ヘビガミツカミ 作:イルルヤンカシュ
「おはようございます、ハルバル様」
暖かい朝食が並べられたテーブルの向こう、エプロンを脱ぎながらバイニャンは笑った。
彼女を我が家に住まわせるようになってしばらく、すっかり日常となった朝の景色である。
「おはよう、バイニャン」
私は蜂蜜が掛かった餅っぽい物をモチャモチャと咀嚼しながら、自分がちゃんと朝に起きてご飯を食べているという現実に信じがたい物を感じていた。
「……美味しいね、これ」
独身貴族の面目躍如とばかりに乱れきった生活リズムでやりたい放題していた持ち家ライフから一転、最近は商売女を家に連れ込むことがなくなったばかりか、夜更かしや寝坊もなくなって、すっかり規則正しい毎日である。
「本日の朝食も、お口に合ったようで何よりです」
自分以外の誰かしらを住まわせている家というのは、やはり自分だけの家として扱う訳にはいかない。ある意味で実家暮らしのような感覚が湧いてきてしまったというか、私は実家に女を連れ込んで一晩お楽しみするほど肝が太い女ではないのだ。
「一向にお口に合わない物が出されないから逆に怖くなってきたよ」
まあ、仮に私が女を連れ込んだところでバイニャンが私に意見するなんて事は決していないだろうし、むしろバイニャンは"気を使われている"とも取れる現状に、反って居心地の悪さを感じている節さえあるのだ。彼女を住まわせているのが私なら、女を連れ込まなくなったのも私なので、バイニャンに瑕疵がある訳ではないのだが……奴隷根性も困った物である。
「ハルバル様、今日はどこかへお出かけになるのですか?」
「うーん、決めてないけど……そうだね、昼は家で食べるよ。夜は多分外で済ませてくる。遅くなるから先に寝てていいよ」
「畏まりました。そのように致します」
バイニャンは軽く頭を下げると、空になった食器を纏めて、キッチンの方へと引っ込んでいった。
さて、夜出歩くことが決まったので惰眠を貪って備えるとしよう。私はカーペットに身を横たえ、転がっていたクッションを掴んで頭の下に引っ張り込む。起き抜けに甘い物を胃に入れた直後である、眠気はすぐに意識を蝕んでくれた。
……夢現な時間、半覚醒の意識の表層を外界の情報が滑って行く。
流れる水と、カチャカチャと食器がこすれ合う音。
足音に軋む床、掃除機のモーター音。
ガタガタと小刻みに響く洗濯機の振動。
食材を刻む包丁のリズム。
それらに混じる、気まぐれな鼻歌のメロディ。
「……懐かしい音」
それは家庭の音、私が育った場所の音だった。やはり、ここに誰かを呼ぶのは良くない。そんな感じがした。
しばらく微睡んで過ごしてから、バイニャンに起こされて昼食を摂り、後は気まぐれに本を読んだり、愛刀を弄ったりしていたら、夕方になった。
「行ってらっしゃいませ、ハルバル様」
「うん、行ってきます」
そして予定通り街に繰り出した私は、予定通りにならない現実に直面することとなる。
「ガーンだな、そんなことってある?」
歓楽街が丸ごと封鎖されていたのである。詰めかける冒険者たちを大通りから排除して回るテヴェク市の衛兵たちという殺伐とした光景を前に、私は立ち尽くすしかない。
「現在歓楽街はロックダウン中ですよ。営業中のお店は一軒もありませんのでさっさと帰宅して下さい」
聞き覚えのある声に振り返れば、見覚えのある小柄な女性の姿があった。
「イリィスさん……なぜこんな所に?」
「仕事です。回復魔法を使える教会の人員は片っ端から駆り出されているんですよ。これから各店舗を回って治療と浄化のデスマーチです。やってられませんね」
イリィス女史に聞いた所、数日前に歓楽街でちょっとヤバ目の性感染症が出たとかで、テヴェク市は感染拡大阻止の為に歓楽街のロックダウンに踏み切ったのだとか。それにしても告知もなしに突然の完全封鎖とは、随分とものものしいじゃないか。
テヴェク市の暴政ぶりに眉をひそめる私を他所に、イリィス女史は言葉を続ける。
「そう言えば貴女は回復魔法を使えましたね。丁度良いですし、貴女も治療に協力して下さい。今なら善行スタンプも大盤振る舞いしますよ」
やはりというべきか、お仕事が発生してしまった。それはそうだ、回復魔法を使える人間は一人でも多くいた方がいいだろう。私はしばらく黙って、それから懐からスクロールを引っ張り出してイリィス女史に押しつける。
「……加減を間違えて女の子に怪我させちゃった時用に持ち歩いてる物です。ハイネス・ヒールが30回分入ってます。その辺の性病くらいならこれで一発ですよ」
「うわぁおもむろに超高級品を押しつけられてビビってます。……えぇ? どういうことですかこれ?」
イリィス女史は怪訝そうな視線を投げて寄越す。なんだか居たたまれない気持ちになってきたが、ここは心を強く持って押し通した。
「その……これで勘弁して下さい。今日は休日のつもりだったんです。働くのはちょっと無理というか、えっと、はい……」
「はぁ、そうですか。まあこのスクロールがあればどうにでもなりますし、別に良いんですが……何というか、ありがとうございます。あ、スタンプ押しますね」
31個目のスタンプをゲットした私は、することもないので来た道を引き返して家に帰った。
──そう、冷静に考えれば、今の私は歓楽街が閉鎖されていても別に問題はないのだ。
「お帰りなさいませ、ハルバル様。お早いご帰宅ですね。何かあったのですか?」
「ただいまバイニャン。なんか変な病気が流行ってるみたいでね、歓楽街が丸ごと封鎖されちゃっててさ。仕方ないんで蜻蛉返りさ」
「……それは大変でございますね。歓楽街の方はそんな有様なのですか」
バイニャンは、はたと気づいたように声を上げる。
「ハ、ハルバル様は大丈夫なのですか!? 日頃歓楽街に通い詰めていらっしゃいますし、その変な病気を貰ってなど……!!!」
「あー、うん。大丈夫だいじょうぶ。私には加護あるから。いつでも無病息災なんだよ」
私は包帯に包まれた左腕を掲げてみせる。以前にも左腕に宿る効能については説明したはずだし、なんだったらこの包帯も昨日の夜にバイニャンに巻かせたものなのだが、気が動転すると記憶なんて吹き飛んでしまうらしい。
「はあ、良かった……」と胸をなで下ろすバイニャンを前に、私は思わず苦笑してしまった。誰かに心配されるだなんて、何時以来だろうか?
「あ、でしたらお食事の準備をしないといけませんね。冷蔵庫に作り置きがありますので、それに副菜を合わせればすぐに……ああ、それともお風呂を先になさいますか? 水浴びで済ませるつもりでしたので、沸かすのに少々お時間がかかってしまいますが……どちらを先に済ませましょう?」
バイニャンは眉根を寄せて、上目遣いの視線をこちらに向ける。
「……」
「……ハルバル様?」
私は少し考えてから口を開く。
「……それよりも、済ませられなかったことを済ませたいかな」
我ながら白々しく、態とらしい言い回しだなと思う。抑えがたい愉悦が込み上げてきて、右の口角が引きつるのを感じた。
それを聞いたバイニャンは一瞬キョトンとして、それから改まって襟首を正した。
「ではハルバル様。お風呂になさいますか? ご飯になさいますか?」
少女は僅かに舌を覗かせ、下唇を濡らした。
「それとも、私になさいますか?」
「君になさいます」
「畏まりました。そのように致します」
そこで我慢できなくなって、二人して声を上げて笑った。