コルネリアは苛立っていた。
角人の女は、湿地を見下ろす丘の上に立っていた。紫色の長い髪が風になびき、額から伸びる二本の角が月光を反射している。黒いローブを纏い、手には骨で作られた杖を握っていた。
「ちょろちょろと……虫のように」
コルネリアは舌打ちした。冷たい美貌が、怒りで歪む。
眼下の湿地では、蜥蜴人たちが死者の軍勢と戦っていた。コルネリアの魔術で操られた人間の死体――死者の兵隊たちが、蜥蜴人と戦っている。
だが、蜥蜴人たちは予想以上に善戦していた。
湿地の地形を利用し、罠を仕掛け、死者たちを各個撃破していく。ぬかるんだ地面に死者たちは足を取られ、葦の茂みから蜥蜴人の槍が飛んでくる。
「ああ、小賢しい……」
コルネリアの任務は、蜥蜴人の持つ伝説の武器「氷槍」の回収だった。角人の神から直接命じられた重要な任務。
それを手に入れるまで、コルネリアは帰れなかった。
だが、この小さな蜥蜴人の集落が、こうも手こずらせるとは思わなかった。
「力押しでは駄目か、考えなくてはなりませんね…」
コルネリアは思案した。死者の軍勢は強力だが、思考力はない。ただ前進し、敵を攻撃するだけ。策を使う蜥蜴人たちには、不利だった。
ならば――。
コルネリアの唇が、邪悪な笑みを形作った。
「罠を使えばいい。奴らが使うなら、私も使ってやる」
二日後。
シュラーレムは、カレムと蜥蜴人戦士たちと共に、沼地を進んでいた。
「見ろ、あそこだ」カレムが指差した。
前方に、十数体の死者たちが歩いているのが見えた。他の軍勢から離れた、小規模な集団だった。
「あれなら倒せる」シュラーレムは判断した。「慎重に近づけ」
戦士たちは静かに接近した。槍を構え、呼吸を整える。
死者たちは気づいていないようだった。ゆっくりと、無目的に歩いている。
「今だ!」
シュラーレムの合図で、戦士たちが槍を投げた。槍が死者たちの体を貫き、数体が倒れる。残りの死者たちが振り返り、襲いかかってきた。
「構えろ!」
だが、その時だった。
周囲の沼から、無数の手が伸びてきた。
泥に覆われた死者たちが、水中から這い出してくる。数十、数百――四方八方から、死者の軍勢が現れた。
「罠だ!」カレムが叫んだ。
シュラーレムは歯噛みした。誘き出されたのだ。少数の死者を餌に、本隊を沼地に隠していた。
「集まれ! 円陣を組め!」
蜥蜴人たちは背中合わせに円を作った。槍を外側に向け、迫りくる死者たちを迎え撃つ。
戦いが始まった。
槍が死者の頭を貫く。シュラーレムは素早く槍を引き抜き、次の敵を刺す。カレムは力任せに大槍を振り回し、複数の死者を薙ぎ払う。
だが、敵は多すぎた。
倒しても倒しても、新たな死者が現れる。疲労が蓄積していく。蜥蜴人の戦士の一人が倒れ、死者に引きずり込まれた。悲鳴が響く。
「くそっ……」
シュラーレムの腕には、深い傷ができていた。死者の錆びた剣が、鱗を切り裂いていたのだ。血が流れ出す。
視界が揺れる。失血だ。
「シュラーレム!」カレムが叫んだ。
だが、シュラーレムは答えられなかった。力が抜けていく。膝をつき、地面に倒れ込む。
意識が遠のいていく。
遠くで、コルネリアが笑っていた。
「ざまあみろトカゲども」
丘の上から、蜥蜴人たちの苦境を見下ろしている。杖を握りしめ、満足げに頷く。
「これで終わりか。氷槍は私のものだ」
だが、コルネリアは気づいていなかった。
遠くから、別の軍勢が接近していることに。
混濁する意識の中で、シュラーレムは何かを見た。
光。
白い光が、暗闇を照らしている。
そして、その光の中から、女性が現れた。
白い衣を纏い、青い花冠を頭に載せている。白い髪、緑色の瞳。穏やかで、しかし力強い存在感。
まるで女神のようだった。
「……誰だ?」シュラーレムは呟いた。
女性は微笑んだ。
「私はミア」女性――ミアは言った。「もうすぐ、私たちが駆けつける。だから、耐えろ」
「ミア……?」
「信じて。まだ諦めるな」
ミアの姿が消えていく。光が薄れ、再び暗闇が訪れる。
シュラーレムは目を覚ました。
地面に倒れていた。体中が痛い。だが、まだ生きている。
周囲では、カレムたちが必死に戦っていた。仲間たちは傷だらけで、疲労困憊していた。
「まだ……終わってない」
シュラーレムは立ち上がった。ふらつく足で、槍を拾う。
「シュラーレム!」カレムが驚いた声を上げた。
「お前、大丈夫か!」
「大丈夫じゃない」シュラーレムは槍を構えた。
「でも、戦える」
「無茶を……」
「カレム、みんな」シュラーレムは叫んだ。「まだ諦めるな! 援軍が来る!」
「援軍?」
「信じろ!」
シュラーレムは死者に向かって突進した。槍を振るい、敵を貫く。傷の痛みを無視し、失血を忘れ、ただ戦った。
何故かは分からない。だが、あの幻視を信じてもいい気がした。
仲間たちも奮い立った。シュラーレムの姿に勇気づけられ、再び槍を振るう。
だが、現実は厳しかった。
死者の軍勢は減らない。逃げ道もない。全滅は時間の問題だった。
その時――。
遠くから、雄叫びが聞こえた。
死者の軍勢が、突然崩れ始めた。
外側から、人間の戦士たちが襲いかかっていた。剣が閃き、死者の首が飛ぶ。水晶の杭が炸裂し、複数の死者が貫かれる。
そして、その中心に、一人の男がいた。
髑髏の兜を被り、赤い外套を纏った男。剣を振るい、死者たちを次々と切り伏せていく。
人間の戦士たちは、瞬く間に死者の軍勢を掃討していった。蜥蜴人たちは包囲から解放され、ようやく息をつくことができた。
髑髏の兜の男が、シュラーレムたちに近づいてきた。
兜を脱ぐと、赤い髪の若い男が現れた。自信に満ちた笑みを浮かべている。
「よく戦ったな、蜥蜴人」男は言った。「立派だった」
シュラーレムは男を見上げた。「……お前は?」
「俺の名はカイル」男は笑った。「赤鷲の団の団長だ」
シュラーレムは驚愕した。噂に聞いた名前。角人に抵抗する戦士団の指導者。まさか、ここに現れるとは。
カイルの後ろから、数人の人間が近づいてきた。
一人目は、紫色の髪をした小柄な少女だった。盗賊風の軽装を身につけ、弓を背中に括り付け短剣を腰に下げている。臆病そうな表情で、常にカイルの後ろに隠れるようにしていた。
「こちらはカナイ」カイルが紹介した。「腕は確かだ」
「よ、よろしく……」カナイは小さな声で言った。
二人目は、無骨な黒い鎧を着た壮年の男だった。黒髪で顔には傷跡があり、双剣を背負っている。寡黙で厳しい表情をしていた。
「ロレックス。俺の右腕だ」
ロレックスは無言で頷いた。
三人目は、黒いローブを纏った女性だった。金色の瞳を持ち、傲岸不遜な笑みを浮かべている。魔女だ。
「ミラ。魔女だ」カイルは紹介した。
「よろしく、蜥蜴ちゃんたち」
そして、最後に現れたのは――。
白い衣と青い花冠をつけた女性だった。
シュラーレムは息を呑んだ。
あの幻視の女性だ。
女性は穏やかに微笑んだ。「間に合ってよかった」
シュラーレムは言葉を失った。幻視は本物だったのか? この女性は、どうやってシュラーレムの意識に語りかけたのか?
だが、今はそれを考える余裕がなかった。
「カイル」シュラーレムは頭を下げた。「助けていただき、感謝する」
「礼には及ばない」カイルは手を振った。「だが、話がある」
「話?」
「ああ」カイルは真剣な表情になった。「お前たちを助ける代わりに、俺たちに協力してほしい」
「協力……?」
「あの角人の悪女、コルネリアを討つ手助けをしてくれ」
シュラーレムは考えた。
「……分かった」シュラーレムは頷いた。「集落に戻って、族長と話そう」
「感謝する」カイルは笑った。
蜥蜴人の集落に、一行が戻ってきた。
傷ついた戦士たちは、家族に迎えられた。ヒムリスがシュラーレムの元に駆け寄り、抱きしめた。
「無事でよかった……」
「心配かけたな」シュラーレムは妻の背中に手を回した。
族長の家に、シュラーレム、カイル、ミア、そして重鎮たちが集まった。
族長はカイルを見つめた。
「お前が、噂のカイルか」
「その通りだ、族長」
「シュラーレムから話は聞いた」族長は言った。
族長は深く息を吸った。
「人は裏切る、嘘をつく、信用できない」
「人の中にはそういう者もいる」カイルは頷いた。
「だが、コルネリアを放置すれば、この集落は滅びる。死者の軍勢は、まだ千体以上残っている」
「……」
族長はふとミアを見つめた。その緑の瞳には、見覚えがあった。
「お前は……」
ミアは微笑んだ。
族長は長い沈黙の後、頷いた。
「分かった。協力しよう」族長は宣言した。
「シュラーレム」族長はシュラーレムを見た。「お前も同行しろ。氷槍をお前に貸し与える」
「いいのですか…?あれは秘宝では」
「最も強力な戦士はお前だ、お前に任せるのが最も安全なのだ」
こうして、蜥蜴人と人間の同盟が結ばれた。
コルネリアを討つための、戦いが始まろうとしていた。