無窮の魂   作:yumui

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忘れられた神

あの日の光景が、夢の中で繰り返される。北の砦、交錯する剣、そして差し伸べられた手。ミアはその手を取った。あの時から全てが始まった。

 

 

栄光も、絶望も、神になったことも。

 

 

レガルドの声が遠ざかっていく。夢が薄れていく。

ミアは目を開けた。

 

暗い森の中だった。木々の隙間から月明かりが差し込み、地面に複雑な影を落としている。ミアはゆっくりと体を起こした。

 

背中の下には腐葉土の柔らかな感触。どれくらい眠っていたのだろう。

 

白い髪が視界を遮る。ミアはそれを払いのけた。

かつて茶色だった髪は、新たなる神になってから白く変わっていた。水面を見れば、緑色に変わった瞳が映る。神になった者の証。だが今や、その力の大半は失われていた。

 

600年。

 

神として世界を導いた時間。仲間と共に北方諸国に人類の黄金時代を築き上げた日々。だが文明は衰退し、角人との再戦で世界は荒れ果て、共に神になった仲間たちは死んだ。時の流れに消えていった。

 

現代では忘れられた者とだけ伝説に伝えられる彼女は神になることを拒んだ。正しかったのかもしれない。

 

ミアは立ち上がり、緑色の衣の埃を払った。かつて神として纏っていた豪奢な白と白金の服ではなく、旅人のような簡素な服。

 

森を抜け、小川のせせらぎが聞こえてきた。

 

水音に導かれるように歩いていくと、月明かりに照らされた川が現れた。水は清らかで、冷たそうだった。ミアは衣を脱いだ。

 

白い肌に、無数の古傷。数百年の戦いの記憶が、身体に刻まれていた。

 

ミアは川に入り、冷たい水を身体にかけた。水が白い髪を濡らし、肌を伝って流れていく。疲れが少しずつ洗い流されていくようだった。

 

その時、上流から何かが流れてきた。

 

最初は流木かと思った。だが、月明かりの中でそれが人の姿だと気づく。少年だった。赤い髪の少年が、意識を失って水に流されている。

 

 

ミアは反射的に駆け寄り、少年を引き上げた。身体は軽く、まだ十代半ばといったところか。服はぼろぼろで、身体中に傷がある。腹部には深い裂傷があり、血が滲んでいた。

 

「死んでない」

 

ミアは少年の脈を確認した。微かだが、まだ生きている。治癒の魔術があれば簡単に治せただろうが、それはかつての戦友の領分だった。今は彼女も、この世にはいない。

 

ミアは袋から包帯を取り出した。傷口を洗い、布で圧迫して止血する。応急処置だが、これで少しは時間が稼げるだろう。

 

包帯を巻きながら、ミアは少年の額に手を当てた。

 

記憶の魔術。

 

かつてほど強力ではないが、まだ使える。正気を削りながら、ミアは少年の記憶に潜り込んだ。

 

最初に見えたのは燃え盛る村だった。藁葺きの家々が燃え、人々の悲鳴が響く。角人の兵士たちが通りを行進し、逃げ惑う村人を容赦なく斬り捨てていく。

 

少年は家族と共に逃げようとしていた。母親の手を握り、必死に走る。だが角人の騎兵が追いつき、母親が切り倒された。

 

「カイル! 逃げて!」

 

母親の最期の叫び。少年――カイルは振り返りもせず森へと逃げ込んだ。角人の兵士が追ってくる。剣が振り下ろされ、背中に傷を負う。それでもカイルは走り続けた。

 

森の中、足を滑らせて崖から落ちる。身体が川に叩きつけられ、意識が遠のく。

 

そして、流されてきた。

 

記憶の映像が途切れる。ミアは手を離し、深く息を吐いた。頭の中に他人の記憶が渦巻き、自我が揺らぐ。だが数百年の経験が、ミアを現実に繋ぎ止めた。

 

「角人の神…」

 

ミアは呟いた。新たなる神になった角人。黄金の王座に座った者がまた現れたのだ。そして人類を襲っている。

 

歴史は繰り返す。新たなる神が現れ、戦争が起き、文明が崩壊する。終わりのない円環。

 

自分達以外の誰かが使わないように、ミア達は王座を封印した。だが封印は完全ではなかったのだろう。

 

「う……」

 

少年が呻き声を上げた。瞼が震え、ゆっくりと目を開く。赤い瞳がミアを捉えた。

 

「起きた?」ミアは言った。

 

少年は混乱した様子で周囲を見回した。森、川、そして目の前の白髪の女。状況を理解しようと必死になっている。

 

「あんたは……」 

 

「見ての通り、通りすがりよ」ミアは簡潔に答えた。「川を流れてきた貴方を拾った」

 

少年は自分の身体を確認した。包帯が巻かれている。腹の傷が手当てされている。

 

「助けて、くれたのか」

 

「そう」

 

「ありがとう…ございます」少年は頭を下げた。「あんたの名前は?」

 

ミアは少し考えた。本当の名を名乗るべきか。だが忘れられた神の名を知るものは現代では少ないだろう。

 

「ミアだ。貴方は?」

 

「カイル」少年――カイルは答えた。「カイル・アシュトン」

 

「そうか、カイル」ミアは立ち上がった。「立てる?」

 

カイルは痛みをこらえながらゆっくりと立ち上がった。傷はまだ癒えていないが、若さゆえの回復力か、何とか歩けそうだった。

 

「ここは危険だ」カイルは切迫した声で言った。「角人の軍勢が近くにいる。俺の村も……」

 

「知っているよ」ミアは遮った。「貴方の記憶を読んだ」

 

カイルは驚いた顔をした。「記憶を?」

 

「魔術よ」ミアは説明を省いた。「詳しいことは後。今はここを離れよう」

 

「でも、どこに……」

 

「安全な場所に連れて行く」ミアは森の奥を指さした。「この先に集落がある。私の信者たちがいる場所」

 

「信者?」カイルは首を傾げた。

 

ミアは答えなかった。神として崇められていた時代の名残。今も一部の人々はミアを信仰し、祈りを捧げている。力は失われても、記憶は残っている。

 

「ついて来て」

 

ミアは歩き始めた。カイルは一瞬躊躇したが、他に選択肢はなかった。謎の白髪の女だが、命を救ってくれた恩人だ。カイルはミアの後を追った。

 

森の中を二人は進んだ。月明かりが木々の間から差し込み、道を照らす。ミアの足取りは確かで、まるで森のことを完全に把握しているかのようだった。

 

 

二人は沈黙の中を歩き続けた。やがて森が開け、小さな集落が見えてきた。木造の家が十数軒、質素だが整然と並んでいる。中央には小さな祠があり、そこに緑色の布が掛けられていた。

 

ミアを象徴する色。

 

 

集落の入り口で、見張りをしていた男がミアに気づいた。

 

「ミア様!」

 

男は驚いた様子で駆け寄ってきた。中年の男で、顔には古い傷跡がある。元兵士だろうか。

 

「お帰りなさいませ。ご無事で何よりです」

 

「ああ」ミアは頷いた。「怪我人を拾った。手当てが必要みたい」

 

男はカイルを見た。「承知しました。すぐに準備を」

 

男は集落の中へ駆けていった。ミアはカイルを促し、集落の中へ入った。

 

人々が家から出てきて、ミアを見て頭を下げる。老人も、若者も、子供も。皆、ミアに敬意を払っている。

 

カイルは困惑していた。この白髪の女は一体何者なのか。魔術師であることは確かだが、これほど崇められているということは……

 

「ミアは、この人たちにとって特別な存在なのか?忘れられた神の教祖とか?」

 

ミアは祠の前で立ち止まり、緑の布を見つめた。

 

「昔はね」

 

それ以上は語らなかった。かつて神だったこと、世界を導いたこと、そして失敗したこと。全てが遠い過去のようだった。

 

だが今、新たな角人の神が現れた。そして新たな英雄が必要とされている。

 

ミアはカイルを見た。赤髪の少年。村を失い、家族を失い、それでも生き延びた。

 

この少年の魂は、何色をしているのだろうか。

 

「カイル」ミアは言った。「これからどうしたい?」

 

カイルは拳を握りしめた。赤い瞳に、炎が灯っている。

「角人と戦う。村の仇を討つ、必ず」

 

ミアは小さく頷いた。

 

「ならば、私が教えよう」

 

復讐だけでは世界は変わらない。だが、その炎は必要だった。世界を変えるには、強い意志を持つ者が必要だ。

 

カイルはミアを見つめた。この謎の女性が、自分に何を教えてくれるのか。まだ分からない。

 

だが、何かが始まろうとしていた。

 

 

 

集落の中央にある建物で、カイルの傷は改めて手当てされた。

 

老婆が薬草を塗り、清潔な包帯を巻き直す。痛みは和らいだが、まだ本調子には程遠かった。カイルは簡素な木のベッドに横たわり、天井の梁を見つめていた。

 

「休んで」

 

ミアが部屋に入ってきた。手には木製の椀を二つ持っている。温かいスープの匂いが漂った。

 

「ありがとな」

 

カイルは身体を起こし、椀を受け取った。野菜と肉が入った質素なスープだったが、空腹の身には何よりのご馳走だった。

 

ミアは窓際の椅子に腰を下ろし、自分のスープに口をつけた。しばらく二人は沈黙の中で食事を続けた。

 

「ミア」カイルが口を開いた。「なんでこの世界は理不尽なんだ?」

 

ミアは椀を置いた。緑の瞳がカイルを見つめる。

 

「全てを知っているよ」ミアは静かに言った。「始まりから、今に至るまで」

 

「始まりから……?」

 

「ああ。教えよう。この世界がどのようにして、今のような世界になったのかを」

 

ミアは立ち上がり、窓の外を見た。月明かりが森を照らしている。

 

「遥か昔、この惑星には二つの種族がいた。蜥蜴人と蟲人。原始的な種族で、石器を使い、狩りをして生きていた」

 

カイルは息を呑んだ。伝説の中でしか聞いたことのない名前だった。

 

「その時代、宇宙から何かがやってきた。月の獣と呼ばれる神だ」ミアの声が低く響く。「月の獣は新たな種族を創造した。角人だ。頭に角を持ち、知性と力を備えた種族」

 

「角人は……神が作ったのか?」

 

「そうだ。月の獣は角人に贈り物を与えた。黄金の王座と黄金都市。王座は特別な力を持っていた。特別な魂を持つ者――魔術を使える者が座れば、神になれる」

 

ミアは振り返った。

 

「魔術とは何か、知ってる?」

 

「少しだけ……」カイルは答えた。「村にいた。傷を治す奇跡を使える人でした。教会から来た人で、皆に崇められてた」

 

「治癒の魔術ね」ミアは頷いた。「魔術にも様々な種類がある。炎を操る者、血を操る者、空間を歪める者、心を読む者、そして記憶を読む者」

 

ミアは自分の胸を指さした。

 

「私のように」

 

カイルは理解した。ミアが自分の記憶を読み取ったのは、そういう魔術だったのか。

 

「魔術を使える者は、特別な魂を持って生まれる。その魂にも種類があり…それぞれに名前がある」

 

「魂に種類が?」

 

「ああ。そしてその魂を持つ者だけが、黄金の王座に座ることで、神になれる」

 

ミアは再び窓の外を見た。

 

「角人、蜥蜴人、蟲人。三種族の中から多くの神が生まれた。彼らは王座に座り、力を得て、世界を治めた。だが力は腐敗を生む」

 

「月の獣と三種族の神々は、やがて対立した。理由は記録に残っていない。だが戦争が起きた。そして三種族の神々は団結し、月の獣を倒した」

 

「神を倒したのか?」

 

「だが代償は大きかった。三種族の文明は崩壊した。そして月の獣の遺体から、怪物達が生まれ世界に繁殖を始めた」

 

カイルは身震いした。森を徘徊する異形の生物たち。あれは神の遺体から生まれたのか。

 

「時が流れ、角人の中から変異が起きた。月の獣の影響が薄れた存在が現れた。それが人間」

 

「角人から?」

 

「そうだ。人間はねじれた角や優れた身体を持たず、より小柄で、より弱かった。だが数で勝り、狡猾で残酷だった。人間は他の三種族を迫害し、地上の支配者となった」

 

ミアの声に苦みが混じった。

 

「そして人間もまた、黄金の王座を求めた。今までの歴史の中で王座に座り、神となった者は多い。神は文明を繁栄させたが、数百年で力が衰える。すると誰かが、神を殺し、王座を奪う」

 

「それが……繰り返されてきたのか?」

 

「ああ。何度も、何度も。神が生まれ、文明が栄え、神が衰え、文明が衰退する。戦争、疫病、怪物。終わりのない円環」

 

 

「死んだ神は神々の円卓という別の世界に閉じ込められる。二度とこの世界には戻れない。だが新たな神は必ず現れる。王座がある限り」

 

 

カイルは混乱していた。神、王座、円環。全てが大きすぎて、理解が追いつかない。

 

「ミアはさ……新たなる神だったのか?」

 

ミアは長い沈黙の後、答えた。

 

「かつては神だった」

 

カイルの目が見開かれた。

 

「数百年前、仲間と共に黄金の王座に辿り着いた。白夜騎士団という傭兵団の仲間だった。資格を持つものは五人いた。私と、騎士と、聖女と、戦士と、賢者」

 

ミアは遠い目をした。

 

「王国に侵攻した角人の神の軍勢を打ち破った。私たちは英雄だった。」

 

「だが王国に裏切られ、貧しく、汚れ、それでも生き延びた。団長…レガルドの意志を継いで、北の最果てにある黄金都市の扉を開けた。そして王座に辿り着いた」

 

「四人が座った。私と、騎士と、聖女と、戦士。だが女賢者だけは拒否した。」

 

「新たなる神になった私たちは、人類をまとめ上げた。人類の黄金時代を築いた。平和と繁栄の時代。だが……」

 

ミアの声が掠れた。

 

「数百年が経ち、文明は衰退した。私たちの力も衰えた。そして角人の神が再び現れた。戦争が起き、世界は荒れ果てた。仲間たちは死んだ。皆、消えていった」

 

「私は力のほとんどを失った。それでも、まだ生きている。」

 

カイルは言葉を失っていた。目の前の白髪の女性が、かつて世界を治めた神だったなんて。

 

「そして今、新たな角人の神が現れた」ミアはカイルを見た。「お前の村を滅ぼした者だ。すでに3つの王国が滅びている。人類の生存権は脅かされている。人類をまとめ上げる王が必要だ」

 

「王……」

 

「ああ」ミアはカイルの胸を指さした。「お前は苦痛の魂を持っている」

 

「苦痛の魂?」

 

「血の魔術を使える魂だ。かつて仲間だった戦士も、同じ魂を持っていた。彼は強かった。血を操り、敵を薙ぎ払った」

 

ミアは一歩近づいた。

 

「カイル。お前に魔術を教える。そして王になれ。人類をまとめ上げ、角人の神と戦う王に」

 

カイルは息を呑んだ。自分が?王に?

 

「俺には……そんな資格は……」

 

「資格など最初から持っている者はいないわ」ミアは断言した。「作り上げるの。それで十分」

 

カイルは拳を握りしめた。村の光景が蘇る。燃える家、倒れた母、逃げ惑う人々。

 

復讐したい。だがそれだけではない。

 

もう二度と、あんなことが起きないようにしたい。

 

「カイル」ミアが言った。「お前は、何者として生まれたか知っているか?」

 

カイルは躊躇いながら答えた。

 

「俺は……盗賊の息子です」

 

「ほう」

 

「父親は盗賊団の頭でした。でも俺が生まれてすぐ、捨てられたそうです。盗賊に子供なんて、厄介なだけだって」

 

カイルの声が震えた。

 

「森に捨てられていた俺を、あの村の夫婦が拾ってくれました。育ててくれた。本当の家族のように」

 

涙が頬を伝った。

 

「だから、俺は家族に恩を返したかった。立派な人間になって、村を守れる人間になりたかった。でも……」

 

「間に合わなかった」ミアが続けた。

 

カイルは頷いた。「だから、今度こそ」

 

カイルは顔を上げた。赤い瞳に、炎が灯っていた。

 

「俺は王になる。人を守れる王になる。それが、死んだ家族への約束だ」

 

ミアは小さく微笑んだ。数百年ぶりに、心から微笑んだ気がした。

 

「良い目だ」ミアは言った。「お前は王になれるよ」

 

カイルは立ち上がった。傷の痛みはまだあったが、それよりも強い意志があった。

 

「いつから始める?」

 

「明日から」ミアは答えた。「まずは傷を治せ。魔術を学ぶには、健康な身体が必要だ」

 

「ああ」

 

「それと、カイル」

 

「?」

 

「王になるということは、孤独になるということ」ミアは厳しい声で言った。「多くを背負い、多くを失う。それでも前に進まなければならない」

 

カイルは迷わず答えた。

 

「覚悟はできてる」

 

 

ミアは窓の外を見た。遠くで、角人の軍勢が動いているだろう。新たな神が、世界を蹂躙しようとしている。

 

だが、ここに新たな希望がある。

 

苦痛の魂を持つ少年。捨てられ、拾われ、家族を失い、それでも立ち上がる少年。

 

かつての仲間を思い出した。彼も同じように、苦しみの中から立ち上がった。

 

「明日から、地獄が始まるよ」ミアは言った。

 

「構わない」カイルは答えた。

 

二人の視線が交わった。神と、未来の王の。

 

新たな時代が、この小さな集落から始まった。

 

 

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