【本編完結】旅する物語 異世界探訪 五条悟との邂逅   作:masuda028

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【呪術廻戦/五条悟/煉獄杏寿郎】
世界を越えて、悲劇に抗う物語。

※本作は『呪術廻戦』の世界をベースにした二次創作です。
※キャラクターには独自解釈・改変を含みます。
※原作をご覧のうえでの閲覧をおすすめします。

◆ヒロインは名前固定&設定強めのオリジナルキャラクターです(夢主=“あなた”形式ではありません)。
◆「夢小説」タグは広義の意味で使用しています。不快に感じる方はご注意ください。

碧淵(へきえん)編では再び高専時代に戻ってます。
時系列的には遷光編内の煌宴編後ぐらい。
note連載中の『チャッピー、またやったな。』でやったエピソードを劇場版って感じで加工してみました。
皆さんの脳内でMAPPAさん作画の劇場版が再生されたらいいなぁと。宜しくお願いします!


碧淵編 人魚の王子が絡む劇場版 別名せいらの海底探検記
125 碧淵編 1・2:深海に沈む赤い衝動と、人魚を夢見る少女の願い


●プロローグ

 

 海はどこまでも広くて、どの陸地とも繋がっているという。

 けれど今の僕にとって、その広がりはただの「答えのない問い」だった。

 

 かつては賑やかだったこの場所も、今は冷たい水流が通り過ぎるだけの、息を潜めたような深淵。

 

 水の流れさえ、どこか鈍く感じた。

 まるで海そのものが、深い眠りに落ちてしまったかのようだった。

 

 ──みんな、居なくなった。

 

 あの日、地上からやってきた巨大な影に、根こそぎ奪われて。

 仲間の亀や魚たちは、震えながら僕に言う。

 

「王子、地上へ行ってはいけません。あそこは、僕らを異形として扱い、切り刻む、乾いた地獄なんです」

 

 ……そう、なのだろうか。

 胸の奥で、小さな泡のような違和感が静かに浮かび上がった。

 

 言い聞かされてきた恐怖と、胸の奥で小さく灯る疑いが、

 深い海の底でゆっくりと混ざり合っていく。

 

 連れて行かれたみんなは、今、どこで何をしているんだろう。

 

 地獄で泣いているのか。それとも、案外、楽しく暮らしているのか。

 

……わからない。

 

 考えようとするたび、胸の奥で小さな泡が弾けては消える。

 答えのない暗闇を手探りで進んでいるようで、

 そのたびに心臓だけが落ち着かずに騒ぎ出す。

 

 ──心の底に沈んだ水がそっと揺れている。

 僕の体の奥で、冷たい潮が逆流するようにざわめきが走った。

 それは恐怖とは違う、もっと形の定まらない衝動だった。

 時折、海面に揺れる月の光を見上げるたびに、僕は思ってしまうんだ。

 

 あの光の向こうには、歌いたくなるような美しい世界があるんじゃないか。

 ──優しい「誰か」が待っているんじゃないか、と。

 

 けれど、僕はあのお伽話のお姫様みたいに、無邪気な憧れだけで海を飛び出すことはできない。

 僕の胸には、仲間たちが一瞬で消え去ってしまったという、あまりに重い沈黙が張り付いているから。

 

 怖い。考えようとするたびに、胸がきゅっと縮むほどに。

 

 それでも、心のどこかで波が静かに満ちてくる。

 恐怖とは別の、名前のつかない感情が。

 

 ──見たい。

 仲間たちが消えた、あの「光」の世界を。

 

 失われた大切なものが、本当に“失われたまま”なのかどうかを、僕は、確かめに行きたいんだ。

 

 そう願った、その時だった。

 

 上空──遙か海面の上が、見たこともないほど荒れ狂った。

 

 落雷が海を白く焼き、激しい衝撃波が深海まで届く。

 

「……ッ、何……!?」

 

 見上げると、嵐の闇を切り裂いて、巨大な影が海面に叩きつけられた。

 

 陸の住人たちが乗る、鉄の船。

 深海から見上げるそれは、海には本来存在しない“異物”の影だった。

 

 そこから、黒い「呪い」の気配と共に、ひとつの小さな影がこぼれ落ちた。

 

 泡を撒き散らしながら、深い青へと沈んでくる。

 

 その小さな体は、水に触れた瞬間から力を失っていて、

 まるで海がそっと抱き込んでしまったかのようだった。

 

 泡に包まれ、静かに目を閉じている少女。

 

「…………!」

 

 考えるより先に、僕は泳ぎだして、その体を強く抱き寄せた。

 地上は怖いところだと、あれほど言い聞かされてきたはずなのに。

 

 ──あたたかい。

 

 驚くほど、温かかった。

 深海の冷たさに慣れた僕の指先には、その熱が異質で、けれどどこか懐かしかった。冷たい海の中に、こんなにも確かな「熱」があるなんて。

 

 ボロボロになった服や、小さな傷からは、この子がさっきまで抱えていたであろう「嵐」の激しさが伝わってくる。

 

 僕が今、腕の中で抱きしめているのは──どんな海の生き物よりも脆くて、今にも消えてしまいそうな、「人間」の少女だった。

 

 僕は少女を連れて、一気に水面へと駆け上がる。

 重い水圧を突き破り、荒れ狂う嵐の渦中へ。

 

「……あ、……」

 

 見つけた救命ボートへ横たえる。

 叩きつける雨の中、あの子は小さく咳き込み、ほんの一瞬だけ、まつ毛を震わせた。

 

 その微かな動きが、深海の静けさに慣れた僕には

 まるで光が差し込んだように鮮やかに見えた。

 

「──せいら!!」

 

 遠く、鉄の船のほうから、かき消されそうな男の絶叫が響いた。

 ひどく必死で、悲痛な声。

 

 心臓を直撃するようなその叫びに、僕は息を呑んで、弾かれたように波間の下へと身体を滑らせた。激しい水飛沫とともに、冷たい泡のカーテンが僕を隠していく。

 

 ──深く、深く、光の届かない場所へ。

 

『せいら』

 

 その響きだけが、泡の混ざる冷たい水の中でも、僕の耳の奥に歪んで残っていた。

 

 あの子の瞳に、僕の姿は映っただろうか。

 暗い海の底でしか生きられない異形の僕を、どんなふうに見たのだろう。

 

 ──その時、一瞬だけ激しく弾けた雷光が、僕の髪を鮮烈な赤に焼き付けた。

 深海では闇に溶けていた僕の本当の色が、あの一瞬、光の世界に晒された。

 あの子の瞳に、その色は届いただろうか──わからない。

 

 あの子が安全な箱舟に守られたのを見届けて、僕は再び、波の下へと体を深く沈める。

 海面の光が遠ざかるたび、胸の奥に残ったあたたかい熱だけが、ゆっくりと深海へ沈んでいくのを感じた。

 

 心臓の鼓動が止まらない。

 

 せいらという名が、水の中でもはっきりと響いていた。

 

 僕の手のひらに残った、消えそうなほど微かな熱。それは深海では決して触れられない温度で、けれど僕の胸の奥を、眩しい光で満たしていくような穏やかな高鳴りだった。

 

 地上は、きっとただ怖いだけの場所じゃない。

 そこには、僕が守らなければならない「光」がある。

 

 僕の目には、その輝きが、どんな宝よりも尊く思えた。

 

 

●1

 

 高専の科目準備室。

 窓から差し込む午後の光が、机の上に散らばったプリントや、せいらの持ってきた絵本の山を無造作に白く撫でていた。

 

 ソファーの反対側では、その中から選んだ一冊を胸に抱えて、せいらが何やら熱心にページをめくっており、その向こうではお師匠様が静かに紅茶を淹れている。

 

 そよかは温かい黒猫の描かれた湯呑みを片手に、いつもの習慣でテレビのリモコンへ指を伸ばした。

 

 画面がふっと明るくなり──最近よく見かけるCMが始まる。

 

(波の音……静かに寄せては返す)

 

 月明かりの回廊。
 裸足の女性。
 赤い雫。
 鏡の中で白く変わる肌。
 黒い封蝋の箱。

 

 ──EXSEAL(エクシール)


『永遠は、とても短い』


《使用期限:240時間》

 

 最後に、
 鏡の奥で“赤い髪”がふわりと揺れる。

 

 ──暗転。

 

 湯呑みを口元に運んだまま、
 そよかはしばらくテレビを見つめていた。

 

「……最近このCM、よく見かけるけど」

 湯呑みの縁に息を落とすように、小さくため息をつく。

 

「なんでそんなに人気なのかしら……」

 

 湯呑みを持つ指先が、ほんのわずかに止まる。

 “理解できない”というより、胸の奥に小さな棘が引っかかったような感覚。

 

 画面の中で揺れた“赤い髪”が、妙に記憶に残る。

 

 ──

 

「そよか〜。テレビもいいけど一緒に絵本みようよぉ」

 そよかの横に座り直して、改めて絵本を開いた。

 

 午後の光って、なんでこんなに体の力が抜けちゃうんだろう。

 窓から入ってくるやわらかい光が、机の上のプリントを照らして、

 その上に置いていた絵本の色まで、ちょっとだけ淡くしてしまう。

 

 人魚姫の絵本に視線を落とす。

 

 海の底は青くて、きらきらしていて、

 絵本の中の人魚姫は、なんだかとても楽しそうだった。

 

「ふにゃー……」

 

 ページをめくるたびに、胸の奥がふわっとする。

 この“ふわっ”ってなんなんだろう。

 わからないけど、悪くない。

 

「海の中にも、こんな風に暮らしてる人がいるのかなー」

 

 ぽつりと呟くと、

 絵本の中の泡が、ほんとに耳元で弾けた気がした。

 

「どうかしらね」

 

 紅茶の香りと一緒に、お師匠様の声が届く。

 いつもの落ち着いた声。

 でも今日は、なんだかその声が“遠くの海”みたいに聞こえた。

 

 ──その時だった。

 

「……あっ!」

 

 わたしの頭の中で、何かがきらんとひらめいた。

 

 ひらめいた瞬間、胸の奥がぱあっと明るくなった気がした。

 

「そうだ! お師匠!」

 

「なに?」

 

 お師匠様が振り返る。

 わたしは胸を張って言った。

 

「人魚になれる方法ないの?」

 

 静寂。

 空気が一瞬だけ止まった。

 

 あ、これ、なんか言っちゃいけないこと言った時の空気だ。

 

「……人魚になりたいの?」

 

「うん!」

 

 即答。

 だって、ほんとにそう思ったんだもん。

 

「だってお水の中って上手く泳げないしー」

 

 言いながら、自分の足先を見つめる。

 水に入ると、体がふわっと浮く感じがまだ怖い。

 息の仕方も、力の入れ方も、ぜんぜんわからない。

 

「だったら人魚の方がいいかなって!」

 

 言ってから気づいた。

 これ、ちょっと変なこと言ってるかもしれない。

 

 お師匠様は、紅茶を注ぐ手を止めた。

 

「……でも」

 

 その声は、いつもより少しだけ低かった。

 

「人魚になるにしても、知らないことが多すぎて危険よ」

 

「そうなのぉ!?」

 

 わたしの胸の中の“ふわっ”が、しゅん、としぼむ。

 

「海の中の環境、生態、適応条件……」

 

「なんか急に難しくなった」

 

「そう?」

 

 お師匠様は淡々としているけれど、

 わたしの頭の中はもう“???”でいっぱいだった。

 

 でも──

 次の言葉で、全部がひっくり返る。

 

「まずは夏油傑に相談してごらんなさい」

 

「すぐるに?」

 

「もし彼が“いい”と言うなら」

 

 一拍。

 

「人魚になる夢……叶えてあげるわ」

 

 お師匠様はそう言って、悪戯っぽく、けれどどこまでも慈しむような笑みを浮かべた。

 

 めったに見られないその優しい「にっこり」が、わたしの胸を狙い撃ちにする。

 

 さっきまでしゅんとしていた胸の奥の“わくわく”が、まるで魔法をかけられたみたいに、一瞬で“ふわっ”と明るく花開いた。

 

「ほんと!?」

 

 目が勝手に輝く。

 体が勝手に立ち上がる。

 

「じゃあ聞いてくるー!」

 

「待ちなさい」

 

「なにー?」

 

「ちゃんと説明するのよ」

 

「うん!」

 

「“なんで人魚になりたいのか”も含めて」

 

「……」

 

 わたしは考えた。

 ほんの三秒くらい。

 

 そして笑った。

 

「泳げないから!」

 

「……そう」

 

 お師匠様の声が、ちょっとだけ優しくなった気がした。

 

 バタン、と扉が閉まる。

 

 わたしは勢いよく廊下へ飛び出した。

 足音が床に跳ね返って、胸の中の“ぱあっ”が一緒に跳ね上がって、体の奥まで広がっていく。

 

「すぐるー!」

 

 声が廊下に響く。

 

「どうしたんだい? そんなに慌てて……」

 

 すぐるがぴたりと歩みを止めて、じっとわたしを見る。

 なんか……すぐに察したみたいな顔。

 

 わたしは息を切らしながら、でも笑顔だけは全力で言った。

 

「ねぇねぇ!」

 

 胸の前で手が勝手にぱたぱた動いて、気づいたらすぐるの目の前まで飛び込んでいた。

 

 わたしの声が、廊下の空気を一気に明るくしたみたい。

 

「人魚になりたいんだけど、なっていいよね?」

 

 急いで走ってきたせいで、説明がぜんぜん追いついていない。

 

 言った瞬間、自分でも“あれっ?”って思って、肩がきゅっと上がった。

 でも、すぐるを見上げる目は、きらきらさせたまま待ってみる。

 

「……え?」

 

 すぐるの眉がぴくりと動いて、表情が止まった。

 言葉より先に、状況を整理しようとする“静かな思考”が空気に滲む。

 

 わたしは思った。

 

(あ、これ、たぶん説明が必要なやつだ……。

 でも、すぐるならきっと大丈夫……だよね?)

 

 胸の奥で、さっきまで“ぱあっ”と広がっていた光が、少しだけ落ち着いて、丸くなる。

 

 すぐるはゆっくりと息を吸い、わたしの言葉を探るように視線を落とした。

 

 

●2

 

 バタン、と扉が閉まった。

 せいらの足音が遠ざかっていく。

 

 にぎやかな余韻が完全に消え去ると、科目準備室には“音のない波”みたいな静けさが落ちた。

 せいらが置いていったあたたかさがすっと引いて、空気だけが取り残されたようだった。

 

 湯呑みの中の熱が、気づかないうちにじわじわと逃げていく。

 指先に伝わる冷たさが、胸の奥のざわつきと妙に重なった。

 

 湯気の向こうで、お師匠様の淹れた紅茶の香りだけが、

 部屋の空気にゆっくりと広がっていった。

 

 私は湯呑みをそっと机に置く。

 立ち上がると、窓からの午後の光が足元に長く落ちた。

 眩しいほどの明るさが、夢みたいに遠のいていったさっきまでの空気から、私を急に“現実”へ引き戻した。

 

「……傑はなんと答えるでしょうか」

 

 自分でも驚くほど自然に、声が口をついて出た。

 

 壁際まで歩き、背中を預ける。

 さっきまでテレビの中にあった“海の気配”が、

 まだ胸の奥に残っている気がした。

 

 お師匠様が振り返る。

 紅茶の香りがふわりと広がる。

 私は壁にもたれたまま、軽く息を吐いた。

 

「さあ」

 

 お師匠様は紅茶の入ったポットに視線を戻す。

 その横顔はいつも通り穏やかで、けれど瞳の奥だけが静かに揺れていた。

 まるで“こちらの反応を測っている”ような、深い海の底の光みたいに。

 

「でも、止めるでしょうね」

 

「ですよね」

 

「ええ」

 

 短い言葉のやり取り。

 けれど、その裏にある“理解”は深い。

 

 せいらは、ああ見えて繊細だ。

 怖がりで、でも好奇心が強くて──そして、何かに“触れられやすい”。

 外の世界の気配に、ふっと心を揺らされてしまう子だ。

 

「まったく……せいらったら、数日前の任務中に海に落ちた事を忘れているのかしら」

 

 思わず呟くと、

 お師匠様がほんの少しだけ、目を細めた。

 

「覚えているからこそ、海の方が手を伸ばしてきているのかもしれないわね──」

 

 その言葉に、胸の奥がひやりとした。

 

『呼ばれる』

 

 それは、私たちの世界では決して軽い響きではない。

 ましてや、海の底からの呼び声なら──なおさら。

 

 窓の外で、風が木々を揺らす。

 その音が、妙に遠く聞こえた。

 

(……傑が止めるかどうかで、全部決まる)

 

 私は静かに息を吸い、

 紅茶の香りの中で、そっと目を閉じた。

 

 ──

 

 ──高専の廊下。

 

 窓から差し込む午後の光は、やけに柔らかかった。

 任務帰りの書類を抱えたまま歩いていた私──夏油傑は、その穏やかな光に目を細めながら、静かに足音を響かせていた。

 

 不意に、静寂を破るように聞き慣れた声が響く。

 

「すぐるー!」

 

 勢いよく駆けてくる足音。

 振り返るより早く、せいらが目の前でぴたりと止まった。

 

「ねぇねぇ!」

 

 息が弾んでいる。

 目はきらきらしている。

 廊下の光を全部跳ね返すみたいに、顔が明るい。

 

 ……嫌な予感しかしない。

 けれど、せいらの“光”を曇らせるような言い方だけはしたくなかった。

 

「人魚になりたいんだけど、なっていいよね?」

 

「……は?」

 

 私は数秒、言葉を失った。

 

 冗談か、本気か。

 その境界線を探るように、せいらの顔をじっと見る。

 

 ただの無邪気な笑顔だった。

 

「……誰かに、何か言われた?」

 

「えっとね、人魚になりたくて、お師匠に相談したら、まずすぐるに聞いてこいって」

 

「そうか……」

 

 せいらのお師匠様……まだ一度も会った事はないが、お伽話に出てくる魔女のような人だと聞いている。

 “意図”は読めないが、軽い話ではないことだけは分かる……。

 

 私は小さく息を吐き、廊下のベンチに腰を下ろした。

 

「少し、いいかい」

 

「うん?」

 

 せいらも隣に座る。

 足をぶらぶらさせながら、こちらを見上げてくる。

 

「“なりたい”っていうのは、どういう意味?」

 

 私の質問に少し考え、指を折りながら言葉を並べた。

 

「海の中って、ちょっと怖いじゃん。息できないし、上手く泳げないし、どこまで深いか分かんないし」

 

 ぽつり、ぽつりと落ちる言葉は、どれも子どもみたいに素直だった。

 

「でも、人魚だったら平気でしょ? だったら、ちょっと見てみたいなって」

 

 私は黙って聞いていた。

 否定も肯定もせず、ただ“せいらの気持ち”を受け取るように。

 

「それにね」

 

 絵本のページをめくるような声で続けた。

 

「本とか読んでると、海の中ってすごく綺麗で、静かで、別の世界みたいで……なんだか、すごく懐かしい感じがして、そういうところなら一回行ってみたいなーって思った」

 

 その横顔は、ただの好奇心ではなかった。

 “知らない世界を見たい”という、まっすぐな願いだった。

 

 私は静かに問う。

 

「……帰ってくる気はあるよね?」

 

 問いながら、自分でも驚くほど声が柔らかかった。

 せいらの無邪気な願いを折りたくない。

 でも、危ない目には絶対に遭わせたくない。

 その二つの気持ちが胸の奥で静かに揺れる。

 

「もちろん、あるよ?」

 

 きょとんとした顔で言葉を返す。

 

「だって、みんないるし」

 

 その一言で、胸の奥の緊張がふっとほどけた。

 

「そっか」

 

 それだけで十分だった。

 

「君のお師匠様は何て?」

 

「えっと……知らないことが多すぎて危険って言ってたかな」

 

「……そうか」

 

 風が窓の外で木を揺らす。

 その音だけが、現実を少しだけ濃くした。

 

「……本当に、甘く見ない方がいい」

 

「うん」

 

「思っているより、ずっと」

 

「うん」

 

「それでも行きたいか?」

 

「うん」

 

 迷いはなかった。

 その瞳には、ただ“見たい世界”が映っていた。

 

 私はその顔を見て、静かに言った。

 

「分かった」

 

 せいらの肩がぴくりと跳ねる。

 

「条件がある」

 

「なに?」

 

「一人で判断して行動しないこと」

 

「うん」

 

「おかしいと思ったら、すぐ戻ること」

 

「うん」

 

「……必ず、帰ってくること」

 

 せいらは少しだけ笑って、

 まるで当たり前のことのように言った。

 

「うん! 帰ってくるよ。約束する」

 

 その言葉を、私はしっかりと受け取った。

 

「じゃあ、その話……受けてみようか」

 

「ほんと!?」

 

「ああ」

 

 ぱっと、世界が明るくなる。

 せいらの笑顔は、光そのものだった──

 触れたら消えてしまいそうなほど、まっすぐで。

 

「やったー! じゃあ人魚になれる!」

 

「……いや、まだなると決まったわけじゃない」

 

「えー?」

 

「まずは準備だ。七海を呼ぶ。そよかにも話を聞く。ちゃんと計画を立てる」

 

「すぐるってやっぱりすごいねぇ」

 

「なんでだ」

 

「なんか、夢の話なのに、現実にしてくれる人って感じ」

 

 私は少しだけ困った顔をした。

 

「……現実にするんじゃない」

 

 一拍置いて。

 

「せいらが確実に帰ってこられるようにするだけだ」

 

「ありがとう!! それならわたし、人魚になれるね!? やったー!! お師匠様に伝えてくるー!!」

 

 せいらは立ち上がる勢いのまま、ぱたぱたと廊下を駆け出していった。
 その背中が角を曲がって見えなくなるまで、私はしばらく目で追っていた。

 

 ……君は本当に光みたいだ。


 触れたら消えてしまいそうで、でも確かにそこにある。

 

 ふっと息を吐くと、胸の奥に残った緊張がゆっくりとほどけていく。
 けれど、完全に消えるわけではなかった。

 

(……海、ね)

 

 せいらが言った「懐かしい」という言葉が、妙に引っかかっていた。
 海に落ちた時の記憶を、どこまで覚えているのだろう。
 あの時の“気配”を、どれほど感じ取っていたのだろうか。

 廊下の窓から差し込む光が、床に淡い影を落とす。
 その影が、波のように揺れて見えた。

 

 ……呼ばれている──まさか、な。

 

 あれほど水を怖がっていたはずなのに、今は自ら進んであの深淵へ行きたがっている。

 ──数日前の任務で海に落ちたあの時から、何かが始まっているのだろうか。

 

 私は腕の中の書類を強く抱え直し、重い足取りで歩き出した。

 せいらの無邪気な願いを叶えるためには、あまりにも多くの障壁がある。

 

 資料室へ向かう途中、ふと足を止めた。

 窓の外で風が木々を揺らし、その影が床の上でゆらゆらと蠢いている。

 その影が、ゆらりと水の底みたいに揺れて見えた。

 

 自分でそう考えて、すぐに小さく首を振る。

 ……考えすぎだ。せいらが口にした「懐かしい」という感覚は、ただの幼い憧れかもしれない。

 

 けれど、胸の奥に沈んだ冷たいざわめきは、簡単には消えてくれなかった。

 それを無理やり押し込むように、私は深く息を整える。

 

「……まずは七海に連絡するか」

 

 小さく呟いて、歩き出す。


 あの“光”を守るためなら、どれだけ準備しても足りない。

 

 海の底がどんな場所であれ、
 “帰ってくる”未来だけは、絶対に揺らがせない。

 

 そのために、私は動く。

 ──せいらの光が、深海に呑まれないように。

 




ここまでご覧いただきありがとうございました。
それでは大体また来週!

うちの禪院直哉が活躍(?)する関連作品も一旦完結
『あの禪院直哉が、こんなにデレるはずがない。』
https://syosetu.org/novel/409273/

◆ノベマ!にて公開中 完結済
https://novema.jp/book/n1778713
→オリジナル作品(現代ファンタジージャンルの不思議な学園ホラー)

お気に入り数としおり数と評価者数の合計5ずつで、各編おまけ公開は地味に続けてます。
次の75は遊興編のおまけ微エロな内容を公開します。
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