ヘビガミツカミ 作:イルルヤンカシュ
地獄の空は今日も暗い。魔王は玉座に腰掛け、肘置きに頬杖を付きながら刻限を待っていた。
「魔王様」
「魔王様」
「魔王様」
「本当にご出陣なさるのですか?」
「龍狩り騎士団に女神の使徒、更に工作部隊を壊滅させた"蛇"なる怪異。危険すぎます」
「今一度、ご再考を」
犬、猿、雉。三人の従者の何度目とも知れない忠言を聞き流し、魔王は玉座から立ち上がった。
「……私はあのクソ女神の横っ面をぶん殴るために800年待ったのだ。此度を逃がして、次は何千年後か? 箱舟たり得る異物が流れ着く機会など二度とない。地上ではゲート開通の儀式も始まっているのだろう? 生贄もただではないのだぞ」
「ですが魔王様」
「想定外が多すぎます」
「せめて本陣にてお待ち下さい。箱舟は必ずや我らがお持ち致します」
城のバルコニーに歩み出た魔王は、夜闇のように暗い地獄の空を見上げながら鼻を鳴らす。
「それこそ論外だ。アレはかなりデカいのだぞ? 貴様らの矮小な翼では持ち上げることも叶わん程にな」
魔王はその身を巨大なドラゴンに変じ、その翼をはためかせた。
「……刻限だ、出陣する」
巨体が常闇の空に舞う。目指すは遙か頭上の岩盤、そこに穿たれた一筋の光が差し込む大穴である。
「さぁ、帰ろう」
魔王は光の中へ、地上に続く火口へと飛び込んで行った。溶岩の煌めく大地を置き去りにして。
「転移魔法か。魔族め、最も愚かな策に手を染めたな」
テヴェク上空に突如として現れた漆黒の球体を、アルベリタは忌々しく睨み付けた。見る間に暗闇からあふれ出すのは魔の眷属の群れ。ドラゴンを初めとした有翼の魔物たちである。
前触れもなく始まった襲撃に、しかし司令部の面々に動揺はない。彼らは静かに号令を待っていた。
「総員、これより第四計画に基づいて迎撃を開始する! 対空迎撃陣起動! 邀撃隊は1番隊のみ離陸! 2から4番隊は掩体壕にて即応体制を維持せよ!」
彼女の声が司令部の沈黙を打てば、無数の了解の声が響く。龍狩り騎士団は戦闘を開始した。
迎撃陣に立つ騎士たちは、振りかざした魔剣から上空へと無数の光波を放つ。翼竜に跨がった龍騎士隊も続々と離陸していった。戦端は空の上に開かれた。
空を見上げながら、アルベリタは思案する。
敵が上空に現れた時点で高度の優位は奪われている。完全に奇襲を食らったこの状況では、泥縄の迎撃に終始せざるを得ない。戦況は不利と言えた。だが──
「──魔王がこの辺境の地を狙う理由は一つしかない。テヴェク地下大迷宮、そこに眠る何かを連中は求めている。……ならば、見つけた物を持ち帰る必要がある」
転移魔法はゲートの展開と維持の双方に莫大なコストを要求する。幾人もの優秀な魔術師と夥しい量の生贄が揃って初めて開通し、それでも展開可能な時間は極短い。故に投入可能な戦力には限りがあるのだ。ゲートが消滅するまでに帰還できなければ、魔王軍は人類の勢力圏の中で孤立することとなる。
「迷宮までは辿り着かせてやる。好きにゴミ山を漁れば良い。……だが帰れるとは思わないことだ」
温存した龍騎士隊を以て敵軍の帰還を妨害し、周辺都市からの援軍を待ってこれを一網打尽とする。殲滅こそが第四計画の主眼であった。
──その時である。上空に煌めく炎と光波のぶつかり合いから飛び出す影があった。
「首狩りか! 目が良いのが紛れ込んでいるな!」
ドラゴンの一頭が対空迎撃をすり抜け、司令部へと急降下を仕掛けてきたのだ。
アルベリタは獰猛な笑みを浮かべ、白銀の刃を抜き放つ。その刀身は自ずから光を発していた。上質な祝福を施された武器に特有の現象である。
切っ先を天に向け、アルベリタは強襲を待ち構える。そしてドラゴンが火炎を吹かんと口を開きかけた所で、その体は突如として現れた巨大な"右手"に掴まれた。
「おや?」
あっけに取られて見上げるままに、ドラゴンは右手の圧倒的な膂力によって握りつぶされ、絶命した。
「司令官は指揮に集中していて下さい。対空迎撃は貴女の仕事ではありませんよ」
祈りの姿勢を解いたイリィスの素っ気ない言葉に、アルベリタは悪戯を咎められた子供のような顔で剣を鞘に戻した。
「お言葉ですがイリィス殿、対空迎撃は聖職者の仕事でもありませんよ」
「神様が"手を貸して"下さったんですから、活用しない手はありません」
「また畏れ多いことを仰る」
アルベリタは肩を竦め、大人しく指揮に戻った。"右手"は連日の儀式の結果、イリィスにもたらされた奇跡である。幾つもの英雄譚に謳われた女神の右手、呼び声に応じて高次元より現れ、あらゆる敵を叩いて砕く最強の拳である。
「何者であれ、戦える力を持っている人間が逃げるのは、責任の放棄ですから」
……斯くして、後に"テヴェク市防空戦"として知られる戦いが幕を開けたのである。
俄かに騒がしくなってきた世界から切り離されたように、路地の暗がりは緊張と静寂に支配されていた。構えた刃に油断はなく、私は眼前の存在の一挙手一投足に神経を集中した。
「確認させてもらうけど、例の病気を流行らせて、多くの人々を死に追いやったのは君で間違いないのかな? バイニャン」
真横に転がった赤黒い死体の有様から、聞くまでもなく知れていることを、それでも私は少女に尋ねた。応える声は、いつもと変わらぬ柔和な声色で紡がれる。
「はい、その通りです。ハルバル様」
「どうしてそんなことをしたんだい?」
「どうして、ですか?」
私が重ねた問いに、少女は紅い目を細め、首を傾げた。
「貴女が目移りしないように。貴女が、よそ見できないように。……上手く行っていたでしょう? 少しずつ、少しずつ、バイニャンというあどけない少女と、貴女に優しくしてくれる少女のいるあの家が、貴女の全てになっていくように。他はなんにも目に入らなくなるように。……私は上手にできていたでしょう? ねぇハルバル様?」
その声は、乾ききっていた。
「でも、また駄目だった。台無しにしてしまった。私はいつもそう……」
刃を向けられていることなど気にも留めない様子で、少女は路地の狭い空を見上げた。手を上に翳して、うんと伸びをするその仕草に、構えた刃が揺らぐ。呼吸を整えて、私は愛刀を構え直した。
「……君は、私のために、殺したと?」
私のためだけに、バイニャンは、歓楽街の女の子たちを、私が性欲を向けていた存在を、あの子たちを、ナタリアを、殺したというのか? この少女は。
「はい、その通りです。……どうやら、全て無駄になってしまいましたが」
私は言葉を失った。
……路地に沈黙が満ちようとも、時計の針は私たちに構わずに進んでいく。
空を駆けるドラゴンの群れ、地上に振り撒かれる火炎。魔王軍による空襲が市街を焼き始めたのだ。いくつかの至近弾があって、向かいの通りから炎が溢れ、周囲の家々に火の手が回る。
轟音と熱風に現実感を取り戻した時、眼前の少女は己の頭を抱きかかえ、爪を立て、激しく掻きむしっていた。
血が、彼女の白髪をしとどに紅く染めていく。
「嗚呼! 度し難い度し難い度し難い! 貴女を殺していいのは、私だけなのに!」
そして、小さな溜息が一つ。
「……さようならハルバル様。よく、ご覧になって?」
言葉を最後に、バイニャンの身体は変じた。白い少女は、空襲の火が生んだ陽炎だったかの様に、かき消える。
現れたのは、宙に浮かぶ有翼の大蛇。
山一つほどあろうかというその怪物は、白い蛇体を擡げて空に弧を描き、テヴェクの街に巨影を落とした。
第一章『蛇の恩返し』完 第二章『アポロン・コンプレックス』に続く。
第一章の投稿完了に伴い、作品タイトルを『ヘビガミツカミ』に改題します。