「……己が身を人と貶める。それは貴様とて同じだろう、白蛇」
白蛇と呼ばれた少女は、とても楽しげに笑った。
「否定はしません。これは生き甲斐のようなものですから」
「貴様は……何者だ? 街に呪いを振りまいて、何を企む?」
「企みと言えるほど大層なものではありません。これもやはり、生き甲斐でしょうか?」
「貴様だって魔族だろう? 魔王様は我ら魔族の救い手、それを何故……」
「私は魔族などではありません。それに私の正体など知って何になるのですか? どうせもう死ぬのに」
先ほどまでの笑みは消え去り、白い少女は女の首元を鷲づかみにした。突き立てられた爪は蛇の毒牙に相同する。女の傷口から流れ出した血は、薄暗い青に染まっていた。
「品のない色。……そう言えば、貴女は娼婦の真似事をしていましたか、丁度良いですね」
女の全身に発疹が現れ、その肌は赤黒く変色していく。
「あの売女共と同じように、醜い本性を曝け出した姿で路傍に果てなさい」
バイニャンは女を壁に放り捨てた。女は、既に事切れていた。
「──あれ、このお酒どっかで飲んだことある気がします」
「そんな筈はありませんよ。先ほども言いましたが、市場に出回るような代物ではありませんから」
「いやでも……うーん、知ってる味だなぁ……。どこで飲んだんだっけ……?」
「……まあ、美味しいですからね。聖職者の中には御神酒をちょろまかして裏で売りさばくという神への叛逆に手を染めている輩もいるらしいですし、そう言った手合いから流れた物をどこかで飲んだのかも知れません」
「そういうこともありますか。ともあれ本当においしいですねこれ。すっごい好みです。全部飲んじゃっていいですか?」
「ぶん殴りますよ」
……その匂いを感じ取ったとき、白蛇は己の失策を悟った。
「ああ、貴女と同じ獲物を追ってしまいましたか。私としたことが、采配を誤りました」
どこか見覚えのある青髪が、変わり果てた姿でうち捨てられていた。
死体の傍らには少女が立っていた。白髪と、こちらを見据える深紅の瞳。私はそれをよく知っていた。
「……バイニャン、今思い出したんだけどさ、私は君が仕入れてくるお酒が大好きだったんだ」
「ええ、気に入って頂けたようでとても嬉しかったです。そして、申し訳ありません。最近は在庫が切れてしまっていたようで、手に入らなかったのです」
「うん、知ってる。実は仕入れ元が知り合いだったんだよ。酒を扱ってるなんて知らなかったなぁ」
「まあ、世間は狭いのですね」
「そうだね、驚きだよ。……でもさ、あのお酒は非売品なんだって、君はどうやって売って貰ったんだい?」
「……」
「ねぇ、バイニャン」
私は既にハバキリを抜刀していた。
「説明してくれるかな?」