勝利の女神NIKKE 希望のカフェ   作:スウェーデンクラス

10 / 25
ルートD pt3

 

約束の日の朝。

Dは化粧台の前に静かに腰掛けていた。

外はまだ柔らかな朝光が揺れ、窓際のカーテンの隙間から淡い光が細く差し込んでいる。

約束の時間までは、まだたっぷりと余裕がある。

それなのに、彼女は夜明けと同時に目を覚まし、そのまま眠りに戻ることもできなかった。

 

シャワーを浴び、身体中に残る熱と緊張を洗い流し、服を選び、身支度を整えた。

だが、その後になって彼女の動きは止まり――化粧台の前で座り込んだまま、鏡に映る己の姿を、長い時間じっと見つめていた。

 

鏡にいたのは、いつもの任務前の、無味無感の女。

感情を殺し、“仕事”のために作られた仮面を持つ女。

Dはゆっくりと手を伸ばし、化粧を一筆ずつ乗せていく。

その所作は丁寧で、熟練しており、それは同時に

――自分自身が“仮面”を作っていく儀式そのもののようでもあった。

 

『これは任務だ。ターゲットに近づき、調べ上げ、有罪なら始末する。それだけだ』

 

心の奥で、冷たい声が響く。

幾度となく自分を律してきた言葉。

そう思いながら、Dはまぶたに影を落とすように手を動かしていた。

 

だがその瞬間――ふと、手が止まった。

 

『……?』

 

鏡の中の無表情の女。

その女の頬を、一筋の涙がゆっくりと伝い落ちていた。

 

理由がわからない。

悲しみだろうか。

怒りか。

情けなさか。

それとも――親愛か。

 

どれでもあるようで、どれでもないような、不意の涙だった。

 

気づいた瞬間、Dは反射的に化粧台へ手をついた。

 

バンッ。

 

乾いた音が室内に響き、彼女の肩が震えた。

深く息を吸い込み、気持ちを押し込めるように吐き出す。

 

『しっかりしろ。私はシージペリラスのニケD。影に潜み悪を断罪する存在。そこには感情などいらない。……こんな感情など』

 

顔を上げた頃には、もう涙は跡形もなく消えていた。

鏡に映るのは、いつもの任務前のD。 

冷徹で、揺らぎを許さない“処刑人”の眼。

 

ドアを開けて部屋を出ると、廊下の壁にもたれかかっていたKが、見た瞬間に口笛を吹いた。

 

「おっ、決まってんじゃん。それで今日はターゲットを落としてこいよ」

 

軽口。

表面上はいつも通り。

だが、Dの耳には、その言葉が妙に空虚に響いた。

 

無言のまま横を通り過ぎ、一言だけ落とす。

 

「援護はいらない。私1人で十分だ」

 

ドアが閉まる音は、冷たく硬質だった。

 

ーーーーーー

 

約束の時間より少し早く、D――いや、“デイジー”はショッピングモール前の広場に立っていた。

 

風がふわりと黒のワンピースの裾を揺らす。

編み上げたハーフアップの髪が朝光を受けて艶めき、控えめな化粧は彼女の美しさをより静かに際立たせている。

 

その姿は、通り過ぎる男たちの視線を軽々と奪った。

十人いれば十人が足を止め、声を掛けるだろう。

実際、次々と男たちが彼女へと近づいた。

 

だが、彼女は誰も見なかった。

一度も振り向かず、ただ前だけを見ていた。

 

――あの人が"ターゲットが"来るのを待つために。

 

胸の中に、目的とは別の感情が静かに灯る。

それを否定しようとするたび、灯りは逆に強くなるように感じられた。

 

やがて。

 

人混みの奥から、ひときわ存在感のある影がこちらへ向かって歩いてくるのが見えた。

長身で、鍛え抜かれた筋肉に包まれた体。

ジーンズに黒のTシャツ、そして黒のレザージャケットというシンプルな装い。

しかし、その堂々たる体格と佇まいは、どんなブランド品よりも彼を際立たせていた。

 

マスターがDの前に立つ。

柔らかな眼差しで、口元だけをわずかに緩めて言った。

 

「すまない。待たせたかな」

 

その声は、いつもの低く穏やかな響き。

Dは反射的に微笑み返した。

 

「大丈夫だ。私も今来たところだ」

 

マスターが目を丸くして、彼女を見つめる。

 

「…その服装は…?」

 

驚きと困惑が混ざった声。

Dは小さく首を傾げ、柔らかい笑みを浮かべる。

 

「変…だろうか?」

 

それは演技だ。

彼を騙す仮面であり――同時に自分を守る仮面。

 

だがマスターは、そんな仮面すら穏やかに包み込むように笑った。

 

「いや、いつもと格好が違うから驚いた。今日のデイジーさんはとても綺麗だ」

 

その言葉は、まるで刃のように胸に刺さった。

痛みと、熱と、知らない甘さが混じる。

 

Dの頬がほんのり赤く染まり、目を逸らして小さく呟いた。

 

「ありがとう」

 

こんなふうに、純粋に“綺麗だ”と言われたのは初めてだった。

今までの男たちは欲望を隠さず、媚を売るように近づいては、うわべの優しさの裏で平然と身体へ触れてきた。

 

だが、彼は違う。

ただ言葉を、静かに渡してくる。

何ひとつ求めず、奪おうとせず。

 

隣に並び立つと、彼は優しく微笑む。

 

「さぁ、デイジーさんの趣味を見つけに行こうか」

 

その声に導かれるように、Dの胸はわずかに震えた。

任務の仮面の下で、心がうっすらと熱を帯びていく。

 

ーーーーーー

 

ショッピングモールに面した通りを並んで歩く二人。

マスターはどこか照れを含んだ柔らかい微笑を浮かべ、デイジー――Dの歩幅に合わせてゆっくりと進む。

 

「じゃあまずは、腹拵えだな。腹が減っては戦はできぬ。と昔の偉人達は言っていた」

 

冗談めかしたその言葉に、Dはほんの僅かに肩を揺らす。

マスターはその反応を見て、心底嬉しそうに彼女へ目を向けた。

 

「デイジーさんは、好きな食べ物は?」

 

何気ない問い。

普通の男女ならば、それはただの会話の端に過ぎない。

しかし、Dにとっては――胸を刺す問いでもあった。

 

「何かを好んで食べるということはしない。……強いて言うならマスターのケーキだろうか…」

 

言いながら、Dはゆっくりと俯いた。

頬にわずかな赤みを帯び、視線を逸らすその姿は、純粋に照れている女性そのものに見える。

 

――この仕草も仮面だ。

 

何人もの男を“落としてきた”彼女が身につけた、完璧なまでの魅せ方。

柔らかく、しおらしく、男の心をくすぐる仕草。

 

しかし、演じながら――D自身が自分の中で何かがふと揺らぐのを感じ、必死にそれを押し殺していた。

 

演技だと知らないマスターは目を瞬き、そして心からの笑みを浮かべる。

 

「それは…嬉しいな。だが、今回はそれ以外を探しに行こう」

 

そう言って、顎の下に手を添えると

 

「あのレストランがいいか?それとも、あそこか?」

 

と真剣に悩み始めるマスターの横顔を、Dは静かに見つめた。

 

その姿に、胸奥が熱くなる。

演技と本音――その境界が、ほんの少しだけ滲むように揺らいだ。

 

それを悟られぬよう、Dは表情を崩すまいと必死に微笑む。

それしか、出来なかった。

 

ーーーーーー

 

二人が入ったレストランは、高すぎず、安すぎず、落ち着いた雰囲気の家庭的な店だった。

木目調のテーブルと暖色の照明が、心を穏やかにする。

 

「ここは俺のお気に入りなんだ。品数もあるし、なにより、味がいい」

 

マスターの言葉に、Dは頷きながらメニューを開く。

 

メニューに並ぶ色とりどりの料理。

 

任務のために男と食事をしてきたことは数え切れないほどある。

だが、それらはすべて“必要な時間”であり、記憶するべき価値のないものだった。

 

どんな料理を食べたかすら、覚える気もなかった。

 

今、目の前に広がる“選択肢”は――Dにとって異世界のような眩しさがあった。

 

「多くて選ぶのに時間がかかってしまうだろう?だが、何を食べるのか悩むのも、楽しい時間だ」

 

優しい声。

気遣うようで、押しつけがましくない。

その言葉に、胸が温かくなる。

 

Dはそっと彼を見上げ、メニューを静かに閉じた。

 

「正直、どのメニューも食べたことが無い。…だから、マスターが選んでくれないか?」

 

その言葉を口にした瞬間、自分でも驚いた。

 

――任務のための演技ではない。

 

思わず漏れた“本心”だった。

いつもの任務なら適当に選んでは、それを食べていたからだ。

 

マスターはわずかに目を細め、優しく言う。

 

「俺が選んだ物でいいのか?ゆっくり選んでもいいんだ」

 

Dは息を整え、静かに告げた。

 

「いい。…マスターと同じものが…食べたい」

 

言ってから、自分の失言に気づく。

 

『何を言っているんだ、私は…』

 

本来なら、こんなことは言わない。

言ってはいけない。

任務のためなら、もっと上手く、もっと“都合のいい女”として振る舞えるはずだ。

 

なのに――

 

マスターはそんなDの戸惑いも知らず、柔らかく微笑んだ。

 

「わかった。じゃあ、俺のイチオシだ」

 

その無邪気な優しさに、Dは胸を撃ち抜かれたようになり、思わず顔を赤らめる。

 

これが演技だと、どうして言えるだろう。

どうして、仮面のままだと言い切れるだろう。

 

テーブル越しで向き合う二人の間には、

“任務”と“本音”が複雑に絡み合い、

Dの心を静かに引き裂いていくような――そんな、痛いほど甘い空気が流れていた。

 

ーーーーーー

 

テーブルの上に静かに置かれた皿――湯気が立ち昇り、その向こうでマスターが柔らかく微笑む。

 

Dは、その皿を見た瞬間、ほんの一拍だけ、心臓が止まったように感じた。

 

――戸惑い。

 

これまで彼女が「任務」として関わってきた男達は皆、例外なく同じだった。

値段競争のように高級料理を並べ、虚勢を張るように高級酒を注文し、

「聞いてもいない自慢話」を豪語しはじめる。

自分をよく見せたい。

女に良い顔をしたい。

その薄っぺらい欲望は、彼らの視線や言動を観察すればすぐに理解できた。

 

そしてDは、そんな男たちを転がすために、時に共感し、時に褒めちぎり、時に無垢を装ってみせることで、彼らの心と警戒を緩めてきた。

 

――だからこそ。

 

目の前に出された

「何の変哲もない、家庭料理を少しアレンジしたような皿」

は、彼女の経験則に存在しない異質なもので。

 

どう反応すればいいのか、その“演技の答え”が見つからない。

 

Dが硬直していると、マスターは少し照れたように笑った。

 

「ラタトゥイユというんだ。まだ地上が人類のものだった時…国が分かれていた時代に、“フランス”という国で作られていた伝統料理だ。この店だけが、本場の味を再現できてるんだ」

 

懐かしむように目を細め、語るマスター。

その声音は、虚勢でも、美化された自慢でもなく――ただ、素朴な思い出の色を帯びていた。

 

そこで、Dの意識に、任務前のKとの会話が浮かぶ。

 

 

『なぁD。このターゲットの男は何者なんだ?』

 

乱雑に資料を机に投げ置きながらKが言う。

Dは書類を流し読みしながら気のない声で返す。

 

『何者も何も。ただの喫茶店の店主だろう』

 

『んなことは分かってるよ。私が知りたいのは“経歴”だっての』

 

Kは資料の一部を軽く指で叩き、Dの前へ突き出した。

 

『見たか? 綺麗すぎるんだよ、この経歴。まるで偽造のお手本みたいだろ?軍やその他の組織に属していた記録なし、交友歴なし、親族なし――足のつかない情報ばっかりだ。出生場所は分かるが、既に廃業してる』

 

Dは眉をひそめる。

 

『…なんだ、これは』

 

『だろ?ちょっと気になるよな。少し探っておいた方がいいぜ?私の方も探ってみるよ。こいつ何かあるのは間違いないぜ』

 

Kの言葉は、じわりとDの胸に残っていた。

 

 

その疑念が、今、鮮やかに甦る。

 

そしてDは、任務遂行の仮面を静かにかぶり直す。

 

「ラタトゥイユ、か。食べたことが無いな。……ふふ。ところでマスター?本場の味が再現できているって、どうやって分かる?本場の味など、アーク出身者には分からないだろ?」

 

柔らかい笑みを装いながら――しかし鋭く、問いの刃を忍ばせる。

 

マスターのまぶたが、一瞬だけ震えた。

普通の人間なら気付かないほど微細な動揺。

だが、Dには分かってしまう。

 

――やはり、この男には“何か”がある。

 

沈黙を破ったのは、マスターの静かな声だった。

 

「…おっと、驚いたな。まさか揚げ足を取られるとは」

 

柔らかな笑みに戻ったが、微かな翳りが残っている。

Dが内心で構えた刹那――

 

「…母が……よく作ってくれたんだ」

 

ぽつり、と。

まるで胸の奥から溢れ出したような、ひどく人間味のある声音だった。

 

その表情は、

悲しみ、喜び、懐かしさ、寂しさ――

そういったものが混ざり合い、形を成さないまま揺れていた。

 

Dの胸が、不意に締めつけられる。

 

自分でも理解できない衝動が胸をせり上がる。

まるで、彼が誰にも頼れず一人で歩いてきた道を、肌で感じ取ってしまったかのように。

 

(……私は任務中だ。惑わされるな。集中しろ)

 

そう何度も自分を叱咤し、感情の荒波を押し込める。

 

マスターは、それ以上は語らず、いつもの穏やかな笑みを取り戻した。

 

「ほら、湿っぽい話は今回はなしだ。デイジーさんの“好きなもの”を見つけないとな」

 

そう言って、フォークをDへと差し出す。

 

「ほら、食べてみな」

 

優しさをそのまま形にしたような笑顔。

 

受け取ったフォークの金属が、手のひらでひどく温かかった。

 

Dはそっと料理を口に運ぶ。

 

「……とても、美味しい」

 

その言葉は、演技ではなかった。

胸の奥から自然に零れたものだった。

 

マスターが嬉しそうに微笑む。

 

「だろ? ほかにも美味しいものがいっぱいある」

 

その穏やかな声に、Dの心は静かに揺れ続けていた。

 

――任務と、感情と。

どちらが本物なのか、彼女自身が分からなくなるほどに。

 

2人のテーブルには、柔らかく、温かい空気だけが流れていた。

 

ーーーーーー

 

その後の食事は、静かで、穏やかで、そしてどこかくすぐったくなるような、他愛のない会話に満ちて進んだ。

 

マスターは、時に優しい声音で料理の話をし、時に笑いながらアークの日常を語った。

その語り口は、作られたものではなく、心の奥から自然に溢れてくるようなやわらかさを帯びている。

 

一方でDは、フォークを持つ手を何度も胸の前で揺らしながら、

その笑みの裏側を、探ろうとしていた。

 

「マスターの出身は何処なんだ?」

 

「出身はアークだ」

 

「家族は?」

 

「昔は母がいた。けど……病気で他界してね。それ以来は一人だ」

 

「喫茶店の前は何かしていたのか?」

 

「しがない会社員だった」

 

どの問いにも、マスターは表情を崩さず、涼しい顔で返してくる。

 

だが――どれも具体的な話には踏み込まない。

 

淡々と、穏やかに、波紋が立たないように。

まるで“聞かれること”に慣れているかのように。

 

Dはフォークを置き、心の内で呟いた。

 

(……なにかあるのは、間違いない。が、今の段階では聞き出せないか。もっと……親密にならなければ)

 

任務の冷静な思考がひどく乾いた音を立てる。

だが、それが胸の奥で揺らぎ、軋む。

 

食事を終えると、マスターは明るい声で言った。

 

「さぁ次はショッピングだ」

 

その無邪気な笑みに、任務も疑念もいったん霞むほどのあたたかさがあった。 

 

当然のようにマスターが会計を済ませると、2人は並んで歩く。

2人の距離は、他人でも無く、特別親しい間柄とも言えない、絶妙な距離があった。

 

ショッピングモールに着くと、Dは歩きながら、控えめに問いかける。

 

「ショッピング…だが、私は別に欲しい物は無いが…」

 

マスターはふっと笑った。

 

「欲しいものがあるからショッピングするわけじゃないさ。ふらっと立ち寄った店に、掘り出し物があるかもしれない。例えば……」

 

言葉を途切れさせ、周りを見渡したあと、

 

「あれとか似合いそうだな。――ほら、こっちだ」

 

そう言って、唐突にDの手を引いた。

 

「……え」

 

その瞬間、Dの指先から心臓に向かって、熱が駆け上がる。

女としては慣れきっているはずの触れられる行為が――

なぜか全く慣れない。

 

むしろ、息が止まるほど、動揺していた。

 

導かれた先は、装飾屋だった。

 

「これなんて、貴女にピッタリだ」

 

マスターが手に取ったネックレスは、光を受けて淡く輝く。

スミレの花を模した繊細なデザイン。

 

Dの首元にかざしながら、マスターがふっと微笑む。

 

「これは……スミレ?」

 

Dが戸惑い気味に問うと、マスターは楽しそうに返した。

 

「スミレの花言葉を?」

 

Dが小さく首を振ると、彼は満足したように頷き――そして優しく告げる。

 

「スミレの花の花言葉は“小さな幸せ”。他にもあるけれど……今の貴女にはこの言葉が一番似合う。日々の中で、小さな幸せを見つけようとしている貴女に」

 

その言葉は、胸の奥をまっすぐ貫いた。

 

Dは目を瞬かせることすら忘れた。

祝福でも、誘惑でもない。

ただひたすらに、純粋な好意と善意だけでできた言葉。

 

(……この男は……どれほど、お人好しなんだ)

 

(私がどれほど汚れた仕事をしているかも知らずに……今も貴方を騙そうとしているのを知らずに……どうして、ここまで私のことを考えられる?)

 

胸の奥からせり上がってくるものが、苦しくて、温かくて、痛い。

 

任務を――拒否したい。

 

生まれて初めて、Dはそう感じた。

 

マスターはそんな彼女の揺らぐ心を知ることなく、ネックレスをレジへ持って行き、包装してもらい、戻ってくる。

 

「はい、記念にプレゼント」

 

差し出された小さな包み。

指先が震える。

心の奥で警笛が鳴る。

 

『やめろ、ソレを受け取るな。戻れなくなる』

『ニケと人間。生きる世界が違う』

『この男を殺すかもしれない。その覚悟があるのか』

 

うるさいほどの警告が自らを制しようとする。

それでも、震える手でゆっくりと受け取った。

 

「……ありがとう」

 

その言葉は、

“ニケとして”生まれて初めて――心の底から出た、本物だった。

 

そしてーー自分の中で何かが音を出して崩れていった気がした。

 

ーーーーーー

 

――ネックレスを受け取り胸に抱きしめた瞬間。

Dは、自分の中の何かがはっきりと音を立てて崩れ落ちたのを感じた。

 

砂上の城のように脆く、けれど、決して自分から壊すことはなかった

“任務の仮面”。

その仮面が、彼の優しさと、温かい言葉で崩壊してしまった。

 

そこから先――もうどうでもよかった。

 

任務も、仮面も、計画も、優秀なニケとして積み上げてきたすべての冷徹な自分も。

 

ただひたすらに、目の前の彼だけを見ていた。

 

離したくなかった。

目を逸らしたくなかった。

心が、勝手に彼を求めてしまう。

 

胸の内に、初めての感情が渦を巻く。

 

もっと……一緒に居たい。

側に居たい。

触れたい。

それはこれまで抱いたどんな欲とは違う。

 

任務を成功させるための“誘惑”とは全く別の――もっと鋭く、もっと甘く、もっと自分を壊すような欲望だった。

 

ふと、彼が過去を語った時の、あの影のある表情が脳裏に浮かぶ。

 

胸が締め付けられる。

 

そんな顔をして欲しくない

笑って欲しい

私に笑いかけて欲しい

私 だけに 笑って欲しい

 

どうしようもないほどの独占欲が、自分のものではないみたいに溢れ出す。

 

そして、他の店を一通り回るが、Dは何も欲しがらず、ただひたすらにネックレスの入った箱を大事そうに抱きしめていた。

 

ネックレスを渡した後、何も買わないDを見た彼が、少し申し訳なさそうに苦笑した。

 

「本当に、そんなネックレスだけで良かったのか?そんなに高いものでもないが……」

 

Dは、包装されたネックレスを両腕で抱きしめるように胸元に当て、

俯きながら首を振った。

 

「…いや、これで。これが、いい…」

 

自分でも信じられないほど弱々しい声。

喉の奥で震えて、息に混じるような頼りない声音。

 

『……何だこの声は。情けない……』

 

さっきまで、仮面が守ってくれていた。

仮面の下ではいつだって冷静で、堂々と話せていた。

それなのに――仮面を失った途端、このざまだ。

 

『任務の仮面がなければ……私はこんなにも、まともに話すことすらできないのか』

 

彼を一瞬だけ横目で見る。

そのまま見続けていたら、胸が煩く鳴り、息が乱れそうになる。

 

不意に、マスターと目が合った。

 

瞬間、体が勝手に反応して、目を逸らしてしまう。

 

もう分かっていた。

 

認めたくなかったのに、気づいてしまった。

 

胸に浮かんだ言葉を、Dは心の中でそっと呟く。

 

『あぁ、私は彼のことが……マスターの事を"愛している"のか』

 

その自覚の瞬間、世界が変わったように見えた。

 

そこから見る景色は、霞がかかったように曖昧だった。

 

映画館に足を運んだが、スクリーンの光だけが揺れて見えた。

映画の内容など一つも頭に入らない。

ただ、隣でスクリーンを見つめる彼の横顔だけが、焼き付いて離れなかった。

 

スクリーンの中では、恋する女性が、迷いも不安も抱えながら、素直に気持ちを告げていた。

 

『……どうして、私にはできないんだろう』

 

胸が痛んだ。

あの映画の中の女性とは違う。

任務に縛られ、嘘をつくことに慣れすぎ、本音を言う術を知らない自分が、突然ひどく惨めに思えた。

 

ーーーーーー

 

夜になり、人々が家路を急ぐ中。

まだ帰るには少し早い宵の時刻。

Dとマスターは、静かな公園沿いの道を並んで歩いていた。

 

「今日は楽しかったよ、デイジーさん。趣味は見つかったかな?」

 

柔らかい声が、夜風に乗って耳に触れた。

 

楽しかった――。

言葉では表しきれないほどに、心が満たされた。

 

だが、言えない。

胸の奥が詰まってしまって、うまく声にならない。

 

言葉を失って俯くDを見て、マスターは勘違いしたのか少し苦笑し、

 

「すまない。やはり、連れ回しすぎたかな?疲れたか?」

 

と謝る。

その“誤解”がたまらなく嫌で、Dは咄嗟に強く声を上げた。

 

「ち、違う!!……とても楽しかった。今まで経験したことないくらいに……」

 

彼にだけは、間違われたくなかった。

マスターは優しく微笑む。

 

「それは良かった。俺も楽しかった」

 

『嘘じゃ……ないのか。本当に……私なんかといて、楽しかったのか……?』

 

不安が胸をかき乱し、俯いたその時。

私の不安を知ってか知らずか、そっと彼の声が降ってきた。

 

「本当だ。とても楽しかった」

 

その言葉を聞いた瞬間、Dは自分でも驚くほどの速さで顔を上げた。

 

「それは、……本当に?」

 

まるで溺れる者が空気を求めるような、必死な声音。

不安を消したくてたまらなかった。

 

マスターは、迷いなく答えた。

 

「本当だ」

 

そして――

 

「そうだ、渡したネックレス、貸してくれないか?」

 

「え?……あぁ」

 

差し出した小さな箱を受け取り、彼は丁寧に包装紙を解くと、ネックレスを取り出した。

 

そして、Dの背後に回る。

 

「ちょっと失礼」

 

首元に彼の指が触れる。

その瞬間、Dの背筋が震えた。

肩越しにふっと薫る彼の匂いに――頭が、蕩けそうになる。

 

カチリ、と小さな留め具の音がして、

マスターは彼女の前に回り込む。

 

そして穏やかな目で見つめ、

 

「やっぱり。よく似合う」

 

と告げた。

 

胸の上で揺れる小さなスミレのネックレス。

“なんの変哲もない”はずなのに――

Dには、それが何よりも大切なものに思えた。

 

命よりも。

 

マスターは優しく笑い、

 

「さぁ、家まで送るよ」

 

と言った。

 

「え?……もう、帰るのか?」

 

戸惑いが漏れる。

 

今まで相手にしてきた男たちは、決まってこの後、ホテルへ誘い、あるいは自宅に連れ込もうとしてきた。

 

むしろD自身も、“そのつもり”だった。

男の関心を繋ぎ止める術を、彼女はそれしか知らなかった。

 

だが――

 

マスターは穏やかに微笑む。

 

「今日は楽しかった。俺はいつでもあの店で貴女を待っている」

 

 “待っている”。

 

その言葉は、胸の奥にゆっくりと染みていき、

涙が出そうなほど嬉しかった。

 

2人は並んで歩く。

昼間よりも、ほんの少しだけ近い距離で。

 

ーーーーーー

 

2人はただ黙って並んで歩いていた。

けれど、その沈黙は決して重くも冷たくもなかった。

 

すれ違う車のライトが足元を照らし、街灯の下では互いの影が重なったり離れたりを繰り返す。

そのわずかな変化さえ、Dには胸が高鳴るほど愛おしく感じられた。

 

夜風は冷たかったが、彼の隣に立っているだけで、不思議な温もりが胸の中から広がっていく。

その温度は、自分が今、取り返しのつかない感情に気づいてしまった証のようだった。

 

『あぁ。もうすぐ……終わる。今日という日が、終わってしまう』

 

任務のために生きてきた自分が、こんな感情を抱くなんて思ってもいなかった。

もっと一緒にいたい――ただその想いだけが胸を占め、恥ずかしさと幸福が入り混じった甘い痛みとなってせり上がってくる。

 

やがてマンションが見えてきた。

現実が容赦なく距離を縮めてくる。

 

「ここがデイジーさんの家かい? いいところだ」

 

マスターが見上げながら柔らかく笑った瞬間、Dの心は大きく揺れた。

彼の一つ一つの言葉に、動作に、乱されている自分が情けない。

 

「今日は楽しかった。また店に来てくれ。待っているよ」

 

その言葉は、脈打つように彼女の胸に刻まれた。

だからこそ、別れが怖かった。

 

「本当に……もう帰るのか? 上がってもらってもいいんだが……」

 

声が震える。

任務であれば決して見せなかった弱さ。

演技ではない――初めて自分のために出た本音。

 

マスターは一瞬驚いたように眉を上げ、しかしすぐに優しく微笑んだ。

 

「嬉しいお誘いだが……それは、もう少し二人だけで会ってからにしよう」

 

自分を大切に扱ってくれている――そんな気遣いが、むしろ胸を甘く締めつける。

だからこそ、期待してしまう。

 

「わかった。必ずまた店に行く。……それと、また、二人で会いたい……趣味もまだ見つかってないし…だめだろうか」

 

俯き、勇気を振り絞って上目遣いで見つめた。

これは演技ではない。

本当に会いたいと思ってしまったからこその仕草だった。

 

マスターは一瞬だけ息を呑み……それから柔らかく微笑んだ。

 

「俺も、貴女と二人でまた会いたいと思っているよ」

 

その瞬間、Dの心はふっと軽くなる。

けれど同時に、嬉しさが溢れすぎて俯いてしまう。

 

「……よかった」

 

呟いた声はかすかで、しかし震えるほど透き通っていた。

 

「さぁ、早く入って。夜は冷える」

 

促され、Dは一度は入口へ向かった。

だが、自動扉の前で、抑えきれない衝動が心を引き戻す。

 

振り返り、足が自然とマスターへ向かっていた。

 

「デイジーさん?」

 

意を決したような彼女の表情に、マスターは少しだけ困惑しつつも向き直る。

 

Dは胸の奥で言葉をしっかり掴み、逃げないように押し出した。

 

「マスター。私のことは……デイジー、と呼んでくれないか?あと……その、店主と客みたいな、他人行儀なのも……嫌、なんだ」

 

任務の仮面を捨てた自分が、こんなにも脆くて、必死で、愚かしい。

それでも――どうしても言わずにはいられなかった。

 

震えながらも、真っ直ぐに向けられた願い。

その言葉を聞いたマスターは驚き、そしてゆっくりと微笑んだ。

 

「わかった。……デイジー。また連絡する」

 

声が優しい。

その優しさだけで、今にも泣いてしまいそうになる。

 

「あぁ……私もだ、マスター。また連絡する。送ってくれてありがとう。……おやすみ」

 

マスターも優しく答える。

 

「おやすみ、デイジー」

 

その名を呼ばれただけで、胸が熱くなる。

それはもう“任務中の偽名”ではなく、

彼が自分を呼んでくれた、大切な呼び名になっていた。

 

満足そうに頷き、Dは今度こそマンションの中へ入っていった。

 

ーーーーーー

 

部屋に入ると、扉が静かに閉まる音が、妙に大きく胸に響いた。

着替える余裕も気力もなく、Dはそのままベッドに倒れ込む。

 

天井を見つめながら、ゆっくり息を吐く。

 

マスターの声、表情、優しさ――

どれも忘れられなかった。

胸の内側がじんわりと熱を帯び、苦しいほど甘く疼いている。

 

ふと、首元に触れる。

スミレのネックレス。

 

ゆっくりそれを指でつまみ、光の反射を確かめるように見つめた。

 

今日、初めて感じた。

“誰かに想われたい”という願い。

“誰かを想ってしまう”という切なさ。

 

その全てを象徴するように、小さなスミレが胸元で揺れていた。

 

Dはそっとそれに唇を寄せる。

 

まるで彼の指先に触れるかのように。

まるで彼の頬へキスするかのように。

 

任務も、仮面も、過去の自分も、全部忘れたかった。

 

ただ、胸の中で小さく咲いたこの感情を、

そっと抱きしめて眠りたかった。

 

今日だけはこの"小さな幸せ"を噛み締めたかった。




なげーよ!
くぅ!この話を書くのに、他の作品に手がつけられない!
しかも、まだ続くというね汗
後もう1話で終わるかなと思います汗
気長にお付き合いください。
それと、感想や評価などどんどん待ってます!(作者の栄養分笑)

作者のニケの性格は

  • 再現できている。
  • ちょっと違う
  • 違う、ゲームで、勉強してこーい!笑
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。